ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

広辞苑 第七版

2018年01月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 『広辞苑』第七版を購入。



 10年ぶりの改版。「やばい」「自撮り」など、現代用語約1万語が追加、六版より百数十ページ増。しかし、用紙を工夫して全体の厚さは変わらず。
 過去に例がないほどメディアをにぎわしている『広辞苑』。
 
 さてはて。
 
 手元にある最新版は四版で、電子辞書に五版が入っているけれど、六版は購入しなかった。
 古い辞書は役に立たないばかりか間違いのもとになる。常に訂正し改版を続けているのが辞書だ。
 書物には「刷」と「版」がある。増刷が「刷」、編集に手が加えられたのが「版」である。一般にはあまり知られていないが、実は増刷の度ごとに誤字脱字や間違いが修正されている。これは辞書に限らずほとんどの出版物に当てはまる。
 したがって、古い辞書を長年使っていることを自慢する輩がいるが、愚の骨頂なのである。
 
 今回の購入理由はメディアで話題になったからではない。外部の執筆者が引用している『広辞苑』と手持ちの『広辞苑』に掲載された同じ項目の説明文が異なっていた、という事態に何度かでくわしたので、次はもう買い替えなくてはと思っていたのだ。
 
 さてこの第七版、本体の総ページ数は約3200ページあり、ツカ(厚さ)は約75ミリ。手元にある1991年発行の第四版は2900ページ弱で、ツカは85ミリだから300ページも増えたのに厚さは10ミリ減っていることになる。つまり、紙が薄くなったということなのだ。
 ところが、開いてすぐに「扱いにくい!」と感じた。ページの感触はコンサイス版の辞書や聖書に使われている紙と類似している。コンサイス版や聖書程度の大きさならともかく、A5判の『広辞苑』に使用するとあまりにも頼りない。ページどうしが張り付くし、閉じたときにきちんと収まらず、思わぬ個所が折れたりよれたりしそうなのだ。何よりページが繰りにくい。
 これはある意味、辞書としては欠陥ではないのか。多少厚くなっても、もう少し腰のある用紙にして欲しかった。
 
 なぜこれほどまでしてツカにこだわったのか。ユーザー側からすれば、75ミリが85ミリになったところでさほど影響はない。前掲のように過去の『広辞苑』は厚かった。
 これは想像だが、あくまで出版社側の都合なのではないだろうか。
 考えられる一番の問題は配送費である。製本所から取次や書店に納品する際、大部数の書籍はその風袋によって費用が大きく異なる。発行部数は少なくとも数十万部あるだろうから、何台ものトラッックで分けて納入することになり、10ミリの違いは輸送コストに少なからぬ差が出るはずだ。
 もうひとつは、製本機械である。製本機にもよるが、いくら厚くても製本可能というわけではない。極端に厚い本は条件的に厳しくなる。そうなると、製本の費用がバカにならない。
 つまり、いずれにしても、コストの問題なのだ。(重ねて言う。あくまでも想像である。違っていたらごめんなさい)
 
 A5版3200ページに400ページ超の付録を付けて税抜き8500円はすこぶる安い。制作費を考慮すると、相当な部数を作らなければこの定価は出ない。ほとんどの大学。公立学校。図書館などは複数冊注文しているだろうし、出版社の編集部の多くも買うだろう。文筆、編集に携わるものにとっても必須だから、相当な販売部数が期待できる。
 しかし、最近は辞書を持たずことごとくネット検索で済ませる輩が増えた。特に間違いだらけのウィキペディアを平気で参照するとんでもないライターもいるし、なぜだか『広辞苑』に反発しているひねくれ者も少なくない。それらを差し引いても、村上春樹の新刊より売れるだろうし。なんと言っても単価が高い。
 これで少しは、岩波書店の赤字が補填できるのではなかろうか。
 『広辞苑』は岩波書店の救世主でもあるのだ。
 

沖縄2題

2017年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
●荻窪「宮古食堂」



 昨夜のテレビで荻窪の居酒屋を紹介していた。1軒目はおなじみの「鳥もと」で、2軒目は存在は知っていたが行ったことのない「坊千良(ぼうちら)」。この店、昼は「宮古食堂」として宮古そばやたこライスなどを出し、夜は「坊千良」という居酒屋になる。
 そばがうまそうだったので、昼飯代わりに「宮古食堂」に出かける。
 シーサーのかまぼこ風の練り物がここの店のそばのシンボルだ。ちょっと塩がきつめだが、うまい部類に入る。合格点だ。
 ちょくちょく寄ってみることにする。
 
●沖縄発の雑誌三冊
 

 
 写真誌『ぬじゅん』は既に紹介したので、それ以外の三冊。季刊『けーし風』、不定期発行の『うるまネシア』と『越境広場』。ほんとうは『N27 時の眼—沖縄』もそろそろ出て良さそうなものなのだが、ずいぶん発行が遅れていて、今日現在まだ来ていない。
 
 『けーし風』94号も大幅に遅れて、つい先日送られてきた。本当ならば3月中には出ていなければならないはずなのだ。
 微罪で長期勾留された沖縄平和運動センターの山城博治議長が100日をこえてようやく開放されたことを受け、権力による不当な弾圧の実態を「弾圧をこえて、さらに先へ」と題し、特集記事を組んでいる。
 沖縄平和運動センターの大城悟事務局長は対談の中で、恣意的に逮捕者を出すように警備活動が行使されているのではないかということについて、「逮捕者を出すことは、気持ち的には萎縮するし、下向きにもなるし、、それが向こう側の狙いでもあるでしょう」と語っている。

 『うるまネシア』は松島泰勝さんや島袋陽子さんらを中心にした琉球独立派の雑誌である。しかし、執筆者全員がコチコチの独立派かというとそうでもない。安次富浩さんなどは、とにかく今ある米軍基地問題に全力で立ち向かうべきだとし、それを実行している。
 
 『越境広場』は今回が第3号の文学系の若い雑誌で、0号から数えると4冊目になる。3号雑誌という言葉がある通り、短期間で廃刊になってしまう雑誌が多い中、よい執筆者にめぐまれているのだから、長期間続けて欲しいと思う。
 目取真俊が小説ではなく、グラビアページで写真を披露している。なかなかいい。『けーし風』の集いでご一緒させていただいている毛利孝雄さんがコラムを書いていた。
 
 これらの雑誌、スケジュール通りに発行されれば読む方も楽なのだが、遅れたりするとまとまって集中的に送られてくる。そうなると読むのに難儀する。
 江戸っ子の自分には、沖縄タイムはどうも馴染めない。

『通販生活』ご乱心?

