ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

真藤順丈『宝島』 なんと直木賞!

2019年02月22日 | 文学
 すっかりご無沙汰してしまった。ずっと更新していなかったのに、その間もたくさんの方々にご訪問いただいた。
 感謝、感謝!
 サボっている間に実にさまざまなことがあって、ぼつぼつと紹介させていただく。
 自分は編集者なので、話題はほんのことが中心異なる。まずは書評から。



 この直木賞は、正直びっくりした。
 直木賞(芥川賞も)は文藝春秋社という出版社が主催する文学賞であるから、会社の方針やポリシーなどがまったく影響しないとはいえない。ご存知のように、新潮社とならんで、保守的な傾向が強い大手出版社のひとつである。そんな出版社が、よくぞまあこの作品に賞を与えたものだと驚いた。
 『宝島』は戦後から返還までの、アメリカ支配下の沖縄が描かれていて、著者はかなり綿密な調査をした上で執筆していることが感じられる。主要な登場人物は創作だが、屋良朝苗や瀬長亀次郎、悪名高いキャラウエイ高等弁務官など、実在人物は実名で描かれている。
 「戦果アギヤー」「Aサイン」など、ヤマトンチュにはあまりなじみのない用語もふんだんに登場する。とくに、軍用機が墜落して大惨事を引き起こした宮森小学校のシーンは、まるで現場にいたかのようにリアルである。
 作者の真藤順丈さんは、沖縄の人ではない。自身、「沖縄人でないものが沖縄のことを書いていいのか」と自問自答したそうだ。しかし、本土の人間が書くことにこそ意味があるのではないかと決断し書き進めたという。
 最近、本土の人間が沖縄の問題を語るのを嫌うウチナンチュに出会うことがしばしばある。言葉尻を捉えて「本土の人間が勝手なことを言うな!」と怒鳴りつけられたこともあった。
 はて、そうしたウチナンチュは、真藤さんの小説にどんな反応をするのであろうか。


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一生に一度の記念
卒論・学位論文を本にしよう


 人生の節目の記念として、卒論や学位論文を本にする方が増えています。
 出版社の目にとまれば、企画出版として一般に流通することもあります。
 もちろん、ご自身や身近な人に蔵書していただくための少部数の出版も可能です。

出版にはさまざまな目的があります。
・ご自身の仕事や経営している店舗・企業をPRすること。
・書きためた原稿の整理と保存。
 エッセー、詩、俳句、和歌
 自分史、日記、ブログ、旅行記
 写真集、画集、その他作品集
             などなど。

 せっかく書きためた原稿も、そのままでは散逸してしまいます。しかし本にして、複数の人に蔵書してもらえれば、数十年、ときには数百年、末代までも保存されます。
 上記に該当するものがございましたら、ぜひご相談ください。

 ◆ご相談お見積り無料
E-mail:galapyio@sepia.ocn.ne.jp
電話:03-5303-1363
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吉野源三郎『君たちはどう生きるか』

2018年01月23日 | 本と雑誌


『漫画 君たちはどう生きるか』が売れているということで、どう編集し漫画化しているのか興味があって購入した。
原作はあまりにも有名なのであえて説明は必要ないと思うが簡単に。

著者の吉野源三郎(1989-1981)は元岩波書店の編集者で児童文学者。『君たちはどう生きるか』は当初、山本有三に執筆を依頼したが健康を害していたためにできず、吉野自らが書くことになった。
初版発行は1937年で、この年は7月に盧溝橋事件が勃発、中国との本格的な戦争が始まった。12月には南京大虐殺が発生する。
内容にマルクスの剰余価値論やプロレタリアートとブルジョアジーの違いを述べている個所があり、(こうした呼び方はしていないが)「この区別を見落とすな」とむすんでいる。
治安維持法があった時代で、4年後の1941年にはさらに改悪されており、このようなリベラルな本は発行がほんの少し遅れていたら、この世に出なかった可能性がある。

本書の読者対象は、中学生が中心である。この古い本が漫画化されたことで再び脚光を浴びることになったのだが、子どもたちに内容が求められたわけではなさそうな気がする。露骨に資本主義を批判せず、共産主義をアピールすることもない、やんわりと「いい世の中作り」が表現されていることから、リベラルな大人たちが求めているのではなかろうか。
ずっと必読図書の1冊にされてはいたが、そもそも必読図書とは大人が子どもに読ませたい本であって、必ずしも子どもが読みたい本ではない。漫画にしたからといって飛びつくはずもない。漫画というだけなら『ジョジョの奇妙な冒険』や『ワンピース』などの方を積極的に読みたがる。「この本を読みなさい」と言われて「はい、わかりました、お父様、お母様」などという子どもは、今ではドラマの世界にしかいない。
親が読んで子どもに伝えることができれば、親子で共有できていちばんよいかもしれない。
もっとも読んで欲しい大人は、トランプ米大統領と安倍首相か……

