ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

ドラマ『砂の器』を観た

2019年03月29日 | テレビ番組



 28日、フジテレビ開局60周年記念番組の一環として放送された、松本清張の名作『砂の器』を観た。
 『砂の器』は何度もテレビドラマ化されているが、満足にできたものはひとつもない。だから今回もまったく期待せずに、それでも何か目新しい脚本や演出にお目にかかれるのではないかという好奇心で観てしまった。
 そう感じてしまう原因は、すべての日本映画のなかでも最高傑作と言える、野村芳太郎監督の映画『砂の器』の存在だ。

 これまで小説を映画化した作品で原作を超えるものはないと思っていたのだが、この映画に出会ったときに初めてその概念が覆された。
 「日本列島の四季をつらぬいて、追う者と追われる者」
 「切っても切れない親子の絆」
 などの印象的なキャッチフレーズのもと、それを裏切らない圧倒的な作品だった。印象的なシーンが多数あり、なかでも終盤、菅野光亮による映画音楽の名曲と言って疑いのないピアノ演奏をバックに、日本の四季を縦断して終わりの見えない旅を続ける父と子の姿は、公開から半世紀たった今でも目に焼き付いて離れない。
 そして、その後制作されたドラマのほとんどは、基本的にこの映画作品を踏襲することになった。

 さて、今回のドラマは3時間の枠をとっているのだからそうとう気を入れて作ったのであろう。だが結果は過去最悪、ずるずると崩れてまさに「砂の器」になってしまった。印象的なシーンは何一つなく、原作の重要なテーマである「差別と偏見」についてもしっかりと描かれていない。どこもかしこも中途半端で、何一つ見るべきところはない。エンドロールに構成橋本忍・山田洋次(ともに映画版の脚本に携わった)とあるが、橋本忍は故人だし、山田洋次が本格的に脚色に加わっていたらこんなドラマになるはずがない。組み立てが映画と似ているので著作権をクリアするための名前貸しだろう。
 
 見るべきところのない脚本もひどいものだったが、致命的なのはキャスティングだ。重要な役回りである和賀英良の中島健人と成瀬梨絵子の土屋太鳳。彼ら俳優が悪いというのではない。明らかなミスキャストである。共に育った環境が及ぼす深い闇を持ちながら、それでもけんめいに生きているという難しい役柄だ。
 役者ならどんな役でもこなせるというわけではない。よい作品にしようと思うのなら、それぞれに適した役柄というものがある。まだ若く、函入り息子、箱入り娘のように芸能界で育てられてきた二人の俳優にとって、まったく想像もできない生き方であり、演技の引き出しに存在しない役だ。たとえれば、金魚に鰤の役をさせるようなものだ。
 
 だが、視聴率とプロダクションの呪縛から逃げられないテレビ局は、現場がいくらこうしたいと言っても上からの指示には従うしかない。あくまで想像だが、もしそんなふうにして役を振られたならば、中島健人と土屋太鳳の二人には気の毒としか言いようがない。
 
 そこで、誰がいいか勝手に考えてみた。以前のドラマで今西刑事の役をやったことのある玉木宏が和賀英良(映画では昨年亡くなった加藤剛)、影のある大人の女成瀬梨絵子には相武紗季(映画では高木理恵子で島田陽子が演じた)あたりはどうだろうか。芸能界はいろいろしがらみだらけで、なかなか思うようにはいかないのだろうけど、テレビドラマで一度くらいは感動的な『砂の器』が観たいものだ。

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念願の…!『1リットルの涙』

2017年01月10日 | テレビ番組


 念願の『1リットルの涙』DVDボックスをついに入手た。
 それも、ヤフオクで落として、支払いはTポイント。賢い!?
 
 さまざまな賞を受賞し、人気も高かったこのドラマ、しかも沢尻エリカ主演なのにオンエアで観ていなかった。
 なんてこった! CSでの再放送を待とう、と思ったが、ジャニーズが出ているので、いくら待ってもCSではやらない。これはレンタルするか買うしかないのだ。が、マイペースで観ることの出来ないレンタルは嫌いだ。しかし買うとなると、中古でも8000円弱、いささか躊躇する。(定価は2万円以上する)
 ところがふとしたチャンスから、Tポイントをごっそりもらったので、それを使うことができたのだ。
 
 このころ、沢尻エリカは20歳前(たぶん)で、15歳から25歳を演じている。
 若い頃から芝居がうまかったし、清純そうで可愛い。後の「エリカ様」からは想像もつかない。
 しかしまあ、エリカ様はエリカ様でいいのだ。それも、沢尻エリカなのだから。

 あ、ドラマの話。
 実話だそうである。不治の病の話は昔からよくあるパターンではあるけれど、周囲の人間関係を、さまざまな角度からこれほど丁寧に描写したドラマはあまりない。確かに名作だ。雑なドラマばかり創って視聴率を落としている今のフジテレビの、なんという凋落。
 