2017年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム


 通販生活の春号が送られて来た。
 表紙を見てビックリ!
 
  私たちは今年、
  トランプさんを
  ブームにしてみせる。
  力を込めてトランプさんを
  売りまくってみせる。
  がんばれ、トランプ、
  通販生活がついているわよ♥
 
 そして、トランプヘアの猫の写真。
 なんじゃこりゃ! 
 と思ったら、
 

 
 カードマジックのことだった。あービックリした。
 
 これからアメリカがどうなって行くのか、ブラックな興味はあるけれど、応援する気にはなれない。
 かといって、これがクリントンだったらもっと応援できない。
 サンダースに、もう少し頑張って欲しかった、とつくずく……

初詣、神田明神

2017年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 
 もう、ほとんど慣例になってしまって、どうしても行かなければ一年が始まらない気がする。
 初詣に行こうと行くまいと、時間はおかまいなく過ぎていくものなのだが、行かずにいるとなんだか忘れ物をしたようで気持ちが悪いのだ。
 神田明神詣でを始めた数十年前は、今ほど長い行列ができてはいなかったと記憶しているが、最近は1時間ほど並ばなければ神殿にたどり着かない。
 アシのYなどは絶対に行かないと言う。
 ただひたすら立っているわけだから、時間がもったいないだけでなく、かなり腰にくる。
 しかしまあ、この行列に耐えられなくなったら、人生終わりだろうと思っている。
 
 そうした中で、ここ数年姿を見かけなかった薬研掘のおばさんが屋台を出しているのを見つけてほっとする。声をかけようと思ったが、家に七味はうんざりするほどあるし、大変な人込みなので、心の中でおめでとうを言って帰路につく。
 

 
 御茶ノ水駅の聖橋口を出て神田明神に行く途中、橋を渡ったところに湯島聖堂がある。
 ここにには、近代教育発祥の「昌平坂学問所」があった。
 御茶ノ水周辺に数々の大学な集中しているのは、この学問所を起点として起こされたからである。
 絵馬はすべて合格祈願だ。
 

 
 学問所は、聖橋から見えるこの坂沿いにあった。都心にありながら、人通りの少ない閑静なたたずまいだ。正月だからだ。普段はもう少し人通りがある。
 

 
 ドラマや映画でよく見かける、聖橋から御茶ノ水駅を望むアングル。
 右が中央・総武線の御茶ノ水駅。手前から斜めに掘り割りを渡るのは、地下鉄丸ノ内線の地上露出部分。丸ノ内線はトンネルが浅いので、ちょっとした起伏で地上から出たり入ったりする。
 奥の陸橋は総武線、その向こうは秋葉原。中央線、総武線、地下鉄がワンカットで写り込んだら最高のアングルだが、それを待って撮影するほど物好きではない。
 女子高生らしき集団が、このアングルを撮影してキャッキャと騒いでいた。こいつら、「聖地巡礼」に違いない。しかし、「君の名は。」にこのシーンはなかった気がする。何のアニメだろうか。
 それにしても何が面白い。
 
 

54年前は高校生だった

2016年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム



東京に54年ぶりの初雪

 11月のこれほど早い初雪は54年ぶりだそうである。54年前と言えば1962年で東京オリンピクの2年前。
 高校1年生だった。
 梓みちよの「こんにちはあかちゃん」がヒットしていた。しかし、雪の記憶はない。
 雪が積もったのは、明治時代にさかのぼる。
 
地球が怒ってる!?

 アシのYはあらかじめ昨日の勤労感謝の日に出てくるから今日は休ませて欲しいと言っており、雪の影響が出やすいミニ遠距離通勤なので正解だ。
 そのアシのYもカミさんも、こういった異常気象があると「地球が怒ってる」と言う。
 たしかに、地球が怒りそうな人間(特に安倍内閣)の愚行、乱行、暴挙には数限りない。
 
TPP法案強行採決!

 アメリカではドナルド・トランプという野獣が次期大統領に決まり(面白いが)、安倍ポチ内閣が必死に進めて来たTPPは風前の灯。
 あの強行採決は一体何だったんだ! 「世界の恥さらしだ」とは某民進党議員の言葉。
 
ヴェトナムの原発政策白紙撤回

 安倍晋三が合意したと喜んでいたヴェトナムへの日本製原発輸出は白紙撤回になった。
 大事故を起こした国の原発を買う方も買う方だが、シャアシャアと売り込むセールスマン安倍の恥さらし。
 まあ、ざまがない。
 
南スーダン自衛隊派遣の真意

 「海苔弁」と言われた済みぬりの報告書で国民をだましてまで行う南スーダンへの自衛隊派遣の真意とはなにか。
 戦闘ではなく衝突だから安全? 意味がわからない。言葉の問題ではなく国民が知りたいのは事実だ。
 危険だから渡航禁止になっているのではないか。
 安保法、共謀罪法、秘密保護法。いずれもアメリカに尻尾を振り、戦争のできる国にすることが目的だ。
 安保法が成立してから、自衛隊員の多くを排出している東北地方(農家の次男坊・三男坊)では、自衛隊入隊希望者が激減したそうだ。
 増やさなければならない自衛隊員が不足すれば、①札束でほっぺたをひっぱたいて連れてくる、②それでもだめなら徴兵制。
 やりたい放題の安倍政権ならやりかねない。
 