とはいうものの、活字離れが著しい昨今、漫画にすることが効果的なのは否定できない。
それにしても、100万部超とは、なぜこれほど売れたのか、さっぱりわからない。マスコミの影響としかいいようがない。

この本の重要な部分は、各項目ごとに出てくる「おじさんのNOTE」にある。そのほかは物語のつなぎであって、著者が伝えたいことの大半は、この「NOTE」に集約されている。漫画化されているのはつなぎの部分、しかも抜粋であって、「NOTE」はまったく漫画化されておらず、ほぼ原文のままである。修身など教育方針や時代背景にギャップがあり、編集者としてはここをどう漫画化するかで悩むところなのであろうが、漫画家はこれを完全に放棄してしまったようだ。これでは漫画の部分だけ読まれて、肝心の「NOTO」は飛ばされてしまう可能性が大きい。

過去には大ベストセラーになったのに完読されていない本が少なからずあった。エーコの『薔薇の名前』、ゴルデルの『ソフィーの世界』などが業界では有名で、購入した人の多くが途中で挫折している。これらはいずれも大冊で、読むこと自体大変なエネルギーが必要だが、最近の中学生の多くは、本書のような「真面目な」内容の本はたった300ページ程度でも途中で放り出しかねない。
ほんとうに読んでもらうためには、読書会や感想文コンテストなどをやるとよいのではないかと思うが、しかし、学校で担任の教師が課題を出したりすれば、保守的なPTAが赤教師だの偏向教育だのと怒鳴り込んできかねない。何ともやりにくい時代である。

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広辞苑 第七版

2018年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 『広辞苑』第七版を購入。



 10年ぶりの改版。「やばい」「自撮り」など、現代用語約1万語が追加、六版より百数十ページ増。しかし、用紙を工夫して全体の厚さは変わらず。
 過去に例がないほどメディアをにぎわしている『広辞苑』。
 
 さてはて。
 
 手元にある最新版は四版で、電子辞書に五版が入っているけれど、六版は購入しなかった。
 古い辞書は役に立たないばかりか間違いのもとになる。常に訂正し改版を続けているのが辞書だ。
 書物には「刷」と「版」がある。増刷が「刷」、編集に手が加えられたのが「版」である。一般にはあまり知られていないが、実は増刷の度ごとに誤字脱字や間違いが修正されている。これは辞書に限らずほとんどの出版物に当てはまる。
 したがって、古い辞書を長年使っていることを自慢する輩がいるが、愚の骨頂なのである。
 
 今回の購入理由はメディアで話題になったからではない。外部の執筆者が引用している『広辞苑』と手持ちの『広辞苑』に掲載された同じ項目の説明文が異なっていた、という事態に何度かでくわしたので、次はもう買い替えなくてはと思っていたのだ。
 
 さてこの第七版、本体の総ページ数は約3200ページあり、ツカ(厚さ)は約75ミリ。手元にある1991年発行の第四版は2900ページ弱で、ツカは85ミリだから300ページも増えたのに厚さは10ミリ減っていることになる。つまり、紙が薄くなったということなのだ。
 ところが、開いてすぐに「扱いにくい!」と感じた。ページの感触はコンサイス版の辞書や聖書に使われている紙と類似している。コンサイス版や聖書程度の大きさならともかく、A5判の『広辞苑』に使用するとあまりにも頼りない。ページどうしが張り付くし、閉じたときにきちんと収まらず、思わぬ個所が折れたりよれたりしそうなのだ。何よりページが繰りにくい。
 これはある意味、辞書としては欠陥ではないのか。多少厚くなっても、もう少し腰のある用紙にして欲しかった。
 
 なぜこれほどまでしてツカにこだわったのか。ユーザー側からすれば、75ミリが85ミリになったところでさほど影響はない。前掲のように過去の『広辞苑』は厚かった。
 これは想像だが、あくまで出版社側の都合なのではないだろうか。
 考えられる一番の問題は配送費である。製本所から取次や書店に納品する際、大部数の書籍はその風袋によって費用が大きく異なる。発行部数は少なくとも数十万部あるだろうから、何台ものトラッックで分けて納入することになり、10ミリの違いは輸送コストに少なからぬ差が出るはずだ。
 もうひとつは、製本機械である。製本機にもよるが、いくら厚くても製本可能というわけではない。極端に厚い本は条件的に厳しくなる。そうなると、製本の費用がバカにならない。
 つまり、いずれにしても、コストの問題なのだ。(重ねて言う。あくまでも想像である。違っていたらごめんなさい)
 