 亜也(沢尻エリカ)は中学3年の時、頻繁に転んでしまったり、ものを取り落としたりするなど体の異変を訴え、受診した医師から、「脊髄小脳変性症」と診断される。手足や言葉の自由を徐々に奪われながら最後には体の運動機能をすべて喪失してしまい、やがて死に至る現代の医学には治療法がない難病である。
 亜也はその病気を自覚し、周囲の心ない視線に耐えながら、明るく、「今出来ること」を精一杯実践しながら、過酷な現実との間で生きていく。
 
 高校受験の日に偶然出会った麻生遥斗(錦戸亮)と、亜也が中学時代からの憧れる先輩河本祐二(松山ケンイチ)との態度の違いは、もし、自分の恋人が難病に犯されてしまったら、どうするか……と男性視聴者に問いかけているような気がする。
 
 陣内孝則が単純で子どもじみた父親を演じ(いささかウザッタイが)、薬師丸ひろ子が看護師の経験がある聡明な母親を演じる。妹役の成海璃子は、美人で頭のよい姉にずっと嫉妬していたが(毎回の最後に写真が出る実際の亜也もなかなか美人だ)、姉の病気が判明してからは、家族の絆を強める重要な役どころをうまく演じていた。まだ子役に毛が生えた程度の年齢だったろうが、難しい役を上手にこなしている。
 実話がもとになっているだけに、周囲の人間達の亜也に対する視線は、「さもありなん」と思わせることばかりだ。
 
 ドラマを一気見したのと、新しく書棚を入れ本の整理して1日終わってしまった。はみ出した本の山を片付けたかったのだが。結局ほとんど収まりきれなかった。ちょっぴり後悔。
 明日は出版社で打ち合わせ。また仕事が遅れる。まずい!

NHKスペシャルドラマ『東京裁判』を観る

2016年12月17日 | テレビ番組

 
 70年前の東京で、11人の判事たちが「戦争は犯罪なのか」という根源的な問いに真剣な議論 で取り組んだ東京裁判。NHKは世界各地の公文書館や関係者に取材を行い、判事たちの公的、 私的両面にわたる文書や手記、証言を入手した。浮かび上がるのは、彼ら一人一人が出身国の威 信と歴史文化を背負いつつ、仲間である判事たちとの激しいあつれきを経てようやく判決へ達し たという、裁判の舞台裏の姿だった。11か国から集まった多彩な背景を持つ判事たちの多角的 な視点で「東京裁判」を描く。人は戦争を裁くことができるか、という厳しい問いに向き合った 男たちが繰り広げる、緊迫感あふれるヒューマンドラマ。

 出演:ジョナサン・ハイド(豪・ウエッブ裁判長役)、ポール・フリーマン(英・パトリック 判事)、マルセル・ヘンセマ(蘭・レーリンク判事)、イルファン・カーン(印・パル判事)、マイケル・アイアンサイド(加・マッカーサー)、塚本晋也(日・竹山道雄) ほか 。
 *NHKの企画原案による、カナダ、オランダとの国際共同制作。
 *判事役を演じる俳優たちは、それぞれの判事の母国出身。
               (NHKプレスリリース より)




 12日から15日まで、4夜連続で放送された「NHKスペシャルドラマ『東京裁判』」を観る。
 「東京裁判」(極東国際軍事裁判)は、海外では「ニュルンベルク裁判」の陰に隠れてその存在さえあまり知られていないらしい。しかしこの裁判は日本の戦後を左右する重大なイベントであっただけでなく、現在でも評価についてさまざまな議論が存在する。
 
 東京裁判では、戦争犯罪を三つに分類した。
 A級戦犯=平和に対する罪(侵略戦争の罪)
 B級戦犯=通例の戦争犯罪(捕虜や非戦闘員に対する虐殺、略奪、虐待など)
 C級戦犯=人道に対する罪(特定の民族に対し、虐殺や殲滅の罪)
 
 よく、会社などでミスが起きた場合に第一責任者のことをA級戦犯と言ったりするが、それは間違いで、ABCは罪をランク付けしたものではない。あくまでも戦争犯罪の分類である。A級戦犯の「平和に対する罪」とは、戦争(侵略戦争)を引き起こした人間を処罰の対象とするので、おのずとそれなりの地位にいた人間になる。したがって戦後、上記のような誤解が生じたのだろう。
  
