昨年12月に発行されていたのに気づかず、つい先頃遅ればせながら購入した。
この巻とその前の110巻は「福島の真実」全・後編で、ご存知の通り賛否両論の嵐を巻き起こした。
批難する側の多くは「あれは真実ではない」「内容が偏っている」「福島の復興を妨げる」などというもので、支持する側は「政府や東電が隠している真実を暴いたものだ」「福島の現状が正しく伝えられている」と言う。
要は、原発事故をできるだけ小さく見せたい政府・東電の意見に寄りそうか、住民、特に子どもたちの健康被害についての正確な情報を望んでいるかの違いである。
結論から先に言えば、『美味しんぼ』で描かれたことはすべて真実であると言い切れる。取材対象により、その表現方法はさまざまだとは思うが、取材した内容をそのまま掲載したという意味で真実である。
ただし、その表現方法について、原発被害に遭ったすべての人の感情に十分慮っているかと言えば、言葉足らずな個所が含まれていることは否めない。『ビッグコミック・スピリッツ』連載時には、その配慮が不足していたので批判を受けたのだ。
単行本にする際、台詞を加筆訂正したり注釈を多く加えるなどの処理がなされ(そのために発行が大幅に送れたのだろう)、一定レベル以上の納得がいく内容になっている。
たとえば、批判の対象になった一つ、福島で取材を続ける「山岡」が鼻血をだすシーンがある。多方面から、「福島にそんな人はいない」「放射能とは無関係な鼻血を被曝のせいにしている」と否定的な意見が多数寄せられたと聞く。
ここで重要なことは、「鼻血と被曝の関連性が証明できていない」ことが、安全を保障するものではない、ということだ。政府などによる安全基準の考え方はこれに限らない。先日もインフルエンザ治療薬の「タミフル」について、「異常行動とタミフルの因果関係が証明できないから規制はできない」という発表があった。つまり、危険が証明されなければ安全ということになってしまうのだ。低線量被曝については現状ではほとんどわかっていない。わかっていないから安全ということではないはずだ。
子どもを持つ親はそれでは納得できない。「放射線量が国の安全基準を下回りましたから、安心して帰っていらっしゃい」と言われても、これまでウソ八百で国民をだまし通してきた東電や政府の言うことを「ハイそうですか」と鵜呑みにして、真実の状況がよくわからない被災地にのこのこと帰ってくる人はバカか開き直りだ。
双葉町の井戸川前町長が「私は前町長として双葉町の町民に福島県の外に出ろと言ってるんです」と語る場面があるが、これは至極真っ当な意見だと思う。しかし正しい意見を述べた前町長は更迭されてしまった。「自分の考えを言うと町長を辞めさせられるこの日本という国は……」と嘆く山岡の言葉は、まさに東京大空襲の焼夷弾で燃え盛る住宅を「逃げるな消せ」と命令して犠牲者を拡大させた戦時中の大日本帝国の考え方と酷似していることをあらわしている。
復興とは、ただ無闇にその場所に人を戻すことではない。安全宣言をすればいいというものでもない。これまで通り人々が、心から安心して暮らせるようになることだ。そのためには、これから何十年何百年という長い歳月が必要なはずである。
原発事故とはそういうものであることを、すべての国民が認識する必要がある。
政府や東電は、莫大な保証金が派生することを怖れ、性急な「危険区域解除」を行っている。これは、福島県民を思ってのことではない。一日でも早く「なかったこと」にして原発を再稼働させたいからに他ならない。『美味しんぼ』はそうした金と権力の横暴を暴いたからこそ、「命より金が大事」な人々から攻撃を受けたのであろう。
一つ付け加えておきたい。『美味しんぼ』は福島県の全域が危険と言っているわけではない。地域によっては震災前と変わらない安全な場所もあり、逆に安全とされていても、条件によっては注意を要するところもある。また、安全な作物を届けるために努力をしている生産者も少なくないことも紹介している。
つまり、福島県産だからとひとくくりに危険扱いすることの誤りも伝えている。裏を返せば、他の都道府県の生産物でも被曝している可能性はあるのだ。雲や霧や風にとって、県境も国境も意味ないのだから。
話は違うが、しばらく読んでいなかったら、山岡と栗田さんは結婚していて子どもまでいる。山岡と海原雄山の父子は和解している。油断していたらずいぶん状況が変わっていた。