ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

「燐光群」そして下北沢

2014年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
Rinkogun20143
 
 久しぶりに燐光群の芝居を観る。
 「現代能楽集 はじめてなのに知っていた」をご招待いただいて観に行った。ほんとうは演劇をやっている娘に譲るつもりだったのだが、インフルエンザにかかってしまい、いささか多忙で余裕はなかったのだが気分転換もかねて下北沢に出かけた。
 
 最近、ライブも行っていないので下北沢そのものが久しぶりだったが、行ってみて驚いた。小田急線が地下に潜っていたのだ。そういえば、小田急線の地下化にともなって、景観を壊すと地元で反対運動が起きていたようだったのだが、果たしてその結果がどうだったのかは不明。反対を押し切ったのか納得のうえなのか。
 おかげで、まだ工事中の駅の出口が複雑で、外に出るまで不安だったものの、これまでの南口よりやや本多劇場よりにできた新しい改札口に出られた。
 旧小田急線の線路は公園にでもするのか、それともショッピングビルでも立てるつもりか更地にする工事が継続中。ショッピングビルなどは建てないほうがいいと思うのだが、商魂逞しい小田急からすれば、地下化の工事費を回収するために売ってしまうかもしれない。
 
 いつものことだが、ザ・スズナリは空席がまったくない満員状態である。営業の動員努力に感心する。もっとも招待客も相当多いと思う。
 ロビーに女優の山村紅葉さんがいて、演出の坂手洋二さんの著書にサインをもらっていた。案外ミーハーだなあと、なぜか親しみがわく。もちろん招待だと思う。著名人を見かけることが多く、過去には佐野史郎さんや世田谷区長の保坂展人氏を見かけたりもした。
 
 さて、公演の感想だが、理屈で解釈しようと思うと難解である。かつて、早稲田小劇場の鈴木忠志や転形劇場の大田省吾などがメタファで構成した難解な芝居をやっていて、それが当時の演劇少年少女に大変受けていたことがあった。坂手氏が意図してかどうかはわからないが、自分にはそう感じた。
 「現代能楽集」とあるが、能楽ではない。もともと能楽は庶民の演芸であった。それがときの将軍足利義満に認められて、現在の能の原型を完成させたものだ。人間の深奥に潜む情念や怨念などが描かれることが多い。坂手氏はたぶん、観阿弥・世阿弥の哲学を現代演劇に呼び込んだものなのであろうが、「能」といわれるといささか困惑する。どちらかといえば、コントに近い。
 テーマはデジャヴ。科学的にデジャヴは、脳が本来ない記憶をあったことにしてしまうことでおきる。それを「病気」ととらえ、施設に隔離して治療をおこなうというものだ。だが、デジャヴは、人間を宇宙及び地球という生命体の一部とするならば、「なかった」ことではなく、個としての人間にはなくても、生命体全体には存在するものであって、その多くは「夢」によって現れることが多いと言う。すなわち人間は、夢によってつながって現世を生きている、のだそうである。
 オスプレイが近くに墜落するというシーンもある。実はそうしたことも、人間は本来予測できる。だが、それは口に出したとたんに変更されてしまうから予言にはならない。
 この論理は、予言者と言われる人物のいいわけにもよく使われるが、たしかに、知ってしまえば悪い予言ならそれを防ごうとして変更するのは当然だ。
 で、この手の芝居は嫌いではないが、しかし、平易な演劇に慣れた最近の若者に通じるのだろうか。
 
 
 ■土岐哀果「NAKIWARAI」
 
Nakiwarai1
 
 下北沢を訪れるのはたいてい夜だったのでこれまで気づかなかったが、けっこう古本屋が多い。ザ・スズナリの並びの古書店は以前から知っていたが、かつて踏切があったところに通じる道に二三軒ある古本屋には気づかなかった。
 その一軒の店頭ワゴンに、近代文学館発行の復刻版がたくさん出ていて、そのなかに、ちょっと珍しい土岐哀果の「NAKIWARAI」を見つけた。原本は20万円以上するが、復刻版もそうたくさんは見つからない。だが、需要がないのだろう、古書店には高くても1000円くらいで出ている。
 
Tokizenmaro
 
 哀果とは土岐善麿(とき・ぜんまろ)の号である。土岐善麿は明治から戦後にかけて活躍した歌人で、エスペランチストでもある。「ローマ字ひろめ会」なるものを結成し、日本語のローマ字運動をおこなっていた。日本語の漢字が新字体になる前で、庶民にとって読み書きは煩雑な漢字をおぼえなければならず、文学の広まりに障害となっていた。それを、ローマ字で表現することで、文学をより身近なものにしていこうと考えた。
 