 以上、ちょっと週刊誌っぽく。
 頑張れ公明党! 爆弾は内側から爆発させると効果が大きい。

柚子収穫

2016年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム


 
 庭の柚子を一部収穫した。
 昨年、収穫が終わった後、あまりにも枝が伸びすぎたので、かなり伐採したから、今年はあまり実が成らないのではないかと思っていた。
 ところが、まるでグレープフルーツみたいに密集して大量の実を付け、小柚子なのだが一般の柚子並の大きさになっているものもあった。
 どうやら、枝を伐採したことで樹に力が蓄えられ、それが果実を育成させる力になったのだと思う。
 この日収穫したのは3分の1ほど。写真の大ざる二つの他に、段ボール箱いっぱいあり、長野の妹の家に送った他、近所に配った。
 ジャムを作ったり、風呂に入れたり、焼酎の水割りに入れるのはもちろん、焼き魚にも添える。皮をみそ汁に散らしてもいい。
 部屋中が柚子の香りで満たされた。

秋葉原「今帰仁」…そしてやっちまった!

2015年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
 先日土曜日、「けーし風」の集いが終わった後、恒例の飲み会の場所を探していて、偶然にも秋葉原唯一の沖縄料理店だという店「今帰仁(なきじん)」を発見した。


 
 JR秋葉原駅を昭和通り口から出て、ヨドバシカメラ右に行き、突き当たりの大通りを万世橋方向に行ったところにある、第2東ビルの2階だ。
 以前もう1件この近くに沖縄料理店があったと記憶しているが、どうやらそちらは撤退したらしい。
 
 それにしても、都内に沖縄料理の店はどれくらいあるのだろか。かつては新宿の「守礼門」、池袋の「おもろ」と「志田伯」くらいだった。現在残っているのは「おもろ」だけ。豚のしっぽを煮込んだ「おもろ煮」は絶品だ。
 
 いや、今日の話はそれではない。
 調子に乗ってアルコール度数の高い泡盛をハイペースで2杯も飲み、ご機嫌で帰途についたのはいいが、荻窪駅近くの駐輪場に置いた自転車で帰ったのが失敗だった。
 歩いている時は気がつかなかったのだが、自転車に乗ると、これがそうとう「来ている」ことに気がついた。まずいと思ったが、途中まで自転車で来てしまったので、ふらつきながら、慎重の上にも慎重に約10分。我家の近くまでどうにかたどり着いた。
 細い路地を抜けて右に曲がれば我家だ。
 ここまで来たのならばもう大丈夫、と安心したのかどうか、ふっと気が抜けた。我家の庭先に出る小径を右に曲がったとたん、ハンドル操作を誤って転倒した。
 酔っぱらっていなければもしバランスを失っても足は付けるし止まることもできる。ところがアルコール度数43度の泡盛ストレートをコップ2杯空けた身では、それができなかった。
 気づけばどこかに顔を打ち付け、眼鏡が壊れて顔面から大出血。
「やっちまった」
 思えば、なんとなくいやな予感はしていた。自転車は置いて歩いて帰るべきであった。だいいち自転車であっても飲酒運転は交通違反だ。
 それでも血だらけのまま必死で十数メートル先の我家の庭先までたどり着き、とうとうそこで動けなくなってしまった。朦朧としながら携帯電話を取り出してカミさんに電話で「ちょっと出てきて…」と助けを求めた。よく電話がかけられたものだ。
 顔面は血みどろで、両手も着ている服も血だらけになっていたのだから、それはもうカミさんはビックリ。きっと誰かに襲われたと思ったに違いない。
 しかし、襲われたのならまだ逃げるなり相手によっては撃退できた。自損事故ではどうしようもない。

 気づけばいつのまにか居間に寝かされていた。後で聞くと、カミさんと息子で引っぱりあげたと言う。
 
 どうにも手の付けようがないので、結局救急車を呼ぶ。万一頭を打っているといけないからと、脳神経外科のある中野の総合東京病院に担ぎ込まれた。
 すぐにCTスキャンを受け、脳にダメージはなかったと伝えられる。
 そりゃそうだ。頭を直接打った記憶はない。
 そのあと、当直のインターンに毛が生えたような若い医者が傷の縫合をおこなったのだが、お世辞にも上手とはいえない。上手い医者なら15分もあればできるような縫合を1時間くらいかけ、途中で麻酔が切れたものだからまた打ち直し(そっちの方が傷口より痛かった)、とにかく応急手当ては終わった。後で傷が残ることは間違いない。
 
 今朝、改めて同じ病院の形成外科を受信した。1週間で抜糸すれば完治するそうだ。
 まぶたの上も切っているものだから、片目の開きが悪くてうっとうしい。ブログの更新どころではなかったのだ。
 大騒ぎした割りにはたいしたことはなかったらしい。
 
 面倒くさいのは、遭う人ごとにここに書いたようなことをいちいち説明しなければならないことだ。
 「ちょっと転んでね」ということで済ませようとしても、「どうしたらそんな傷になるんだ」と根掘り葉掘り聞いてくる。
 まあ、これから一週間は仕方がないか。

『東京新聞』コラム「筆洗」に一言

2015年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 23日付朝刊の『東京新聞』のコラム「筆洗」にはいささか違和感を覚えた。
 昨日首相官邸の屋上で「ドローン」が放置されていたという“事件”を受けてのことだが、その目的も所有者も判明していないにもかかわらず、頭から「悪」と決めつけている。
 ドローンには微量の放射性物質を含む液体がくくりつけられていたことから、様々な憶測が流れているが、単なるいたずらなのか、それとも何らかのメッセージを含んでいるのかは判明していない。機体か液体を入れた容器かわからないが「たんぽぽマーク」がついていたという。そのために、脱原発を訴えるグループによるものではないかと憶測するコメンテータもいた。
 
