ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

絶対観るべき!映画『主戦場』

2019年04月29日 | 映画


 「吉見義明さんという方はご存知ですか?」
 「は? よし……」
 「吉見義明さん。たくさん本を出している方です」
 「吉見義明さん? 知りません」
 「本をお読みになったことは」
 「わたし、他人の書いた本は読まないんです」
 
 信じられないかもしれないが、日本会議の代表委員を務める加瀬英明氏の発言である。
 この日いちばんの失笑が、客席に広がった。
 
 他人の書いた本は読まないって、要するに本は読まないってことだ。どこから情報を仕入れているんだか?
 
 映画『主戦場』は従軍慰安婦問題をテーマに、否定派と肯定派双方の話をインタビュー形式で収録したものである。
 そう言うとさぞかし退屈な映画かと思われてしまいそうだが、本編122分があっという間に過ぎてしまった。
 
 「もうすぐ中国はソ連のように解体しますから。そうしたら韓国は日本と友好関係をつくるしかない」
 「中国も韓国も科学技術が遅れていますから、日本の技術に頼るしかないんです」
 などという、自民党杉田水脈らのトンデモ発言もある。
 
 中華人民共和国とソヴィエト連邦とは国家のシステムがまったく違う。ソ連のように解体するなどありえない。何をかいわんやである。
 科学技術に至っては、中国も韓国も日本にひけをとらないどころか、すでに日本はさまざまな部分で追い抜かれている。
 中国も韓国も日本の科学技術に頼る必要などないのだ。
 まったく、いつの時代の話をしているのやら。
 
 まだ観ていない人にネタバレになってしまうのでこれ以上詳しくは書かないが、この映画、従軍慰安婦否定派・歴史改竄派たちのトンデモ発言が満載である。
 彼らの暴言を、吉見義明・林博史.中野晃一さんらがひとつひとつ反論していく。
 総じて、右派論客は研究不足、認識不足であることが結論付けられる。

 小さな映画館イメージフォーラムの100席は満席で、友人から「込んでるから早く行った方がいい」と言われてまさかと思っていたが、たいした入りだ。
 この手の映画で満席は珍しい。従軍慰安婦に興味を持っている人がけっこういるものだ。
 
 一言注文を付ければ、パンフレットの出来がよくない。それぞれの発言内容についてもう少し詳しくまとめて欲しかった。
 スタッフ・キャストもエンドロールのすべてが記載されている方がいい。
 そのエンドロールに友人の名前があった。
 「あ、かおりちゃんだ!」
 カミさんが声をあげた。MEの和太鼓の音に聞き覚えがあって、もしかしたらと思っていたのだが、エンドロールにKAORI ASANO Gocooとあった。
 和太鼓の名手浅野香君は数十年来の旧友である。
 
 それにしても、これほどたくさんの知った顔が登場する映画は珍しい。

 『主戦場』、全日本人に見て欲しい映画である。
 (2018年アメリカ 渋谷イメージフォーラムにて上映中)
 
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一生に一度の記念
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仲代達矢の『海辺のリア』

2017年06月11日 | 映画


 テアトル新宿で『海辺のリア』を観る。「リア」とはもちろん「リア王」である。だが、仲代さん自身は舞台でシェイクスピアの『リア王』をやっていないのではないか? (記憶違いだとしたら失礼)
 しかし、戦国版『リア王』といわれる黒澤明監督の映画『乱』に主演しているので、「リア」とまったく縁がないわけではない。
 
 ──この映画の脚本は仲代さんをモデルに小林(政広)監督が書かれたと思うのですが、最初に読んだ印象は?
 「小林監督とは『春との旅』、『日本の悲劇』に続いて3作目になるんです。ただ非情に親しくはしているんですが、あまりしゃべったことはなくて、今度もいきなりポンと脚本が来たんです。〝作れるかどうかわからないけれど、読んでみてください〟と。読んでまず感じたのは、これは僕のために書いてくれたんだなということです」
(パンッフレットより)
 
 役者として一世を風靡した桑畑兆吉(仲代)は認知症が進み、家族の顔さえも判別できない。離婚調停中の長女夫婦(原田美枝子・阿部寛)は、以前兆吉に邪険にされた経験があるものの、遺産と保険金目当で縁を切ることもできない。しかし面倒を見たくない長女は、高級老人ホームに兆吉を送り込む。兆吉はそこが気に入らず、逃げだして荒野ならぬ海辺をさまよう。
 偶然、家族の絆を断ち切られ、生きる術のすべてを失って海辺をさまよっていた娘の伸子(黒木華)に出会う。伸子はかつて、兆吉がかつてひどい仕打ちをして、家族ぐるみ追い出した末娘である。しかし、自分の娘であることがわからず、食べ物をねだり弁当を買いに行かせる兆吉を、伸子はなぜか無視できずに、時に罵声を浴びせかけながらも、認知症になった父との距離が縮まるのを感じていく。
 それでも、兆吉の目には娘としての伸子は写っていない。

 「おまえはコーディーリアだな」
 「ずっとあなたを恨んでいた。私たちを家から追い出したあなたを。殺してやりたいと思ってた。でも私はコーディーリアじゃない」
 
(パンフレット「完成台本」より)
 絶望した伸子は、海を起きに向かって歩いていく。

 エンディングは、『リア王』とは似て非なるもの。いや、非なるものであってほっとした。
 脚本がそうできていたのか、仲代さんが手を加えたのかわからないが、台詞に舞台色が強く出ている。最初は違和感を覚えたが、これは『リア王』なのだと思ったときに、スッと入り込むことができた。
 仲代達矢、84歳現役。高齢社会と、高齢者と家族のかかわり方をコミカルに描いた秀作である。
 映像の美しさと、仲代さんはもちろんのことだが、黒木華の熱演は必見。

