ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

はだしのゲン制限撤回

2013年08月27日 | ニュース
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 松江市の私立小中学校図書館で『はだしのゲン』の閲覧を制限した問題で、市の教育委員会は「手続き上の不備があった」として閲覧制限を撤回した。
 この問題が明るみに出てから、松江市には抗議が殺到し、マスコミでも取り上げられたため、対処せざるを得なくなった結果である。
 誰だったか忘れたが、国会議員の中に「(閲覧制限は)法的には問題ない」などと言ったのがいたらしい。しかしこれは検閲にあたり、国民の知る権利を奪う憲法違反である。憲法を読んだことのない国会議員が多数いるとされているが、どうやら本当かもしれない。信じられないことだ。
 
 松江市教育委員会は、撤回した理由を「手続きの不備」であるとして、子どもたちの知る権利や学自由については一切言及していない。
 
 『はだしのゲン』の残酷シーンとされているのは、10巻にある以下の4カットを含む数カットに過ぎない。
 
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 日本兵が中国人の非戦闘員である一般住民に対して行った「三光政策」である。
 昨年8月、松江市内の自営業者と称する某男性から「ありもしないことが書かれた悪書である」と市議会に学校図書館からの撤去を求める陳情があり、陳情そのものは不採択になったが、このシーンが「残虐である」と問題視した教育委員会事務局が会議に図ることなく閲覧の制限を各学校に要請し、しかも要請に応じなかった学校に対して徹底するよう再度指示を出したと言う。
 たしかにこのシーンは残酷である。しかし、残酷なシーンはここだけではない。被曝した人々が幽霊のような姿で歩いていくシーンや焼けこげた死体の山など、目を覆いたくなる場面は多数ある。
 しかし、これが戦争なのである。戦争とは残酷で悲惨なものであり、それを知ることは大変重要だ。ところが、松江市の教育委員会が問題にしたのは、上に示したシーンを含む数カットである。
 これは、右翼が認めたくない旧日本軍の残虐行為が描かれているからに他ならない。
 そこで確認しておきたいことは、ここに描かれた出来事は某男性がいうような「ありもしないこと」ではなく、実際にあったことであって、それを実行した元日本兵の証言は無数にある。
 だが、どれだけ多くの確実性の高い証言があろうと、右翼はそれらすべてを捏造だといい、証言する元兵士を「中国や北朝鮮のスパイ」扱いするのだ。
 信条にそぐわないことはことごとく隠蔽するか捏造扱いして「なかった」ことにするのは、日本の場合、右翼の常套手段だが、それは旧ソ連や中国、北朝鮮のような独裁国家のやることで、民主主義とはいえない。少なくとも日本は民主国家であるのだから、事実をきちんと直視した上で物事を判断するべきだ。
 
 さて、松江市教育委員会が閲覧制限を撤回した理由が「手続き上の不備」であるとしていることは、依然問題は残されたままなのである。手続きに問題がなければ、再度制限を設ける可能性が残されているということだ。
 松江市教育委員会は、この問題の本質を見極め、正当な判断のもとに子どもたちの自由な閲覧を実現させるべきである。
 
 それにしても、この問題が功を奏し、汐文社の単行本が例年の3倍を売り上げ、中公文庫版は2.5倍だそうである。某右翼男性にとってはまさにやぶ蛇、これまで『はだしのゲン』に興味のなかった人々にまで読者の範囲を広げる結果になった。作者の中沢啓治さんがご存命なら苦笑いをしたことだろう。
 
【訃報】中沢啓治さん
『はだしのゲン』


「ガマフヤー」具志堅隆松さん講演会

2013年08月27日 | インポート
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 8月25日日曜日、阿佐ヶ谷の杉並産業商工会館に「ガマフヤー」の具志堅隆松さんを沖縄から招いて講演会を行った。主宰は「戦争体験者100人の声の会」。
 