 「筆洗」は「原爆、原発事故の忌まわしい過去を背負わされた日本人の神経をとりわけ逆なでする…」とか「民主主義の手続きに沿って選ばれた首相の『居場所』をその物質で汚した行為が許せない」などと言っているが、そもそも「原爆、原発事故の忌まわしい過去を背負わされた日本人の神経をとりわけ逆なで」しているのはそこに住む首相ではないのか。「民主主義の手続きに沿って選ばれた首相」かもしれないが、国民の声を聞かずに大暴走する安倍政権に緊急停車を求めるのには、尋常の手段では通じない。
 しかも、首相は大統領とは異なり、国民の手で選ぶことはできない。多数与党が自分たちの都合で選んだに過ぎないのだ。したがって、その首相が国民の意向にそった政治を行っていなければ、ノーを突きつけて当然であり、聞く耳持たなければ無理矢理にでも国民の声を聞かせるための手段を模索する。まあ、なんとも幼稚な手段かもしれないが、これがもし脱原発のためにメッセージを送ったのならば、一つの手段として理解できなくもない。
 
 もちろん、単なるいたずらであればこれほど馬鹿げたことはないが、実質的な被害はまったくない。勝手に官邸や警察、マスコミが大騒ぎしただけだ。かえって上空の警備が手薄であることがわかって良かったのではないか。
 
 安倍政権のやり方は沖縄辺野古基地問題やそれこそ被曝者の神経を逆撫でする原発推進を、理不尽きわまりないやり方で押し進めようとしている。それこそが、もっと糾弾されなければならないのに、大手マスコミはまったく腰が引けている。「東京新聞』だけがまともかと思っていたが、非常に残念だ。
 
 ドローンによるこのような行為を全面的に支持するものではない。本当にテロの可能性もあり、繁華街に爆弾を投下することもできるだろう。
 しかし、様々な側面を検討せずに軽々しく頭から悪者扱いするのは、「東京新聞」らしからざる軽薄な論調と言わざるを得ない。

消耗品を成仏させる……

2015年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 風邪をひき、仕事が多忙なこともあって、すっかりブログの更新をサボってしまった。もちろんその間、読書もせず映画も見ていない。ようやく今日から活動再開という感じである。
 映画は日本映画専門チャンネルでやっていた「白ゆき姫殺人事件」を観たし(うん、けっこう面白かった)、WOWOWのドラマ「闇の伴走者」の第1回目も観た。(これはむちゃくちゃ面白そうだ。出版関係の調査員でありながら「ノンブルって何ですか?」「『スジ』って??」と出版界では常識中の常識の専門用語がわからない女性調査員(松下奈緒)に突っ込みを入れながら観た)初回は無料なのだ。
 だが、本は読んでいない。休んでいるうちに、山とたまってしまった本や通信、雑誌にうんざりして手がつけられないのだ。(どうしよう……)
 
 ま、それはおいといて…閑話休題。

 しみったれた話かもしれないが、どうにもモノをムダにできない。これはたぶん、モノのなかった時代に幼少期を過ごした影響かもしれない。団塊の世代以降の人には受け入れ難いかもしれないが、いっこうに良くならない景気と、エネルギー削減も兼ねて、この話はもしかしたら参考になるかもしれない。いやきっとなる。
 
 消耗品に分類されるものが、日常生活ではけっこう多い。石鹸、歯磨き、整髪料(僕は訳あって、いや毛がなくて使わない)、洗剤、それに仕事で使う鉛筆やボールペンなど。要するに使うとなくなってしまうものだ。舞台や映画・テレビの世界では、演技者が使うことでなくなってしまうもののことを「消えもの」というが、日常生活での「消えもの」が消耗品だ。 
 
 で、ぼくはその「消えもの」をできるだけ完全消滅させて成仏させたいと昔から思っている。たとえばこんな具合だ。
 
 石鹸が小さくなったら、たいていの人は捨ててしまう。中には、小さい石鹸を集めてアミの袋に入れ、洗面所の隅にぶら下げて使う人もいる。それもアイデアだ。
 僕の場合は、もっとテクニックが必要で、面倒な方法を採用している。
 小さく薄くなった石鹸を新しい石鹸に張り付けてしまうのだ。ところが、いざ張り付けようと思っても、これがなかなかくっつかない。ちゃんとくっついてくれないと、使っているときにはがれてきて、またくっつけ直したりしているうちにイライラしてくる。はがれてはくっつけ、くっつけてははがれしているうちに、そればなんだか使命のように思えてきて楽しくなるのだ。ぜひやってみてほしい、イライラするけど楽しいから。
 最近は、濡らしてくっつけて1日置けば安定するということを発見した。 
 
 チューブ入り歯磨きは、最後は必ずチューブを切り開いて使う。先日、カミさんが「もう出ない」と言ってくずかごに捨ててしまったのを戻させ、切り開いて使ったら、まだ1週間使えた。そのくらい残ってしまうのだ。使い切らないうちに捨てなければならないチューブ入りは、メーカーの陰謀だ。
 実は、化粧品は使い切らないことを前提に作っていると聞いた。口紅でもファンデーションでも、ある程度使ったらたいてい飽きて新しいのを買う、というのがこれまでの消費者の習慣だったらしい。ところが、不景気になって、そんな女性たちがみんな化粧品を使い切るようになってしまった。そのために、化粧品会社の売り上げは大幅に下落したそうだ。
 ドモホルンリンクルのコマーシャルではないが、チューブを切り開いて使うようなことは、ケチ臭いとされていたのだが、それが長引く不況でちっともケチ臭くなくなって、それどころか評価されるようになった。良いのか悪いのか……さて。
 
 鉛筆も完全消滅させる。どうするかと言うと、まず短くなった鉛筆はホルダーで長くして使う。そうして使っても、最短で2センチくらいまでである。今度はそれを、新しい鉛筆にアロンアルファで連結させる、そうやって最後まで使い切るのだ。発想は石鹸と同じだが、これは故赤瀬川原平さんがそうやって「成仏させている」とエッセイに書いていたのを真似たのだ。
 消耗品は少しばかり残さず、工夫して使い切る。いろいろ工夫して「使い切る」習慣を身につけてはいかがか。実にい潔いし、気持ちがいい。
 だからといって、年間でいくら節約になったとか、得しているのかとか儲かったか、などと考えたことはない。多分金額に換算してもたかが知れていることだとは思うが、これを世界中の人がやれば、そうとうな資源の節約になるのではないかと思うのだ。
 