 A5版3200ページに400ページ超の付録を付けて税抜き8500円はすこぶる安い。制作費を考慮すると、相当な部数を作らなければこの定価は出ない。ほとんどの大学。公立学校。図書館などは複数冊注文しているだろうし、出版社の編集部の多くも買うだろう。文筆、編集に携わるものにとっても必須だから、相当な販売部数が期待できる。
 しかし、最近は辞書を持たずことごとくネット検索で済ませる輩が増えた。特に間違いだらけのウィキペディアを平気で参照するとんでもないライターもいるし、なぜだか『広辞苑』に反発しているひねくれ者も少なくない。それらを差し引いても、村上春樹の新刊より売れるだろうし。なんと言っても単価が高い。
 これで少しは、岩波書店の赤字が補填できるのではなかろうか。
 『広辞苑』は岩波書店の救世主でもあるのだ。
 
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年賀状の秘密

2018年01月09日 | うんちく・小ネタ
娘からの情報。



このデザインの年賀状に隠し文字。



犬の足の肉球が富士山になっているのはすぐに分かる。逆さまにすると指先に「FUJI」のもじ。
さらに、



下のストライプをよく見ると、「あけまして」「おめでとうございます」とある。
これはルーペで見ないとわからない。

で、ちなみに、



今年は大吉!
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御茶ノ水〜秋葉原〜築地

2018年01月02日 | まち歩き
元日。
恒例の神田明神初詣。
何年ぶりかで家族4人揃って出かける。



例年より人出が少ないように感じる。天野屋の前も昨年に比べ人だかりが少ない。
いつも通り、柴崎納豆を買う。



しかし、境内はごらんの通り。



鳥居を過ぎてすぐのところにやげん堀の屋台を見つけ、七味唐辛子を買う。
昨年はこの屋台を見つけることができず、買い損ねた。
「もっと奥に出してると思っている人がいるけどね、わたしは何十年もここだよ」
そうは言われたが、出店してれば見過ごすわけがない。去年は絶対に出店していなかった。
もう買えないと思っていたので、おばちゃんの元気な顔を見て一安心。
「いっぱい入れとくからね。せいぜい使ってね」
大辛の七味を小袋一杯に詰めてもらって1000円。普通に使って一年以上は持つ。



明神裏の旧坂を下って秋葉原に向かう。日比谷線の駅に乗るのが目的で、秋葉原は通過するだけのつもりが、オタク趣味の長女が所々で引っかかる。
「なにこれ〜!」
振り返るとケーキ屋の前で釘付けになっている。



おでんではない、ケーキである。餃子もカツ丼も赤いきつねもみんなケーキ。外人観光客が喜びそうだ。

秋葉原から地下鉄日比谷線で築地に向かう。
元日も営業している、つきじ喜代村「すしざんまい」へ。
当初はゆったりくつろげる「すしざんまい奥の院」に行くつもりだったのだが、一時間以上待たされるということなので、本店にした。



それでも待つこと40分。



店の混雑を考えて、早く出てくるセットものにしようということになった。
見本を見て量的に上から2番目でいいと判断したが、それでも多かった。カミさんはいくつも子どもたちに分け与えていた。
おまけに大きなお碗もつく。
子どもたちはさらに中トロ、エンガワ、白子軍艦などを追加。
「追加文は自腹だぞ」と言ったら、追加伝票を書く手が止まった。冗談のつもりだったが本気にしたらしい。
地元荻窪の寿司屋とは比べ物にならない新鮮さと味に大満足だった。
カミさんと私は日本酒を飲みながらだったので、いささか食べ過ぎの感。
支払いは4人で1万2千円強。正月の家族団らんとしてはリーズナブルだ。
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獺祭で年越し

2017年12月31日 | 雑感


友人たちとの忘年会で大変うまかったので、奮発して(それほどでもないか)獺祭(だっさい)の大吟醸を買った。
本当は正月に開けるつもりだったが、待ちきれず年越しそばと一緒にいただくことにした。
「なかなかである」

で、正岡子規に『獺祭書屋俳話』という評論集がある。獺祭とはカワウソが捕獲した魚を食べる前に並べておく習慣を言ったものだが、獺祭書屋とは執筆中に調べもののために引っぱりだした参考資料が、まるで獺祭のように足の踏み場もないほど散らばっていることを言う。正岡子規は散らかった自分の書斎を獺祭書屋と表現したのである。

中央大学のY教授の研究室などはまさにそれ。ドアを開けたとたん、目の前に書棚がそびえ立つ。訪問者はその脇をカニの横ばいのごとく堆く積まれた書物の間にできた畦道を辿って行かねば、奥のデスクに鎮座するY教授のもとにはたどり着けない。
訪問者用の折りたたみいすは1脚しか置けないので、「一人しか入れないから」とあらかじめ言われていたにもかかわらず、2名で訪問して一人は立ちっぱなしだったことがあった。
ワンルームマンションくらいの広さはあるのだが、壁面はびっしり書棚で埋まり、部屋の真ん中にも背中合わせで書棚がある。書棚に入り切らない本が床に古紙回収業者の集積所のように山をなしている。これぞ究極の獺祭書屋である。
大量の書物のなかから必要な本を見つけ出すよりも、図書館に行った方が早いと、本人も自覚しているようだ。

