ひまわり博士のウンチク

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【お知らせ】圧殺の海 ─沖縄・辺野古─

2015年01月29日 | おしらせ


*小さいアイコンクリックで核大。
 
 イスラム国による日本人人質のニュースが連日大きく報道されているなか、沖縄ではいま、県知事の作業中止要請を無視し辺野古に大型作業船が入り、コンクリートブロックが海に沈められ、強行に工事がすすめられている。
 この重大ニュースは、マスメディアではほとんど報道されない。新聞やテレビが安倍政権と広告主である財界に慮って自粛していることがわかる。
 先日も国会包囲行動を大きく報じたのは、東京では『東京新聞』だけだった。
 
 この映画は、沖縄・辺野古の現状を伝えるだけでなく、憲法9条をないがしろにした集団的自衛権の閣議決定に基づいて、軍事大国へとひた走る日本の実情に、日本人が向き合うことを目的に制作された。
 
 2月14日より「ポレポレ東中野」にてロードショー。
 当日 一般1,600円/学生1,300/中高1,000円/シニア1,100円
 前売り券1,000円
 
 問合せは ポレポレ東中野 03-3371-0088
              http://www.mmjp.or.jp/pole2/
 

 映画の内容ではないが、海上保安庁による暴行が写真に撮られている。
 
 
 
 海上保安庁の隊員が、ゴムボートに乗って抗議する女性を足蹴にする。
 「落下しそうだったから、足でおさえた」とか、「ゴムボートに乗り移ろうとしてたまたまこのような格好になった」などと言い訳をしたそうだだが、実はこの写真は連写でとらえられていて、明らかな暴行であることがわかっている。

最近の出来事から

2015年01月28日 | ニュース
プライオリティはどこに
 後藤健二さんを拘束している「イスラム国」は、自爆テロ事件の実行犯としてヨルダン刑務所に収監されているサジダ・リシャウイ死刑囚の釈放を要求してきたが、その時間を「残り24時間」と区切ってきた。これまで「イスラム国」は宣言したことを実行に移さなかったことはないと言われ、後藤さんはかなり危険な状態にある。
 
 日本政府はこれまで「人命最優先」と言ってきた。しかし実際の行動はどうか。テロリストとの交渉はしないというアメリカの方針に慮って、独自に交渉を進めようとせず、ヨルダンなど外国に依頼し、直接交渉は行っていない。日本国民には努力しているように見せているが、実際は手をこまねいているに等しい。すなわち、日本政府にとっての最優先は日米同盟であって、直接交渉のようなアメリカの気分を害することはしない。つまり、言い訳はいくらでも付けられるだろうが、後藤さん解放に向けてできることをすべてやっているようには思えない。
 しかも、最近の安倍首相の発言からは、この事件に乗じて集団的自衛権の行使を急ごうとしているようにすら感じられる。
 おそろしいのは国民感情だ。これでもし、後藤さんが殺害されるようなことがあれば、「それやっつけろ」とばかりに、日本国中に好戦的なムードが漂うだろう。これはまさに、太平洋戦争開戦前夜と同じだ。「戦争になれば死ななくてもよい人が大勢死ぬ」と言う現実が見えなくなる。安倍晋三の思うつぼだ。
 
なぜあやまるのか
 今回の事件に関わる政府の対応を批判した共産党の池内沙織衆院議員のツイッターが炎上したそうだ。「イスラム国」を批難せず、人質解放に努力している政府を批判するとは何ごとか、というわけである。 
 ツイッターというシステムの性質上言葉足らずであったことは否定できないが、日本人ジャーナリストが拘束されている状況の中で、使用目的がなんであれ「イスラム国」対策に2億ドルの支援を表明するというのは、あまりに軽率に過ぎ、人命軽視と批判されて当然の行為だ。「イスラム国」側にとっては宣戦布告である。
 しかし、驚いたのは志位委員長だ。池内議員のツイッターを全否定してかつ戒めた。言い方に問題や言葉足らずがあったにしろ、日本政府の対応が口先だけで実行が伴っていないように思えるのは彼女だけではないだろう。池内議員としてはただあやまるのではなく、真意をきちんと伝えることの方が重要だったのではないか。
 
 多くの場合人は、言葉尻をとらえてその真意を知らずに批判することが多い。したがって、発言者が真意を伝えないままあやまってしまうと、本当に「間違った発言」にされてしまう。
 
 それに関連してもう一つ。
 
なぜあやまるのか2
 全勝優勝で元横綱大鵬の優勝記録を塗り替えた白鵬の、記者会見出のことである。「疑惑の一番」ということで13日目の取り直しについて審判批判をした。勝敗は「子どもでもわかる。取り直しの必要はなかった」という。たしかに、ビデオで見る限り相手力士の腕が先に落ちているように見える。しかし同時に、白鵬の足が裏返っていて、足の甲が砂を払っているようにも見える。したがって、同体取り直しは妥当な判断だろう。

 しかし、横綱白鵬が感情的になった理由は他にあった。
 本人に詳しい体験を聞かなければわからないことだが、彼が言いたいのは相撲界における人種差別ではないか。熱心に相撲を見ているわけではないので、無責任と批難されることを覚悟で言えば、外国人力士が日本人力士と対戦する場合、微妙な結果だと日本人力士に軍配を挙げてしまうといった事例があったのではないだろうか。いや、少なくないのだろう。
 近頃の大相撲は外国人力士の活躍が目覚ましい。横綱は全員がモンゴル出身、ほかにエジプトやヨーロッパ出身の力士もいる。ところが、日本の伝統的な国技とされる大相撲は元来封建的な体質で、ファンもすべてではないが似たり寄ったりだ。外国人力士が日本人力士に勝つと座布団を投げたり罵声を浴びせたりする。
 メディアはあまり表面に出さないが、相撲界にはファンも含めて、人種差別意識が存在していて不思議はない。いみじくも同じ会見で白鵬は、日本語があまり上手ではないので発言の意図が伝わりにくかったとはいえ、肌の色や出身国を理由にした差別についても触れている。
 これも、あやまる前に真意を伝えるべき事例だ。
 
 記者会見の場での審判批判は、横綱の品格を欠く行為だと批判されても仕方がない。だが、モンゴル出身の横綱にとって相撲はスポーツである。理屈ではわかっているだろうけれど武道と位置づける日本の文化との違いをきちんと理解しろと言っても難しい。しかし、いまの大相撲が外国人力士の存在なくしては成り立たないことも事実だ。もし、相撲界に差別意識があるのなら、今回の白鵬の発言を機会に徹底的な調査をし、改善に努めるべきだろう。また、ファンに対しても、客席からの差別的な行動や発言は慎むべきと、相撲協会から指導するべきではないだろうか。

