昨年12月に放送されたのを録画しておいて、そのままになっていたNHKBSプレミアムのドキュメンタリードラマ、
「ナンシー関のいた17年」を観た。
生前、活躍していた当時は、消しゴムで似顔絵版画を描く人、という程度の認識だった。それが突然死んだというニュースが入ってから、さまざまなところで特集番組や雑誌記事が組まれ、「ああ、人気があったんだなあ」と初めて認識した。彼女が活躍していた当時の僕は、たぶん全く別なところに興味があって、週刊誌などに眼を通すことがなかったのだと思う。実際、タウン誌や週刊誌が嫌いだった。今でもあまり好きでない。
それはそれとして、消しゴムで版画を描くって、それって、中高生の授業中のいたずらではないのか? 僕の中高生時代にも器用なやつがいて、消しゴムでスポーツカーを作って、それをシャープペンシルのバネで飛ばして友だちと競い合っていた。
僕はそのたぐいのいたずらはやらなかった。真面目だったからではない、消しゴムがもったいなかったからだ。
妙に保守的なところがあって、「モノ」には本来の目的というのがある。つまり消しゴムは鉛筆で書いた文字を消すことが目的。その目的を違えた使い方をするというのは、消しゴムに対して失礼であると考えていた。だから、消しゴムで版画を描くというナンシー関の行為には、少なからぬ驚きだったが、あまり好感を持てなかったことも事実だ。あんなものが仕事として認められるということにも驚いた。
しかし、消しゴムは文字を消す道具以外の何ものでもないと決めつけてしまうのは、それこそ消しゴムの可能性に枠をはめていることになる。だいいち、誰が決めたわけでもなく、「消しゴムは文字を消す以外に使用してはならない」などという法律もない。
たとえば、マッチ棒で戦艦大和を作る者もいれば、割り箸で小さなこけしを作る者もいる。それらはすべて、本来の目的から離れて、創造物の素材の一つと考える発想で、発想の転換はアーチストの基本中の基本である。
20代の頃に十二指腸潰瘍で入院していたとき、同室の同年輩の男が、歯ブラシの柄を削って小さな下駄を作り、それを根付けにしてお気に入りの看護師にプレゼントしていた。それが実に上手で売り物にしても良さそうなほど完成度が高く、もらった看護師もちょっと嬉しそうだった。彼はドヤ顔で2足目に挑戦したが、完成する前に退院してしまった。
「ガラスの底に顔があったっていいじゃないか」という岡本太郎の発想から、あるウィスキーのコマーシャルが生まれたことがあったが、それもグラスを彫刻の素材と考えてのことだ。
つまり、ナンシー関にとって消しゴムは、「ケシゴム」という名前の素材だったのだ。(ちなみに、消しゴムの原料はゴムではなくプラスチックである)
ナンシー関の場合、版画の大きさが消しゴムの大きさに限られる。大きな作品はいくつもの消しゴムを並べて作る。だったら消しゴムメーカーに断裁前の大きな板を注文すればいいものをそうしなかった。彼女ならそれは出来たはずだが、あの大きさにこだわった理由は、ドラマではわからない。
ナンシー関の人間像は、そんな訳でほとんど知らなかった。異様に太った巨体に似合わない、小さな版画というアンバランスで、あの姿は一度見たら忘れない。
彼女を見出したのは、当時「ホットドックプレス」の編集部員だったいとうせいこうで、「ナンシー関」というペンネームも彼が考えた。本名は関直美。版画に注目しただけでなく、コラムニストとしての才能を見出したのも彼だ。
急速に人気が高まった彼女は、膨大な仕事を引き受け、しかも締め切りに遅れることはない。編集者にとってこんなにありがたい作家はいないから、ますます仕事が増える。生涯で5千を超える作品を残した。ほぼ毎日一つは作っていたことになる。加えてコラムも書いていたのだから、確実に限界は超えていたはずだ。
義理堅くもあったようだ。
多忙な時間を割いて友人たちとの食事会に出向き、仕事が残っているからと中座して帰宅する途中、タクシーの中で倒れた。
病院に担ぎ込まれたものの、翌未明に息を引き取った。虚血性心不全、心筋梗塞である。
見るからに太り過ぎの体型に加え、ヘビースモーカー。その体で無理を重ねれば心臓は悲鳴を上げる。
まさに、走り抜けた生涯、という印象だった。
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「NHKBSプレミアム。プレミアムって何だ?
それはさておき、ドキュメンタリードラマ『ナンシー関のいた17年』を観た。
ナンシー関の人生を描く、とか言っておいて、結局お涙頂戴ってどうなのよ。
保険かけてどうする。
NHKの限界を見た。
合掌。」