降旗康男×木村大作『追憶』

2017年05月22日 | 映画

 
 監督降旗康男、撮影木村大作。
 降旗康男監督と木村大作カメラマンのコンビは、これまで数々の名作を生み出してきた。『駅 STATION』『鉄道員』『ホタル』『単騎、千里を走る。』などをはじめ、後年の高倉健の代表作ともいえる映画を制作し、また、三田佳子のベッドシーンが話題になった『分かれぬ理由』、満州開拓団の悲劇を描いた『赤い月』など、さまざまな話題作もある。
 降旗康男監督といえば東映ヤクザ映画の印象が強くて評価が分かれるところだが、ぼく自身はそのヤクザ映画も含めて嫌いではない。また、木村大作カメラマンは、豪放なイメージに反した繊細なカメラワークにいつも驚かされる。監督としても『劒岳 点の記』『春を背負って』という美しい2作品がある。
 
 『追憶』はコンビとしては10年ぶりだ。上映時間は99分で、最近の映画としては短い。しかし、極限まで無駄を排除し、テーマを凝縮した1時間半は、2時間超の作品をこえる内容の濃さを感じた。ストーリーはサスペンス・ミステリーの要素を孕みながらも、それはテーマの中心ではない。
 25年前、人が良くて男運の悪い女涼子(安藤サクラ)は、親に見捨てられ、施設にも馴染まない3人の男の子の面倒を見ていた。涼子を慕う三人は、出入りするヤクザ者から涼子を救おうと、男を殺害してしまう。しかし涼子は、子どもたちの罪を自分がかぶり、服役する。「このことは忘れろ。あんたたちは何もしなかった。もう二度と会わない」と。
 それから25年、3人の男の子、篤(岡田准一)、啓太(小栗旬)、悟(柄本佑)はそれぞれ結婚し家庭を持ち、問題を抱えながら必死に生きていた。
 しかし、倒産寸前の会社を守ろうと、啓太のもとを訪れた悟は、金を受け取ったその日に何者かによって殺害される。それから、25年前の出来事が徐々に明るみに出ていく。刑事になっていた篤は、啓太に疑いの目を向ける。それには、彼なりの理由があったからだ。
 登場人物の多くが親にめぐまれず、家庭環境に問題を抱えた子どもたちだ。現代社会には、そんな子どもたちが少なくないのではなかろうか。孤立した子どもたちを、社会はどのような目で見ているのか、どうするべきなのか。この国の豊かさから置き去りにされた子どもたちを、決して視界の外に置いてはいけないということを、この映画は訴えている、ような気がした。
 
 終盤、啓太の妻真里(木村文乃)の出自が明かされた時は、もしかするとと思ったが、驚いた。
 最後のシーンで、篤が母親の車椅子を押して海辺の夕焼けを見に行くシーン。木村大作カメラマンのフォーカシングが実に見事だ。心の中で、思わず「ウワー!」と叫んだ。実際には木村を中心にした複数のカメラマンが撮影しているので、このシーンを撮ったのが木村本人であるかどうかはわからない。だが、これは木村カメラマン以外には考えられない。岡田准一も東京ロケでカメラを回したそうで、どのシーンかわからないが違和感はなかった。映画製作にフィルムを使わなくなったからこそできることだ。
 
 監督とカメラマンにはもう一組、大好きなコンビがある。松本清張『砂の器』で一世を風靡した、野村芳太郎監督と川又昂カメラマンである。野村監督は川又カメラマンを、「自分の示した意図をはるかにこえた写真を撮ってくれる」と評価していた。野村監督は既に鬼籍に入り、川又カメラマンは91歳で顕在。
 あまり名前が出ることがないが、名監督には必ず名カメラマンがついている。
 

哀悼、鈴木清順監督

2017年02月27日 | 映画

出典:www.zakzak.co.jp
 
 2月13日、映画監督の鈴木清順さんが亡くなっていたことを、既に葬儀が終わったあとになって友人からのメールで知った。
 それからネットでニュースが氾濫して、詳細がわかった。93歳だった。
 年齢は関係ない。何百歳生きようが、ずっと生きていて欲しい人がいる。特に清順さんには、もっともっと映画を撮って欲しかった。
 

 
 最初に観た清順作品は、たぶん1963年の『悪太郎』だったと思うが、そのときは監督が鈴木清順とは知らず、ヒロインの和泉雅子目当てで観に行った。
 その後映画好きの友人に清順ファンがいて、誘われて観たのが『けんかえれじい』そして問題作の『殺しの烙印』。
 『けんかえれじい』は清順映画のシンボルとも言える桜吹雪が印象的だ。
 

 
 ところが、『殺しの烙印』が原因で清順さんは日活をクビになる。
 当時、青春物とアクション映画路線の日活で、社長の堀久作をはじめとした頭の固い経営陣に理解できない作品は御法度だったのだ。
 『殺しの烙印』は殺し屋が主人公のアクション映画であるが、ストーリーそのものよりも心理描写や映像美学に重点が置かれていて、当時の日活映画の方針とはだいぶ違っていた。しかしここに、以降の鈴木清順映画のスタイルを垣間みることができる。
 女優のヌードが頻繁に登場するため、今では考えられないほどのスミベタがつけられ、公開当初は成人映画指定であった。後にCS放送で観たときにはスミベタは取り払われている。修正を入れるかどうかは、確かに微妙ではある。
 

 
 日活をクビになって映画を撮れなくなった清順さんは10年後、松竹映画「悲愁物語」でカムバックを果たす。しかし、それも清順さんの創作意欲を満足させるものではなかった。
 そして、いっさいの制約を排除して創作した作品『ツィゴイネルワイゼン』が1980年に公開された。公開当初、この映画はどこの配給会社も手を上げなかった。日活や松竹の圧力もあったのだろうが、あまりにも斬新な映像に尻込みしたと言うのが本音だと思う。
 そこで考えだされたのが、空き地にプラネタリウムのようなドームを建てて、そこで上映するというもの。渋谷の、桑沢デザインの脇の空き地で観た人も多いのではないだろうか。それがおおかたの意に反して連日満員の大ヒットとなり、キネマ旬報ベストワン、芸術選奨文部大臣賞、日本アカデミー賞最優秀賞作品賞及び監督賞を獲得。ベルリン国際映画祭では審査員特別賞を受賞するなど、国内外で高く評価された。
 そうなると、配給会社も黙っていられず、一般上映館でロードショー公開となる。
 映画配給会社の調子よさは、現在も変わらず、昨年公開されたアニメ映画『この世界の片隅に』がまさに同様。
 