クライスト『ミヒャエル・コールハースの運命』

2015年01月26日 | 本と雑誌



 文庫の棚の中で、いかにも早く読んでくれと言わんばかりに頭が飛び出した本があったので引き抜いたらこれだった。
 だいぶ前に神保町の古本屋のワゴンの中に見つけて、たしか50円で買ってそのままになっていた。
 奥付は昭和16年発行になっていて、この頃の岩波文庫は用紙が菊判だものだから現在の文庫と比較して数ミリ背が高い。
 横書きのタイトルがアラビア語みたいに右から左に書かれており、本文は当然旧字旧仮名である。
 もちろん、新字体新仮名遣いに直したものが出ている、いや、出ていたが(現在品切れ)、ときどきこうした旧字旧仮名を読んでおかないと、いざという時に読めなくなる。いざという時とはどんな時だと突っ込まれると困るが。まあ、読めるんだという自慢である。
 

 
 クライスト(1777 - 1811年)はドイツの劇作家である。代表作は『こわれがめ』。俳優座が1964年に千田是也演出、東野英心主演で上演したことがある。東野に誘われて観に行った。
『ミヒャエル・コールハースの運命』は、クライストの小説作品では代表作。テーマは、権力者の理不尽に対し、敢然と立ち向かった市民の物語である。
 
 博労(ばくろう)のミヒャエル・コールハースは、自らが育てた数頭の見事な馬を引いてザクセンに向かうが、トロンケンブルク城に近づいたとき、通り抜けるには通行証が必要だと言われる。以前ここを通ったときには必要がなかったのでコールハースが抗議すると、領主が替わって通行証が必要になったという。やむなく通行証を貰いにドレスデンまでとりにいくことになり、保証として特に手入れの行き届いた自慢の黒馬二頭とそれを世話する牧童とを預けドレスデンに向かう。しかしドレスデンに着いてみると、通行証が必要という話は嘘であったことがわかる。コールハースが城に戻ると、保証として置いていった馬はろくに飼い葉も与えられていなかったばかりか農作業などにこき使われ、やせ細って見る陰もない駄馬に変わり果てていた。コールハースは領主のフォン・トロンカに弁償を求めるが、トロンカはただで飼い葉を喰わせているのだから仕事をさせるのは当然だと言って取り合わない。正義感が強く実直なコールハースは泣き寝入りできず、ブランデンブルク選帝侯宛てに、ザクセン選帝侯への抗議を促す訴状を書き、妻を使いにやる。しかしこれも握りつぶされ、その上訴状を届けようとした妻は、衛兵から暴行を受けたことがもとで死んでしまう。
 コールハースは怒り心頭に発し、武装した7人の仲間とともに城を襲撃する。城を打ち壊したものの、フォン・トロンカはヴィッテンベルクへ逃れてしまう。フォン・トロンカを追いながら賎民たちを仲間に引き込み、コールハースの軍隊は400人にも膨れ上がる。フォン・トロンカをあぶりだすために街を焼き討ちにし、国中を恐怖に陥れる。すると、ライプツィヒの知恵者マルティン・ルターがコールハースの行動を非難する布告を出す。しかし信仰が厚くルターを尊敬していたコールハースは、ルターに面会を求め、これまでの経緯を説明する。話を聞いたルターは、コールハース軍の武装解除を条件に再審を認めさせる。再審でコールハースの訴えが全面的に認められた結果、フォン・トロンカには賠償と2年の禁固刑が言い渡される。
 一方コールハースには、街で破壊の限りを尽くした罪を否定できず、裁判で打ち首の判決がくだされる。しかしコールハースは、裁判で自分の訴えが認められたことに満足し、判決を受け入れるのであった。

 
 それにしても、馬2頭をだまし取られた事件がもとで、内戦ともいえる大暴動になるなど、いささか大げさに過ぎる話なのだが、実は16世紀に実際にあった事件で、実在したザクセンの体制反逆者ハンス・コールハースがモデル。冗談みたいな話だが、争いの原因をたどってみると、ちょっとした出来事がきっかけがあれば鬱積した市民の不満が爆発し、取り返しのつかない大事になるという話である。安倍晋三の悪政でひどい目にあっているにもかかわらず、不満どころか気づいてさえもいない日本国民とはいったいなんなんだろうか。

1.25国会包囲ヒューマンチェーン

2015年01月25日 | ニュース
辺野古に基地は作らせない!
 

 

 

 
「国会包囲ヒューマンチェーン」に参加した。
 辺野古の海をイメージした青いものを何か身に付けるように指示されたが、なぜか青いものが何もない。
 まず、青を着ることがないし、マフラーやバンダナも青は持っていない。
 困っていたら、カミさんが青いタオルを持ってきたので、それを首に巻くことにした。
 
 今日は午前中から区会議員との打ち合わせがあって、地下鉄丸ノ内線の国会議事堂前に到着したのは午後2時半頃になっていた。
 何かしら青いものを身につけた人たちが、続々と改札口を出る。
 駅の構内からすでに警官が立ち、参加者の出入りを規制していた。外に出る階段は一か所に決められていた。
 国会周辺にはすでに多数の人が集まり、警官隊(800人動員したという)と装甲車で物々しい。
 
 等間隔に設置されたスピーカーからは、ゲストによるメッセージが聞こえてくる。メインステージがあるということだったが、にわかにどこにあるのかわからない。
 正門前の一角に、テレビカメラが集まり、人だかりがあったので近づいてみると、そこがメインステージだった。
 参議院議員の糸数慶子さんや鎌田慧さんがマイクの前に立ち、沖縄の現状と安倍内閣の暴挙を訴える。
 

 
 知り合いがかなりの人数来ているはずなのだが、出会ったのは数人で、他はどこにまぎれたのかまったくわからない。
 正式な報告ではないと思うが、参加者数5000人(琉球新報は7000人と発表)という声が聞こえてきた。場所によってはチェーンが二重になっていたくらいだから、もっといたと思う。
 ぶらぶら歩いているうちに、入り込むすき間がなくなった。議員会館前で、無理矢理割り込ませてもらった。
 

 
 議事堂の裏門から首相官邸に向かう途中で、なにやらもめていた。
 警官が人の流れをせき止めて、チェーンを分断しているのだ。
 なぜ通さないのか聞いてみても、要領を得ない。
「みなさんが立ち止まらずに通行するという約束を破ったからです」などといっている。
 きちんとした理由はなにも説明しない。
 チェーンを作るのだから立ち止まるのは当たり前。他は立ち止まってチェーンができているのに、なぜそこだけ妨害するのか。
 