 ニュルンベルク裁判(ナチスドイツの戦争犯罪を裁いた裁判)では、おもに「人道に対する罪」(C級戦犯)が対象であった。つまり、A級とB級は東京裁判で初めて適用された戦争法である。
 これが、東京裁判を語るときに、後々まで問題にされている。つまり、事件が起きて後、裁くことのみを目的に作られた「事後法」だからである。
 すなわち、パル判事(インド)に代表される、「事件が起きた当時、侵略戦争は違法ではなかったのだから、事後に作られた法律で被告は裁かれるべきでない」とされる論理も成り立つことになる。(あくまでも「ハーグ陸戦条約」や「ジュネーブ条約」が存在しなければの話だ)
 パル判事の理論をさらにわかりやすく言えば、「これまでは、国際法上合法であった侵略戦争が、後で法律が作られて犯罪行為になってしまった」ということだ。
 しかし、11人の判事の大半は、「仮に事後法であっても、残虐な戦争犯罪を引き起こした人間を無罪にはできない。もし彼らを無罪放免すれば、また同じ過ちを引き起こし、第3次世界大戦を起こされかねない」と主張した。
 このように、いささか強引な手段に及ばなければならないほど、日本の侵略行為は衝撃的であったということだ。ナチスのホロコースト以上の戦争犯罪だと捉えた判事もいたのである。だからどうしても裁かなければならないと。
 

 
 パル判事の論理は、これが個人を対象とするものであるなら法律家としては真っ当な意見であろう。合法だと思って行なったことが、逮捕された後で作られた法律によって裁かれたらたまったものではない。
 しかし、問題は日本という軍事国家(当時)の引き起こした戦争によって、アジアの膨大な人々の命が失われたということだ。南京事件に代表される大量虐殺行為は、それがたとえ戦争という特殊な状況下であっても許されるべきことではない。
 だとするならば、アメリカの原子爆弾による虐殺も裁かれなければならないはずなのだが、戦勝国アメリカの戦争犯罪が裁かれたことはない。それは後のイラク戦争も、ベトナム戦争も同様である。明らかな片手落ちだ。
 
 ただ、ここで確認すべきことがある。パル判事の発言は考慮すべき点が多いのだが、ドラマでも言っているように、日本の残虐行為を許すことではない。彼は法律家として「事後法で裁くことはできない」と言っているのだ。もしそんなことが可能なら、不都合な出来事がある度に、いくらでも後から法律を作って罰することができるようになり、法体系が崩れてしまう、と言っているのだ。
 例えば今日本では、共謀罪法が作られようとしているが、その法律ができたとき、何年も前に行なわれた集会が法に触れ、逮捕されたとしたらどうだろう。そんなむちゃくちゃなことはない。
 したがって、東京裁判で判決の根拠となった罪状は、特例中の特例と言える。
 
 だが、それらの法律が、何の根拠もなく適用されたわけではない。すでに「ハーグ陸戦条約」など、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱いについての決まりがあった。日本もその条約にもとづいて、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)1月13日に「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」として公布した。したがって、日本軍の戦争犯罪は、国内法でも違法であって、東京裁判での判決が、まったく寝耳に水というわけではなかったのだ。
 
 結果は、多くの被告の量刑は「B級」の通例の戦争犯罪をもとに決められた。そして「C級」で裁かれた被告は一人もいなかった。
 
 最後に、パル判事の理論は法律家として理に叶った一面を持っているが、靖国神社に「パル判事の日本無罪論」として碑を建てたり、右派の論客が東京裁判そのものを否定するようなことは間違いであると言っておきたい。パル判事は、決して日本の戦争行為を正当化してはいない。それどころか「あってはならない残虐行為として非難されるべきものである」ことを承知している。問題は、法律の運用方法と裁判のあり方について納得できないということなのだ。
 
 靖国神社のパル判事の碑については以前から違和感を持っていた。もしパル判事がその事実を知ったらなんと言うだろうか。
「私は、当時の日本政府がまったく無罪であるなどとは考えていない。法律的には無罪であっても、道義的には重罪であることを自覚して欲しい」
 こうい言ったのではないだろうか。
 
【参考】
 戸谷由麻『東京裁判』みすず書房(2008年)
 著者はハワイ大マノア校准教授。カリフォルニア大学での博士論文に加筆訂正し、当初英文で出版。本書は著者自身による翻訳で一部改定を加えたもの。
 大変ていねいに研究してまとめたもので、東京裁判についての重要な文献である。
 ただし、初版には重大な誤字・脱字・誤用が散見している。そのことについては版元に連絡済みで、ていねいな回答も受け取っているから再版以降では修正されていることと思う。

 東京裁判研究会『共同研究 パル判決書』(上・下)講談社学術文庫(1984年)
 佐山高雄氏の呼びかけで発足した5人の法学博士・弁護士による東京裁判研究会が、膨大なパル判決書を精査したもの。判決書の全文に解説を加えた本書は、上下巻あわせて1600ページを超える。
 パル判決をリスペクトしながらも、すべてを肯定するものではない。とくに、パル判決には「ハーグ陸戦条約」や「ジュネーブ条約」などの国際法を考慮すべき部分が欠落しているとのべ、過去の研究書が「日本無罪論」という間違った風評を生んでしまったことへの批判にも言及している。