 鈴木清順監督作品は、たしか50作品ほどだったと思うが、なかでもぜひ見逃して欲しくない三作品をむりやり挙げておくと、①日活時代の代表作『けんかえれじい』、②清順ワールドを確立するきっかけになった『殺しの烙印』、③掛け値なしの代表作『ツィゴイネルワイゼン』ということになる。とくに『ツィゴイネルワイゼン』は、鈴木清順監督の代表作であるとともに、日本映画の代表作である。

国は守ってくれなかった。『相棒Ⅳ』

2017年02月19日 | 映画

 
 隣が工事をしていて、はげしい騒音で仕事どころか読書もテレビも見ていられない。平日は大きな音の出る工事は遠慮してもらっているのだが、どうしてもということなので、やむなく土曜日のみ音を出すことを許可したからだ。
 
 そこで、静かになるまで映画でも観に行こうとカミさんと出かけた。どうしても観たい映画はなかったのだが、さしあたりカミさんが観たがっていた『相棒Ⅳ』(僕としては『サバイバルファミリー』のほうが、スノーデンの暴露に連動しているようで、興味深かったのだが)を観る。
 けっこう面白かった。

 冒頭、トラック島(現在のチューク諸島)をアメリカの戦闘機が空襲するシーンで始まる。アジア太平洋戦争中、南太平洋のこのあたりは、サイパン、グアムとともに日本が占領していたが、敗戦間近になって日本軍は、一般住民を置き去りにして逃げ去ってしまった。残された住民の多くが、米軍の空襲で犠牲になった。
 トラック島から戦後、命からがら日本に帰還した天谷克則は、戦時特措法によって死亡宣告されていた。彼は国によって見捨てられ、殺され、存在しない人間になっていたのだ。

 そして現代、誘拐事件が起き、「テロリスト」は人質をとり、24時間以内に9億円の身代金を要求してきた。支払われなければ「大勢の人々の見守る中で、日本人の誇りがくだけ散るだろう」と、不特定多数の日本人を狙った、無差別大量テロを予告した。
 しかし政府は、「断固テロに屈しない」との立前のもと、「テロとの戦いで犠牲はつきものだ。我々は人間でいえば頭脳だ、多少手足に擦り傷がついても頭は守られなければならない」などと、一般人を見殺しにすることを公言し、しかも、人質の女性については一言もなかった。
 これは、中東で起きたかつての人質事件のとき、そして、ISに捉えられた日本人の身代金要求にも無視を決め込み、「自己責任」といって見殺しにした日本政府の態度に酷似している。
 日本という国は過去にも現在も将来においても、国民を守らないのだ。
 沖縄のオジイやオバアの、「兵隊は住民を守ってはくれなかった、それどころかじゃまにして殺した」というつぶやきが、過去のものではないことを物語る。
 「テロリスト」はそんな日本政府に対して、自らの身を挺して戦いを挑んだのだ。(彼らに対してテロリストという呼称はふさわしくない。だから括弧つきにした)
 
 まあ、結末は『相棒』らしく、それなりの「正義」をもって解決に導くのだが、たぶんドラマではできなかったテーマだろう。日本軍が住民を見殺しにしたなど、戦争のできる国にしようとしている現政権にとっては看過できない表現だからだ。地上波ドラマならたぶん、テレビ朝日は自粛しただろう。
 
 時間つぶしのつもりが、ちょっと徳をした気分だった。

オリバー・ストーン『スノーデン』を観る

2017年01月30日 | 映画

 
 NSA(米国国家安全保障局)職員、エドワード・スノーデンが米国最大の機密を暴露したのは、彼が29歳の時だった。
 2013年6月、イギリスの『ガーディアン』紙が報じたスクープは、アメリカ政府が秘密裏に構築した国際的な監視プログラムの存在だった。
 「誰を監視しているのか」
 「世界中全ての人間だ」
 
 これはまさに、ジョージ・オウエルが描いた『1984年』に匹敵するが、誰もが監視されていることに気づかないだけ、いっそう悪質である。
 携帯電話の会話は、100パーセント傍受されている。室内での会話はどこからどんな方法によって盗聴されているかわからない。いたる所に設置された監視カメラ以外にも、衛星画像やドローンなどで、必要とあればいつでも盗撮が出来る。
 アメリカの情報収集プログラムは、テロリストだけでなく、民間企業や個人にも及び、日本を含む同盟国まで対象になっていた。
 それだけではない、世界中全てのインフラを、遠隔操作で自由にコントロールできる。
 「日米同盟が破綻したら、日本は消滅するだろう」
 電気、ガス、水道、それに警察や消防、果ては病院の機能まで全て停止させることができるという。
 これはスパイ映画の話ではない、実際にアメリカが行っていたことなのだ。

 この映画の前に上映された予告編で、電気が全て停止してしまう「サバイバル・ファミリー」という映画の宣伝があった。洒落にならない。
 
 全世界の危機を感じたスノーデンは、並外れた能力に対するNSAやCIAからの多額の報酬と、輝かしいキャリア、恋人との安定した幸せな生活など、全てを捨てて重大な告発を決意した。
 
 もともとスノーデンは、コテコテの保守であったが、長年にわたってパートナーとして寄り添う、思想も趣味も真逆のリンゼイ・ミルズの影響で、ぶつかり合いながらも次第に自らの使命に気付いていく。強い絆を保ちながら、リンゼイを巻き込まないようにとハワイの自宅に残し英国での告発を決意する。
 
 国家反逆罪に問われ、米国に帰れば拘束され死刑は免れない。モスクワに亡命したスノーデンは、恋人のリンゼイ・ミルズを呼び寄せ、平穏な暮らしを送っている。
 
 エドワード・スノーデンとはどのような人物で、彼が暴露した重大機密とはどんなものなのか。そしてその機密とは、我われにどのような影響を及ぼす内容のものであったのか。日本国内ではあまり報道されていない実態がわかる、衝撃的な映画である。
 
 参考:「アジア記者クラブ通信」285号・286号(http://apc.cup.com E-mail:apc@cup.com) 