 見ると、首相官邸の前をすっぽりと開けるように通行止めにしているのだ。
 なるほど、今日は安倍晋三が官邸にいるということなのだ。だものだから、参加者を官邸に近づけないハラなのだ。
「おかしいじゃないか、誰の指示だ」と聞くと、麹町署だと言う。これだけの集会の警備を所轄が仕切っているわけはないので、たぶん首相官邸からチャチャが入ったのだろう。いずれにしろ、明らかな妨害だ。
 
 大集会だったが、たぶんマスコミが報道することはない。沖縄のテレビ局や新聞は取材に来ていたが、中央のテレビ局のカメラは見当たらない。
 完全に無視するつもりなのだろう。

日夏耿之介訳の『サロメ』

2015年01月24日 | 本と雑誌

 
 岩波文庫版の『サロメ』が行方不明になった。そこで買い直しておこうとネットを漁っていたら、日夏耿之介訳による『院曲 撒羅米(サロメ)』を見つけた。
 翻訳としては岩波文庫版の福田恆存訳が有名だが、詩人で英文学者の日夏耿之介訳も名訳である。こちらが最初の日本語訳となる。
 いくつかの出版社から出され、講談社文芸文庫に入ったこともあるが、現在はこの沖積社版のみ。
 日夏耿之介(1890~1971)は、エドガー・アラン・ポーの詩集『ポオ詩集』におさめられた「アナベル・リイ」が有名で、この詩は大江健三郎の小説『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』の題材になっている。
 訳文は口語というよりも文語体に近く、現代の上演にはあまり適していない。この台詞で舞台に上げても、最近の観客には聞き取れず、理解できないのではないか。したがって、文学として観賞するのが良いと思う。
 登場人物の名前はすべて漢字が当ててあり、これは上海美華書館から発行されていた中国語訳にならったもので、冒頭の小引(凡例)に「東方趣味ニ準ヘムガタメノミ」とあり、その方が東洋人に受け入れられやすいと考えたようだ。つまり上演目的というよりは、読み物として翻訳したのだろう。舞台にのせたら漢字も平仮名もない。
 サロメは撒羅米、ヨカナーンは約翰(ヨハネ)。新約聖書の「洗礼者ヨハネ」なのだから約翰(ヨハネ)で間違いではない。
 
 『サロメ』が最初に上演されたのは1914年、島村抱月の芸術座で、サロメは松井須磨子が演じた。どんな舞台だったのか大変興味があるが、VTRなどない時代である、記録があろうはずはない。
 
 この沖積社版、基本的には日夏耿之介の原文通りなのだが、漢字が旧字体ではなく新字体である。仮名は旧仮名遣いなのだから何とかならなかったのか。たぶん、コンピューターのフォントに旧字体がないのが理由だろう。活版では制作費がかかりすぎる。しかし、せっかくならと切に思う。
 
 『サロメ』といえば、オスカー・ワイルドの戯曲もさることながら、ビアズレーによる挿絵があまりにも有名だ。
 

         舞姫のかづけもの(褒美)。
 
 この挿絵だけで画集が出ているほどなのだが、出版当初は卑猥であるという理由で修正を求められた。現在出版されているものはオリジナルである。
 
 ビアズレーの挿絵は、日本でも多くの画家やイラストレータに影響を与えた。

「クロネコメール便」廃止!

2015年01月23日 | ニュース
 今朝の新聞で、ヤマトの「クロネコメール便」が3月いっぱいで廃止になると知った。
 理由は「顧客が信書に該当する文書を送るのに利用し法律違反に問われる危険性があるため」という。
 2009~2013年のあいだに郵便法に問われ、警察に事情聴取された例が8件あったからだそうだ。

 5年間でわずか8件である。「廃止」という極端な措置をとる必要があるのだろうか。
 
 料金の安さに加えて近年は確実性も高くなり「クロネコメール便」の利用者はますます増加している。コンビニで受け付けてくれるので、僕自身も書籍や書類の送付にそうとう利用している。
 以前から気にはなっていたが、日本郵便の売り上げを圧迫していることは事実と思う。年賀状もインターネットの普及で年々発送量が減少して、郵便局では年賀はがきの販売に躍起になっていることからも、日本郵便全体の売り上げが落ち込んでいるのは確かだろう。
 
 小泉内閣のときに民営化され、自由競争の仲間入りをしたとしても、その自由競争に耐えられなくなった親方日の丸の日本郵便が、ヤマト運輸に対して何らかの圧力をかけたのではないかと勘ぐりたくなる。
 重ねて言うが、摘発されたのは5年間でわずか8件である。一部開封にするとか、親書を送るのは違法行為であることを顧客に対しもっと明確に伝えるとか、方法はいくらでもある。何の対策もせずにいきなり廃止とは、これまで大量に利用していた企業にとってもショッキングな事態である。
 
 ヤマトがメール便を廃止すれば、メール便は日本郵便のほぼ独占になり、料金は思いのままだ。
 
 これは、資本主義の原則にも反し、日本経済に与える影響は計り知れない。
 
 何とかならないものだろうか。
 さしあたって、『アジア記者クラブ通信』の発送にも影響する。経費削減の折、高価な「ゆうメール」を使うのは厳しい。さてどうする。
 
 余談だが、ヤマト運輸はきわめて保守的な企業である。労働組合は同盟系で典型的な御用組合。会社上層部と組合委員長が仲良くゴルフに興じるような会社である。
 しかし、従業員には手厚い報酬と厚生施設が与えられ、労働条件の上での反発は少ない。
 とはいえ、大手運送会社としては重要な顧客である政財界を敵に回すことは存続に関わることで、日本郵便と敵対することは避けなければならなかったのだろう。
 したがって、今回の措置がヤマト側の一存とは到底思えない。

アジア記者クラブ1月定例会

2015年01月22日 | 社会・経済
原子力ムラの復活にどう立ち向かうのか
映画『日本と原発』監督に聞く

講師 河合弘之さん(弁護士)

 

 
 河合弘之さんはビジネス弁護士として活躍する一方、原発訴訟に20年以上手弁当で携わり、映画『日本と原発』の制作と監督を1人で手がけた。
 明治大学研究棟の会議室で、2時間にわたりお話を伺った。
 
 内容のほとんどは、脱原発運動に携わる人々にとっては周知の事実ではあった。
 
 ・原発は地震や津波に弱い、したがって地震大国である日本は原発に適さない。
 ・すべての原発が止まっても、電力は十分賄える。3.11直後の計画停電はまったく無意味でただのポーズでしかない。
 ・石油輸入額が増加すると言われるが、差額の666億円はGDPからすればほんのわずかでしかない。「わずか数パーセンンとの予算のために、国民を地獄に突き落とすのか」
 ・大事故を起こしておきながら、外国に原発を輸出するという破廉恥。
 ・原発安全キャンペーンとは、正確には原発「必要」キャンペーンである。すなわち、「安全」だと思い込ませて、必要性をアピールする。
 ・「原発ムラ」の目的は「天下り」「見積り通りの工事請け負い」「電力の独占」。したがって経営の基本である「売り上げの促進とコストカット」が必要ない。
 
