★12月1日、映像資料2点追加しました。
「新宿騒乱事件ニュース」、森田童子
「球根栽培の唄」。
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書棚をあさっていたら、こんな懐かしい本が出てきました。『反逆のバリケード』(略してハンバリ)は日大闘争の記録で、当時大ベストセラーになりました。もう一冊、東大闘争の記録『砦の上に我らの世界を』もどこかにあるはずです。
『安保闘争史』は父親の蔵書だったもので、アメリカ帝国主義と日本政府の癒着の歴史が書かれています。
こんな本が出てきたので、ちょっと昔を思い出しました。
●全共闘世代です
全共闘というのは「全学共闘会議」の略で日本中の大学に作られた学生運動の組織です。運動としては高校生や若い労働者も含まれていました。
戦後間もなく「全日本学生自治会総連合」(略称:全学連)は分裂統合をくりかえし、1960年代に全学連中核派や社青同(日本社会主義青年同盟)など、いくつかの分派が誕生してから全共闘は注目されるようになりました。
当時の全共闘のそれぞれのセクトはヘルメットで区別されていて、それは
こちらのサイトで紹介されています。
●樺美智子さん虐殺事件
全学連・全共闘にはさまざまな有名な事件があります。古くは1960年6月15日、安保条約反対を叫ぶ全学連主流派が国会に突入し、警官隊と激しく衝突。そのときデモ隊の中にいた東京大学文学部国史学科の学生、樺(かんば)美智子さん(当時22歳)が警宮隊によって虐殺された事件は、日本中に衝撃が走りました。
これは「60年安保闘争」に関係する事件です。
日米安全保障条約は、10年ごとに更新される決まりになっていて、60年、70年と、それぞれの期限が迫るごとに激しい安保改定反対闘争がありました。
●ひまわり博士もいた国際反戦デー
70年の安保改定時期が迫るにつれ、反米反戦の嵐はますます強くなっていきました。
そうした中で、1968年10月21日の国際反戦デーでは、デモ隊が防衛庁に突入。また、当初学生を中心としていた米タン(米軍用燃料タンク輸送)阻止抗議行動では、数万人規模の市民が合流して新宿駅構内を占拠。東京で450名、全国で913名の史上最高の逮捕者が出ました。
実は、「新宿騒乱事件」と言われたこのデモには、若いころのひまわり博士も友人とともに参加して、機動隊に向かって石を投げていました。
新宿のどこに投げるような石があるのかというと、あるんです。
電車の線路内に入ってレールの下に敷かれた石を持ってきてビュンビュン投げました。
そのうち、投げるのが苦手な女子学生たちが石運びをして、それを男子学生や市民が投げるという、連係プレーもできてきました。
「ここ」をクリックすると、新宿騒乱事件の映像があります。
●逃げろ逃げろ
それに対して、機動隊は放水車を出動させて、強烈な勢いの水をデモ隊に向かって放射します。ずぶ濡れになるどころか、直撃を食らうと吹き飛ばされます。
機動隊はびしょぬれになっているデモ参加者を片端から捕まえては警察の車に放り込むのです。
ぼくと、近くにいた友達は何がなんだかわからないうちに、いつの間にか警察の車に押し込まれていました。
ところが、ふと見ると警官がどこにもいない。車両はトラックのようなもので開閉自由な幌。すでに何人かが乗せられていました。
「おい、逃げようぜ」
「逃げたらヤバいだろ」
「車に乗せられただけで、捕まったわけじゃない、逃げられるよ」
「おれはやめとく。捕まったって、どうせすぐ釈放されるさ」
「俺は逃げる、じゃあな」
ぼくは遠慮なく逃走しました。
●すぐ釈放のはずが…
すぐ釈放だと高をくくっていた友人は運が悪いことに、この「新宿騒乱事件」には騒乱罪が適用されたために、禁固6か月。
逃げてきたぼくは何とも後ろめたく、一度も面会に行きませんでしたが、ぼくの父が何度か本を届けに行っていました。
「本を読む時間を国がくれたと思え、と言ってきた」
保釈間近に彼から手紙が来て、「むずかしい経済の専門用語に苦労しています」といいます。
「何の本を持って行ったの?」
「『資本論』だ」
そりゃ無理だ。数ヶ月で読めるわけがない。
●ノンセクトラジカル
こんなことをやってはいましたが、ぼく自身は特定のセクトにいたことはありません。
どこにも所属せずに、何かがあると出て行って運動に参加するような人間を「ノンセクトラジカル」と呼んでいました。