実は、そういう当方の書斎も、油断をしているとたちまち獺祭書屋の態を成しかねない。
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たった一人の叛乱

2017年12月21日 | 昭和史
エスペランティスト、由比忠之進さん抗議の焼身自殺から50年

 1967年11月11日の夕刻、テレビは衝撃的なニュースを伝えた。
 「(佐藤栄作)首相訪米の11日夕、エスペランティストの老人が沖縄返還、ベトナム和平問題に対し佐藤首相に抗議、焼身自殺を計った。午後5時50分ごろ、東京都千代田区永田町1の6、首相官邸正面と道路をへだてた反対側の歩道で男が立ったまま胸にガソリンをかけマッチで火をつけ、あおむけに倒れた。炎は高くあがり、1分近く燃え続けた……」
 このエスペランティストの老人が由比忠之進さん73歳である。このニュースを知った全国のエスペランティストたちは大きな衝撃を受けた。この前日、エスペラントの定例会に参加していて、「来週は来られないから……」ともらしていたのを、仲間たちは聞き逃してしまっていたという。
 やさしい、エスペラントに熱心なおじいさんであった由比さんの強い決意と行動は、だれも予想できなかった。

由比忠之進さん。


事件を知らせる翌日の読売新聞。
 
 エスペラントとは、ポーランド人の眼科医で言語学者ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって1880年代に創案された国際共通言語である。日本ではプロレタリア運動の一環としてエスペラントが広められたところから、「エスペラント運動」と呼ばれた。言語の壁をなくし、世界のプロレタリアートが連帯することを目的としたのである。
 外国語、特にヨーロッパ諸国の言語は実に多様で、ほぼ1国1言語であった。ごく最近まで、日本にはチェコ語、ポーランド語、フィンランド語などなど、それらの諸言語の翻訳者が存在せず、出版社や報道機関ではいったんエスペラントに訳した原稿を日本語に重訳するという手法がとられた。したがって、1960年代ごろまでは、エスペラントに堪能な人々が大変重宝された時代であった。



 そんな時代の一つの成果として生まれたのが、世界中の子どもたちのつづり方と絵を集め1953年から刊行された平凡社の『世界の子ども』(15巻)である。世界中のエスペランティストと連携し、日本の優秀なエスペランティストが集結して、非情な苦労のもとに完成させたと聞く。各巻A5変形判平均210頁で420円という、小説の単行本が200円前後で買えた当時としてはかなり高価な本である。小学生であった筆者は父親が翻訳メンバーとして携わっていた関係で無償で読むことができたが、友だちに勧めると高すぎて買ってもらえないといわれ、子どもでも買える値段で出版してもらいたいと平凡社にはがきを書いた覚えがある。



 ベトナム戦争さなかの1960年代には、南ベトナム人民支援の一環として4冊のベトナム文学がエスペラントからの重訳で出版された。アイ・ドゥク・アイ著 岡一太・星田淳共訳『トーハウ』(1965年 新日本出版社)、井出於菟ほか訳『ベトナム小説集 炎のなかで』(1966年東邦出版社)、グエン・コンホワン著 井出於菟・栗田公明共訳『袋小路』(1967年 柏書房)、フーマイ著 栗田公明訳『最後の高地──小説ディエンベンフー』(1968年 東邦出版社)である。ちなみに、訳者の一人井出於菟(いで・おと)は筆者の父のペンネームで、エスペラントで思想・理念を表すideoからつけたそうである。
 これを機に、エスペラントの翻訳者集団「エスペラント・セルボ」が組織され、世界人民と多くの情報が共有されるようになった。

 あまり知られていないが、多数の著名人がエスペラントに携わった経験を持つ。山田耕筰はロシア皇帝にエスペラントで手紙を書き、大杉栄は日本で最初のエスペラント学校を作った。大本教の出口王仁三郎はエスペラントで宗教を広めることを試みた。新渡戸稲造や柳田国男もエスペラントに深く興味を持ち、名著『沖縄の歴史』を書いた比嘉春潮は、由比忠之進さんの追悼集会の発起人となった。そして、ローマ字を広め、多くの学校の校歌を作詞した歌人の土岐善麿もエスペランティストの一人である。
 ヤクルトがヨーグルトを意味するエスペラントjahurto(ヤフルト)からつけられたことは知られているが、宮沢賢治の童話には、東北地方の地名がエスペラント風にアレンジされて登場するのも面白い。「イーハトーヴォ」(岩手)、「シオーモ」(塩竈)、「センダード」(仙台)、「ハームキア」(花巻)、「モリーオ」(盛岡)、などなど。
 