 わざわざこうした事実を映画や公演を通じて語らなければならないということは、河合さんが脱原発運動を通じて、大多数の人々が原発や電力の実情をほとんど知らない、ということを実感したからに他ならない。
 
 安倍政権が「原発は重要なベースロード電源」と位置づけて以来、脱原発発言をする著名人に対する圧力が強くなってきている。河合さんは当初、映画『日本と原発』を制作するにあたって、力のある監督に依頼することを考えていたそうだ。しかし、これぞと思う監督はことごとく、仕事への影響を怖れて断ってきたという。そこでやむを得ず、自ら脚本から監督まで手がけたというわけである。ただし音楽は、佐村河内事件で有名になった、日本を代表する作曲家の新垣隆さんが引き受けてくれている。
 

 
 映画は基本的に自主上映であるが、以下の予定で一般公開されている。
 

 

 
◆一般:1,500円 シニア・大学生・障がい者:1,000円 高校生以下:500円

JVJAから日本人人質事件に対する声明

2015年01月21日 | ニュース

(YouTubeより)

 20日、衝撃的なニュースが世界を駆け巡った。2名の日本人ジャーナリストがイスラム国によって拘束され、72時間以内に2億ドル(約236億円)を払わなければ2人を殺すと脅しているという。
 2億ドルは17日に安倍総理がエジプトで表明した、日本政府による「イスラム国」対策支援と同額であることから、「イスラム国」側は日本の宣戦布告と見なしての行動と考えられる。しかし、安倍政権が身代金を支払う可能性はほとんどないと言っていい。
 日本政府は「イスラム国」側との接触手段がないので、「出来ることは少ない」と述べているが、これは見殺しにすることのいい訳だろう。どのような方法をとっても交渉するべきだ。このままでは、2人が殺害される可能性が極めて高い。
 
 昨日、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会( JVJA )は拘束されていると見られるジャーナリスト、後藤健二さんと湯川遥菜さんの即時解放を求め、以下のような声明を発表した。
 体制寄りの大手マスメディアの報道だけでなく、出来る限り多くの人に事実を知ってもらうため、ここに転載します。
 
 
IS( イスラム国) による日本人人質事件に対する声明

 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会( JVJA )はフォトジャーナリストやビデオジャーナリストの団体です。
 私たちは、イラク戦争とその後の占領下において、米英軍を中心とした有志連合軍による攻撃がイラク市民にどんな災禍をもたらされたかを取材、テレビや新聞などで報道してきました。また、イスラエルのパレスチナ・ガザ地区への無差別攻撃に晒された市民を取材し、テレビや新聞等で報道してきました。私たちの報道はけっしてアメリカやイスラエルの攻撃を肯定するものではありませんでした。
 私たちジャーナリストが、現場での取材を通して理解した戦争下の住民の現実だったからです。同時に、報道を通して私たちはあらゆる暴力を批判してきました。日本政府の戦争政策に対しても批判してきました。イスラエルのガザ攻撃に対しても、私たちは強く批判してきました。私たちは現在の安倍政権の戦争を肯定するかのような政策を、報道を通して批判しています。
  現在、IS(イスラム国)が拘束している後藤健二さんには、取材の現場で会ったことがあります。後藤健二さんもまた、イラクやシリアでの戦火に苦しむ市民の現状をテレビやインターネットで報道してきました数少ないジャーナリストです。湯川遥菜さんは、私たちと直接の接点はありませんでしたが、報道によると個人的な興味から「イスラム国」に入ったようです。
 私たちは、暴力では問題の解決にならないというジャーナリズムの原則に立ちます。武力では何も解決されない現実を取材をとおして見てきたからです。「交渉」を含むコミュニケーションによって問題解決の道が見つかると信じます。
 私たちは、IS(イスラム国)の皆さんに呼びかけます。日本人の後藤さんと湯川さんの2人を殺さないように呼びかけます。人の命は他の何ものにも代え難いものです。イスラムの教えは、何よりも平和を尊ぶことだと理解しています。
 私たちは、同時に日本政府にも呼びかけます。あらゆる中東地域への軍事的な介入に日本政府が加担することなく、反対し、外交的手段によって解決する道を選ぶようにと。
 
2015年1月20日
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)

『lasbarcas』別冊

2015年01月19日 | 本と雑誌


『けーし風』の裏表紙に広告が掲載されていて、「文学とアート作品を自由に発表できる場」というキャッチフレーズと執筆者に惹かれて衝動的に注文してしまった。
 この雑誌、創刊当時は気づかなかったが、この別冊に限っては妙に気になった。
 送られてきてすぐに写真を眺めての第一印象は「何じゃこりゃ?」。
 かつて、「君の写真はアサカメ(アサヒカメラ)っぽいね」とか、「ポンカメ(日本カメラ)風だね」とか言い合っていた時代があって、きれいにとってそれをさまざまに加工して作品にしていて、そういう写真にあこがれたりしていたものだ。ハイキーとかローキーとか砂目とかソラリゼーションとか、オリジナルはたいした作品でなくても、そうやっていじくると斬新な作品に見えてくる。この雑誌に掲載された作品の多くはそんな写真の羅列に見えた。(ごめん)
 僕自身も20代の頃にはそんなモノをコンクールに応募しては賞をもらったりしていた。今思うとろくでもない作品で、あんなモノに賞を出す主催者の気が知れない。
 
 掲載写真の多くは、サロンに飾って違和感がないインテリアっぽい作品ではあるが、だからなんだ、と言いたくなる。ドンと胸に飛び込んでくるような作品は見当たらず、正直つまらない。

 雑誌の付録でインターネット上で動画が見られるアクセスキーがついていて、そこでは作品とともに作者何人かのインタビューが見られる。なかの一人が、沖縄発信の作品についてまわる「沖縄」という冠を取り外したかった、というようなことを言っていた。
 本土の人間から見ると、沖縄発信の作品には他の都道府県とは比べ物にならない個性があって、「オキナワ」という先入観を排除できない場合が多い。しかし、アートとは自らの生活環境の中から生まれ出るものであって、作者が沖縄に住んでいればどうしても作品に沖縄の匂いがつく。だからといって、必然の結果ではなく、それを意図的になくそうとすれば、作品の持つ重要な要素が消えてしまいかねない。のっぺらぼうなつまらない作品なってしまう場合が多い。
 つまり、あえて脱沖縄を宣言する必要はないのだ。
 この動画も、わざわざロックをかけて購読者限定にするようなものには思えず、Yuo Yubeにアップして販促材料にした方がよかったのではないか。
 