Nakiwarai2
 
 しかしこれは、平仮名やカタカナだけで文章を作るようなもので、かなり無理がある。同音異句が区別できないので、言葉を選ばなければならないから、表現が限定される。だもので、ひじょうに読みにくい。これは慣れの問題ではないだろう。
 欧米の言語はアルファベットで表現されているが、スペルを変えるなどして意味をわかりやすくしているのだ。
 当然、「ローマ字ひろめ会」の思惑通りには広まらなかった。
 ちなみに、石川啄木も「朝日新聞社」時代に「ローマ字日記」を記している。これはどちらかと言うと、危ない内容にオブラートをかけるのが目的だったようだ。ローマ字であらわすことは、当時としては「進歩的」とみられていた。
 日本人が英語を苦手とするのは、先にローマ字を習うからだという説もある。いずれにしろ、日本語をローマ字に置き換えるというのは、いささか乱暴に思えるのだが、いかがだろうか。


「アジア記者クラブ通信」259

2014年03月17日 | 本と雑誌
特集 ウクライナ情勢
 
Apc259
 
 再び東西冷戦かと危惧されるウクライナ情勢。ウクライナは分割崩壊の危機にあり、クリミヤ半島をめぐってロシアとEUとのあいだで綱引きがおこなわれている様相である。
 日本のマスメディアはことごとく反ロシアの報道姿勢に偏っているが、はたしてウクライナ新政府は正義であるのか、ロシアのクリミア侵攻は、全面的に悪であると判断してよいのか。
 今号の特集は、両者の主張と思惑を公平に比較するために重要な情報であるといえる。
 
Apc259index
 
1. キエフはモスクワ突破とユーラシア支配の要衝だ
   ウクライナ動乱の真相

 ウクライナ動乱は、米国と欧州連合に後押しされたウクライナや党勢力による政変〝クーデター〟であった。
 
2. ポーランド民族主義者は軍事介入唱える
   バルカン化の危機孕むウクライナ

 ポーランドの民族主義者〝ネオナチ〟は、この機に乗じて「ウクライナに軍事介入し、ポーランド固有の領土を奪還せよ」と唱えはじめた。
 
3. ウクライナ〝新政権〟はネオナチが主導する
   黙殺を装い支援する西側諸国

 ウクライナ市民による講義デモは、突如、なぜ極右が主導する反政府運動へと変貌したのか?
 
 『アジア記者クラブ通信』(月刊)
 1部定価 税込700円
 年会費  5000円(通信1年間購読料込)
 購読申込みは郵便振替で
 00180-4-709267(アジア記者クラブ)


『フィールドワーク 東京大空襲』

2014年03月10日 | ニュース
Tokyodaikushu
『フィールドワーク 東京大空襲』amazon
 
 いまから69年前の今日3月10日未明、東京大空襲があった。下町がほとんどやきつくされ、無差別爆撃で一般住民10万人が犠牲になった。
 
 早乙女勝元さんが館長を務める「東京大空襲・戦災資料センター」が『フィールドワーク 東京大空襲』を出版した。(平和文化:発行 630円)
 中学生や高校生を対象に講義を続けている早乙女さんが、年々東京大空襲を知らない子どもが増えていることを危惧し、本書を編んだ。
 現在日本の人口は、戦後生まれが8割を占める。戦争を記憶する生き証人は、年々ゼロに近づき、アジア太平洋戦争は、歴史上の出来事で、戦国時代のように二度と起こらないと思い込んでいる子ども達が少なくない。実際、我が家でも一通り伝えてはあるが、実際問題として、いまの日本では再び起こりかねないとは、ほとんど把握できないようである。
 「東京大空襲」は一夜にして10万人もの一般住民が犠牲になった。広島・長崎の原爆被害に次ぐ大量虐殺事件であるにもかかわらず、全国的には注目度が薄い。だから、地方から転居してきた人々の二世・三世にとっては、東京に空襲があったことすら知らない場合がある。(日本がアメリカと戦争をしていたことすら知らない子どもがいるそうで、それは論外だが)
 