 近年、グローバリズムの影響かどうかわからないが、改めてエスペラントが注目されつつあると聞く。今年9月、エスペラント運動の歴史を簡潔にまとめた『日本エスペラント運動の裏街道を漫歩する』(エスペラント国際情報センター)が出版された。詳細な運動史は1987年に三省堂から『反体制エスペラント運動史』として出版されたが現在は絶版。入手可能な出版物としては日本エスペラント学会の私家版『日本エスペラント運動史』がある。エスペラントの先駆者ザメンホフについては岩波新書の『エスペラントの父 ザメンホフ』がよい。
 エスペラントで戦後の家計を助けた父だったが、なぜか子どもたちにエスペラントを教えることも勧めることもしなかった。多分子どもの自主性に任せた、ということなのだろう。したがって。残念なことに筆者自身はエスペラントができない。

 佐藤訪ベト阻止の羽田闘争に参加した京大生の山﨑博昭さんが機動隊に虐殺された10月、由比忠之進さんが抗議の焼身自殺を遂げた11月、その1967年から50年目の2017年が、まもなく終わる。


 エスペラント運動と出版物についての問い合わせは、(財)日本エスペラント協会(〒162-0042 東京都新宿区早稲田町12−3 エスペラント会館 電話: 03-3203-4581)まで。
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「山﨑博昭プロジェクト」忘年会

2017年12月20日 | 昭和史


19日は「山﨑博昭プロジェクト」の忘年会だった。
今年10月には「かつて10.8羽田闘争があった」(寄稿編)を合同フォレストから出版し、その編集者として招かれた。
元東大全共闘議長山本義隆(左の帽子)、山﨑と同期で中原中也研究で知られる詩人の佐々木幹郎をはじめ、発起人を中心に18人ほどが集まり、近況や昔話に花を咲かせた。
それにしても、よくぞ集まったものと驚くほどのすごいメンバーだ。
来年10月には、「かつて10.8羽田闘争があった」の資料編が刊行される予定で、「寄稿編」以上に編集が難航すrことが目に見えている。
はてどうなることか。
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崎山多美さん

2017年12月16日 | 文学
法政大学に、崎山多美さんの講演を聞きにいく。
平日の昼間でゼミの講義の一環だから参加者のほとんどは学生。それに一般の参加者も少なくはないが、多くは年配者。



崎山多美さんは「水上往還」で芥川賞の候補にもなった沖縄の作家である。作品の多くが沖縄方言で書かれているためか、本土で知る人は少ない。
参加した学生の多くは、名前すら聞いたことがなかったのではなかろうか。
沖縄方言の中で宮古の言葉は「はひふへほ」が「ぱぴぷぺぽ」になると聞いた。
離れ小島のことを「パナリ」というのはそれだったのかと納得。
離れ→はなり→ぱなり

「小学校の校庭に米軍ヘリから落下物がありました。そんな事件の話を聞いて、早く普天間基地を辺野古に移した方がいいと思っている人、手を挙げてください」
学生の中からちらほら手が挙がる。
「それじゃあ困るのよね。普天間の基地をなくすことと辺野古に基地を作るのは別のことだから」と、辺野古の実情をひとくさり。



終了後、研究室で話ができた。
「『南島小景』以外ほとんど拝読しました」
「すばらしい! 私は一人のファンは百人分と思っています」
「先生の本は、すぐに絶版になって残念です」
「そうなんです。それにバカバカしい値段がつけられて……。
沖縄の方言はおわかりになるの?」
「いえ、会話なら何とかなりますが、文章に書かれるとほとんど分かりません」
「分からなくていいんです、心が伝われば」



「鉄犬ヘテロトピア文学賞」なる意味不明の賞が、主催者から授与された。
どういう意味なのか説明されたがそれでもよくわからない。



へんてこなトロフィーに、それ以上に凝った造りの箱。
なんじゃこりゃ!
沖縄まで容易に持ち帰れないし、迷惑だろう。

崎山さん、羽田に降り立ったのは30年ぶりだそうである。
「沖縄にいらしたら声をかけてくださいね。連絡先は◯◯で」
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今日、沖縄「慰霊の日」

