ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

築地

2017年03月26日 | まち歩き
 息子の舞台公演(ご紹介できる代物ではない)を観た後、今禍中まっただ中にある築地場外市場をひやかす。
 

 
 芝居がはねたのは3時半頃で、築地のほとんどの店は既に閉めていた。基本的に2時、遅くとも3時で築地の店は閉店になる。
 ほんとうは江戸銀で遅い昼飯をと考えていたのだが、やはり閉店していて、しかたなく〝すしざんまい〟の回転寿司でお茶を濁す。さすが築地、回転寿司と侮れないうまさだった。
 
 外人観光客がうろうろしていても、何ら媚びることなくシャッターを閉めているが、それでもぽつりぽつりと営業中の店がある。
 そういう店は、おおかた値段が高めだ。
 


 
 毛ガニは1杯2300円、大きなタラバガニは1杯38,000円。
 はて安いのか高いのか。
 
 店頭にぶら下がっていた5枚1,000円のするめを買って帰る。今度はもう少し早い時間に出かけよう。

透谷と啄木を通してみる明治維新という迫害

2017年03月26日 | 歴史

 渥美博『封殺されたもうひとつの近代』
〜透谷と啄木の足跡を尋ねて〜
スペース伽耶 発行 四六判268ページ 2,000円+税
 
 本書は明治の代表的な文学者である北村透谷と石川啄木の生き様を柱に、当時の下層階級にとって明治とはどんな時代だったのかを探求した研究書である。
 両者ともはじめから封建社会や明治の帝国主義に疑問を持っていたわけではない。彼らがぎりぎりの貧困生活を送る中で、庶民を置き去りにした指導者たちによる帝国主義政策の実態に気付きはじめ、抵抗感を深めていくのである。
 
 啄木のばあい、当初はきわめて保守的な考えの持ち主だった、それが小国露堂ら社会主義者と出会い、交流を深めていく中で少しずつ視野を広げていく。目先しか見えていなかった啄木が、世界に目を向けはじめたときの象徴的な短歌がある。
 日本中が「韓国併合」でうかれているとき、世界地図の赤でぬられた日本の領土が朝鮮半島に及んだとき、啄木はその赤色を墨で塗りつぶした。
 
 地図の上 朝鮮国にくろぐろと
 墨をぬりつゝ 秋風を聞く

 
 時系列は逆になるが、最後の章で語られる一揆についての記述も面白い。1866年(慶応2)陸奥国信夫、伊達郡で十数万人が参加したといわれる大一揆をはじめ多くの一揆では、代官、豪商、豪農などの家屋敷のうちこわしが目的で、放火、略奪、窃盗乱暴狼藉ははたらかなかった。
 米一粒なりとも持ち帰ってはならないと取り決められていた。放火や盗みをしないことで一揆弾圧の口実を避けたものと言われているが、語られるだけでは本当にそうだったのか疑わしい。しかし、複数の記録で実際に規律が守られていたことが伝えられている。破壊するための道具は持っていたが、殺人に使う武器などはいっさい持参しなかった。
 実に統一のとれたものだったらしい(例外はあったようだが)。
 著者は、もし農民軍として組織されていたならば、おそらく明治維新のかたちは変わっていただろうと語る。余談だが、封建制度に苦しむ農民を民兵として組織し、革命を成し遂げたのが中国の毛沢東だ。
 日本は真の民主国家をつくる絶好の機会を逃したのかもしれない。
 
 教科書や一般の歴史書では語られることのない、日本の下層階級から見た明治維新と明治の世相を描いた本書は、熟読に値する。

「クジラ」を通してみる、人間の性

2017年03月21日 | 演劇


 燐光群公演「くじらの墓標」(坂手洋二 作・演出)を吉祥寺シアターで観る。
 この作品は1993年初演で坂手洋二の名を世界に知らしめた代表作のひとつである。
 
 燐光群の特徴である簡素で象徴的な舞台装置で進行する物語は、観客に問いかけるものはあくまで俳優の演技力であり、それを引き出す坂手の卓越した演出である。
 舞台は「東京湾に近い、廃業したかつての漁業倉庫」ということだが、波音や「海」との関わりを見る限り、ほとんど海岸である。それによって、倉庫内が大海原に変化する。
 以下あらすじは、チラシから部分転載する。
 