ドラマ『遺族』を観る

2015年12月27日 | テレビ番組


 ドラマ『遺族』は1961(昭和36)年8月16日、終戦の日の翌日にNHKで放送されたドラマである。
 脚本は山田洋次・野村芳太郎。出演は、北村和夫、鳳八千代、湯浅実ほか。
 当時はまだVTRのテープがたいへん高価であったために、ほとんどのドラマが残されていなかったが、この作品は幸運にもフィルム(16ミリ)で制作された。しかし番組を記録するという意識のない時代で、NHKアーカイブスのデータベースに登録されておらず、保管庫の片隅にあったのが偶然発見されたのだ。
 発見した職員は「『ドラマ 遺族』と書かれたタイトルを最初に見た時に、何か大きな事件か事故を描いたドラマだろうか……」と思ったそうだ。映像を観ると、オープニングがインタビューだったので、ドラマではなくドキュメンタリーの印象だったと言う。
 
 このドラマは発見された翌年の2014年1月に再放送されたのだが見落としていて、今回CSでさらに再放送されたのを録画しておいた。
 
 1961年放送だが、制作はその1年前、戦後15年だ。冒頭の若者(当時)へのインタビューを聞くと、わずか15年前の戦争が、既に過去のものになっていることに驚く。


 
 シーンは、「ダンスクラブ」。当時は「ディスコ」と言わなかった。
 
 アナウンサー「特攻隊っていうのを聞いたことあるでしょ?」
 若い女性「ええ、あります。」
 アナウンサー「どう思いますか?」
 若い女性「どうって分からないです、全然」

 アナウンサー「特攻隊で亡くなった人たちについてはどう思いますか?」
 若い男性「どう思うって、あまり利口じゃないと思います」
 
 特攻を命じられても断ればいいと思っている若者が、すでに現れていたことに驚く。彼らにとって、戦争は既に遠い過去のことになってしまっているのだ。
 戦後70年の現在、戦争が歴史の中に埋もれ、記憶が希薄になっていることも、さもありなん、と思う。だからこそ、戦争体験者の言葉が永久に語り継がれなければならないのだ。
 
 国会議員や元特攻隊員、及び遺族へのインタビューもはさまれる。当時は自民党の国会議員ですら、「絶対に戦争をしてはいけない」と語っている。
 

 
 特攻機の命中率は9%、撃沈率は0.8%。
 
 脚本の山田洋次さんは「NHKアーカイブス」の中でこう語っている。
 「劇中にも出てきますが、特攻隊の攻撃がいかに確率の低い、ひどい作戦だったかというデータも調べました。当時、“一機一艦”と言っていたけれど1000機出て行って敵艦10隻も沈まなかったのですから」
 
 撃沈できたのは、2機以上が命中しての戦果だったという記録もある。多くが攻撃を行う前に撃墜され、海の藻くずと消えた。「一機一艦」など到底不可能だったのだ。
 燃料不足で満足な訓練もできず、空母は一隻もなし、そのほかの艦船も数えるほどしか残っていない。なけなしの飛行機を使っての体当たり作戦は、まさに国そのものが「玉砕」しようとしていた。
 戦力は大人と赤ん坊ほども差があった。それでも日本は戦争を続けようとしていた。
 日本にとっては多大な犠牲、アメリカにとっては蚊に刺された程度の被害。
 まったくバカな作戦であった。未来ある有能な若者を犬死にさせた軍部の責任は大きい。
 彼らの死が意味をもつとしたら、それは何があっても、日本が二度と戦争をしないことだ。
 彼らの犠牲のもとに成立した日本国憲法の「9条」を守り続けることだ。

TBSドラマ「レッドクロス~女たちの赤紙~」

2015年08月03日 | テレビ番組
 1日2日の二夜連続で放送されたドラマ「レッドクロス~女たちの赤紙~」を観た。
レッドクロスとは赤十字のこと、赤紙はもちろん臨時召集令状だ。
 
 赤紙といえば庶民が兵隊に召集される命令書のことで、一般には男に対するものと思われている。日赤の従軍看護婦が戦時中、令状で召集されたということは知っていたが、それが赤紙だとは知らなかった。
 戦中戦後の現代史をけっこう調べていながら、従軍看護婦のことは欠落していた。おはずかしい。
 しかも、兵士に対する令状よりも、紙の赤色が濃い。当然それも知らなかった。
「赤紙っていうけど、本当に赤いんだなあ」とは『私は貝になりたい』(1958年)で清水豊松がつぶやく言葉だ。彼が受け取った赤紙は、ピンク色のはずだ。
 