2017年06月23日 | うんちく・小ネタ
 今日、6月23日は、沖縄「慰霊の日」である。
 残念なことに、本土では知っている人間は少ない。まして、「6月23日」がなぜ慰霊の日に定められたか理解している人はもっと希だ。
 これはだれもが知っていることだが、アジア太平洋戦争中、日本の国内では唯一地上戦があり、20万人を超える人びとが亡くなっている。
 その地上戦で日本軍の組織的戦闘が事実上終わったのが6月23日とされているからだ。
 「されている」と書いたのは、組織的戦闘が終わったのが沖縄に派遣された32軍の長勇、牛島満両司令官が自決し、沖縄の日本軍が壊滅したことによる。
 しかし、23日という日には異論もあり、たとえば八原博通の『沖縄決戦』によれば、両将軍の自決を目にしたのは22日の未明であったとされている。だがこれは、八原の記憶違いであろうとも言われる。
 なにはともあれ、米軍占領下の琉球政府によって、6月23日は「慰霊の日」と決められ、近年は学校の授業は休みである。

山城博治講演会に参加する



 昨日、なかのZEROで開催された、DAYs JAPAN主催による山城博治氏の講演会に参加した。
 話の内容よりも、カリスマ性に驚いた。約1時間半、歌をまじえ観客を鼓舞するパワーはすごい。
 「500人の会場で、1000円払って、ヒロジの話聞きにくるのかな?」と思ったそうだが、会場は満席でキャンセル待の列ができていた。
 もちろん、お約束の公安もまぎれ込んでいる。
 
 釈放されて、ネット上では「犯罪者」「過激派のリーダー」「中国の回し者」などと言いたい放題だったそうだが、それすらも嗤ってパワーに変えてしまう懐の大きさとエネルギーに驚く。
「中国の回し者って言ったって、琉球はもともと中国の衛星国家だったんだから」
 そのとおり! そのころの琉球王国は豊かで平和だった。薩摩藩が出しゃばってきてから、琉球—沖縄はどんどん様子がおかしくなる。
 
 沖縄で、接見禁止に指定されている人物が10人ほどおり、しかし気をつけていても、相手の方から近づいてきて、意図的に違法行為を誘って収監させようとするのだとか。
「ゲート前に立ちたいです。でも今はそれができない。しかし、そのかわり全国を回っているし外国にも行って沖縄の現状をアピールできる」
 どんな状況におかれても、あきらめない、後戻りしない、このプラス思考は学びたい。
 「ガンバレ! ヒロジ」
 
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大田昌秀『沖縄 鉄血勤皇隊』

2017年06月17日 | 昭和史

 
 先日亡くなった大田昌秀さんの最後の著書である。
 大田さんは生前、「生涯で100冊の本を出す」と言っていたが、90冊は超えたはずだが100冊には届いていないのではないだろうか。
 米軍基地返還後の沖縄経済と琉球独立に関する本を書きたいと、ずいぶん調査をされていたようだ。楽しみにしていたがその本は出ずじまいだった。
 本書の奥付けを見ると、発行日が「2017年6月12日」となっている。6月12日は大田さんの92歳の誕生日である。6月初めには店頭に並んでいたので、版元が気をきかせたのだろう。
 しかし、奇しくも命日になってしまった。出版社としては複雑なところだろう。
 写真は10年ほど前、東京阿佐ヶ谷の居酒屋で撮ったツーショット、それと自筆の毛筆書きサインのみの名刺。
 
 「鉄血勤皇隊」とは沖縄戦にかり出され、日本軍と行動をともにした十代の少年兵達である。武器を持たされることはめったになく、弾運びや伝令が主な仕事だった。米軍の艦砲射撃や機銃掃射の飛び交う中、危険な作業を強いられた少年兵の犠牲者数は約900名。これは沖縄戦の悲劇の象徴とされる「ひめゆり学徒」の犠牲者数をはるかに超えている。しかし、本土では「ひめゆり学徒」は知っていても「鉄血勤皇隊」を知る人は少ない。
 「鉄血勤皇隊」の慰霊碑は、主に出身学校単位で複数ある。その中の一つに、大田さんの出身校である沖縄師範学校の犠牲者を慰霊する「沖縄師範健児之塔」がある。大田さんはその脇に、学生時代からの念願であった「平和の像」を建立した。だが、いつもひっそりとしていて、訪れる人は疎らだ。
 「ひめゆり」もそうだが、「鉄血勤皇隊」も本土の法律では兵士として認められる年齢に達していない若者が多数いる。明らかに沖縄差別であり、さらには政権が末期症状になると、無謀・横暴な行動に出ることのあらわれである。現在の安倍政権のやりかたもそれに近い。
 
 大田さんの鉄血勤皇隊に関する著書は複数あり、『沖縄健児隊』というタイトルで出版されたものが最初で、この本の出版社は約束された「平和の像」建立の寄付金を払わないどころか、印税も未払いのまま廃業してしまったという。大田さん自らが鉄血勤皇隊として動員され、「千早隊」という伝令を受け持つ危険極まりない体験をもとにドキュメンタリータッチで書かれた『鉄血勤皇隊』(ひるぎ社)は前著を増補したものである。後に那覇出版社から新書判になって復刊された。
 本書『沖縄 鉄血勤皇隊』(高文研)は、出身校単位の記録を元に書かれているので、「鉄血勤皇隊」の全体像がわかりやすい。
 第3章の慰霊棟についてのエピソードは、以前お話をうかがったことがある。裏話的な要素が多くて興味深いので、本になったことはあり難い。

