明田川 融 著
みすず書房 発行
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読了までほぼ一カ月弱かかってしまいました。
ずいぶん丁寧な読み方をしたものだと思われるかもしれませんが、内情を明かせば1週間以上に渡る超多忙な時期があり、また優先して目を通しておかなければならない資料などもあって、すっかり間が空いてしまったのです。
さて、言い訳はそのぐらいにして、内容について。
◆米側資料を多数参照
「基地問題の歴史」というタイトルですが、内容は基地問題を中心とした「沖縄近代史」になっています。
明治以前の沖縄は薩摩による支配はあったものの「“対話路線”によって十分に対外的安全を維持して」きていて、非武の島として十分平和が成り立っていました。明治政府による「琉球処分」のあと、沖縄の軍事拠点化が始まり、それは「「軍事的前線基地」あるいは「一種の植民地」としてのみ重要」であったわけです。
このあたりは、他の著作でも十分に知ることができますが、現在でも沖縄が米軍の「前線基地」として扱われていることの裏付けとして重要です。
この前史を含む第一章「沖縄戦への道」の圧巻は、沖縄戦が始まる前年、1944年の米側軍事会議の様子です。ルーズヴェルト大統領、ミニッツ太平洋地域軍総司令官、マッカーサー陸軍大将を中心に行われたこの軍事会議では、「日本本土上陸作戦」の前哨戦として、台湾とフィリピンルソン島のどちらを先に攻撃すべきか大論争が行われます。
結果、台湾は攻撃せず、ルソン島から沖縄への進攻が決定します。これは大変重要な問題で、米軍が台湾に進攻しなかったのは、台湾が前線基地として適当でないことが、ハーモン太平洋地域陸軍航空司令官が進言し、ミニッツ太平洋地域軍総司令官が賛同したことが決定的でした。
つまり、台湾に米軍が侵攻した場合、沖縄戦が避けられた可能性も含まれていたわけです。
これらの成り行きはすべて、米側資料を読み解いたもので、非常に信頼度の高いものといえるでしょう。
◆強制された集団死
第2章の「沖縄戦」で著者は、「集団自決」でなく「強制された集団死」という言葉を用いています。現在、「集団自決」が広範に用いられはしているものの、これが間違った表現であることは、意識ある人の間では常識になっています。ただそれについて、どんな言葉に置き換えるかは確定されていません。
著者は巻末に長い注釈を加え、そのなかで「集団自決」論争についても詳細に述べているので三光にするといいでしょう。
ぼく自身は「強制された集団死」はわかりやすい言葉ですが、いささか長すぎると思います。
渡嘉敷島で集団死の現場に居合わせた山城盛治さんの証言はすさまじいものがあります。
「刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。」「子どもは背中から刺し殺し、子どもは肉がうすいもので、むこうがわまで突き通るのです。」「女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分で上げさせて、刺したのです。」(『沖縄県史』第10巻より転載)
米田惟好村長(当時)の証言。
「安里喜順巡査が恩納河原に来て、今着いたばかりの人たちに、
赤松の命令で、村民は全員、直ちに陣地の裏側の盆地に集合するように、ということであった。(中略)盆地へ着くと、村人はわいわい騒いでいた。
集団自決はそのとき始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。」
この証言にある「赤松の命令」が事実なのか巡査の思い込みなのか、確認する手だてはありませんが、しかし、命令イコール自決という図式が当時の沖縄住民に刷り込まれていたことは、まったく否定できません。
当時の沖縄住民について、米側の資料から次のような述懐が引用されています。
「(自分=米兵が)小屋の一つに入って行くと、隅に老人と女性と子供が身を寄せ合っていた。彼らは急須から何かを回し飲んだ。彼らは服毒自殺をして果てた。すでに彼らの心は日本兵によって毒されていた」