 天野希代(松嶋菜々子)は敵も味方も平等に治療したナイチンゲールの精神に共鳴し、看護婦養成所を卒業、赤十字に入る。やがて赤紙を受け取った希代は、従軍看護婦になり「満州国」に渡る。
 ある日、開拓団の男性と中国人の負傷者が運び込まれるが、ご存知の通り「満州国」は日本の傀儡国家で完全支配下(ドラマでは「影響下」と表現していた。保守に対する配慮か?)にあり、中国人は差別されていた。しかも日本の侵略に抵抗する民兵を「匪賊」と呼び、排除の対象だった。
 「満州国」を事実上統治する関東軍将校に、ナイチンゲールの精神など理解できるはずもなく、中国人の負傷者を治療することはまかりならんと、軍医や希代たち看護婦を暴力と拳銃で脅して従わせようとする。
 だが、それでも希代は関東軍将校に見つからないよう、こっそりと治療し退院させるが、その直後、中国人はスパイの汚名を着せられて公開処刑されてしまう。
 
 看護婦を引退した希代は結婚し子どもをもうけ、平和なひとときを過ごしていたが、戦争の激化に伴いふたたび野戦病院に戻る。しかし、希代の知らないあいだに夫に召集令状が来て、夫は戦死、家族は離れ離れになる。
 やがて敗戦。敗戦間近に参戦したソ連軍によって、希代たちの病院は占領されてしまう。ソ連軍の兵士は、若い看護婦を当たり前のように陵辱した。
 中国では共産党軍が勝利して「中華人民共和国」(1949年)が建国された。それとともに病院もソ連の手から中国へと渡る。
 希代たち看護婦は、非道の限りを尽くされたソ連軍から、今度は中国軍にひどい目にあわされるのかと、あらかじめ配られていた青酸カリで死のうとするが、中国人民解放軍のリーダーによって止められ、中国に奉仕することを条件に、人民解放軍と同等の手厚い扱いを受ける。
 このことについては反論もあるようだが、革命当時の中国が捕虜などを国民以上に手厚く扱ったことは事実である。(「撫順戦犯管理所」をはじめとした捕虜体験者による証言が多数ある)
 
 時が来て、希代たちは日本に強制送還される。
 そして、今度は朝鮮戦争。
 ふたたび看護婦になった希代は、ある日、負傷して運び込まれた兵士が、生き別れになった息子であることに気づく。息子は中国人になり、人民解放軍の兵士として、北朝鮮側について闘い、負傷しアメリカ軍の捕虜になったのだ。
 息子は中国に帰されたが、国交のない日本と中国では希代が会いに行くことはできない。親子が再会できたのは、1972年に「日中国交正常化」が実現してからであった。
 
 前述の「『満州国』の影響下」という表現もそうだが、関東軍の非道を表す台詞を不明瞭にするなど自粛の影が見られ、突っ込みどころは点在する。しかし、現在の自民党政権下での放送ということを考えると、精一杯の抵抗ともとれる。
 右派や保守派からは、革命中国を美化しすぎるとか、関東軍を悪く扱っているなどと文句が来そうだが、ドラマの内容はおおかた事実に近い。こうした優れたドラマに、政府などの圧力がかからないことを祈る。

TBSドラマ「ナポレオンの村」

2015年07月20日 | テレビ番組

 
 実話をもとにしたドラマだそうである。主人公・浅井栄治(唐沢寿明)のモデルは、羽咋市の高野誠鮮。石川県羽咋市神子原町(神子原地区)での奇跡的な村おこしで、スーパー公務員と呼ばれるようになった。
 ご存知のように、おおかたの公務員は事なかれ主義者の代名詞のような存在だ(あえて全てとは言わない、批判を顧みずに活動している公務員を何人も知っている)。可もなく不可もなく勤め上げ、年金で老後を過ごして一生を終えるのが理想のようだ。つまり、波風が立つことを極端に恐れる。だから、市や村を私物化して自分の思うままにしようとする身勝手な市長に対しても、軋轢を避けて言われるがままに、住民のためにならないとわかっていながら従ってしまう。
 ドラマだから当然誇張されているだろうけれど、主人公の浅井栄治は、そんなこ公務員たちの中にいて、「限界集落」の再生に向かってリスクを恐れずさまざまな企画にチャレンジする。
 
 年に一度の村祭の予算がたった1万円。「どうせ人は集まらない」「誰も協力なんかしない」「祭をやりたがる住民なんて一人もいない」。そんな否定的な考えに凝り固まった役所の中にいて、住民一人一人と関わり、彼等の本音を導き出していく。
 
 「人の役に立つのが役人です」
 保身しか頭にない役人たちに聞かせたい。
 「廃村を決めるのは市長じゃありません。住民ですから」
 限界集落を早急に廃村にして、地域再開発を目論み、私腹を肥やそうとする市長(沢村一樹)に言い返す言葉だ。民意に耳を貸さない安部首相に聞かせたい。住民がいてこその村、国民がいてこその国家。民意が最優先されるべきなのだ。
 
 地元特産の和紙を使った「スカイランタン」イベントは、市長やその手先とも言える課長(ムロツヨシ)の妨害にもめげず大成功をおさめる。村の繁栄を望まない市長たちとの闘いがこれからどんなドラマになっていくのか楽しみだ。
 ただし、ドラマのクライマックスにもなった「スカイランタン」は、基本的には消防法で禁止されている。その撮影にはスタッフの大変な苦労があったらしい。
 最後になるが、ヒロインの麻生久美子がなかなかいい。役所の退廃的かつ否定的な雰囲気に染まっているが、浅井の熱意に動かされ、やがては協力者になっていくだろう雰囲気が伝わってくる。
 