 15日に、大田さんの葬儀は無事に執り行われたと聞いた。本来ならば参列すべきだったが、どうにも動きがとれず、献花だけで遠方から冥福を祈った。
 
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哀悼 大田昌秀さん

2017年06月12日 | おしらせ


 元沖縄県知事、元参議院議員の大田昌秀さんが、今日6月12日午前11時に亡くなった。
 4月頃に体調不良で入院されていると聞いていたが、まさか亡くなるとは想像していなかった。
 体調が回復されたら、シーバスリーガルを持って秋にでも伺おうか、などと暢気なことを考えていた。亡くならないものと信じていたのだ。(高齢なので万が一と思わなくもなかったが)
 大田さんには沖縄戦と沖縄現代史の研究でずいぶんお世話になり、10年前まだ参議院議員でおられた頃、当時東京の市ヶ谷にあった事務所にご招待され、膨大な参考資料をいただいた。
 その後何度か沖縄の「平和総合研究所」を訪れ、貴重なお話を伺った。
 90歳を超えてから健康状態が気になり、一度お会いしておかなければと思いつつさまざまな理由から、ずるずると引き延ばし、お会いできずいるうちに亡くなられたことに、非情な後悔の念を覚える。
 最後にいただいた『沖縄健児隊の最後』(藤原書店)が遺品になってしまった。
 
 深く、ご冥福をお祈りする。
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仲代達矢の『海辺のリア』

2017年06月11日 | 映画


 テアトル新宿で『海辺のリア』を観る。「リア」とはもちろん「リア王」である。だが、仲代さん自身は舞台でシェイクスピアの『リア王』をやっていないのではないか? (記憶違いだとしたら失礼)
 しかし、戦国版『リア王』といわれる黒澤明監督の映画『乱』に主演しているので、「リア」とまったく縁がないわけではない。
 
 ──この映画の脚本は仲代さんをモデルに小林(政広)監督が書かれたと思うのですが、最初に読んだ印象は?
 「小林監督とは『春との旅』、『日本の悲劇』に続いて3作目になるんです。ただ非情に親しくはしているんですが、あまりしゃべったことはなくて、今度もいきなりポンと脚本が来たんです。〝作れるかどうかわからないけれど、読んでみてください〟と。読んでまず感じたのは、これは僕のために書いてくれたんだなということです」
(パンッフレットより)
 
 役者として一世を風靡した桑畑兆吉(仲代)は認知症が進み、家族の顔さえも判別できない。離婚調停中の長女夫婦(原田美枝子・阿部寛)は、以前兆吉に邪険にされた経験があるものの、遺産と保険金目当で縁を切ることもできない。しかし面倒を見たくない長女は、高級老人ホームに兆吉を送り込む。兆吉はそこが気に入らず、逃げだして荒野ならぬ海辺をさまよう。
 偶然、家族の絆を断ち切られ、生きる術のすべてを失って海辺をさまよっていた娘の伸子(黒木華)に出会う。伸子はかつて、兆吉がかつてひどい仕打ちをして、家族ぐるみ追い出した末娘である。しかし、自分の娘であることがわからず、食べ物をねだり弁当を買いに行かせる兆吉を、伸子はなぜか無視できずに、時に罵声を浴びせかけながらも、認知症になった父との距離が縮まるのを感じていく。
 それでも、兆吉の目には娘としての伸子は写っていない。

 「おまえはコーディーリアだな」
 「ずっとあなたを恨んでいた。私たちを家から追い出したあなたを。殺してやりたいと思ってた。でも私はコーディーリアじゃない」
 
(パンフレット「完成台本」より)
 絶望した伸子は、海を起きに向かって歩いていく。

 エンディングは、『リア王』とは似て非なるもの。いや、非なるものであってほっとした。
 脚本がそうできていたのか、仲代さんが手を加えたのかわからないが、台詞に舞台色が強く出ている。最初は違和感を覚えたが、これは『リア王』なのだと思ったときに、スッと入り込むことができた。
 仲代達矢、84歳現役。高齢社会と、高齢者と家族のかかわり方をコミカルに描いた秀作である。
 映像の美しさと、仲代さんはもちろんのことだが、黒木華の熱演は必見。
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43年ぶりの「沖縄戦」資料集