具志堅隆松さん
『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ。』

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 講演では発掘した遺骨や遺品などを持参。参加者はそれぞれ手に取って見ることができた。中には銃弾、砲弾の破片、手榴弾などもあり、空港を通過するのに一時間ぐらいかかったそうである。
 誰もが沖縄戦のすさまじさをイメージする。
 
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 多くの写真をまじえて発掘現場の様子を解説する具志堅さん。
 「ぜひ実際に現場を見にきてください」と呼びかける。
 小学生が見学に来たとき次のように話したそうだ。
 「君たちはこれまで、『沖縄では大変な戦争があったんだって』と言ってきたと思う。でも今日からは『沖縄では大変な戦争があったんだ』と言い切れるようになるね。それはただの知識でしか知らなかったことが、体験に変わったということなんだよ」
 
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 遺骨の中に米兵のものはほとんどない。それは、戦死者を日本軍は放置したのに対し、米軍はいたいを家族のもとに送り届けることが基本だったからだ。本来日本的であるはずの死者に対する敬意が、アメリカの方が丁重であったということである。
 
 誰もが真剣に最後まで話を聞いていた。
 事前では40人くらいの参加者を予想して、それほど広い会場はとっていなかった。ところが、予想を遥かに上回る参加者で、テーブル席だけでは収容しきれず、急遽椅子を追加した。
 思いのほか興味を持ってくれる人の多いことに驚く。
 
 今回の講演には間に合わなかったが、「戦争体験者100人の声の会」は杉並区の協賛が得られることになった。次回からは区の協賛のもとに行うことができる。
 たが、当初、杉並区内の戦争体験者6名の共同代表で発足したこの会は、この10年で4人の方が亡くなり、共同代表は宮澤一郎さん(92歳)と上江田千代さん(83歳)の二人だけになってしまった。彼等の意志を受け継ぐ若い代表メンバーへの引き継ぎが急がれる。


風流夢譚

2013年08月20日 | ニュース
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 深沢七郎氏の短編小説『風流夢譚』が電子書籍で読めるようになったそうだ。
 *『風流夢譚』についての詳細は以下に。
       ↓
『風流夢譚』

 今朝の朝日新聞によると、当時『中央公論』に掲載したとき編集部にいた京谷秀夫さんの子息六二(むに)さんが代表を務める志木電子書籍が著作権者から、電子書籍に限るとの条件付きで発行が可能になったという。

  志木電子書籍ホームページ
 
 以前鹿砦社から海賊版に近い形で出版され、自分もそれで入手したのだけれど、できれば文庫本で出版してほしいと思う。
 作品としてはいささか荒唐無稽すぎる部分もあるが、革命を起こす主体が自衛隊であるところが面白い。自衛隊は集団的自衛権の行使を見込んで人手不足を予測したのか、最近激しく募集をかけている。そうなると、当時のように農家の次男坊三男坊が職を求めて自衛隊に入隊することになるだろう。ならば、『風流夢譚』を過去の戯れ言と言い切れなくなってくる。
 330円だそうなので、一度読んでみてはどうか。どう判断するかは読んだ後で。


はだしのゲン

2013年08月20日 | ニュース
 中沢啓治さんの名作『はだしのゲン』を、島根県の松江市教育委員会が小・中学校の図書館で自由に閲覧できなくするよう指示した事件が波紋を広げている。
 
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 『はだしのゲン』は中沢さんが自らの体験をもとに漫画にした、世界的に評価の高い作品だが、市の教育委員会は表現が過激であるとの理由からが項の許可なく見ることはできず、貸し出しも認められないという。
 ことのきっかけは昨年8月市議会にあてたある男性からの陳情書だった。
 「ありもしない日本軍の蛮行が掲載され、子どもたちに悪影響をおよぼす」と学校図書館からの撤去を求めたものであったという。
 