 ドラマのTBSの、面目躍如たるドラマになっていくことを期待したい。
 

「イマキヨさん」

2015年04月20日 | テレビ番組

 
 「世にも奇妙な物語」という長寿番組がある。連続ものではなく、年に2、3回2時間枠くらいでランダムに放送されるので、正確な意味では長寿番組と言わないかもしれないけれど、初放送から今年で25周年だそうだ。
 けっこう面白かったので、放送があれば欠かさず見ているものの、最近はかなり質が落ちた。1回の放送で、5つほどの短編ドラマで構成されたオムニバス形式なのだが、このところその中で一つ面白いのがあればいい方で、まったくつまらないことの方が多い。
 しかしかつては違った。中でも2006年の3月に放送された15周年特別編は優れた作品が多かった。とくに、社会での人間関係を風刺した「イマキヨさん」は現在まで最高傑作との評判が高い。
 これが放送されたとき、長男がまだ幼児で、ものすごく怖がったことが家では語りぐさになっている。確かに恐い。しかも誰に聞いても最も印象に残っていると話す。他の作品は忘れてしまっていても、「イマキヨさん」だけは覚えているという人が多いのだ。
 ところが、他の作品は頻繁に再放送されているのに、なぜか「イマキヨさん」だけは再放送がない。もしかしたら、タイミングを逸して見逃しているのかもしれないけれど、評判の作品なのだから、もう少し再放送の機会があっていいのではないかと思う。
 一応YOU TUBEで見ることができる。しかし画質は悪いし短縮版である。いくら見たいと言ってもわずか十数分の番組のために高価なDVDを購入する気は毛頭なかったのだが、運良く中古の格安をネットで見つけた。
 届いてすぐに、10年ぶりで家族で観た。
 息子ももう怖がったりはしない……と思っていたら、どうやら幼児時代の怖かった記憶が残っているのか、自分の部屋に引っ込んでしまった。
 
 イマキヨさんとはある地方に伝わる座敷童のような妖怪という設定である。ただし、座敷童のように可愛くない。写真で見ての通りだ。不気味である。
 
 上手に付き合えば、幸運をもたらすと言われているのだけれど、守らなければいけないルールがある。
 
 1. イマキヨさんを無理矢理追い出してはいけない。
 2. イマキヨさんを傷つけない
 3. イマキヨさんの前で引っ越しの話をしない
 4. イマキヨさんに謝らない
 
 簡単のようだが、取り付かれた主人公はついつい順番に約束を破ってしまう。そうするとどうなるか。
 
 無理矢理追い出したり傷つけたりすると、イマキヨさんが増える、引っ越しの話をするとずっと取り付かれる。
 そして、イマキヨさんに謝ると……新しいイマキヨさんにされてしまう。
 
 他人を排除すれば、排除したい人間は限りなく増える。人を傷つけるクセを持つと、孤立する。いやな社会から逃げ出そうとしても、どこにも逃げ場はない。
 あきらめてしまうと、社会の枠組みに縛られ身動きできなくなる。しかし、人間関係の源は、すべて自分の内にある。「イマキヨさん」とはそういうドラマだ。
 松本潤と台詞がまったくないイマキヨさんの酒井敏也の好演が光る。最近あまり見かけなくなったが、お嬢様風女優の高橋真唯(『妄想姉妹』の三女)が松本潤の恋人役で初々しい。
 
 今年の秋に、リメイクされるらしいとの噂を聞いているので楽しみだ。

ドラマ『お母さま、しあわせ?』

2015年04月02日 | テレビ番組
 NHK BSプレミアムドラマ『お母さま、しあわせ?~書家・金澤翔子 母と娘の物語~』を再放送で見た。
 金澤翔子さんは特別な遺伝子を持ってうまれ、「ダウン症」と診断された。
 ドラマは実写をまじえながら、並外れた感性で書家として大成していく彼女の人生を描いている。
 両親、特に母親は大きく後悔する。
 「ダウン症とわかっていれば生まなかった」とつぶやく。
 幼稚園で他の子どもがやりたがらない下駄箱の掃除を率先してやっていれば、保母に「やめさせてほしい。あの子は自分が損をしていることがわからないのだから」と文句を言う。
 母親は保母から、「あなたはあの子のお母さんとして腰が据わっていない」と逆に叱責されてしまう。「翔子ちゃんを見てみんなが笑顔になる。嫌う子は一人もいません」と、良いところを認めるように指導する。
 母親はどうにかして、他の子どもと同じように育てたいと考えるのだ。小学校に入ったものの「知的障がい」扱いされ、特殊学級への編入をすすめられたりもする。
 書道教室を開く母親は、翔子に写経をやらせてみる。しかしどうしても手本通りに書くことができず、母親は苛立つ。しかしすべてを書き終わった書の全体を見たとき、そこに余人がまねのできない味わいとバランスがあることを見出す。
 書家、金澤翔子の誕生である。
 