2017年05月29日 | 歴史

 
 沖縄県では米軍占領下の1963年から断続的に「沖縄県史」を刊行してきた。
 今から5年前、「沖縄県史」資料編23として、日本軍の資料を集めたものが、研究者の間で高い評価を得た。
 今回発行されたのは、『沖縄県史 各論篇6 沖縄戦』として、住民からの証言をもとに編まれている。つまり、先の資料編が日本軍サイドから見たものとするならば、本資料集は住民にとって「沖縄戦」とは何であったのかが、高齢化が進む戦争体験者の視線からの貴重な証言が記録されている。
 旧日本軍による住民への加害行為のほか、現在も、沖縄戦生存者がPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされていることにも触れている。「集団自決(強制集団死)」や米軍の無差別爆撃で、肉親の死を目の当たりにした生存者は、雷や花火の音にもおびえると話す。
 過去の体験集などでは発表されなかった多くの新証言をもとに構成されており、「日本軍資料」とあわせて沖縄戦資料の集大成と言えよう。
 

 
 本書は学校図書館及び研究者向けのため、書店では販売していない。
 B5判上製約800ページ、カラー印刷。
 問合せ 沖縄県教育庁文化財課資料編集班(098-888-3939)。在庫があれば一部5000円(税込 送料別)で分けてもらえる。
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降旗康男×木村大作『追憶』

2017年05月22日 | 映画

 
 監督降旗康男、撮影木村大作。
 降旗康男監督と木村大作カメラマンのコンビは、これまで数々の名作を生み出してきた。『駅 STATION』『鉄道員』『ホタル』『単騎、千里を走る。』などをはじめ、後年の高倉健の代表作ともいえる映画を制作し、また、三田佳子のベッドシーンが話題になった『分かれぬ理由』、満州開拓団の悲劇を描いた『赤い月』など、さまざまな話題作もある。
 降旗康男監督といえば東映ヤクザ映画の印象が強くて評価が分かれるところだが、ぼく自身はそのヤクザ映画も含めて嫌いではない。また、木村大作カメラマンは、豪放なイメージに反した繊細なカメラワークにいつも驚かされる。監督としても『劒岳 点の記』『春を背負って』という美しい2作品がある。
 
 『追憶』はコンビとしては10年ぶりだ。上映時間は99分で、最近の映画としては短い。しかし、極限まで無駄を排除し、テーマを凝縮した1時間半は、2時間超の作品をこえる内容の濃さを感じた。ストーリーはサスペンス・ミステリーの要素を孕みながらも、それはテーマの中心ではない。
 25年前、人が良くて男運の悪い女涼子(安藤サクラ)は、親に見捨てられ、施設にも馴染まない3人の男の子の面倒を見ていた。涼子を慕う三人は、出入りするヤクザ者から涼子を救おうと、男を殺害してしまう。しかし涼子は、子どもたちの罪を自分がかぶり、服役する。「このことは忘れろ。あんたたちは何もしなかった。もう二度と会わない」と。
 それから25年、3人の男の子、篤(岡田准一)、啓太(小栗旬)、悟(柄本佑)はそれぞれ結婚し家庭を持ち、問題を抱えながら必死に生きていた。
 しかし、倒産寸前の会社を守ろうと、啓太のもとを訪れた悟は、金を受け取ったその日に何者かによって殺害される。それから、25年前の出来事が徐々に明るみに出ていく。刑事になっていた篤は、啓太に疑いの目を向ける。それには、彼なりの理由があったからだ。
 登場人物の多くが親にめぐまれず、家庭環境に問題を抱えた子どもたちだ。現代社会には、そんな子どもたちが少なくないのではなかろうか。孤立した子どもたちを、社会はどのような目で見ているのか、どうするべきなのか。この国の豊かさから置き去りにされた子どもたちを、決して視界の外に置いてはいけないということを、この映画は訴えている、ような気がした。
 
 終盤、啓太の妻真里(木村文乃)の出自が明かされた時は、もしかするとと思ったが、驚いた。
 最後のシーンで、篤が母親の車椅子を押して海辺の夕焼けを見に行くシーン。木村大作カメラマンのフォーカシングが実に見事だ。心の中で、思わず「ウワー!」と叫んだ。実際には木村を中心にした複数のカメラマンが撮影しているので、このシーンを撮ったのが木村本人であるかどうかはわからない。だが、これは木村カメラマン以外には考えられない。岡田准一も東京ロケでカメラを回したそうで、どのシーンかわからないが違和感はなかった。映画製作にフィルムを使わなくなったからこそできることだ。
 
 監督とカメラマンにはもう一組、大好きなコンビがある。松本清張『砂の器』で一世を風靡した、野村芳太郎監督と川又昂カメラマンである。野村監督は川又カメラマンを、「自分の示した意図をはるかにこえた写真を撮ってくれる」と評価していた。野村監督は既に鬼籍に入り、川又カメラマンは91歳で顕在。
 あまり名前が出ることがないが、名監督には必ず名カメラマンがついている。
 
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