『この世界の片隅に』が1位

2017年01月18日 | 映画

 
 『この世界の片隅に』がキネマ旬報の2016年ベストテンの1位になった。
 2位が『シン・ゴジラ』で『リップヴァンウィンクルの花嫁』も6位に入っている。
 僕が昨年、高く評価した映画が3本ランクインした。
 一般の映画ファンは不思議に思うかもしれないが『君の名は。』はランクインしなかった。
 選出者がへそ曲がりだからではない、内容で評価すれば、この順位はまったく妥当だ。
 まあ、『シン・ゴジラ』が1位でもおかしくなかったと思うけれど。
 
 「キネマ旬報」は、月2回(上旬下旬)発行の、日本で最も古い映画雑誌である。さらに、キネマ旬報ベスト・テンは世界最古クラスの映画賞でもある。
 発足当時(1924年)は外国映画が対象で、まだ発展途上にあった日本の映画は評価の対象にならなかった。
 日本映画の賞が設けられたのは、それから2年後のことである。
 そして、20016年のキネマ旬報ベストテンは、第90回になる。
 第1位にアニメが選ばれたのは、『となりのトトロ』以来で28年ぶり。日本のアニメで僕が最も高く評価したい宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』は2001年の第3位。
 今回ランクインした中で、7位の『湯を沸かすほどの熱い愛』、10位の『怒り』も観たかったのだけれど、多忙にかまけてスルーしてしまった。DVDかCSで観るしかない。
 
 ところで、かすりもしなかった『君の名は。』だが、ファンは納得していないらしい。
 「意図的に除外された」とか、「選考基準がおかしい」などの批判がネットに溢れているけれど、これは選考基準が人気や興行収入よりも、内容重視で選ばれるためだから、批判は見当はずれである。見てくればかりで中味がすっからかんの映画がランクインするはずなどない。
 選考委員は120人前後で、映画評論家や新聞記者、映画雑誌編集者など、毎年数百本の映画を観ている人たちである。
 それぞれが1位から10位までを選ぶ投票制なので、他の映画賞のように会議ではないから、他人の意見に左右されることがない。
 だから、「意図的に外す」などということはあり得ないのだ。
 すなわち、映画をよく知っている人たちが個人の基準で選ぶので、マスコミの勢いや興行収入はほとんど選考基準にならない。
 
 1位になった作品は、今後、世界中で上映される。片渕須直監督は、世界中を飛び回って忙しくなる。そのための費用もクラウドファンディングだそうだ。
 すでに結構な金額が集まっていると聞く。ミーハー好みの『君の名は。』ではそうはいかないかも。
 

これぞ『パッチギ! LOVE&PEACE』

2017年01月07日 | 映画

 
 前作より百倍もよい!
 井筒監督が最初から撮りたかったのはこちらではなかったのか。
 ソフトタッチでヒットさせ、第2作で主張を明確にする、井筒監督の戦略か。
 
 前作から6年後にあたる、ヴェトナム戦争終盤の1974年。アンソン(井坂俊哉)一家は息子(チャンス 今井悠貴)の難病治療のために東京に移り住んでくる。
 ふとしたきっかけからキョンジャ(中村ゆり)が芸能界入りするが、自分の出自を隠さなければ仕事がない世界で、自らと葛藤しながら、それでもチャンスの治療費を稼ぐためにと、プロデューサーに取り入って大作映画のヒロインを勝ち取るのだが……。
 
 メインキャストは前作からほとんど変更され、ヒロイン、リ・キョンジャも沢尻エリカが出演を固辞したため、オーディションで中村ゆりに代わった。
 この撮影が行われた当時、沢尻エリカは年間5本もの映画を撮っており、続けて主演の『クローズド・ノート』が決まっていて、その作品発表会で素っ気ない態度をとったのは、忙しすぎてそうとう苛ついていたのだろう。断ったのは、映画の内容が理由ではなかったらしい。
 
 『パッチギ! LOVE&PEACE』では、前作では抑さえられていた民族差別や強制連行、従軍慰安婦問題などが扱われている。
 主軸の彼らの親の世代が描かれ、朝鮮の男達が日本軍に徴兵され、強制的に天皇への忠誠を誓わされたり、炭坑での強制労働に送り込まれるなど、当時の時代背景をしっかり描くことで、前作では不明確だったキョンジャ達のバックグラウンドが簡単ではあるが説明されている。
 南方に送られた朝鮮人達は、先住民が急造された神社の前で、日本の天皇に向けた拝礼をさせられているのを目撃し、唖然とする。
 
 キョンジャが体を張ってヒロインを射止めた戦争映画はひどいものだった。日本の戦争を正当化し、特攻を美化する、安倍晋三が大喜びしそうな映画である。キョンジャは納得できない台詞を変えるように監督に申し入れるが聞き入れてもらえない。プロデューサーも主演俳優も、キョンジャの味方にはならなかった。
 そしてその映画の舞台挨拶で、キョンジャはついに自分が在日朝鮮人であることをカミングアウトする。
 父が日本人から差別的な扱いを受け、日本軍による強制連行から逃れたことなど、自分が映画の内容に納得していないことを語った。
 会場は騒然となり、「朝鮮人は帰れ」と野次を飛ばした差別主義者のグループとアンソンたちのあいだで大乱闘になる。
 それにしても、キョンジャのカミングアウトシーンは感動的で、「よくぞ言った!」と喝采を送りたくなった。映画館ならそうしたかも知れない。
 
 余談だが「李」を「イ」と発音するのは韓国語で、朝鮮語では「リ」となる。李一家が日本に渡ってきた当時、朝鮮半島は日本の占領下にあり、南も北もなかった。したがって映画のクレジットでは、李慶子はリ・キョンジャになっている。

なぜか観ていなかった『パッチギ!』

2017年01月04日 | 映画

 (『パッチギ!』2005年 (C)2004「パッチギ!」製作委員会)
 
 当然観ていていいはずなのに、見落としている映画が少なくない。『パッチギ!』もその一つ。
 井筒和幸監督作品で2005年公開。翌2006年には韓国ソウルでも公開されたという。
 ブックオフにDVDが950円で出ていたので買って帰り、その勢いですぐに観た。仕事をはじめてしまうと観ずに積み上げてしまうからだ。
 正月だというのに原稿を読んでいる……やれやれ。
 
