「経済設計」に関して先日書いたが、姉歯某がやった基準に満たない設計は論外としても、基準をすれすれでクリアするというのもどうかと思う。
施工は設計図面どおりになされるものというのはあたりまえのように思えるが、量産品でない建築物をつくるとき、図面上の不都合が現場で発覚するということは少なくない。不都合というほどでもなく「窓のサイズを少し変えたい」なんていう要望だって出てくる。そのとき、なにがしか図面どおりでない部分ができることになる。それが必ずしも構造に影響を及ぼすとはいえないが、すれすれの構造計算であるならば、わずかな変更でも気になりはしないか。
また、机上の計算ですれすれに基準をクリアしたならば、完全無欠の施工管理・監理がなされてはじめて名実ともに基準を満たす建物になりましたと言えることになる。施工する職人のミスともいえないようなちょっとした間違いとか勘違いが1箇所でもあったら、すれすれであるがゆえに現実の建物では基準値に満たない数値になってしまう恐れがある。
「経済設計ができる」ということは、「できるだけ少ない構造材で建築基準をクリアする設計ができる」ということであり、その追求はどうしてもに限りなく「すれすれ」近づこうというベクトルになりやすい。
施工者が設計者に「経済設計」を要求するという行為の上流には、住宅の購入者や施主がとにかく安さを要望していることが一因となっている場合がある。購入者や施主が安くなるよう要望するのはごく自然のことではあるが、構造のような部分まで、極限まで安くしろというように下流に伝わっていないかどうかは確認した方がいい。
地震や台風などの対災害に関わる構造部分をすれすれのレベルまで「経済的」にしてもらっていても素直に喜べない。
施工は設計図面どおりになされるものというのはあたりまえのように思えるが、量産品でない建築物をつくるとき、図面上の不都合が現場で発覚するということは少なくない。不都合というほどでもなく「窓のサイズを少し変えたい」なんていう要望だって出てくる。そのとき、なにがしか図面どおりでない部分ができることになる。それが必ずしも構造に影響を及ぼすとはいえないが、すれすれの構造計算であるならば、わずかな変更でも気になりはしないか。
また、机上の計算ですれすれに基準をクリアしたならば、完全無欠の施工管理・監理がなされてはじめて名実ともに基準を満たす建物になりましたと言えることになる。施工する職人のミスともいえないようなちょっとした間違いとか勘違いが1箇所でもあったら、すれすれであるがゆえに現実の建物では基準値に満たない数値になってしまう恐れがある。
「経済設計ができる」ということは、「できるだけ少ない構造材で建築基準をクリアする設計ができる」ということであり、その追求はどうしてもに限りなく「すれすれ」近づこうというベクトルになりやすい。
施工者が設計者に「経済設計」を要求するという行為の上流には、住宅の購入者や施主がとにかく安さを要望していることが一因となっている場合がある。購入者や施主が安くなるよう要望するのはごく自然のことではあるが、構造のような部分まで、極限まで安くしろというように下流に伝わっていないかどうかは確認した方がいい。
地震や台風などの対災害に関わる構造部分をすれすれのレベルまで「経済的」にしてもらっていても素直に喜べない。
ところで、うちの妹の書いてる日記を見たら、どうも妹と母は姉歯のホテルを愛用してた模様。
> 長野県に行った際よく泊まる松本駅前の某ホテル。
> 外観も部屋内も綺麗で、朝食付きのリーズナブル・・と結構気に入っていました。
> しかし今年の4月に宿泊した時、とある事がすごく気になったのです。
> 壁に耳を近づけると、本当に異常なくらい風の音がビュービュー聞こえたのです。
> その時はフロアの一番端の部屋で、割と上層階だったからこんなものなのかな?
> ・・と思っていたのですが、壁をコンコンと叩いてみると素人にも「壁が薄い」という印象を受けました。
>
> そのホテルは、昨日から営業停止となりました。
・・とそれはともかく、今回のような問題って garaikaさんも書かれてるように住民側からの安さ追求の声(価値判断)も遠因の一つではあるんですよね。住民が被害者となってる以上、マスコミはそのことを言えないんでしょうけど、せめてそういう番組に出てくるゲストコメンテーターとかにはそうした問題も一因となってることをちゃんと指摘してもらいたいものです。
しかし、garaikaさんの長く持たせることによっての「経済設計」の発想は同感というか、好きです。
> 住民側からの安さ追求の声
これはあくまで今回の被害者住民という意味ではなく、「経済設計」という言葉の煽りに乗ってしまう一部の市民やマスコミのことです。
しかし、安さと安心という言葉両方に同じ文字が入ってるというのも不思議な話ですね。
私はこの両方ともが極端な状況になることが危険なことのような気がしております。
アネならぬ妹さんの体験、将来は得がたい体験として話の種にとって置けそうですね。
買った側の問題ですが、きつい意見としてこんなのもあります。↓
http://www.yuichiro-itakura.com/archives/2005/11/27-0922.html
かなりの長文ですが後半部分に「冷たい」言葉が・・・。私はこの人の価値判断に異論は持ってはいますが、言っていることはわからなくもありません。
私の中では「商流」をおしなべてどの世界にも当てはめてしまってよいのか?という甘っちょろい疑問があるのですが(つまり「建築」は仮にマンション建築であっても、医療と同様に特殊な生もの扱いすべきではないか?という)、一番最後の方の話は現状認識という点でほとんど異論はありませんでした。
なお、今回TB送信したエントリーに関しては敢えて一人の著者からの情報に限定して論を展開してるので、かなり暴論っちゃー暴論です。ただ、どう見ても依然閉塞状況にあるようにしか見えない有り様なので、逆に素人の思いつきが何らかの解決の道へと繋がることもあるかもしれないと思って、思い切って暴論のまま書いてしまった次第です(汗)
生ものという言葉から連想したのですが、そもそもほとんどの生き物は棲家(なわばり含む)は自分で用意するもので、その行為はまったくの自己責任なわけです。人間だけがそれから逃れるわけにはいきません。
人間界はシステムとして住宅産業を作り上げました。棲家づくりを他人にゆだねるシステムが問題なく機能するには信用がなくてはなりません。その信用を創造する一つの手段が商流ともいえます。
しかしながら、その商流は金額に比例した最低限の保証しかなしえません。
そして金額で判断するしかない割に、どの部分がコストカットなされたかわからない、という状況が悲劇を生むのではないでしょうか。
その意味では、商流というシステムは動物としての棲家づくりにはまだ不完全なもののように思います。
住人が当事者として住まいづくりの現場にできるだけ関わるというのはリスクを低減する一つの方策と考えます。
建築の当事者から遠ざかれば遠ざかるほど信用とリスクについてより意識する必要があるでしょう。