 わずか64ページの薄い冊子だが、それだけに読書が苦手な子どもにも読める。そのなかに、一通り必要な基礎知識が網羅され、関連する慰霊碑や遺跡が紹介されている。
 戦争末期に開発された当時最大の爆撃機B29によって、空襲が航空母艦からではなく、基地から直接攻撃できるようになったこと。
 日本の家屋が木と紙でできていることから、焼きつくすことを目的に開発された「焼夷弾」が用いられたこと。
 残された爆撃や銃撃の痕などが紹介され、実際に目にすることができるよう、わかりやすい地図が掲載されている。
 西東京が空襲の標的になった中島飛行機についても触れられているが、我が家の近く、現在「はらっぱ広場」になっている中島飛行機工場荻窪製作所についてはまったく語られていない。もっとも、戦争の傷跡はこの場所に見当たらないが。
 
 フィールドワークを目的にした本ではあるが、何を調べるべきか、何を学ぶべきかのきっかけになる。早乙女さんには岩波新書をはじめとして多数の著作があるが、中学生や高校生にとってはこの冊子から入るほうがとっかかりやすいだろう。
 夏休みの研究課題にもできる。

『フィールドワーク 東京大空襲』amazon
 
               ◆◆◆
 
 
 0309原発ゼロ大統一行動
 
03091
 定員オーバーで入場できず。さあどうするか、入口で立ち尽くす人々
 
 久しぶりの、反原発でもである。仲間から「最近見かけないね」などと言われていたものだから、たまには顔を出さなければと足を運んだが、肝心の知り合いはたんぽぽ舎のリーダーと杉並区議が一人。
 さぼっていたわけではない。集会と繁忙期が重なる場合が多く、なかなか時間がとれなかったのだ。
 集まった人の数は主催者発表では3万2000人。当然、集会場の音楽堂に入ることはできない。最近は定員3000人の入場制限が厳しくなって、席が埋まるとすぐに入口が閉ざされてしまう。入れた人は相当早くに出かけたか、運のいい人だ。のこりは会場周辺や日比谷公園周辺の道路で気勢を上げる。
 集会終了後は、国会、首相官邸、東電とわかれて講義デモ。知り合いが東電に行くというので、ついていく。日曜日なので、出勤している東電社員はあまりいないはずなのだが、東電の前で抗議集会をやるということに意義がある。
 ほとんどが、国会や官邸に行ってしまったので、こちらは主催者発表で500人。(実際には2~300人くらいに見えたが)
 
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 国会前抗議集会。晴れているのにこの日は寒かった。

 どうも日本人は「のど元過ぎれば熱さを忘れる」傾向が強い。以前のような子ども連れや若者達の姿は激減して、年齢層がかなり高くなっている。新聞に掲載された会場内の写真でも年配者が目立つ。不謹慎だが、もう一度くらい事故が起きなければ、懲りないのか? それも、天皇や為政者の中に犠牲が出るような。
 このままだと、何年かのちに、フクシマは歴史上の出来事になってしまう、そんな危機感を感じた。


『ゴジラ』第一作

2014年03月08日 | 映画
Gozzira
『ゴジラ』第一作ポスター。下の四人の登場人物は、左から、河内桃子、宝田明、志村喬、平田昭彦。平田昭彦は以後、特撮映画の常連になる。
 
 「ゴジラ」〝生誕〟60年(ジュラ紀の生物なのでおかしな表現だが)ということで、今月から日本映画専門チャンネルで特集が始まった。1年かけてゴジラ映画全作を放映するという。
 しかし「ゴジラ」といえば、第一作に始まって第一作に終る、と思っている。言い過ぎかもしれないが、2作目以降はすべて駄作である。特に3作目からはどんどん子どものアイドルと化していき、第一作のポリシーはどこにも残っていない。
(ただし、ゴジラ映画ではないが、『モスラ』は評価している)
 
 『ゴジラ』第一作は、特撮映画の草分けとしてだけでなく、日本の映画史上有数の名画である。公開は1954年11月、あの第五福竜丸事件(同年3月)からわずか8か月後である。敗戦から9年で、街角に傷痍軍人が立ち、そこここに焼け跡が残っていた。
 「原子マグロに放射能雨、今度はゴジラだって。せっかく長崎の原爆から生きて帰ったのに……」と、主婦が電車の中でぼやく台詞があるから、たった8か月のあいだに脚本から公開まで一気に製作したわけである。民放の連ドラ並のスピードだ。それでも限られた予算の中で、コンピューターもない時代の、当時としてはかなりレベルの高い特撮である。
 