 京都の朝鮮高校と、対立する普通高校の生徒との葛藤と恋と友情を描く。日本版『ウエストサイド物語』である。
 この映画で言う「朝鮮」は必ずしも北朝鮮をさすわけではなく、朝鮮半島一般を指す。
 
 日本人の高校生松山康介(塩谷瞬)は在日朝鮮人の少女リ・キョンジャ(李慶子 - 沢尻エリカ)に一目惚れする。
 日本人と朝鮮人にまつわる民族問題が主軸でありながら、激しい差別的言動は押さえられている。
 最近、ヘイトスピーチ問題など極端な民族排斥主義が取りざたされているが、実際、現実的には表立って露骨な差別表現をする人間は少数である。もっとも、根の深いところで差別意識が隠れているものはすくなくない。だから、それらを総合して、この映画での表現はリアルだ。
 時代背景は70年安保闘争当時のことで、学校の先生が授業に毛沢東思想を持ち出すなど、世相を反映している。その先生が、朝鮮高校との友好関係を深めるためにサッカーの試合を提案するのだが、試合中に喧嘩が始まってしまい、目論見は破綻する。
 
 映画の製作に当たって、朝鮮総連の協力があったためか、公開当初から「朝鮮総連翼賛の宣伝娯楽映画」などという批判があったらしいが、一般的には高い評価を得てヒットした。
 同時に、音楽監督の加藤和彦によって作品内で使われた「イムジン河」や「あの素晴しい愛をもう一度」が実に効果的で、映画の質を高めた。
 この「イムジン河」という曲、レコード会社が「政治的配慮」から発売を中止し、同時にほとんどの放送局も、放送も自粛してしまった。映画内ではその事実とともに、地元ラジオ局が「放送して悪い歌などあるか!」とオンエアする。
 
 北と南だけでなく、日本と朝鮮の壁も取り払ってしまう若者パワーに感動。
 
 ただ、日本と朝鮮の間にある歴史問題についてはほとんどふれられていない。文化の違いについても、もう少し説明があってよい気がした。
 そう思っていたら、この続編とも言える『パッチギ! LOVE&PEACE」では彼らの父親世代のことについても触れていて、「朝鮮人強制連行」など、政治色が多少強くなっているようだ。こちらも是非観てみたい。
 ところが、マドンナのリ・キョンジャ役を沢尻エリカが断ったと言う。何が気に入らなかったのか。その代役として、在日コリアンの中村ゆりが演じている。
 沢尻エリカが、もし朝鮮・韓国に偏見を持っていて民族問題に引っかかっているとしたら、残念なことだ。

映画『サムライ』のカティ・ロジェ

2016年12月31日 | 映画

 
 『サムライ(原題:Le Samouraï)』は1967年公開、アラン・ドロン主演のフランス映画である。アランドロン主演の映画としては、最も好きな作品で次が『個人生活』あたりか。『ボルサリーノ』や『シシリアン』などメジャーな作品よりも、ちょっとB級がかった映画の方がいい。(ジャン・ギャバンと共演した『暗黒街のふたり』は別格として)
 フランス製フィルム・ノワール、要するにギャング映画に分類される。
 ジェフ(アラン・ドロン)は、孤独な殺し屋である。盗んだ車で現場に乗り付け、仕事を終えると車も銃もさっさと捨てる。ときに、依頼者に裏切られることもある、バックのいない弱さだ。
 警察の追及を逃れるため、愛人(ナタリー・ドロン)にアリバイを証言させたのだが、仕事の現場でクラブのピアニスト(カティ・ロジェ)と鉢合わせしてしまった。そのときから、そつなく仕事をこなしてきたジェフの歯車が狂い出す。
 
 最初のVHSは高価で買うことができず、その後2001年にDVD化されたもののずっと入手困難な状態になっていたのが、今年高画質版に修復されたものがブルーレイで出た。CS放送で今月放映されて録画を試みたのだが、地震速報が入ってしまい失敗。結局、オリジナルと野沢那智の吹き替えの両方が入った市販品を購入した。やっぱり、何度観てもいい。
 
 アラン・ドロンは人によって好き嫌いが激しい俳優で、とくに男性の映画ファンからは、キザだニヤけてると避けられる傾向にある。極めつけは来日した時(1984年)のエピソードだ。わざわざ吉原のソープランドに行って〝なさった〟という話が広がり、女性ファンからも顰蹙を買った。それで儲かったのは吉原のソープランド「歌麿」とお相手の泡姫丸千代だろう。それからアラン・ドロンと〝兄弟〟になりたがるアホな男達が押し寄せたそうだ。
 それはともかく、『サムライ』のドロンはかっこいい。ちょっとした仕草でも、つい真似をしたくなったものだ。
 
 この映画でひときわ目を引いたのは、共演の元妻ナタリー・ドロンではなく、本来なら重要な役でありながらあまり目立たないはずの、クラブのジャズピアニスト役を演じた、カティ・ロジェ。
 

 
 ネットで調べると、
 「カティ・ロジェ Cathy Rosier
 西インド諸島のグアドルーベ出身(1945・1/2~2004・5/17)
 モデル、女優、ミュージシャン
 1963年のジャン=ピエール・メルヴィル監督作品の『サムライ』が代表作品。皆様ご存知のピアニストの役を好演してます。
 『サムライ』ではショート・カットだったので、『シシリアン』に登場の写真は雰囲気がまるで違いますが、リノ・ヴァンチュラ、ブリジット・バルドーが主演した『ラムの大通り』ではロング・ヘアーで出演しています。

 *無断引用失礼します。(http://blogs.yahoo.co.jp/astay76astay/20673795.html)
 とある。
 
 当時流行した、ブラック・ビューティの代表的な女優だが、代表作といわれる『サムライ』以外はぱっとせず、日本ではあまり知られていない。
 吹き替えなしでピアノを弾き、抜群のスタイルとやや影のある表情が、日本のファンを引きつけた。当時はフランスの女優と言えば、カトリーヌ・ドヌーヴやソフィア・ローレンのように派手なタイプが多かったから、カティ・ロジェは美人ではあるものの花の大きさで敵わなかったということか。
 この映画が公開されたころ、仕事仲間で後に岩波書店に入ったK君と頻繁に映画を観にいっていた。そのK君、カティ・ロジェに一目惚れして、すっかりご執心だったが、残念なことに、その後は彼女が目立った役を演じることがなく、やがてフェードアウトしてしまった。生きていれば71歳の彼女、59歳での早世だった。