 このような子どもたち、「ダウン症」「サヴァン症候群」「ADHD」などをはじめとした、少しだけ他の子どもたちと違う子どもに対して、異端の目で見たり排除したりする風潮が社会に存在する。理解ある態度を示しているようでも、後ろを向いて〈うちの子があんなじゃなくてよかった〉と安堵の表情を見せる。それが現実だ。
 ぼくは「ダウン症」は病気ではないと思っている。「症」という文字が含まれるため、それと先天的に持っている能力が平均的な人々と異なることから「異常」扱いをされてしまうことは非常に残念だ。一種の排他主義、差別であると感じる。
 人は他と同じであることに安心感を持ち、異なる者を認めない習慣をいつのまにか身につけてしまっている。自分の判断基準で好ましくないと決めつければ避けるようになる。そう言った行為が自分が作った枠組みから来ていることに、たいていの人は気づかない。
 
 カミさんの友人がいわゆる「知的障がい」とされている施設で働いていて、時々ダンスを指導に行っている。そこにも「ダウン症」の人がいて、飛び抜けた存在感を表現していると聞いた。金澤翔子さんをはじめ、ある分野で優れた才能を発揮する人は少なくないが、現在の社会では幸運と言わざるを得ない。「異常」のレッテルを貼られたまま生涯を終える人の方が遥かに多いだろう。
 人は必ず、その人ならではの才能を持って生まれてくると言われている。独特の才能を見出し成長を支援する仕組みが、この社会には必要なのではないだろうか。

NHKドラマ『紅白が生まれた日』

2015年03月22日 | テレビ番組

(NHKホームページより)
 
 NHKドラマ『紅白が生まれた日』を観た。
 はっきり言っておくが、「紅白歌合戦」などという番組はクソであると、ずっと思っている。歌手にとっては出演することがステータスらしいが、歌番組とバラエティーをくっつけたような、ただうるさいだけの番組がなぜ毎年最高視聴率を競うのか理解に苦しむ。
 他局も大晦日はろくな番組を放送していないから、かつてはミラノ座の「オールナイト・ジャムセッション」で元日の朝まで過ごしたり、最近は録画した映画などを見ている。カミさんはミーハーなもので居間に行けば紅白がかかっているから、大まかな様子はわかる。しかし、観るに耐えないので、用事が済んだらさっさと書斎に上がって映画の続きを観るのがここ数年の大晦日の過ごし方だ。
 
 だから、このドラマを観たのは「紅白歌合戦」に興味があったからではない。敗戦直後のマスコミとGHQ(General Headquarters)のNHKに対する検閲について知りたかったからだ。
 GHQは、日本を民主主義の国にするという立前のもと、「アメリカ式民主主義」で国民を洗脳することを目論んだ。封建主義を肯定すると解釈された番組や映画、小説などはことごとく不許可になり、その検閲は戦前の政府による検閲よりも厳しかった。
 たとえば、小説や評論などの政府に都合の悪い文章は「伏せ字」あるいは「◯文字削除」などと表現することができたが、GHQの検閲ではそれすら許されず、削除したまま前後をつなげたので、読者は検閲の内容についてまったくわからない。
 歌舞伎の演目で「仮名手本忠臣蔵」が上演禁止になったことはあまりにも有名だ。主君と家来の関係や、仇討ちが封建的と判断されたためだ。作家の石川達三、大岡昇平、火野葦平等々も発売禁止や果ては追放などの憂き目にあった。
 彼らの作品の多くは、封建的だからではなく、もうひとつの目的である、日本が共産主義化することを防ぐために、「アメリカ的民主主義」に反する、つまり、資本主義に批判的な内容の出版物に目を光らせたことによる。こうして洗脳された結果、多くの日本人は現代でも「共産アレルギー」が解けていない。
 
 「紅白歌合戦」の元となる番組は、敗戦の年1945年の大晦日に放送された。「紅白音楽試合」という番組名で、当初の企画では「紅白音楽合戦」とする予定だったが、GHQから「敗戦国が合戦(バトル)とは何事だ」との理由で不許可となり、仕方がなく、試合という意味のマッチに変更した。そこに、言語による意思疎通の難しさだけでなく、文化の違いからくる行き違いも垣間みられる。
 「民主主義の新時代に相応しい番組作り」はGHQの指示であった。ディレクターの新藤達也(松山ケンイチ 実在の人物近藤積=こんどう・つもるがモデル)は試行錯誤の末「紅白歌合戦」の提案を書き上げる。しかし、GHQは「紅白歌合戦」の「合戦」が、戦いを奨励すると言って許可しない。新藤はGHQに論戦を挑み、なんとか「音楽試合」とすることで了承を取り付けるが、日系人の通訳馬淵から「1分1秒、すべて台本通りに。それができなければ今後番組は作らせない」と釘を刺される。
 一方、目玉としていた「リンゴの唄」の並木路子は戦争で家族を失った傷が言えておらず、たくさんの人が一度に聞くマイクに向かっては歌えないという。しかし、新藤の情熱と女子アナの竹下光江(本田翼)の機転でなんとか説得に成功し、放送当日を迎えることになる。(「リンゴの唄」はドラマや映画で敗戦直後の風景のバックミュージックに必ずといっていいほどよく使われる)
 