 ペットボトルのドリンクは、最後の一滴が美味い。いや、ウソである。

安倍晋三=DOCTORS3森山卓

2015年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 テレビ朝日系列の人気ドラマ「DOCTORS3」に登場する傲慢で鼻持ちならないドクター森山卓と安倍晋三首相がどうしてもオーバーラップする。
 権力を笠に着て傲慢。周囲を従順なイエスマンでかため、忠告や反論に一切耳を貸そうとしない。プライドばかりがやたらと高くて、少しでもプライドが傷つけられようものならすぐに切れてふてくされる。自分が優秀であること、頭がいいことを必死にアピールする、始末に負えないガキなのである。だれもが迷惑を被りフォローに奔走するが、そんな周囲の努力に気を使わないばかりか、うまくいかなければ他人のせいにする。
 高嶋政伸の名演技もさることながら、ドクター森山と安倍首相を重ね合わせる視聴者はけっこう多いのではないだろうか。
 
 安倍総理のまさに「森山」的な性格があらわれた記事が「東京新聞』に掲載されていた。「首相、ピケティ氏意識」「格差是正へ『再配分』より『機会の平等』」と見出しがつけられ、ピケティ氏の理論に耳を貸さず、自画自賛する構図がはっきりと浮き彫りにされている。

 ピケティ教授
 成長と格差是正を両立させるためには、資産課税の強化により、資産を持たない若者などへの富の再配分が必要になる。(1月31日『東京新聞』インタビュー)
 
 安倍首相
 経済成長の果実を広く国民に行き渡らせる。成長せずに分配だけを考えれば、だんだんじり貧になる。(1月29日「衆議院予算委員会)
 

「この道をさらに前進せよが国民の意思」だとか「三本の矢の経済政策は確実に成果を上げている」などと現実を見ない自画自賛をし、名前は出さないものの「ピケティ氏の考えにはくみしない立場を明確にしている」そうである。
 
 噂を聞いてほっておけないと感じたのか、対処しないとまずいと誰かに言われたのかわからないが、安倍首相本人がピケティ氏の『21世紀の資本』を読んでいるとは到底思えない。腰巾着の誰かから「こんな人のこんな本が巷で評判です」とご注進があって、「どんなことが書いてあるの?」とかえし、これも何かの解説を読んだだけのいい加減な側近に概略を聞き、「何だ、俺のやっていることに反対しているのか。生意気な」とばかりにふんぞり返った様子が見て取れる。
 自分でちゃんと読んでからものを言え! と怒鳴りつけたくなる。
「俺は忙しいんだよ。そんな分厚い本を読んでる時間なんかないの。読んだ人が教えてくれればいいんだから」なんてまるで森山医師が言いそうな台詞をはいたのではなかろうか。
 
 安倍首相のイエスマン連中に、ピケティ氏より優れた学者がいるとは到底思えない。優秀な学者が安倍首相の腰巾着になるはずもない。万一仮にいたとしても、腰巾着学者が適切な解説を伝えるわけもない。
 膨大な資料を元に細密な検証を行い築き上げた理論に立ち向かうなら、きちんとしたデータをもとに正々堂々とピケティ氏を論破するべきだ。
 一度1対1で討論をやってみたらどうか。──するわけがないか。
 どうもこの首相は質問には一切まともに答えず、一方的に持論をしゃべりまくるクセがある。というよりも、相手に意見を言わせないのだ。したがって討論は絶対に成り立たない。
 なぜこんなバカを党首に据えたのか、自民党がすでに末期状態にあることの現れではなかろうか。

燐光群「8分間」を観る

2014年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム


 燐光群公演「8分間」をご招待いただいて、座・高円寺で観た。
 これまで観た燐光群の芝居はシリアスなものが多かったのだが、今回はコメディータッチで終盤は60~70年代の小劇団風の演出で懐かしかった。かつて劇団三十人会というのがあって、演出の故秋浜悟史は群衆処理の名手と言われていたが、坂手演出は一瞬それを思い出させてくれた。
 
 舞台は駅のホーム。架空の駅ということだが、モデルはたぶん、井の頭線の浜田山駅。坂手氏は東京都杉並区の住人。杉並区内で人気の駅、鈍行しか止まらない、隣の駅(たぶん西永福)が見える、上下線のあいだに造られた狭い島式ホーム。ラッシュ時を除いて昼間の時刻表ではほぼ8分間隔で電車が来る。それらから推測すると、そうなる。
 
 その8分のあいだに同じシチュエーションが繰り返し起きる、タイムスパイラル。
 一人の女性が電車とホームのあいだに足を挟まれて自力で抜くことができなくなっている。それを乗客たちが救出しようと力を合わせさまざまな工夫をする。その間に起きる痴漢さわぎや自殺未遂さわぎ。
 何度もくり返されながら、少しずつプロセスや結果が異なっている。
 はじめのうちはこれが延々と繰り返されるのかと思っていると、いつのまにかさまざまな人間関係ができていって、ハッピーエンドでまとめられていた。
 足を挟まれた女性も、痴漢を疑われる男も、また、それを写メする女子高生も、坂手作品らしい風刺とメタファになっているのだから目が離せない。
 大変面白かった。
 
 この劇団に所属する俳優たちは、それぞれ一定以上の演技力を持っているので、いつもまとまった芝居に仕上がっていて、はずれがない。しかし時々感じるのだが、登場人物が多い芝居では、飛び抜けて上手い俳優がいないために芯がぼやけているのだ。足を挟まれている女性とタイムスパオラルを最初に体験する男性などには、外部から呼んででもそれなりに実力のある俳優を使えば(劇団員の彼らが下手というわけではない、存在感の問題だ)かなりいいドラマになる気がする。
 実現できればの話だが、配役に気を使った映画やドラマにすれば、けっこうヒットするのではないだろうか。たとえば、足を挟まれる女性は中谷美紀、男性は松山ケンイチ、かな? 彩りに、写メする女子高校生はAKBの川栄李奈(けっこうはじける)あたりを使ったりして。
 

