燐光群公演「くじらの墓標」(坂手洋二 作・演出)を吉祥寺シアターで観る。
この作品は1993年初演で坂手洋二の名を世界に知らしめた代表作のひとつである。
燐光群の特徴である簡素で象徴的な舞台装置で進行する物語は、観客に問いかけるものはあくまで俳優の演技力であり、それを引き出す坂手の卓越した演出である。
舞台は「東京湾に近い、廃業したかつての漁業倉庫」ということだが、波音や「海」との関わりを見る限り、ほとんど海岸である。それによって、倉庫内が大海原に変化する。
以下あらすじは、チラシから部分転載する。
……そこに住み込む青年は、捕鯨を生業とする一族の子孫で、交通事故の後遺症を抱えている。彼のもとを訪れる、一族最後の生き残りである叔母。さらに、海難事故で死んだはずの五人の兄たち、謎めいた出自の彼らによって告げられる秘密が明らかになる時、末っ子である青年は、思いもよらぬ運命に導かれていく……。
亡霊の蘇る「能」の形式とギリシャ悲劇のような力強い構造を持ち、メルヴィルの『白鯨』をも想起させながら、再開してしまえばただではすまない、ひたむきな家族たちの姿と、現実的な「捕鯨」の状況とが幻想的に交錯……
いささか自画自賛を禁じ得ない紹介文だが、「能」や「ギリシャ悲劇」のような形而上学的な要素を多分に含む作品であることは事実だ。最近のリアリズム演劇に慣れた観客にとっては、難解な作品に分類される。
キャッチフレーズに「自殺する動物は2種類しかいない。ニンゲンとクジラである。」とあり、絶望、狂乱、狂乱が生と死の分岐点であることがギリシャ哲学的に表現されている。
この芝居を現代の状況に重ねあわせて見ると、クジラは生きる糧であり、「海」はそれを得るための場のメタファととらえることができる。しかし、クジラも「海」もつねに何者かの都合でコントロールされているのだ。ニンゲンは亡霊になってはじめて、そのことに気づく。それでは遅いのだが。
終演後に坂手洋二と中根公夫プロデューサーの対談があり、それがけっこう面白かった。
中根プロデューサーは長年蜷川幸夫をプロデュースしていて成功も挫折も味わってきた。
蜷川の芝居が評価を得たのは演出というよりもインスタレーション(装置・美術)だと語る。まったく同感だ。青年座を出て東宝で上演した『マクベス』や『王女メディア』に象徴されるように、湯水のように予算を浪費した、派手な舞台装置と衣装によるこけおどしが蜷川芝居の〝真骨頂〟だ。蜷川の芝居で好評を博した故平幹二朗には申し訳ないが、芝居そのものはまったく評価できない。
もうひとつ、今国会で成立させようとしている「共謀罪」については、非常に危機感を感じていると言う。かつて治安維持法で、演劇はいつも槍玉に挙がっていた。客席の後に警察官が監視していて、反体制的な台詞などがあると、たちまち「中止!」「中止!」と叫んで芝居をやめさせ、責任者が逮捕された。千田是也や佐佐木隆から何度も聞いた、築地小劇場時代の実話だ。
そのまま現代にあてはまるとは思えないが、監視カメラなどで常に監視され、内容によっては劇団責任者が逮捕監禁される可能性は十分にある。
演劇のもつ自由さや事前チェックが不可能なライブであることが、権力が目くじらを立てる理由である。
反体制・反権力を貫く燐光群などは、真っ先に目をつけられる。いやすでに、観客の中に公安が紛れ込んでいるかもしれない。