ひまわり博士のウンチク

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孤立無援~高橋和巳

2008年05月26日 | 本と雑誌
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(『わが解体』河出書房新社 口絵)

 1971年5月、高橋和巳は39歳の若さで結腸ガンで亡くなりました。
 当時ぼくは、おかしな仲間たちとそれぞれのアパートを集団で泊まり歩いていました。
 中に高橋和巳の大ファンがいて、そいつは死亡のニュースを聞いて「ゲッ」と妙な声を発したかと思うと、白目をむいて気絶しました。
 それを見た他の仲間はどうしたかと言うと、何もせずにほっておいたのです。
 やがて気がついてむくむくと起き上がった彼は、その日一日布団をかぶって寝ていました。

 最近の若者で高橋和巳を知っている人はほとんどいませんが、僕たちの年代では知らない方が変人。
 とくに学園闘争をやっている学生の間では神様みたいな存在でした。

 高橋和巳は1931年8月、大阪市で生まれました。京都大学文学部中国語中国文学科を卒業後、大学院に進学。
 高校の講師を経て、立命館大学講師、明治大学助教授から、京都大学文学部助教授。

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 立命館時代の1962年11月、『悲の器』で第一回文藝賞を受賞しました。

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 森田童子が唄にした『孤立無援の思想』は学生運動が最も活気にあふれていた1963年発表の作品です。(単行本化されたのは’66年)
 こんな一節があります。

 ??「内に省みて恥ずるところなければ、百万人と言えども我ゆかん」という有名な言葉が孟子にあるけれども、百万人が前に向かって歩きはじめているときにも、なおたった一人の者が顔を覆って泣くという状況もまた起こりうる。最大多数の最大幸福を意志する政治は当然そうした脱落者を見すてていく。

 これはまったく現代の格差社会に当てはまる言葉です。
 しかしその反面、やがて訪れるであろう「挫折」を予感してたとも思える言葉が最後にあります。

  ??これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空虚、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。

 今改めて読み直してみると、いささかアジテーションレベルの空回りも感じられますが、その奥に将来を見据えた鋭い視線の持ち主であることがわかります。
 しかし、森田童子の唄にあるような、万引きして逃走する自転車の後ろで読める本でないことは、この数行を読んだだけでもわかるのでは。

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 『わが解体』は生前出版された最後の本で、病床にあって十分な推敲ができないまま出版されました。
 「解体とは、自分たちが依拠していた、基本的なものと思われていた価値も、幻想かもしれないと疑い続けながらも、仮に自分の立つ瀬がなくなっても、それをあえてやるという」、高橋和巳自身の自立拠点への到達でもあったわけですが、皮肉なことに、解体は肉体の解体を伴ってしまいました。
 『わが解体』が出版されて2カ月後、高橋和巳は亡くなりました。

〈主な著書〉
 ? 悲の器(1962年11月、第1回文藝賞)
 ? 散華(1963年)
 ? 我が心は石にあらず(1964年12月 - 1966年6月連載)
 ? 邪宗門(1965年1月 - 1966年5月連載)
 ? 憂鬱なる党派(1965年11月)
 ? 日本の悪霊(1966年1月 - 1968年10月連載)
 ? 孤立無援の思想(1966年5月 「世代’63」11月掲載 )
 ? わが解体(1971年3月 1969年6月 - 10月連載)
 ? 黄昏の橋(1968年10月 - 未完)

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