そして、「どこにも所属せずに、何かがあっても何もしない」連中はノンポリ(ノンポリティカル)といって、当時はとても馬鹿にされていました。
どこにも所属していませんでしたが、比較的近かったのは日本マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟)でした。父親が日中貿易を行っていた関係で、毛沢東思想を支持していたからです。
●蒲田事件
そのころぼくは蒲田駅ビルの中にある書店でアルバイトをしていました。早番と遅番があって、遅番は帰りが9時過ぎになります。
交通費節約のために蒲田駅からバスで新宿に向かおうとしていました。バスが発車して間もなく、国道に出たとたんに急停車。前方を見ると大人数のデモ隊が道幅いっぱいに広がっています。
白いヘルメットが見えますが、中核派か革マル派かわかりません。どちらも白ヘルです。
「危険ですからすぐバスから降りてください」
運転手が叫びます。そのときぼくは、バス代はどうしてくれるんだ、と思っていました。
しぶしぶバスから降りると、デモ隊から一人、タオルで顔を隠したのがバスに飛び乗って運転手を引きずり降ろすと、バスを動かしています。
バスは道を塞ぐように直角に向けられ、火炎瓶が投げ込まれました。
デモ隊に参加していないで見物をしているのはたいへん危険なので(デモに参加するにはそれなりの服装など準備が必要です)、とりあえずその場から退散。国鉄(現JR)蒲田駅まで歩いて、結局電車で帰りました。
ぼくはデモの成り行きより、交通費が大損害だと思っていました。
●神田カルチェラタン
お茶の水から駿河台に向かう通りは、今でも明大通りと言われていますが、1本神田よりの通りには中央大学があって、ともに学生運動が盛んでした。
明大全共闘は、その明大通りを封鎖。道路の敷石をはがして機動隊に投石し、一時完全占拠しました。それに対して機動隊は放水車と催涙ガスで学生を排除し、催涙ガスの臭いは数日消えませんでした。
学生に占拠された駿河台一帯は、フランスのソルボンヌ大学の5月革命をもじって、神田カルチェラタンと呼ばれました。
ところで、この「神田カルチェラタン事件」では機動隊の盾が大量に奪われて燃やされました。実はあの盾、ジュラルミンとマグネシウムの合金だったのです。ご存知のようにマグネシウムは写真のフラッシュにも使われるくらい非常に燃えやすいものです。
実に良く燃えました、機動隊の盾は。
●ウニタと模索社
全共闘など反日共系左翼は新左翼と呼ばれ、警察は極左暴力団と称していました。
新左翼系の書店で有名だったのがウニタ。水道橋から神保町に向かう白山通りの左側にありました。
そこでは、火炎瓶や爆弾などの作り方を書いた『腹々時計』『球根栽培法』、その材料になる可燃物や武器などを販売している店の一覧『栄養分析表』など、アブナイ印刷物も販売していました。
模索舎は新宿御苑近くにあって、ウニタよりは小さい店でした。この模索社は、別なことで有名になりました。
模索舎は持ち込まれたものはすべて置く方針です。当時、『面白半分』という雑誌に掲載された『四畳半襖の下張り』が摘発されて発売禁止になりました。そのコピーが模索舎に持ち込まれ、販売したために模索舎も摘発されたのです。
ちなみにそのコピー、ぼくはちゃんと蔵書しています。
ウニタはなくなりましたが、模索社はかろうじて健在です。
●全共闘の終焉
70年安保闘争に挫折すると、全共闘運動は急速に力を失って行きました。それからは浅間山荘事件で有名な連合赤軍など、大衆から遊離した過激派が不毛な事件をいくつか起こし、やがて学生運動は消滅してしまいました。
全共闘華やかなころは、それが実現するかどうかはともかく、みんなが「夢」を持っていました。そして「理論武装」しなければ仲間と話ができませんでしたから、ものすごく勉強もしました。
端から見れば、将来のことをどう考えているのだろうと、疑問に感じたかもしれませんが、今できることを精一杯やっていれば、必ず未来は開けると信じていました。
みんなが貧乏で、みんなとっても汚らしかった。携帯電話もなければコンピューターもない。
それでも、みんなが生き生きしていて、現代よりずっと楽しい時代でした。
最後に、
「球根栽培の唄」、森田童子です。
*この記事、記憶が間違っているかもしれません。ご指摘があれば訂正します。
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