ひまわり博士のウンチク

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『蟹工船』と小林多喜二のこと

2008年05月13日 | 本と雑誌
 小林多喜二の『蟹工船』が人気だそうです。新潮社では今年四月に文庫版を7千部用意しましたがたちまち足りなくなり、急遽5万部の増刷を決定したとか。

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『朝日新聞』5月13日付朝刊

 『蟹工船』は1929年発表のプロレタリア文学で、小林多喜二が25歳の時の作品で代表作です。

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 「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
 二人はデツキの手すりに寄りかゝつて、蝸牛(かたつむり)が背伸びをしたやうに延びて、海を抱え込んでゐる函館の街を見てゐた。??漁夫は指元まで吸ひつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻き煙草はおどけたやうに色々にひつくりかへつて、高い船腹(サイド)をすれずれに落ちていつた。彼は身體一杯酒臭かつた。


             ○

 『蟹工船』は極寒の北の海で、カニ漁と加工作業の過酷な労働を強いられる男たちの物語です。
 暴力的で横暴な監督に、海の男たちは団結して立ち向かいます。

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 「団結」、この言葉を聞くと今の若者たちは、「ダサイ」「クサイ」といって拒否し、大きな相手に対して小さなものは結束して立ち向かわなければ勝負にならないという原則を認めようとしません。
 しかし、この格差社会で、学校を卒業しても定職にありつけず、ようやく仕事にありついても、残業代なしで一日十数時間も働かされ、拒否すれば解雇されるという状況の中、若者たちの間にこのままではいけないという危機感が芽生えて来たようです。
 「小説の労働者は、一緒に共通の敵に立ち向かえてうらやましい」
 「となりの席で働くのは別の派遣会社から来たライバル。私たちの世代にとっては、だれが敵かもよくわからない」(『朝日新聞』)
 『蟹工船』を読んだ若者たちが、これからどのように変わってどう若い力を発揮していくのか、楽しみです。

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(『定本 小林多喜二全集』新日本出版社)

 小林多喜二は1903年10月13日、秋田県の貧しい小作農の家に生まれました。4歳のとき伯父をたよって北海道の小樽に渡り、父はパンや駄菓子の小さな店を開きます。
 小樽の高等商業を卒業して、北海道拓殖銀行の為替係で働きながら、学校時代の仲間とともに同人雑誌『クラルテ』を発行。クロポトキンやゴーリキーやバルビュスなどを通じて、社会的な関心を持つようになっていきました。
 軍国主義の色濃いこの時代に、プロレタリア文学は厳重な取り締まりの対象で、 身の危険を感じた多喜二は一旦地下に潜りますが、1933年2月20日に、東京赤坂の街頭で同志と連絡中、密告により治安維持法違反で逮捕されました。特高警察による残虐な拷問の結果、29歳4カ月の障害を閉じました。

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(『定本 小林多喜二全集』新日本出版社)

 公式発表は“心臓マヒ”とされていましたが、その遺体は一目で残忍な拷問による虐殺であることを物語っていました。
 写真は特高警察によって虐殺された多喜二の枕頭に集まった同志たち。

 多喜二が特高に目をつけられる決定的な文章が、『蟹工船』の最後の部分にあります。

             ○

 毎年の例で、漁期が終りさうになると、蟹缶詰の「献上品」を作ることになつてゐた。然し「乱暴にも」何時でも、別に斎戒沐浴して作るわけでもなかつた。その度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思つて来た。??だが、今度は異(ちが)つてしまつてゐた。
 「俺たちの本当の血と肉を搾り上げてつくるものだ。フン、さぞうめえこつたろ。食つてしまつてから、腹痛でも起さねばいゝいさ。」
 皆そんな気持で作つた。
 「石ころでも入れておけ!??かまふもんか!」
 「俺達には俺達しか味方が無えんだ。」


             ○

 「天皇陛下に献上するものに石ころとはなにごとか!」というわけです。
 天皇の写真が載った新聞紙で弁当を包んだだけでも処罰される時代です。あきらかに天皇に敵対する内容の小説を公表することは命がけの事だったのです。

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