 写真にはあまり興味が持てなかったが、文章の方は、それなりに面白い。新城郁夫氏の「高嶺剛論のためのノート」は興味深い。高嶺氏は現在、今年公開予定の新作を製作中で、それを意識しての高嶺論だが、代表作の『ウンタマギルー』には当然触れていて、復帰前の沖縄の高等弁務官に対する風刺や、ほぼ全編方言で構成されたファンタジックな世界を表現しているこの作品を、好意的に評価している。この映画の紹介は次の機会にするが、すごい作品である。抽象的な表現が多いが、的を射たいい文章だ。
 
 新城郁夫はこの文章の中で、ピエール・パオロ・パゾリーニの『テオレマ』と『豚小屋』を傑作と評価し引き合いに出している。なるほど、その世界なんだと納得し、パゾリーニと『ウンタマギルー』が一瞬でオーバーラップした。
 
 ちなみに、僕が初めてパゾリーニの映画を見たのは『テオレマ』で、当時の僕はけっこう引き込まれ、原作本まで買って読んだ。しかし現在は、パゾリーニの作品でもう一度観たいと思うのは『奇跡の丘』と『アポロンの地獄』だけであとは興味がない。とくに『ソドムの市』なんかはくそくらえだ。(本当にクソをくらう映画なのだ。マンジャ!) 
 
 それはさておき、この雑誌に作品を載せているアーチストの年齢層は幅広い。映画監督の高嶺剛氏や新城郁夫氏をはじめ、実績のある作家も名を連ねている。
 明確に言っておきたいことは、アートすなわち芸術作品もコミュニケーション手段の一つであり、発信する側と受け取る側のキャッチボールで成り立っている。受け取る側の視線を無視しては成り立たない。かつてアンダーグラウンドと言われる分野があって、わかる人間がわかればいいなどと傲慢な態度で作品を創り続けた制作集団が雨後のタケノコのように現れて、いずれも長続きはしていなかった。
 この雑誌を長続きさせるには常に一定の読者を確保することが必須だし、そのためには何を伝えたいのか、伝えるべきことがどう伝わっているか、それを意識することは重要だ。これは鑑賞者に媚びるということではないので念のため。
 
 結論。意図がよくわからない雑誌だ。面白いかつまらないかも、よくわからない。もしかすると、僕の頭が古いのか固いのか、豪華なカタログみたいな印象で、わざわざ金を払って手にするものでもないと感じた。
 最後になったが、製作を担当したでいご印刷さんの仕事はお見事である。

2015年無所属区民派「新春の集い」

2015年01月18日 | 日記

 

 
 無所属区民派「新春の集い」に参加する。
 無所属区民派とは、結柴誠一、新城節子両議員の杉並区議会における会派である。
 ふたりがまだ某急進派に属していたときからの付き合いであり、その後その党派を離脱してからすでに9年が経つ。
 
 今年は4月に統一地方選挙が行われ、杉並区議会も4年に一度の選挙になる。
 昨年6月には補欠選挙があり、そのときは定数3名に対して11人が立候補している。当選した3名もわずか10か月で改選になるわけだけれど、立候補者は落選してもそのときから選挙運動を行っていることになるので、大変有利だ。
 本選の当選ラインは2000票ぐらいである。補選では最下位で落選した候補者でも3000票を超えていて、それが全部本選に反映されるわけではないが、当落線上に上がってくる可能性はある。
 それだけ、補選というのは落選候補にとって再起のチャンスになる。
 
 また、今度の選挙では有力政党のあいだで新旧交代や候補者の再編成が行われ、力のある政党はこれまで以上に派手な選挙運動を展開すると思われる。
 したがって今年の選挙は、組織的基盤のない無所属議員にとっては大変厳しい。結柴・新城両議員は2011年の前回選挙では上位当選を果たしたが、それでも今回は油断が出来ない。組織票がないから投票率が低くなると確実に不利になるのだ。
 
 区議会の中で、2人の存在はたいへん重要である。
 沖縄知事選に見るように、自民党の独裁に対して野党が「オール沖縄」の旗のもと大同団結することで勝利を得、それはこれからの選挙戦略として重要である。
 沖縄の山内徳信は、これを「国共合作」という表現した。まあ、中国の国共合作とはいくぶん意味が違うが。
 安倍内閣の暴走に対し、野党がばらばらでは太刀打ちできない。1強多弱といわれる政界だが、中小野党が結束すれば大きな力になることが証明されたのが沖縄知事選だ。
 自治体が国政にもの申す場合、地方議会も大同団結が絶対必要である。
 議会では対立していても、目的が同じ会派同士なら、団結して国政に意見を言えるようにならなければいけない。
 
 そこで、野党連合のとりまとめ役が出来るのが、どの政党にも属さない2人の力である。つまり、2人の力は2人分ではなく、杉並区議会においては数十人分の力をつくり出すことが出来る、大変重要な役割を担っているのである。
 
 今年の「新春の集い」は、席が足りなくなるほど多数の参加があった。後援会のあいだで危機感が広がっている証拠だろう。
 参加者の中に脱原発運動の重鎮Yさんの姿が見えた。今年初めて参加したそうだ。以前は杉並区長や世田谷区長も顔を出したのだが、多の政党に気を使ってのことだろう、最近はメッセージが送られてくるだけになったが、それはやむを得まい。
 
 例年以上の盛会だった。しかし、この会が行われた直後に、2人が以前所属していた党派の新年会が、同じ会場で計画されていると言う。そのために時間を延長できず、時間配分の厳しい進行になった。
 彼らは「無所属区民派」に多大な対抗意識を持っているので、区民派支持者が時間を間違えてそちらに行ってしまうことを意識してのことか。
 鉢合わせがあるかもしれないと思ったが、それはなかった。

 多の主立った参加者は、元国立市長の上原公子さん、元参議院議員の円より子さん、他。

「ナンシー関のいた17年」を観た

2015年01月17日 | テレビ番組

 昨年12月に放送されたのを録画しておいて、そのままになっていたNHKBSプレミアムのドキュメンタリードラマ、「ナンシー関のいた17年」を観た。
 
 生前、活躍していた当時は、消しゴムで似顔絵版画を描く人、という程度の認識だった。それが突然死んだというニュースが入ってから、さまざまなところで特集番組や雑誌記事が組まれ、「ああ、人気があったんだなあ」と初めて認識した。彼女が活躍していた当時の僕は、たぶん全く別なところに興味があって、週刊誌などに眼を通すことがなかったのだと思う。実際、タウン誌や週刊誌が嫌いだった。今でもあまり好きでない。
 
 それはそれとして、消しゴムで版画を描くって、それって、中高生の授業中のいたずらではないのか? 僕の中高生時代にも器用なやつがいて、消しゴムでスポーツカーを作って、それをシャープペンシルのバネで飛ばして友だちと競い合っていた。
 僕はそのたぐいのいたずらはやらなかった。真面目だったからではない、消しゴムがもったいなかったからだ。
 