◆あらかじめ予定されたマッカーサーの沖縄基地計画
沖縄を「米国にとって必要な最後の空軍基地」にすることは、すでに1643年の時点で構想されていたことが明らかにされています。
米国はソ連(当時)の驚異を認識し、防共の再前線基地として沖縄を日本から切り離すことがすでに検討されていたのです。
その主導的立場にあったのが、あのコーンパイプで有名な、ダグラス・マッカーサーでした。
「われわれは太平洋地域において直ちに出撃可能な攻撃力を持つ必要がある。(中略)沖縄は、この基地体形において最前線にあり死活的な地位を占める地点である。沖縄からであれば、上陸作戦の起点になると考えられるアジア北部のいかなる港湾も容易に制圧できる。(中略)沖縄に十分な軍事力があれば、アジア大陸からの陸海軍の発進を阻止する目的のために日本本土を必要としない。」
天皇も日本の本土と国体を護持するために、米国が沖縄を占領することを認めたというメッセージを米側に送っています。
「天皇の意見によるとその(沖縄の)占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる。」
「日本を守ることになる」とはいったい何から日本を防衛するのかが問題です。これについて、ここでh詳述しませんが、守るべき相手は日本に対するものではなく、日本を防衛する目的で沖縄に駐屯するアメリカに対していることがわかります。
第三章「沖縄と日米安保体制の形成」は、こうしたやり取りから、日米安保条約が形成され、日本国憲法の草案作りにも少なからぬ影響を及ぼすことを詳細に説明しています。
◆奪われた農地、「軍用地接収」
第四章「沖縄と日米安保体制の展開(一) 沖縄と60年安保改定」は「日米安全保障条約」下での空き縄の姿が描かれています。
「できるだけ談合による購入によって獲得する」「適当な条件で購入できない場合、または所有者が商議することを拒んだ場合は収容手続きをとる」
対日講和条約が発効すると、米側は「土地収用令」を設け、ほとんど強制的に土地を取り上げて行きました。
「地主たちにとって、先祖から受け継いだ土地を立ち退かなければならないことは苦痛の極みであり、移転先での生活不安も付きまとった。しかも、いぜんとして民政府の定める補償額(土地使用料)は低廉で地主が要望するそれとの懸隔が大きかった。」
当時、本土でも米軍をめぐる事件が相次ぎ、各所で基地反対運動が繰り広げられて行きました。そして反基地闘争は全国的な広がりを見せ、「沖縄闘争」へと発展していきました。
◆ベトナム戦争と沖縄
第四章「「沖縄と日米安保体制の展開(二) 沖縄「復帰」とベトナム戦争の影」では、ベトナム戦争の泥沼化とともに、アメリカの戦争による影響が、沖縄住民に濃い影を落として行く状態が詳述されています。
ソ連や中国の核兵器を脅威と感じ、沖縄を書く武装化しへ巌脅かす米軍に、沖縄の人々は強く反発します。
沖縄の祖国復帰の波はさらに高くなって行きますが、沖縄をベトナム攻撃の前線基地とするアメリカは、返還をつよく渋ります。
同時期、佐藤栄作首相(当時)は、日本の科学と産業レベルが、核兵器を製造できるまでに達していると言う裏付けのもと、日本国憲法を改定し、核防衛の可能性を語りはじめます。
これにはライシャワー駐日大使は慌てます。
「佐藤が危険な道筋に入り込まぬよう、池田(勇人)以上にわれわれの指導と教育が必要である」
ジョンソン大統領は、このようなライシャワーの報告から、「米国の核の傘を差し掛けるという日本防衛義務の教科をオファすることによって佐藤の核開発構想を思いとどまらせようとしたのである。」
ラスク国防長官も次のように述べます。
「中国が核兵器を持つならば、日本もまた核を持つべきだという議論を自分は理解することができるが、これは日本のとるべき政策ではない」
それでもやがて、沖縄の復帰は議題として取り上げられるようになりますが、しかしそれは、沖縄住民の意志を汲み取ったものではなく、日米外交と米国の極東戦略の一環としてのものでした。