『悪の紋章』(1964年)を観る

2016年12月09日 | 映画

 
 このところ、なかなか時間が取れなくて、読もうと思って買い込んだ本がデスクの脇に積まれっぱなしになっている。
 そんな状態なので、どうしても観たかった2時間超のこの映画も通して見ることができず、就寝前の数十分を使って何度かに分けて観た。
 ただ、公開時に一度観ているので、筋はおおかたわかっているから、そんな観方をしても差し支えない。
 
 ヤクザ映画のようなタイトルだが、れっきとした名画である。原作・脚本の橋本忍は、黒澤明、山本薩夫、野村芳太郎らの巨匠と組んで、数々の名作を世に出した、超一流のシナリオライターである。
 主演は山崎努、ヒロインにまだ20代の新珠三千代、他に岸田今日子、佐田啓二、大坂志郎、戸浦六宏、佐藤慶、志村喬ら、現在では超大物俳優とされる面々がぞろぞろ出演している。
 ミステリーなので詳細は避けるが、あらすじは以下の通りである。
 
 周囲の裏切りから、麻薬に手を染めた悪徳警察官の汚名を着せられた警部補・菊池(山﨑努)は、無実の罪で投獄される。出所後、菊池は名前を変え、自分を陥れたヤクザ、新聞記者、自分を裏切った妻らに復讐を誓う。そして、自分が転落するきっかけとなった事件の裏に潜む悪と対決する。
 電車の中で女性(新珠三千代)のバックから定期入れをスリとった犯人を捕らえ取り返すのが事件の始まりだった。それを縁に、二人はそれぞれの目的に向かって、また、男と女として歩み始めるのだが…。
 
 こう書くと、ごく普通の2時間サスペンスみたいだが、そこは巨匠達に鍛えられた橋本忍の脚本である。登場人物がことごとく十重二十重の裏を抱え、複雑な人間模様を描いていく。最後のどんでん返しまで、実に見事だ。最近のサスペンスドラマのように、リアリティのないトリックや無理な設定がない。それでいて最初から最後まで緊張感が保たれている。
 途中まで観て続きはまた明日にしようとストップをかけるのには、大変な覚悟が必要だった(まさか徹夜するわけにもいかず)。
 
 公開時、この映画は18歳未満お断りの「成人指定」がされていた(僕はぎりぎり18歳だった)。どこが引っかかったのかと言えば、導入部の数十秒間と途中の数秒、女の全裸死体が川を流れている描写があるからだろう。見えるのはほとんどが背中で、水中撮影もあるのだが画面が暗く、乳房などは目を凝らさなければ見えない。そんな映像を観て「ま、いやらしい」という女性も「あそこがどうにかなってしまった」という男性もいないだろうに。今ならPG12にすらならなかったと思うのだが。
 この映画ではないが、ベッドシーンで男がズボンをはいていた時代である。なのに、過激な残酷シーンはお咎めなしで、逆に「成人指定」にさえすれば、三流館で上映されるピンク映画など、かなりきわどい描写までOKだった(ただし、ヘアはノー)。そんな時代だったのだ。
 
 映画が公開された1964年といえば、前回の東京オリンピックの年である。国電(今のJR)は小豆色、自動車のヒルマンや全日空のYS-11などが見られる。小型録音機はおろか携帯電話もない時代だから、人探しも聞き込みも、現在とは比べ物にならない苦労があったろう。冒頭の全裸殺人事件はわずか数ヶ月で迷宮入りにしてしまうし、菊池(山﨑努)の冤罪に至っては、今なら明らかに証拠不十分。そのあたりは脚本が甘いのではなく、時代背景として観た方がいい。
 モノクロで2時間超は、鮮明な映像に慣れた人には辛いかもしれないが、観ておいて損のない名作である。

劇場版アニメ『この世界の片隅に』

2016年11月28日 | 映画

 
 マイナーな公開だったので、はやく観に行かなければ終わってしまうと思いつつ、なかなか時間が取れないでいたがやっと日曜日の最終回を観ることができた。
 大手が配給を拒否した中、テアトル新宿や渋谷ユーロスペースなどの限られた映画館で、大ヒットアニメ『君の名は。』の十分の一にも満たないスクリーン数にも関わらず、公開最初の週でのランキング10位になった。満足度に至っては、8週連続一位だった『君の名は。』を凌いで第1位に輝く。
 
 日曜日のテアトル新宿は全回全席が満席で、最近の映画館には珍しい立ち見が出ていた。(消防法上大丈夫なのだろうか)
 このての映画は、通常は年配者が多い傾向にあるが、主役が久々に登場したのん(能年玲奈)と実写でなくアニメだからだろうか、客席には若いカップルが目立つ。
 のんの演技は実に見事だった。テクニックに走る傾向にあるアニメ声優にはない、感性の豊かさが見られた。
(彼女がしばらく干されていたのは、マスコミで報道されているような洗脳騒ぎではなく、金づるに逃げられたプロダクションの報復だろう)

 先だって『君の名は。』を観て、あまりの内容のなさに辟易とした後だったから半信半疑だったが、2時間を超える大長編アニメを全く退屈せずに観ることができた。
 ほぼ原作通りに作られていて、しかも、原作ではわかりにくかったユーモラスなシーンが、アニメにすることで際立ち、戦時下であっても庶民は年がら年中ぴりぴりしていはなかったこともよくわかる。憲兵による規制や、配給制による物資の不足など、不自由な状況にあっても日常を平穏に過ごそうという庶民のいたいけな努力がうまく表現されていた。
 尺の大半がいわゆる銃後の暮らしで占められていたことも、悲惨な表現にアレルギーを起こす傾向にある若者世代にも受け入れやすかっただろう。
 もんぺのつくり方、野草料理の手順なども、ていねいに表現されていて試したくなる。滑舌のいいのんのナレーションが小気味よく耳に入ってくる。
 終盤の空襲シーンはそれなりに遠慮することなくしっかり描かれていた。この物語のヒロイン「すず」が右腕を失うシーンは、衝撃的ではあるが、ショックを和らげる工夫がされていたことに、好感が持てる。
 