 
 先日、我が家で鮭パーティーをやったときに参加してくれたSさんが偶然招待券をもらっていて、同伴した。帰りに高円寺駅界隈の古本屋をめぐり、2冊ばかり購入した。戸村一作(とむら いっさく 1979年歿。成田空港建設反対運動のリーダー)の『闘いに生きる──三里塚闘争』はわずか100円。これは掘り出し物だった。もう一冊、Sさんが新谷行『アイヌ民族抵抗史』の三一新書版を見つけてくれて購入。彼はすでに文庫版を購入していた。
 
 そのあとは、沖縄料理の「抱瓶」で一杯。久しぶりの泡盛に帰りは千鳥足で帰宅した。
 

 
 奥武島の炙りトビイカ、香ばしくて歯ごたえあり、旨かった。

沖縄知事選の勝利をうけて

2014年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
◆「大勝」だが「圧勝」ではなかった
 16日投開票の沖縄県知事選挙で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移転に反対する、全那覇市長で新人の翁長雄志(おなが・たけし)氏が、移設推進派の現職、仲井真弘多(なかいま・ひろかず)氏ら3人を大差で破り、当選した。
 選挙前、早い時期には翁長氏がダブルスコアの圧勝で当選すると噂されていたが、選挙戦終盤になって仲井真氏が巻き返し、接戦になるかもしれないと巷では予想されていたものである。
 結果、翁長氏360.820票、仲井真氏261,076票(下地幹郎氏69,447、喜納昌吉氏7,821)。差は約10万票である。確かに大差ではあるが、圧勝であるかといえば微妙な数字だ。
 翁長氏が勝利することは疑いなかった。しかし、「国共合作」とまでいわれ、共産、社民、社会大衆党、さらに自民党を除名になった国会議員や、自主投票の公明党まで加えたオール沖縄の選挙戦でダブルスコアをとれなかったことは、今後の反基地運動の戦略を慎重に進めて行く必要がある。県民の三分の一強が基地推進派であると考えれば、この比率がわずかなきっかけで逆転することもあり得るからだ。
 この数字で、「民意は基地反対」と訴えるのは、戦術的には必要だが戦略的には慎重でなければならないと思うのだ。
 
沖縄の基地経済依存は過去の話
 本土には、「沖縄は基地がなくなったら立ち行かなくなる」といまだに信じている人がけっこう多い。確かに、1972年の返還期頃の沖縄経済は、約15パーセントを基地からの収益に依存していた。しかし、現在は観光収入を中心に経済発展し、基地の経済依存度はわずか5パーセントに過ぎない。さらに、沖縄にある米軍基地のすべてが返還され、その土地を有効活用すれば、基地からの収益の約6倍が得られると試算する学者もいる。
 基地をショッピングモールなどの観光施設に転換して成功した例が海外には数多く見られ、沖縄では、牛や豚などの酪農を拡大できる。
 すなわち、沖縄経済を締め付けているのは、在日米軍基地に他ならない。
 
◆在日米軍施設の74パーセントが沖縄に集中
 沖縄県の面積は、日本全土の0.6パーセントしかない。そこに在日米軍施設の74パーセントが集中している。
 本島南部の那覇空港から北部の「美ら海水族館」に向かう国道には、嘉手納基地を過ぎたあたりまでずっと基地のフェンスが続き、それを過ぎても視界から基地の施設が消えることはない。頭上には米軍の輸送機やヘリが爆音を発しながら飛び交う。
 たまに観光で訪れるならば、こうした異常な環境も一過性のものとしか感じないだろうが、それが365日の日常だとしたら、本土の人間は耐えられるだろうか。
 
◆本土の住民にとって、沖縄は人ごと
 だいぶ前のことだが、新宿の居酒屋で、若いサラリーマンたちのとんでもない会話を耳にしたことがある。
「横須賀(米軍基地)も横田(基地)も全部沖縄に持っていってさあ、沖縄はもう基地の島にしちゃえばいいんだよ」
「俺たちが遊びにいく場所だけ確保してもらってな、ハハハ」
 いっていい冗談と悪い冗談がある。殴り込みにいこうかと腰を浮かせたが、店に迷惑がかかるからと同席した友人に止められた。
 この温度差は、本土の人間が沖縄の人々を下に見ている、構造的差別があるから来るものだ。18日付の東京新聞は「こちら特報部」で県知事選挙の結果を受けて衆議院選挙でも基地問題を争点にすべきという特集が組まれていた。その最後のデスクメモに、次のような文章があった。
 
「こちら特報部」は、沖縄の基地問題を積極的に取り上げているものの、読者の反応はいまひとつだ。私たちの力不足もあるだろう。そこは猛省したい。だが、閣僚の不祥事などと比べると、やはりいまひとつなのだ。いささか意地悪く言えば、本土にとっては、どこまで行っても人ごとなのかもしれない。
 
◆沖縄は日本の縮図である
 しかし、見方を変えれば沖縄問題は人ごとでない。日本という国がアメリカとその傀儡である安倍政権によって、国民をないがしろにし、一部の人間だけが莫大な利益をもたらすような仕組みへと変えられていっている。
 たとえば、日本お税制は本来、米国とは違って所得税は累進課税方式である。高所得者に多く課税し、低所得者の課税額を提言している。しかし、消費税はこの仕組みが昨日しなくする。高所得者も低所得者も同じ比率で課税されるからだ。これは貧富の格差を拡大させることになる。
 集団的自衛権の行使は、アメリカに媚を売るため以外の何ものでもない。在日米軍基地だけでなく、全国の自衛隊駐屯地も前線基地になりかねない。つまり、日本全国総沖縄化である。
 そうしたことからも日本は、アメリカから構造的差別を受けていることがわかる。
 本土政府と沖縄の関係はまさに、アメリカと日本の関係である。
 大手マスコミは政府や大資本に牛耳られて、自由な意見が言えない状態になっている。都合の悪い記事が出れば即刻、広告出稿停止などという恫喝によって、新聞も電波媒体もたちまち経営が悪化するのだ。そのために国民は、最も知らなければならない現実が隠されたままなのだ。
 現在はインターネットという便利なものがあり、大手マスコミが報道しない地方新聞の記事やさまざまな活動をしている人々の情報を得ることができる。そうしたツールを活用しながら、真実を見極めていきたいと思う。
 沖縄のニュースは、
 「沖縄タイムス」
 http://www.okinawatimes.co.jp/ 
 「琉球新報」
 http://ryukyushimpo.jp/ 
 で閲覧できる。