 妙に保守的なところがあって、「モノ」には本来の目的というのがある。つまり消しゴムは鉛筆で書いた文字を消すことが目的。その目的を違えた使い方をするというのは、消しゴムに対して失礼であると考えていた。だから、消しゴムで版画を描くというナンシー関の行為には、少なからぬ驚きだったが、あまり好感を持てなかったことも事実だ。あんなものが仕事として認められるということにも驚いた。
 
 しかし、消しゴムは文字を消す道具以外の何ものでもないと決めつけてしまうのは、それこそ消しゴムの可能性に枠をはめていることになる。だいいち、誰が決めたわけでもなく、「消しゴムは文字を消す以外に使用してはならない」などという法律もない。
 
 たとえば、マッチ棒で戦艦大和を作る者もいれば、割り箸で小さなこけしを作る者もいる。それらはすべて、本来の目的から離れて、創造物の素材の一つと考える発想で、発想の転換はアーチストの基本中の基本である。
 
 20代の頃に十二指腸潰瘍で入院していたとき、同室の同年輩の男が、歯ブラシの柄を削って小さな下駄を作り、それを根付けにしてお気に入りの看護師にプレゼントしていた。それが実に上手で売り物にしても良さそうなほど完成度が高く、もらった看護師もちょっと嬉しそうだった。彼はドヤ顔で2足目に挑戦したが、完成する前に退院してしまった。
「ガラスの底に顔があったっていいじゃないか」という岡本太郎の発想から、あるウィスキーのコマーシャルが生まれたことがあったが、それもグラスを彫刻の素材と考えてのことだ。
 
 つまり、ナンシー関にとって消しゴムは、「ケシゴム」という名前の素材だったのだ。(ちなみに、消しゴムの原料はゴムではなくプラスチックである)
 ナンシー関の場合、版画の大きさが消しゴムの大きさに限られる。大きな作品はいくつもの消しゴムを並べて作る。だったら消しゴムメーカーに断裁前の大きな板を注文すればいいものをそうしなかった。彼女ならそれは出来たはずだが、あの大きさにこだわった理由は、ドラマではわからない。
 
 ナンシー関の人間像は、そんな訳でほとんど知らなかった。異様に太った巨体に似合わない、小さな版画というアンバランスで、あの姿は一度見たら忘れない。
 彼女を見出したのは、当時「ホットドックプレス」の編集部員だったいとうせいこうで、「ナンシー関」というペンネームも彼が考えた。本名は関直美。版画に注目しただけでなく、コラムニストとしての才能を見出したのも彼だ。
 
 急速に人気が高まった彼女は、膨大な仕事を引き受け、しかも締め切りに遅れることはない。編集者にとってこんなにありがたい作家はいないから、ますます仕事が増える。生涯で5千を超える作品を残した。ほぼ毎日一つは作っていたことになる。加えてコラムも書いていたのだから、確実に限界は超えていたはずだ。
 
 義理堅くもあったようだ。
 多忙な時間を割いて友人たちとの食事会に出向き、仕事が残っているからと中座して帰宅する途中、タクシーの中で倒れた。
 病院に担ぎ込まれたものの、翌未明に息を引き取った。虚血性心不全、心筋梗塞である。
 見るからに太り過ぎの体型に加え、ヘビースモーカー。その体で無理を重ねれば心臓は悲鳴を上げる。
 まさに、走り抜けた生涯、という印象だった。

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 「NHKBSプレミアム。プレミアムって何だ? 
 それはさておき、ドキュメンタリードラマ『ナンシー関のいた17年』を観た。
 ナンシー関の人生を描く、とか言っておいて、結局お涙頂戴ってどうなのよ。
 保険かけてどうする。
 NHKの限界を見た。
 合掌。」

ブックセンター荻窪の終焉

2015年01月16日 | 日記

ブックセンター荻窪の前にたたずむ人々。左奥はブックオフ。
 
 去る1月12日を最後に閉店したブックセンター荻窪。前を通りかかったら、地元の人であろう、何人かが名残惜しそうにシャッターの前にたたずんでいる。
 シャッターのすき間から中をのぞいてみると、すでに書棚がすべて取り払われ、改装工事が始まっていた。
 
 隣のブックオフは多数の客でにぎわっている。もう完全に天下だ。本当に閉店しなければならなかったのだろうか。
 
 最近の書店を見て気づいたことがある。かつては当たり前であった手描きのスタンドPOPや手描きのポスターをほとんど見かけない。では版元から新刊と一緒に送られてくるPOPを活用しているのかというと、それもない。
 書店は、新刊書や売れ筋のロングセラーは書店の最も入口に近い場所の平台に平積みする。平積みとPOPはセットだ。書店員の感想やおすすめの理由が書かれた手描きのPOPは、購入の手引きにもなった。
「人手が足りなくて」
「書店員と言っても、本を読みませんから」
 質問すると、おおかたそういう答えが返ってくる。
 書店員が本を読まないとは何ごとか。魚を食べない魚屋、野菜を食べない八百屋、価値のわからない骨董品屋と同じで商売にならない。
 かつて池袋にあった某書店では、フロアごとに朝の打ち合わせのとき、順番に最近読んだ本の感想を述べさせ、担当する棚で最も売りたい本は何かなどの発言を義務づけていた。しかし誰も苦労と思わず、それどころか早く自分の順番が来ないかと手ぐすねを引いていた。書店員である以上、本が好きなのは当たり前なのだ。
 ところが最近は、書店員募集の面接で「夏目漱石の代表作を3つ上げてみて」と問われ、スムーズに答えられる人は半分もいないという。「吾輩は猫である、ぼっちゃん、……それから、えーと」。二つ出てくるのはましな方で、まったく答えられない者もいるそうだ。
 手描きのPOPを描くには、POPを描く技術に加え、本を読んで内容を知らなければ話にならない。しかし新刊などは、しっかり読む必要はないのだ、とりあえず斜め読みか他人の書評からいただく。あとで読んで印象が違えば書き直せばいい。
 
 そういえば、ブックセンター荻窪の書店員は、大手新聞に掲載された書評すら知らなかった。
「今朝の新聞に載っていたんですけど」
「………」
「ありませんか、ではこちらのは」
「………」
「書評、見ないんですか? 載るのはたいてい日曜日なんですけどね」
「両方とも在庫がありません。お取り寄せになります」
 書評に掲載されていたのは古い本ではない。1か月以内に大手出版社から発行された新書判の本で、中規模以上の書店なら少なくても5冊~10冊くらいは自動配本される。ないということはつまり、補充していないということだ。
 配本されて1か月以内に完売すれば近頃では売れ筋。要は怠慢なのである。
 