つまり、このまま沖縄を占領し続けることは、国際的に米国が批判を浴びることになり好ましくない、であるならば、基地はそのままにして施政権だけを日本に移すようにすれば良い、という考えからでした。
沖縄の基地付き返還は、日本政府と米国との間にこのような目論見があったからに他なりません。
◆何も変わらない、米軍、日本政府、沖縄の関係
第六章「未完の復帰と沖縄基地問題」では基地付き返還から現在の沖縄がおかれている立場について述べられています。1972年5月15日に沖縄が日本に復帰してまもなく36年が経とうとしています。しかし、根本的な部分で沖縄は復帰前と何ら変わらず基地に囲まれ、米軍による傍若無人な事件が度重なり起きています。
「復帰」とはなんだったのか、誰の何のための復帰だったのか、この章のテーマは「五・一五」メモと「地位協定」を検証することで、この復帰が少なくとも沖縄住民のことを思って実施されたものでないことを明らかにしています。
「吉田首相の側近で、行政協定締結交渉の日本側代表であった岡崎勝男は、のちに、「“基地”という文言は、行政協定では、どこにも使われていない。私たちは、基地というと、いかにも駐留軍が専管する治外法権的な区域を連想させられて、面白くないと考えた。そこで協定では、すべて“施設および区域”という文字を使うことを、交渉のさいに主張した」と回想している」
この記述のは期日などの部分(引用外)で誤りがあるようですが、しかし、世論を押さえ込むために日本政府が「地位協定」締結に当たって姑息な手段を使っていたことが、十分に疑われます。
こうした「地位協定」の元で、沖縄住民は復帰前と同様の、あるいは所によりさらに悪化した環境の元に苦痛を強いられています。
詳細は割愛しますが、その例として、伊江島、鳥島、辺野古、嘉手納、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、普天間の例が挙げられています。
さらに、2004年8月13日に発生した、沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故を始め、いくつかの例を挙げて警察権の行使が沖縄と本土では米軍によって差別されている例が挙げられています。
「他人の家の中へヘリコプターを落としておいて、米軍の財産であるヘリを保全しなければならないからといって広範な封鎖地域を設け、大学の財産である立ち木を許可なく伐採したというのでは、本末転倒も甚だしいと言わざるを得ない。」
最後に、目取間俊の小説『虹の鳥』について触れ、「主人公のカツヤは、比嘉という男の乾分で、比嘉から17歳のマユという女の子の“世話”を命じられている」、この関係が米軍→日本政府→沖縄という関係の隠喩であることを指摘する書評の多いことを紹介しています。
「ほぼ全編にあふれる剥き出しの暴力描写」の描かれた作品のようなので、いささか読むのに抵抗を禁じえませんが、暗黒小説などがお好きな方はぜひ。
◆住民のための行政は何一つない
敗戦から講和条約の締結、米軍による沖縄占領、復帰後の日米地位協定にいたるまで、沖縄住民の生活環境を考慮して行われた行政は何一つないことがわかります。
本土と天皇制を護持することを目的に沖縄を捨て石に使ったり、一件住民にとって有効と思われる取り決めも、探って行けば米軍が国際社会による非難を避けるためであったり、政府与党と大企業の利益を優先した上での取り決めです。
これは、いかにも環境保護のためのようでいて、実は自社のイメージアップによる利益向上を目論んでハイブリット・カーを作る自動車会社と、考えが非常に良く似ています。自動車会社はそれにより経営に負担がかかるようなら、すぐに中止しますから。
政治が国民のためのものでないことは、この本とは直接関係ありませんが、老人医療の問題、社会保険庁の問題などなど、現実に露骨に現れています。一部の大企業経営者と政治家によって国が私物化されているこの状態に、さらにまったく気づかない国民とはいったい何なのか、情けなくなります。
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