 ……そこに住み込む青年は、捕鯨を生業とする一族の子孫で、交通事故の後遺症を抱えている。彼のもとを訪れる、一族最後の生き残りである叔母。さらに、海難事故で死んだはずの五人の兄たち、謎めいた出自の彼らによって告げられる秘密が明らかになる時、末っ子である青年は、思いもよらぬ運命に導かれていく……。
 亡霊の蘇る「能」の形式とギリシャ悲劇のような力強い構造を持ち、メルヴィルの『白鯨』をも想起させながら、再開してしまえばただではすまない、ひたむきな家族たちの姿と、現実的な「捕鯨」の状況とが幻想的に交錯……


 いささか自画自賛を禁じ得ない紹介文だが、「能」や「ギリシャ悲劇」のような形而上学的な要素を多分に含む作品であることは事実だ。最近のリアリズム演劇に慣れた観客にとっては、難解な作品に分類される。
 キャッチフレーズに「自殺する動物は2種類しかいない。ニンゲンとクジラである。」とあり、絶望、狂乱、狂乱が生と死の分岐点であることがギリシャ哲学的に表現されている。
 
 この芝居を現代の状況に重ねあわせて見ると、クジラは生きる糧であり、「海」はそれを得るための場のメタファととらえることができる。しかし、クジラも「海」もつねに何者かの都合でコントロールされているのだ。ニンゲンは亡霊になってはじめて、そのことに気づく。それでは遅いのだが。
 
 終演後に坂手洋二と中根公夫プロデューサーの対談があり、それがけっこう面白かった。

 中根プロデューサーは長年蜷川幸夫をプロデュースしていて成功も挫折も味わってきた。
 蜷川の芝居が評価を得たのは演出というよりもインスタレーション(装置・美術)だと語る。まったく同感だ。青年座を出て東宝で上演した『マクベス』や『王女メディア』に象徴されるように、湯水のように予算を浪費した、派手な舞台装置と衣装によるこけおどしが蜷川芝居の〝真骨頂〟だ。蜷川の芝居で好評を博した故平幹二朗には申し訳ないが、芝居そのものはまったく評価できない。
 もうひとつ、今国会で成立させようとしている「共謀罪」については、非常に危機感を感じていると言う。かつて治安維持法で、演劇はいつも槍玉に挙がっていた。客席の後に警察官が監視していて、反体制的な台詞などがあると、たちまち「中止!」「中止!」と叫んで芝居をやめさせ、責任者が逮捕された。千田是也や佐佐木隆から何度も聞いた、築地小劇場時代の実話だ。
 そのまま現代にあてはまるとは思えないが、監視カメラなどで常に監視され、内容によっては劇団責任者が逮捕監禁される可能性は十分にある。
 演劇のもつ自由さや事前チェックが不可能なライブであることが、権力が目くじらを立てる理由である。
 反体制・反権力を貫く燐光群などは、真っ先に目をつけられる。いやすでに、観客の中に公安が紛れ込んでいるかもしれない。

アジア記者クラブ3月定例会

2017年03月15日 | 昭和史




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 田中宏さんは、一橋大名誉教授で経済学者。在日外国人問題にくわしい。現在の、極右によるヘイトスピーチなど、在日外国人差別の根源は、明治時代からの侵略政策にもとづく朝鮮・中国蔑視に始まったと説く。
 今年、2017年は、1937年の盧溝橋事件(7月)、南京大虐殺(12月)から80年にあたる。日本政府がいまだに背を向けたまま解決することを拒んでいる、戦争責任・戦後責任について語っていく。
 
〈著書〉
『虚妄の国際国家・日本 アジアの視点から』風媒社 1990年7月
『Q&A外国人の地方参政権』五月書房 1996年3月
『戦後60年を考える 補償裁判・国籍差別・歴史認識』創史社 2005年8月
『在日外国人 法の壁、心の溝 第3版』(岩波新書)岩波書店 2013年5月