 ただし、焼夷弾が屋根を突き抜けて部屋に落ち火災になったのを、布団を被せて消すというのは、とんでもないウソである。当時は「防空法」という法律があって、「逃げるな、火を消せ」と命令されていた。焼夷弾はスコップに載せて庭に放り出せとか、水をかければ消えるなどという能天気なポスターが張り出されていた。それに従ったのであろうが、布団を被せたり水をかけても焼夷弾の火は消えない。
 もっと驚くのは、そんな被害にあった部屋が、後のシーンで焦げ跡一つ残っていないのには「ウソだろ!」と。
 (見落としかもしれないが)原作にそんなシーンがあった記憶がないので映画で足したのだろう。誤解を招くからあまり重要でないシーンなので、修正するか削除が望ましい。(参考:大前治『逃げるな、火を消せ!』合同出版)

 細かな点で、「アレッ」と思う個所がいくつか見受けられるが、先の焼夷弾シーンを除いては総体的によくできている。
 
 北川景子主演のドラマも観たが、戦時下の暮らしに暗い部分が多かった記憶がある。それと、主演が北川景子では、美人すぎるし能天気なキャラクターが表現しきれない。5年前に誰がいたかうまく当てはめられないが、今なら黒木華がぴったりだと思う。昭和顔と、「リップヴァンウィンクルの花嫁」で見せた上手なピント外れがいい。
 

 
 ロビーに、当時の雑誌やキャラメル、草履、手提げ、などを復元して展示していた。アニメだから小道具に使う必要はないのだが、わざわざ作ったのだろうか。

『シン・ゴジラ』と『君の名は。』

2016年11月19日 | 映画

 
 今年は2本の日本映画が大ヒットした。めったにない現象だそうだ。
 興収は現在のところ、『シン・ゴジラ』が約79億円、『君の名は。』が約184億円。
 『君の名は。』に至っては、邦画の歴代興行収入第4位にランク。ジブリの『風立ちぬ』の、2013年の興行収入約120億円の1.5倍だというから、まさに〝びっくりぽん〟である。
 2本とも公開早々に観に行った。ある程度はと思っていたが、まさかこれほどのヒットをするとは想像していなかった。
 もうネタバレしてもいいだろうから、書いてしまおう。
 
 僕の評価は、圧倒的に『シン・ゴジラ』に軍配を上げる。まったく傾向の違う映画だから比較にならないと言ってしまえばそれまでだが、そういうことはさておいて、内容の問題だ。
 まず『シン・ゴジラ』。出演者の演技が素晴らしい。特に、二人の女優、石原さとみと市川実日子の演技が見事だった。石原は得意の英語を駆使して、日本語にクセのある米国大統領特使の役をものの見事に演じた。日本語が得意だと自負する日系米人のしゃべりは「たしかにああだよなあ」と思わせる。僕がアメリカで世話になった通訳の女性と、話し方がそっくりだった。
 市川実日子は難しい台詞を早口に、しかもはっきりと聞き取ることができる。滑舌の良さは、最近の若手女優の中では出色である。
 
 ゴジラ映画は第一作に始まって第一作に終わると思っている。ゴジラシリーズは日米でずいぶんたくさん作られているが、第一作以外はすべて駄作だ。
 『ゴジラ』第一作には、反戦・反核のメッセージが込められていることは以前にも書いた。『シン・ゴジラ』はその第一作のポリシーを踏襲しながら現在の状況にリンクさせている。そのメッセージ性が押し付けがましくないから、社会問題を扱うとアレルギーを起こす最近の若者にもそれなりに評価された。しかし彼らの多くは、『シン・ゴジラ』に込められた、反核・脱原発のメッセージには、どうやら気づかなかったようだ。
 パニックシーンよりも、司令室の描写が多く、大混乱する政府閣僚の姿は3.11のときにもこうだったんだろうなと想像できる。ゴジラ退治に核兵器を使用するのを許さない日本のあり方には好感が持てる。ただ最後に、凍結させたゴジラが東京のど真ん中に聳え立っているのは何とも不気味で、あれが解凍したときにどうなるのかと思うと恐ろしい。原発とオーバーラップする。
 
 『君の名は。』は、深く考えずに観ればストーリーはそこそこ面白いし、構成も演出もよくできている。ただ、そこかしこに設定の上での突っ込みどころが満載で、内容的には『シン・ゴジラ』と比べるとスカスカで中味がない。わずか3年差のパラレルワールドにどんな意味があるのかわからない。これが戦時中と現代であればもっと深い内容になったのだろう。しかしたった3年では、時代背景がほとんど変わらないから、菊田一夫の『君の名は』と同じで、数寄屋橋をはさんで並行する世界が最後はメビウスの輪のように出会っていくメロドラマを現代に置き換えたに過ぎない。
 彗星の落下を3.11のような災害に見立てたらしいが、それがそもそも無理がある。天体が落下するなら、当然世界的な大問題になるはずなのに、小さな村だけの事件におさめてしまっている。
 つまらなくはない、しかし184億円もの興行成績を上げるような作品とは到底思えない。ジブリの『千と千尋の神隠し』に比べたら雲泥の差だ。
 どうやら、日本の全国民が、マスコミの喧伝に乗せられたということではなかろうか。

ドキュメンタリー映画「バナナの逆襲」

2016年01月15日 | 映画

 

「バナナの逆襲」の試写会に行く。

 まるでファンタジー映画みたいなタイトルだが、「バナナをめぐる“甘くない”ドキュメンタリー」である。

 アメリカのメガ食品会社ドール・フード社は、中米ニカラグァに広大なバナナ農園をもち、現地の安い労働力のもと莫大な利益を上げていた。
 ドール・フード社はバナナの栽培に有害な禁止農薬を使用しており、農場で働く労働者たちに、がん発症や無精子症による不妊被害などを引き起こしていた。
 農場では、水に溶かした有害な農薬を飛行機を使って空から大量に散布する。その下では労働者たちが裸足で働き、農薬を頭からかぶる。
 