 この陳情そのものは採択されなかったが、市議の中には「不良図書」とする意見もあり、今回の閲覧制限につながった。
 
 問題は二つある。一つは「表現が過激だから子どもに見せない」という点。これは先日報じられた、広島の平和資料祈念館が原爆投下直後の被災者の模型を撤去するという考え方に似ている。惨状を目にした子どもの中から、気分を悪くしたりショックを受けたという訴えがあったからだそうだ。
 松江市教育委員会の撤去理由も広島平和資料祈念館も、こうした戦争資料を開示することの重要な目的を失うことになる。
 戦争は悲惨なものである。それを知らせることはひじょうに重要だ。だから中沢さんは、子ども用に表現を抑えたとしながらも原爆の悲惨さはしっかり伝えたいと考えた。平和資料祈念館の模型も同様に、それを次世代に伝えるために作られたものだ。これが戦争なのだ、と。
 
 現在の家庭は一人っ子が多い。そのために過保護になりがちなことを以前から危惧していた。木登り禁止、川や池での水遊び禁止、そして中学生高校生になっても一人で外出させなかったりする。小学校の体育の時間に子どもが擦り傷を作ってきたからと学校に怒鳴り込む。こうした親のエゴが、他人の痛みのわからない子どもを作っていることには気付いていない。
 すべてをきちんと見せた上で、家庭で戦争の恐ろしさを語り合う環境を作ることが大切なのではないか。
 
 中沢さんも、ある親から「子どもが夜一人でトイレに行かれなくなった」と訴えがあったことを、さるインタビューで述べている。そのときの中沢さんの答えはこうであった。
 「お子様はとてもすばらしい感受性をもっている。ぜひ褒めてあげてください」
 子どもへの親の心配は理解できるが、大きく成長させるためにはもっと子どもを信じることが大事ではなかろうか。
 
 もう一つは「ありもしない蛮行」だという陳情である。中沢さんは自らの体験をもとにこの作品を作っているのであり、「ありもしない」ことは書いていない。
 
 松江市議会に陳情した男性は、自らの信条から日本軍の否定的な部分は認めたくないのだろう。都合の悪いことは隠すのがこの国の右派の特徴である。南京事件も従軍慰安婦も「なかった」と言う。つい先頃も、安倍政権が従軍慰安婦調査資料のなかに、「証拠となる資料は見当たらなかった」と、「オランダ軍バタビア臨時軍法会議の記録」の存在を報告していなかったことが発覚した。宮沢内閣のときに行われたこの調査では、「証拠となる公文書は見当たらなかった」とするもので、当時、公文書ではない「軍法会議の記録」は他の一般証言などと同様に扱われたために公的な証拠書類とはされなかった。しかしその後の研究で重大な証拠が含まれていることが解明され、安倍総理の「証拠は見当たらなかった」という表現に誤りがあったことが指摘されたのである。「当時調査した公文書の中には…」と付け加えるべきであったが、安倍総理はただ「証拠は見当たらなかった」と語った。そのことが、橋下徹大阪市長の暴言につながったのだ。
 
 「南京事件」も「従軍慰安婦」も「沖縄の集団自決」も戦後間もなく70年を経ようとしている現在、証人の数はますます少なくなっている。それに比例して、偏狭なナショナリズムが台頭し、彼等にとって都合の悪い事実はなかったことにする歴史改竄派が勢いを増している。
 だが彼等は、そうした考え方が、社会的に国際的にどんな結果をもたらすのかほとんどわかっていないか無頓着である。
 しかし、右派の中にも良識ある人は、現実を直視した上で物事を判断すべきだと語る。そうした冷静さをもった人もいることも記しておきたい。
 
 日本軍による蛮行は、中国人や朝鮮人に対するものばかりではなく、沖縄などでは一般住民を虐殺した例もある。
そしてそれはまぎれもない事実である。そうした出来事に目をつぶったり隠したりするのではなく、それらを認めた上で二度とそのような悲惨な出来事が起こらないようにすることが重要ではなかろうか。