 書店員の質の低下はずいぶん前からいわれていたことだが、最近の出版不況にあきらめたのか、書店は店員をきちんと教育しない。前出の池袋の書店では、開店前の1時間を使って、約1か月間店員教育が行われた。それは正社員だけでなく、アルバイト店員も含まれていた。
 
 本はネットで買えばいい時代かもしれないが、ネット書店にはない特徴が街の書店にはある。POPもそうだが、欲しい本の相談もできる。驚いたのは、隣のブックオフ。手描きPOPこそないが、最近は書店員が客の相談に乗っているし、分類もしっかりしてきている。たぶん、数々の批判に応えてのことだろう。数年前に比べると、ずいぶんレベルが上がってきていると思う。本が安く手に入って、しかも店員が親切だったら、そりゃあ店は繁盛するだろう。一般の書店が見習ってほしいものだ。
 ただし、買い取り価格についてはどうにも納得できないので、ブックオフに蔵書を売ることはしない。
 
 閉店したブックセンター荻窪の前にたたずむ地元の人たち。愛されていた書店であることを、書店自らが気づいていなかったのかもしれない。

三谷幸喜ドラマ「オリエント急行殺人事件」

2015年01月14日 | テレビ番組

(フジテレビホームページより)
 
 11日―12日の2夜連続で放送された三谷幸喜脚本の「オリエント急行殺人事件を観ての、いささか独善的な感想。
 原作はアガサ・クリスティの代表作で、ミステリーファンならたいてい筋を知っているので、果たしてどんな脚色がなされているのだろうか、というのが楽しみだった。
 三谷幸喜といえば「やっぱりネコが好き」とか「今夜、宇宙の片隅で」などのテレビドラマで、独特の世界観を感じてささやかなファンになっていた時期があった。ところが、監督した映画は総じてはしゃぎ過ぎのうるさい作品ばかりで、いささかうんざりしていた。しかも、体制べったりの無難な内容だから中味がない。
 したがって、フジテレビ開局55周年記念と銘打った今回のドラマは、三谷幸喜というよりもフジテレビが総力を挙げ、たっぷりと予算をかけてどんな作品に仕上げているのかが楽しみだった。
 
 さて、ミステリーなので、いくら有名な作品といってもこれから原作を読んでみようという人もいるだろうからストーリーには触れない。
 
 第一夜は、エルキュール・ポアロに相当する勝呂武尊(野村萬斎)が、一人ひとり尋問するシーンで構成され、これは原作にそったものだ。しかし、ドラマにするといかにも退屈である。これでは第2夜の視聴率を下げるだろうと思ったら、案の定わずかだが下げてしまった。普通、面白ければ第2夜は上がるものなのだが。それでも1夜16.1%、2夜15.9%は高視聴率の部類に入るだろう。ただ、あれだけのキャストを揃え、撮影費も相当かかっているだろうから、フジテレビとしてはせめて20%超えはしてほしかったのでは。
 退屈の原因の一つに野村萬斎の演技がある。台詞が作り過ぎているものだから聞いていて疲れる。ただでさえものすごい扮装をしているのに、あそこまで臭い芝居をしなくても良かったのではないかと思う。それが脚本や演出からの注文なのか、野村萬斎自身のアイデアなのかはわからないが、相当無理をしているようすが鼻についた。
 時代設定は昭和の初期ということだ。細かなところは目をつぶることにして、出演者の衣装や建物の雰囲気など、国籍不明、時代考証適当なところは三谷作品らしくこだわらない。まあ、そこに期待はしていない。突っ込みかけてやめた。
 良い子は参考にしないように。
 
 あまり期待せずに観た三谷幸喜のオリジナルの第2夜はけっこう面白かった。ここでは殺人に至るプロセスがドラマチックに描かれている。野村萬斎には申し訳ないが、皮肉なもので、あまり勝呂武尊(ポアロ)が登場しないシーンの方が安心して観られる。
 シリアスな中にコミカルな芝居を取り入れる技術は、さすが三谷幸喜といっていい。ただ、せっかくオリジナルなのだから、当時の華族や軍人たちがどういう立場であったのか、多少は時代背景に触れてほしかったのだが、それはほとんどない。
 能登巌(沢村一樹)という陸軍大佐が殺人計画に加わる理由は戦場での体験である。それは時代からして第一次世界大戦。陸軍だから中国の青島あたりの戦場だろうか。第一次世界大戦は日本に一時的な好景気をもたらすが、終戦とともに一気に下落。一転して大恐慌に陥った。ドラマの舞台はそんな時代背景で、華族や軍人であってものんびり夜行列車で旅行などできる状態ではなかったはずなのだが……ああ、やっぱり突っ込んでしまった。
 
 それにしても、これでもかと言わんばかりに主役級のキャストを揃えると、「さすがフジテレビ、すごいなあ」と感じつつも、そうとうなレベルの俳優が端役に甘んじていたりして「もったいないなあ」とも感じた。それに、これだけ個性の強い役者があつまると、一人ひとりが立ち過ぎてメリハリがなくなる、ということも知った。
 まるで宝石箱をひっくり返したようなキャスティングではなく、もう少し役柄中心にすれば、お祭りさわぎにならず、落ち着いたドラマになったのではないか。こういったドラマ作りはNHKやテレ朝の方がバランスがよくて上手い。

『けーし風』85号 特集 2014 沖縄の選択

2015年01月13日 | 本と雑誌

 
 めずらしく発行日が守られた。実は12月中に到着していたのだが、つい封も開けずにそのままになっていた。最も開封したところで読む時間がなかった。
 特集は、去る沖縄県知事選の振り返りである。
 さしあたり、《座談会》「県知事選を終えて」を読む。発言者は新崎盛暉(沖縄大学名誉教授)さん、桜井国俊(沖縄大学名誉教授)さん、高嶺朝一(ジャーナリスト)さん。
 
 この座談会が行われたのは昨年12月5日で、まだ衆議院選挙は行われておらず、1か月以上のタイムラグがあるため、会話の内容が現実に合わない個所があるのはやむを得ない。新聞ではないのだから、昨日のニュースを今日伝えるというわけにはいかない。
 したがって、翁長さんが新たに知事になって、沖縄が安倍内閣から露骨に冷遇されるようになったことには、当然のことながら触れられていない。
 
 新崎さんは「旧自民党から共産党に至るまでの統一戦線という枠組みでの県知事選挙というのは「前代未聞」の、というか、日本の戦後史上初めてのことではないでしょうか」と、オール沖縄体制を評価した。「山内徳信さんの表現でいえば『国共合作』というか、『小異を残して大同に就く』という形で克服されていった。」
 