 ドール・フード社は、その実情を描いた映画がアメリカで上映できないように、潤沢な財力にものを言わせ、マスメディアをコントロールして、想像を絶する過激な妨害工作を行った。
 映画はロサンゼルス国際映画祭でプレミア上映されることになっていたが、直前になって企業側は映画祭での上映中止を要求、ゲルテン監督を訴えたのである。
 
 そうした中、ニカラグァの12人のバナナ農園労働者が、農薬被害を訴え、アメリカの巨大企業を相手取って訴訟を起こした。勝ち目はないと思われた裁判だったが、ヒスパニック系の敏腕弁護士ホアン・ロドリゲスによって、巨大企業の悪行を暴き追いつめていく。
 
 この映画は多国籍化する食糧生産システムの闇だけでなく、TPP問題やグローバリズムといった世界中に広がる歪んだ構造を描き出している。
 まるで、サスペンスドラマのような展開のドキュメンタリー映画だ。
 
 映画は2本立てで、1本はゲルテン監督が告訴される要因となった「Bananas!」(87分)、もう1本は12人の農場労働者が薬害を訴えた裁判闘争の「Big Boys Gone Bananas!」(87分)。
 
 2月27日(土)より渋谷・文化村「ユーロスペース」でロードショー。
 試写会は2本立てだったが、ロードショーはそれぞれ別料金になる。

映画「杉原千畝」を観る

2016年01月04日 | 映画


 昨年の暮れ、数人の学生を含むグループで飲んでいたとき、まず驚いたのは、杉原千畝を知らない、という人が年齢を問わず多かったことだ。さらに、この映画の主役で杉原千畝を演じる唐沢寿明が、台本を受け取った時点では、「ユダヤ難民の方々にヴィザを発給した人がいたことは知っていましたが、杉原千畝さんの名前は知りませんでした」というのだから、名前だけでなくある程度の功績を知っているという人は少数派なのかもしれない。
 その理由は、大日本帝国時代の日本政府にとっては好ましからぬ人物であり、ずっと外務省がその存在すら認めてこなかったことから、敗戦後、新憲法下の日本にあっても、標準的な日本の歴史や学校教科書に載らなかったからだ。
 だから、彼の功績が公に認められた2000年まで、一部書籍などによる紹介以外、大多数の日本国民に知られることがなかった。
 
 手元に2冊の本がある。彼の妻杉原幸子さんによる『六千人のいのちのビザ』(1993年 大正出版)とアメリカの歴史家、ヒレル・レビン著『千畝』(1998年 清水書院)だ。
 『六千人のいのちのビザ』は細君から見たドキュメンタリーで、人間としての千畝がよくわかる。『千畝』は外交官としての杉原千畝の葛藤を分析したもので、あまりあてにできない部分もあるが、千畝が生きた当時の世界の動きがよくわかる。
 発行はいずれも、まだほとんどの人が名前すら知らない時代の20世紀末であるが、『六千人のいのちのビザ』は2005年にテレビドラマになっている。
 杉原千畝の名前が一般に知れるようになったのは、このテレビドラマのおかげと言っていい。
 
 映画は1934年、千畝が満州国外交部にいたときから始まる。
 画面には満鉄のアジア号が雪の広原を疾走するシーンが映し出されるが、わざわざ作ったのか100パーセントのCGか。
 外交官というのは情報を集めることが目的の言わばスパイである。
 堪能なロシア語と独自の諜報網を駆使してソ連から北満州鉄道の経営権を有利に買い取る交渉を進め、それに成功したものの、協力を要請していた関東軍の裏切りから多くの仲間を失う。モスクワの日本大使館への赴任が決まっていたが、それを取り消される。
 1939年、彼としては不本意だったがリトアニアの首都(当時)カウナスに赴任。そこで多くのユダヤ難民を目の当たりにする。彼らナチスの迫害から逃れるため、領事館に日本への通過ビザを求めて訪れるが、ドイツは日本の同盟国であり、政府に許可を求めても拒否されることが目に見えていた。
 そこで千畝は、独断でビザを発行することを決断する。しかしこれは、大日本帝国政府に対する裏切り行為ともとられるものであった。
 千畝は、ソ連によって領事館の撤退を求められ、期限一杯カウナスの駅で発車ベルがなるまでヴィザを発給し続けた。
 

 
 そうして杉原千畝が発行したビザの数は2139枚。同行する家族を含めると、千畝の「命のビザ」で救われたユダヤ人は、少なくとも6000人に上ると言われる。そして現在、その子孫たち40000人が世界中で暮らしている。
 
 杉原千畝は保守の外交官であり、共産主義には否定的で日本政府のあり方を根本から覆す意図は毛頭ない。しかし、助けを求めて領事館に押し寄せるユダヤ人たちを、人道的な見地から見過ごすことはできないと判断したのだ。つまり、決してうまくいくはずはないと語って来たドイツとの軍事同盟よりも、人命を重視したのである。
 
 ただ、終盤のシーンで、優雅にパーティーを開いているシーンとカットバックでサイパン陥落や沖縄への米軍進攻など、戦況が悪化する日本とヨーロッパとの温度差が描かれる。何のためのシーンだったのか。杉原千畝には戦況が正確に伝えられていなかったということを言いたかったのか、そんなはずはないのでよくわからない。
 ポツダム宣言受諾に微妙な反応をするのは、そういった意味があってのことなのか。このあたりは、幸子さんの『六千人のいのちのビザ』とニュアンスが異なる。
 
 組織に逆らうということは、自らの命も危うくする。組織に所属するものは、たとえ命令や指示が理不尽であっても、自分の身を護るためには従わざるを得ない。
 現代の日本に第二の杉原千畝が現れることは、決してあるまい。
 
 日本のシーンも含めて、すべての撮影がポーランドで行われた。上映時間約2時間半、長尺だが長くは感じなかった。そして、感動的な余韻を残し、上映が終わってからも席に留まる人が多数いた。もちろん、エンドロールが始まると座席を経つような不届きものは……ああ、前の方の席に一人だけいたなあ、残念。