百田尚樹『永遠の0』

2013年08月01日 | 本と雑誌
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 この本が発売されて間もなく、何人かから「感動した」「涙が出た」と感想を聞かされていた。しかし、零戦の話と聞いてどうせ戦争を美化したろくでもない作品だろうとまったく読む気はなかった。ところがある時、信頼する友人の一人が最新作の『海賊と呼ばれた男」が大変よいという。
「それ、『永遠の0』と同じ作者だよね」
「そう、あれもなかなかいいだろ」
「いや読んでない。何となく特攻とか零戦とか抵抗があってね」
「読んでないのか、だったら読んだ方がいい。文句なしの傑作だから」
 彼は、他のいささか軽薄な友人たちとは異なり、正当な評価を下すことのできる読者だ。
 自分は百田尚樹という作家についてはあまりよく知らず興味もなかったのだが、彼の評価を聞いて読む気になった。
 読み終わり、すごい作品だと感じた。作者の百田氏に大変申し訳ないことをした。
 
 読み始めたものの、大変な繁忙期と重なってしまい、文庫本で600ページ近い大冊がなかなか進まない。緊急に読んでおかなければならない資料や原稿が山積しているものだから、朝の数十分、外出したときの電車の中、あれこれ時間をやりくりして読んでも一日数十ページしか進まない。結局読み終わるのに半月ほどが経ってしまった。

 海軍の本質と兵たちの本音については実によく書かれている。
「お国のためとか天皇のために戦っているやつなんて誰もいやしない。そんなのは戦後誰かが勝手に言ったことだ」
「特攻が志願だなんてウソだ。あれは命令以外の何ものでもない」
こんな台詞を抜き出すと右翼が目くじらを立てそうだが、百田は真実をフィクションの中に上手に潜り込ませ、右寄りの読者も感動させてしまうだろう。
 自分は仕事が昭和史ということもあって、この作品で紹介されているような兵たちの本音のたぐいは、いやというほど読んだり聞かされているので、「涙が出る」ことはなかったが、「その通り」と頷ける個所に何度も出くわした。
 
 戦後60年が経って、姉弟は特攻で戦死した祖父についての調査を始める。戦争体験者は誰もが高齢で、今やっておかなければの証人はいなくなると思ってのことだ。様々な伝手をたどって祖父の戦友たちを訪ね、当時の話を聞き集める。
 「宮部(姉弟の祖父)は臆病者だ」「少尉は腕のいいパイロットだった」「俺はやつをもっとも憎んだ」
 戦友たちの祖父に対する評価は様々だった。それは祖父が軍人らしからぬ優しさで、家族のために生きることに執着し、階級に係わりなく部下とも同等に接していたことにあった。しかし、生に執着していたはずの宮部は、終戦の一週間前に旧式の零戦で特攻に飛び立ち未帰還となる。それは運命だったのか、それとも……
 よく書けた戦争ものというイメージで読み進んでいた。ところが、最後の章(エピローグの前)で「そう来たか、やられた」と思った。姉弟の二人目の祖父が重い口を開いた時、とんでもない真実が明かされたのだ。あれほど生きたがっていた宮部が、想像を絶する出来事から、自ら生きる可能性を放棄したのである。それは彼が、優秀なパイロットであったからこそ可能なことだった。
 最後の最後で不覚にも、フィクションと知りつつ感動してしまった。

 海軍のどうしようもない上層部、人命軽視、特攻兵たちの無駄死に、それらをこれでもかとばかり並べ立てながら、既存の反戦小説とは一線を画す。いや、これは反戦小説ではない。百田は太平洋戦争の無意味さばかばかしさを訴えてはいるが、かといって平和至上主義でもないようである。ただ、この作品だけで百田の思想のすべては読み取れないので、もう二、三作読んでみたい。
 とりあえず『海賊と呼ばれた男』を読もうと思う。しかしこちらは単行本で上下二分冊の大作で、クソ忙しいのでいつ読み終わるかどうか。明日には、某所から膨大な資料が届く予定だ。それに眼を通しながら、さてどう時間をやりくりするか。