久しぶりに燐光群の芝居を観る。
「現代能楽集 はじめてなのに知っていた」をご招待いただいて観に行った。ほんとうは演劇をやっている娘に譲るつもりだったのだが、インフルエンザにかかってしまい、いささか多忙で余裕はなかったのだが気分転換もかねて下北沢に出かけた。
最近、ライブも行っていないので下北沢そのものが久しぶりだったが、行ってみて驚いた。小田急線が地下に潜っていたのだ。そういえば、小田急線の地下化にともなって、景観を壊すと地元で反対運動が起きていたようだったのだが、果たしてその結果がどうだったのかは不明。反対を押し切ったのか納得のうえなのか。
おかげで、まだ工事中の駅の出口が複雑で、外に出るまで不安だったものの、これまでの南口よりやや本多劇場よりにできた新しい改札口に出られた。
旧小田急線の線路は公園にでもするのか、それともショッピングビルでも立てるつもりか更地にする工事が継続中。ショッピングビルなどは建てないほうがいいと思うのだが、商魂逞しい小田急からすれば、地下化の工事費を回収するために売ってしまうかもしれない。
いつものことだが、ザ・スズナリは空席がまったくない満員状態である。営業の動員努力に感心する。もっとも招待客も相当多いと思う。
ロビーに女優の山村紅葉さんがいて、演出の坂手洋二さんの著書にサインをもらっていた。案外ミーハーだなあと、なぜか親しみがわく。もちろん招待だと思う。著名人を見かけることが多く、過去には佐野史郎さんや世田谷区長の保坂展人氏を見かけたりもした。
さて、公演の感想だが、理屈で解釈しようと思うと難解である。かつて、早稲田小劇場の鈴木忠志や転形劇場の大田省吾などがメタファで構成した難解な芝居をやっていて、それが当時の演劇少年少女に大変受けていたことがあった。坂手氏が意図してかどうかはわからないが、自分にはそう感じた。
「現代能楽集」とあるが、能楽ではない。もともと能楽は庶民の演芸であった。それがときの将軍足利義満に認められて、現在の能の原型を完成させたものだ。人間の深奥に潜む情念や怨念などが描かれることが多い。坂手氏はたぶん、観阿弥・世阿弥の哲学を現代演劇に呼び込んだものなのであろうが、「能」といわれるといささか困惑する。どちらかといえば、コントに近い。
テーマはデジャヴ。科学的にデジャヴは、脳が本来ない記憶をあったことにしてしまうことでおきる。それを「病気」ととらえ、施設に隔離して治療をおこなうというものだ。だが、デジャヴは、人間を宇宙及び地球という生命体の一部とするならば、「なかった」ことではなく、個としての人間にはなくても、生命体全体には存在するものであって、その多くは「夢」によって現れることが多いと言う。すなわち人間は、夢によってつながって現世を生きている、のだそうである。
オスプレイが近くに墜落するというシーンもある。実はそうしたことも、人間は本来予測できる。だが、それは口に出したとたんに変更されてしまうから予言にはならない。
この論理は、予言者と言われる人物のいいわけにもよく使われるが、たしかに、知ってしまえば悪い予言ならそれを防ごうとして変更するのは当然だ。
で、この手の芝居は嫌いではないが、しかし、平易な演劇に慣れた最近の若者に通じるのだろうか。
■土岐哀果「NAKIWARAI」
下北沢を訪れるのはたいてい夜だったのでこれまで気づかなかったが、けっこう古本屋が多い。ザ・スズナリの並びの古書店は以前から知っていたが、かつて踏切があったところに通じる道に二三軒ある古本屋には気づかなかった。
その一軒の店頭ワゴンに、近代文学館発行の復刻版がたくさん出ていて、そのなかに、ちょっと珍しい土岐哀果の「NAKIWARAI」を見つけた。原本は20万円以上するが、復刻版もそうたくさんは見つからない。だが、需要がないのだろう、古書店には高くても1000円くらいで出ている。
哀果とは土岐善麿(とき・ぜんまろ)の号である。土岐善麿は明治から戦後にかけて活躍した歌人で、エスペランチストでもある。「ローマ字ひろめ会」なるものを結成し、日本語のローマ字運動をおこなっていた。日本語の漢字が新字体になる前で、庶民にとって読み書きは煩雑な漢字をおぼえなければならず、文学の広まりに障害となっていた。それを、ローマ字で表現することで、文学をより身近なものにしていこうと考えた。
しかしこれは、平仮名やカタカナだけで文章を作るようなもので、かなり無理がある。同音異句が区別できないので、言葉を選ばなければならないから、表現が限定される。だもので、ひじょうに読みにくい。これは慣れの問題ではないだろう。
欧米の言語はアルファベットで表現されているが、スペルを変えるなどして意味をわかりやすくしているのだ。
当然、「ローマ字ひろめ会」の思惑通りには広まらなかった。
ちなみに、石川啄木も「朝日新聞社」時代に「ローマ字日記」を記している。これはどちらかと言うと、危ない内容にオブラートをかけるのが目的だったようだ。ローマ字であらわすことは、当時としては「進歩的」とみられていた。
日本人が英語を苦手とするのは、先にローマ字を習うからだという説もある。いずれにしろ、日本語をローマ字に置き換えるというのは、いささか乱暴に思えるのだが、いかがだろうか。