「安全剃刀」と「安全神話」

2014年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

 
 自宅の流し台の下を整理していたら、数年前に引っ越しをしたときなくしたと思っていたカミソリが出てきた。
 シック・インジェクター(写真真ん中)。
 普段はジレット・エクセル・センサー(写真右端)の2枚刃を使っている。
 
 電気剃刀全盛のいま、安全剃刀は絶対的にマイナーなツールだ。
 
 実は以前、電気剃刀を使っていた時期もあった。しかし、ぼくと会った人ならわかると思うが、剃る面積がひじょうに広い。そのために、電気剃刀の刃の内側におさまる剃りくずが外に飛び散ってしまうのだ。するとどうなるかというと、耳のうしろが真っ黒に汚れる。
 仕事中、気づかずに耳にさわった手で貴重な文献を汚してしまい、大慌てしたことがあるのだ。そのときはなぜこんなに耳のうしろが汚れているのか気づかなかった。「あ、電気剃刀のせいだ」と気づいたのは、鏡に向かった翌朝ことだ。
 大げさと思うかもしれないがほんとうの話なのだ。
 
 で、ジレット・エクセルも今度見つかったシック・インジェクターも、現在はホルダーを製造していない。こわれてしまったら容易に入手できない。ところが、在庫を持った業者がいて、アマゾンや楽天などでとんでもないプレミアをつけて出品している。定価数百円で買えたものが数千円もするのだ。いくら何でもバカバカしい値段である。
 替刃だけはとりあえずいまでも入手できるから、ホルダーが使用可能であれば一応使いつづけられる……はずだが。

 ずっと愛用しているジレット・エクセルのホルダーは、替刃をくわえこむ部分がプラスチックで、そこが摩耗したり劣化して折れるともう使い物にならない。二本持っていたうちの一本は、そのくわえ部分が壊れた。
 いい加減あきらめて買い替えればいいのにと言われるかもしれないけれど、現在入手できる安全剃刀は、どれもしっくりいかない。
 最近出回っている三枚刃だの四枚刃だのと、刃の枚数ばかり多い剃刀は、耐久性がなく高価で、ぼくのように頻繁に刃を取り替える必要があるものにとっては、すこぶる不効率で不経済だ。だいいち、なんで四枚も刃が必要なのかよくわからない。二枚刃までなら論理的に納得できるけれど。
 二枚刃も売ってはいるが、ジレット・エクセル以外の製品は、たとえそれが同じメーカーのジレットであっても、比較にならないほど剃り心地が悪い。たぶん、高価な四枚刃を売るために、二枚刃の使い勝手を悪くしたのだろう。
 ホルダーを壊さないように壊れないようにと、祈るような気持ちで使い続けていた。
 
 そんな折に、以前使っていたシック・インジェクターが出てきた。これはもともと、片刃の一枚刃用に設計されたもので、かつて主流だった両刃剃刀に対抗して作られた。発売された当時はおしゃれな剃刀として外国映画などによく登場したものだ。
 ありがたいことに、替刃が現在でも販売されていた。
 当初、一枚刃用として販売されていたホルダーに、二枚刃が出回るようになってから、刃を二枚重ねた替刃を強引に突っ込むようにしたのがこれ。そのために、最初から二枚刃として作られた替刃に比べて刃の間隔が狭い。刃のあいだに詰まった髭や皮膚片を、剃りながら度々水洗いしないと切れ味が悪くなる。また、首ふり構造ではないから、刃を当てる角度を間違えるとうまく剃れない。コツをつかむまではやっかいな剃刀だ。
 
 そんな面倒な剃刀だが、使いこなせれば大変な優れものである。まず、刃の耐久性がよく切れ味が長持ちする。それに気持ちいいくらい良く切れる。
 刃が丈夫なのに加えて、ホルダーの主要部分がすべて金属製だから壊れるところがない。
 ぼくのように広い範囲を剃るために求められる耐久性と切れ味の良さが揃っていて、まさにうってつけの剃刀なのだ。

 余談だが、替刃(左端)を交換するとき、カートリッッジからホルダーにセットする作業が拳銃の弾丸を装填するときのような感じでちょっとかっこいい。
 替刃カートリッジの突起部分を、ホルダーの横から差し込み、レバーをスライドさせると古い刃が空の薬莢を排出するように飛び出し、代わりに新しい刃が装填される。
 キャッシーン! カシャ! ちょっと快感である。(そんな音はしない)
 
 しかしまあ、見つかったおかげで替刃さえ永続的に入手できれば、このシック・院ジェクターは一生ものとして使えるはずだ。

 もっとも、ぼくの余生がそんなに何十年もあるわけではないけれど。遺品に残したって息子は使わないだろうなあ、こんな面倒な剃刀。
 とにかく、シック・インジェクターは安全剃刀の名品であることは間違いない。
 ぼくとしては、これで、ジレットのホルダーが壊れても、慌てなくてすむ。
 
 話は変わる。
「安全剃刀」という言葉を使ったが、「安全剃刀」は安全ではない。使い方を間違えれば顔を切る。手を切ることだってあるだろう。「安全」という言葉にだまされて無造作に扱うご仁を見ると、「あ、こいつ、安全神話にだまされてるな、一度怪我して学べ!」などと意地悪な気持ちが起きたりする。
 