 桜井さんは、10万票という差について「正直なところ、世の中は『圧勝』とはいっても、私はもう少し票差が開いてほしかった。」と語る。
 実はこの票差について、僕もどこかで話した覚えがある。10万票という票差は、大きいようで小さいと思うのだ。大勝ではあるが圧勝ではないとも。風向きが変われば一瞬で吹き飛ぶ数字でもある。オール沖縄という、悪くいえば呉越同舟の集まりの恐さだ。
 高嶺さんがいうように、「国共合作」は結局は大陸と台湾に別れてしまった。しかし、中国の「国共合作」の場合、日本帝国主義を打倒するという共通の大目標があった。そして、1945年8月に大日本帝国が無条件降伏したときに「国共合作」の目的は達成された。
 しかし沖縄の場合、知事選に勝つことは最終目標ではなく、ただの通過点に過ぎない。すべての基地がなくなり、本土による沖縄支配から脱却することこそが到達地点である。その大目標を達成するまでオール沖縄が維持できるかどうか、それをどうやって維持していくかが今後の重要課題になる。「翁長さんのやり方によってはまた変わるということもあるのではないかと思いますが」と高嶺さんは危惧する。
 
 実はこの座談会が行われた時点ではまだ、交付金の削減の話は出ていなかったのだが、高嶺さんは「予算に懸案がなければいいが、中央政府と対立しているときだから、相手は必ず何か仕掛けてきますよね。」と予言していた。それに対して新崎さんが面白いことをいう。
「そのとき、彼(翁長知事)が『カネはいらない』といったら、沖縄の選挙民、有権者はどうするだろうか。」
 仲井真時代、交渉の駆け引きとして「予算交渉で交付金を出さないと言って密かに説得すれば、仲井真さんは埋め立てを承認せざるを得ないだろう」とCIAの高官がいっていたらしいので、沖縄冷遇は翁長知事誕生以前から準備されていたようだ。
 
 高嶺さんの「非暴力で貫いてきた沖縄の過去のこれまでの運動というのは、世界に誇っていいと思っています。」という言葉は印象的である。

『うるまネシア』第19号より

2015年01月12日 | 本と雑誌


 今年最初の『うるまネシア』が東京琉球館から送られてきたのでパラパラと目を通す。
 今年、マスメディアは戦後70年ということで、安倍政権の撒いた地雷を踏まない程度に戦争関連番組をやっているが、沖縄にとっては「沖縄戦70年」の方がずっと意味深い。
 その特集の中で浦崎成子さんによる「日本のアベノリスク克服は可能か ― 女性の輝きほど遠い国から ―」がまとまっていてよく書けていた。
 
「アベノリスク」とはなかなか言い得て妙
「アベノミクスのせいで不景気が進んでいる」とはマスメディアとは逆の巷の声だ。安倍政権はすでに失敗することが明らかな新自由主義的経済の推進を行っている。その代表が「シャンペンタワー理論」である。高くピラミッド型に積み上げたシャンペングラスの頂上にシャンペンを注ぐと、上から順にシャンペンが溢れて、最後は一番下のグラスも満たされるというわけだ。ところがどっこい、経済はそうはうまくいかない。一番上のグラスが異常に大きかったり、いくら注いでもゴム風船みたいにふくれあがって溜まるのは上のグラスばかり、なかなか下まで降りてこないのが過去の例だ。
 それどころかシャンペンが頂上ののグラスにばかり吸い込まれることで、下のグラスはからからに干上がってしまう。
 やがて、土台となるグラスにひび割れが生じ、その中の一つでも壊れれば、連鎖的にシャンペンタワーは崩壊する。それはすでにアメリカがその状況を経験しているではないか。リーマンショックはまさにそれ、経済全体に危機が訪れる。
 だから、アベノミクスではなくアベノリスクなのだ。これから度々使わせてもらう。
 
 閑話休題。話はこれではない。
 浦崎成子さんの記事、タイトルから経済問題に触れているのかと思ったら、そうではなかった。
 僕は以前から、右翼が神経を尖らせる三つの事件として「南京事件」「従軍慰安婦問題」そして沖縄のいわゆる「集団自決(強制された集団死)」をあげてきた。この浦上さんの記事はその三つのうち沖縄問題に触れつつ「従軍慰安婦問題」を中心に取り上げ、安倍内閣によるファシズムの台頭を危惧する。
 とくに、「慰安婦」問題は日本の戦争責任、植民地支配、女性の人権侵害にかかわることであるが、いくら歴史認識を見なおせと声高に叫んでも、国内の右翼が元気づくだけで、問題そのものが消えるわけではない。かえって周辺諸国との関係を悪化させる。
 
「慰安婦」問題の歪曲と否定は、「美しい日本を取り戻す」ために恰好の攻撃材料、ターゲットとされた。憲法改定を進め、積極的平和主義で戦争する日本軍を設置するためには、大日本帝国の軍隊が残虐な「南京事件」を起こし、軍隊による「性奴隷制度」を運用し、軍命による「集団自決」「戦争マラリア」などがあってはならないことである。歴史修正によって日本軍の残虐行為は、捏造されたものか逸脱した下級兵士の行為であったと短小化する必要があるとされる。(引用)
 
 記事は、昨年、麻生太郎元首相が憲法改正について「ナチの手口を真似てはどうか」と発言したことにおよぶ。
 
 すでに憲法改定の手順に関する何らかの研究において、ナチによるワイマール憲法骨抜きの手法が参考にされていることが伺えた。(引用)
 
 僕は、口の軽い麻生太郎がつい本音を漏らしたととらえている。しかしドイツならこのような発言は処罰の対象になる。はっきり言えることは、安倍政権の目指すところは「全体主義」であろう。今のところ露骨にそれはあらわさない(いくら何でもそれは言えないだろう)が、その一旦を麻生太郎の曲がった口が漏らしてしまった。
 ナチスが権力を把握したのには綿密な計画と周到な準備があった。時間をかけ、教育を通じてナチのエリート集団である親衛隊を作った。国民に悟られる前にワイマール憲法を骨抜きにした。「教育基本法」の改定、なしくずしに憲法を改定する「集団的自衛権」の閣内承認など、安倍政権はまさにナチと同じ道を歩もうとしているのだ。
 
 安倍晋三を中心とした右翼がいくら声を荒げても、国際的には何ら問題は解決しない。かえって日本を国際社会から孤立させるばかりだ。かつて、国際連盟の議場で日本が世界中から糾弾されたとき、松岡洋右全権が席を蹴って立ち、それから日本は無謀な戦争の深みに際限なくはまっていった。
 もし日本がこのままの道を進むなら、アメリカも含め世界中から総スカンを喰らい、それこそ国連脱退、宣戦布告となるやも知れない。
「それは妄想だ」などと思うなかれ、妄想が妄想でなくなったのが、「アジア太平洋戦争」なのだから。