 この『ゴジラ』第一作をなぜほかのゴジラ映画と区別し、名画と評するのかといえば、ただの娯楽映画ではないということである。
「ゴジラ」は深い海底で静かな暮らしをしていたところ、水爆実験によって眠りを妨げられ、姿を現したという設定になっている。志村喬演ずる古生物学者が最後につぶやく。
「ゴジラがこの一匹とは思えない。もし今後も水爆実験が続くなら、第二第三のゴジラが世界のどこかに現れるだろう」
 第二次世界大戦の終結後、東西冷戦が始まり、米ソが競い合って実施した水爆実験に対する明確な批判が、この映画に太い柱をもたせている。
 8か月前発生した、ビキニ海域での第五福竜丸被曝事件をきっかけに、杉並区の主婦がはじめた署名運動から、原水爆禁止世界大会(原水禁)が立ち上がった。核兵器は人々の平穏な暮らしをおびやかす身近な問題だったのだ。
 さらに、この映画が示唆するところは単に反核にとどまらない。「ゴジラ」が破壊するのは、当時資本主義の象徴であった建造物が主で、最初に現れる大戸島(伊豆大島ロケ)以外では、一般の住宅は破壊していない。すなわちあらわれるのが住宅街ではなく、都市部に限られるのだ。
 贅を尽くした銀座の街並みが踏みつけられ、銀座の象徴である服部時計店の時計台が壊される。テレビ塔が倒され国鉄の列車が噛み砕かれる。これらは現代でいえば、スカイツリーや六本木ヒルズ、新幹線などに置き換えることができるだろう。当時国鉄は、過酷な労働条件で労働運動の中心的存在だった。
 人間性を無視した急激な開発が、地球の怒りを買い、ゴジラを出現させた、ということである。
 
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破壊される豊かさの象徴、服部時計店の時計塔。当時この場所を銀座尾張町といった。金がなくても歩くだけでリッチな気分が味わえる、「銀ブラ」がはやった。
 
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東京駅寸前で噛み砕かれる国鉄の列車。
 
 すなわち、ゴジラは地球の怒りの象徴といえる。ゴジラはもちろんフィクションであるから実在しない。しかし、安倍晋三が民意を無視したり世界の調和を乱す暴走行為を続けていれば、もしかすると、ゴジラが現れるかもしれない。
 
 俳優の佐野史郎は、若い有能な科学者芹沢博士(平田昭彦)が発明したオキシジェン・デストロイヤーによってゴジラが殺されたとき、涙が出たと語った。
 芹沢博士は、自らの発明が兵器として使われることを恐れ、決して表に出そうとしなかった。しかし、被害の惨状を目の当たりにしたとき、自分の命共々ゴジラを葬り去る決意をする。原爆を発明したオッペンハイマー博士と異なり、二度と使われることのないよう、発明の痕跡を一切残さなかった。ここにも、この映画の兵器に対する危機感が表現されているのだ。
 「これを見た為政者が必ず兵器にする」、そう語って芹沢博士はゴジラとともに消滅した。
 
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左から宝田明、河内桃子、平田昭彦。手にしているのがオキシジェン・デストロイヤー。
 
 この映画をはじめて観たのは、小学生のときである。当時永福町に「地球座」という映画館があって、ロードショーの終った映画を三本立てでやっていた。安いので家族連れに人気だった。母親と妹の三人だったが、妹は幼くすぐに飽きてロビーで遊んでいた。子どもが場内を駆け回っても、だれも文句はいわない映画館だった。新宿や渋谷など繁華街にある封切館は、「アベック」がデートをするところ、といわれていた時代である。
 小学校のクラスではほとんどが観に行っていて、ゴジラ談義に花が咲いた。友人の一人が『怪獣ゴジラ』という、映画を絵本にしたものを持っていて、クラスの中で貸し借りがされていたことを思い出す。
 『ゴジラ』は、当時の大ヒット映画だったのだ。
 白黒スタンダードで、しかも、特撮効果を生かすために画面が暗い。最近の映画ファンには観にくいだろう。また、ゴジラといえば『怪獣大戦争』のように夏休み子どもショー的な映画を思い浮かべるかもしれない。それらはすべて、ゴジラ人気にあやかって東宝が利益獲得を目的に作った映画であって、なんのメッセージ性もない。それと同じ扱いをされてはゴジラに気の毒なのだが、日本映画専門チャンネルでも同列に扱われている傾向があって残念だ。
 
 なかなか見る機会のない『ゴジラ』第一作、「生誕」60年のこの機会に是非一度見ておいてほしいとおもう。