 ずっと以前のことだが、枕カバーを全部洗ってしまったカミさんが、代わりにタオルを巻いて「安全ピン」でそれを留めていた。
「なんだよこれ、危ないじゃないか」というとカミさんは、「安全ピンだからだいじょうぶだよ」という。これも安全神話の一つだ。
 安全と名前がついているもので、安全なものなど何一つない。本当に安全なものが、わざわざ安全をアピールすることはない。
 
 それにしても、「安全」と言いながら安全でないものが、世の中には如何に多いことか。

「燐光群」そして下北沢

2014年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
Rinkogun20143
 
 久しぶりに燐光群の芝居を観る。
 「現代能楽集 はじめてなのに知っていた」をご招待いただいて観に行った。ほんとうは演劇をやっている娘に譲るつもりだったのだが、インフルエンザにかかってしまい、いささか多忙で余裕はなかったのだが気分転換もかねて下北沢に出かけた。
 
 最近、ライブも行っていないので下北沢そのものが久しぶりだったが、行ってみて驚いた。小田急線が地下に潜っていたのだ。そういえば、小田急線の地下化にともなって、景観を壊すと地元で反対運動が起きていたようだったのだが、果たしてその結果がどうだったのかは不明。反対を押し切ったのか納得のうえなのか。
 おかげで、まだ工事中の駅の出口が複雑で、外に出るまで不安だったものの、これまでの南口よりやや本多劇場よりにできた新しい改札口に出られた。
 旧小田急線の線路は公園にでもするのか、それともショッピングビルでも立てるつもりか更地にする工事が継続中。ショッピングビルなどは建てないほうがいいと思うのだが、商魂逞しい小田急からすれば、地下化の工事費を回収するために売ってしまうかもしれない。
 
 いつものことだが、ザ・スズナリは空席がまったくない満員状態である。営業の動員努力に感心する。もっとも招待客も相当多いと思う。
 ロビーに女優の山村紅葉さんがいて、演出の坂手洋二さんの著書にサインをもらっていた。案外ミーハーだなあと、なぜか親しみがわく。もちろん招待だと思う。著名人を見かけることが多く、過去には佐野史郎さんや世田谷区長の保坂展人氏を見かけたりもした。
 
 さて、公演の感想だが、理屈で解釈しようと思うと難解である。かつて、早稲田小劇場の鈴木忠志や転形劇場の大田省吾などがメタファで構成した難解な芝居をやっていて、それが当時の演劇少年少女に大変受けていたことがあった。坂手氏が意図してかどうかはわからないが、自分にはそう感じた。
 「現代能楽集」とあるが、能楽ではない。もともと能楽は庶民の演芸であった。それがときの将軍足利義満に認められて、現在の能の原型を完成させたものだ。人間の深奥に潜む情念や怨念などが描かれることが多い。坂手氏はたぶん、観阿弥・世阿弥の哲学を現代演劇に呼び込んだものなのであろうが、「能」といわれるといささか困惑する。どちらかといえば、コントに近い。
 テーマはデジャヴ。科学的にデジャヴは、脳が本来ない記憶をあったことにしてしまうことでおきる。それを「病気」ととらえ、施設に隔離して治療をおこなうというものだ。だが、デジャヴは、人間を宇宙及び地球という生命体の一部とするならば、「なかった」ことではなく、個としての人間にはなくても、生命体全体には存在するものであって、その多くは「夢」によって現れることが多いと言う。すなわち人間は、夢によってつながって現世を生きている、のだそうである。
 オスプレイが近くに墜落するというシーンもある。実はそうしたことも、人間は本来予測できる。だが、それは口に出したとたんに変更されてしまうから予言にはならない。
 この論理は、予言者と言われる人物のいいわけにもよく使われるが、たしかに、知ってしまえば悪い予言ならそれを防ごうとして変更するのは当然だ。
 で、この手の芝居は嫌いではないが、しかし、平易な演劇に慣れた最近の若者に通じるのだろうか。
 
 
 ■土岐哀果「NAKIWARAI」
 
Nakiwarai1
 
 下北沢を訪れるのはたいてい夜だったのでこれまで気づかなかったが、けっこう古本屋が多い。ザ・スズナリの並びの古書店は以前から知っていたが、かつて踏切があったところに通じる道に二三軒ある古本屋には気づかなかった。
 その一軒の店頭ワゴンに、近代文学館発行の復刻版がたくさん出ていて、そのなかに、ちょっと珍しい土岐哀果の「NAKIWARAI」を見つけた。原本は20万円以上するが、復刻版もそうたくさんは見つからない。だが、需要がないのだろう、古書店には高くても1000円くらいで出ている。
 
Tokizenmaro
 
 哀果とは土岐善麿(とき・ぜんまろ)の号である。土岐善麿は明治から戦後にかけて活躍した歌人で、エスペランチストでもある。「ローマ字ひろめ会」なるものを結成し、日本語のローマ字運動をおこなっていた。日本語の漢字が新字体になる前で、庶民にとって読み書きは煩雑な漢字をおぼえなければならず、文学の広まりに障害となっていた。それを、ローマ字で表現することで、文学をより身近なものにしていこうと考えた。
 
Nakiwarai2
 
 しかしこれは、平仮名やカタカナだけで文章を作るようなもので、かなり無理がある。同音異句が区別できないので、言葉を選ばなければならないから、表現が限定される。だもので、ひじょうに読みにくい。これは慣れの問題ではないだろう。
 欧米の言語はアルファベットで表現されているが、スペルを変えるなどして意味をわかりやすくしているのだ。
 当然、「ローマ字ひろめ会」の思惑通りには広まらなかった。
 ちなみに、石川啄木も「朝日新聞社」時代に「ローマ字日記」を記している。これはどちらかと言うと、危ない内容にオブラートをかけるのが目的だったようだ。ローマ字であらわすことは、当時としては「進歩的」とみられていた。
 日本人が英語を苦手とするのは、先にローマ字を習うからだという説もある。いずれにしろ、日本語をローマ字に置き換えるというのは、いささか乱暴に思えるのだが、いかがだろうか。