 当時の番組資料は、録音はおろか写真すらも残っていないと聞く。そうした悪条件のもと、スタジオ風景や局内の様子を再現したことは評価に値する。
 また、実際とはほど遠いとは思うが、敗戦直後にGHQがラジオ番組にどのように関わり、何を目的としていたのか、それを考えるためのテーマが与えられる。すくなくとも、自分で調べてみたい項目が、あらためていくつかできたことは事実だ。
 
 終盤、日系人通訳の馬淵が「自分はアメリカ人である」と言い張っていたものの、新藤たちが屋上で焼くニシンの匂いに憧憬を覚えたり、並木路子の「リンゴの唄」に涙して新藤に便宜を図るなど、いささかナショナリズムの匂いがなきにしもあらずだ。
 「紅白音楽試合」はその1度だけで、「紅白歌合戦」として復活するのは約5年後の1951年に正月番組としてであった。ただし番組名は「第1回NHK紅白音楽合戦」であった。
 
 「紅白歌合戦」は昨年で65回目。全盛期は視聴率が80パーセントを超えたこともあったが、近年は40パーセント前後にとどまり、メディアの多様化も相まって徐々に衰退してきている。それでも常に年間最高位を競う番組であることに間違いはない。

最悪のシナリオ『◯◯妻』

2015年03月19日 | テレビ番組

(番組ホームページより)
 
 すべてをぶちこわした最終回
 楽しみにしていて毎週観ていた(観られないときは録画で)日テレの『◯◯妻』が最終回を迎えた。視聴率もそれなりの位置を維持していたらしい。
 いつも思うのだが、連続ドラマの終わり方は脚本家としては頭を悩ませることだと思う。ドラマチックに、あるいは印象深く最終回を迎えようと試行錯誤しているに違いない。しかし、『◯◯妻』の最終回は最悪だった。
 
 主人公の妻ひかり(柴咲コウ)は夫に人生をささげるほど貞淑で、八方破れで家庭に無関心な夫の久保田正純(東山紀之)を陰に日向に支えてきた。一分の隙もない主婦であったが、実は正式な妻ではない。若い頃に息子を殺害したトラウマを抱え、売れっ子キャスターの夫に迷惑をかけたくないと、契約妻(タイトルの「◯◯妻」は「契約妻」とは限らないそうである)という形をとっていた。しかし決して重たいドラマではなく、コミカルな要素も含めながらドラマは進んでいった。
 番組で言いたい放題の正純は、視聴者から大きな支持を得る反面、時にその傍若無人な発言が多大な反感を買うこともあった。プロデューサーの板垣(城田優)をはじめ局側はそんな正純に手を焼き、とうとう降板させてしまう。しかし、番組で正純が述べる持論も、このドラマの魅力のひとつであった。
 正純は自分ではスーツもネクタイも選べず何から何まで妻のひかりまかせであった。だが、当の正純はひかりが自分に尽くしてくれることは当然のことのように考えていた。
 わがまま放題の正純だったが、番組を降板させられて初めて、自分の知らないところで尽くしてくれていたひかりを理解する。正純は過去のことは問わず正式に結婚を求め、ひかりはそれを受け入れる。
 これでハッピーエンドと思いきや、最悪のシナリオは、結婚式の前日に訪れた。2人で公園を散歩中、不良高校生の集団に襲われる。ひかりは崖から突き落とされそうになった正純を助けようとするが、2人とも落下してしまう。
 正純は軽傷ですんだが、ひかりは意識不明の重体になり、正純がゲスト出演するニュース番組にあわせて一時意識を取り戻すものの、番組終了と同時に息絶えてしまう。
 
 あまりにも悲しすぎる結末だ。
 視聴者のほとんどは、ドラマの進行状況や全体の雰囲気からこんな結末は望まず、ハッピーエンドで終わってほしかったと考えていたと思う。流れからして、そうでなければならない。明らかに、視聴者に対する裏切りで、いやな気分を残したまま、突き放してしまっているのだ。
 「視聴者に対する裏切り」、これはどんなドラマであっても、決してあってはならない、シナリオづくりの常識中の常識だ。
 テレビドラマの視聴者は誰も、テレビドラマからいやな気分を味わいたいなどと思ってはいない。あくまでもフィクションであり、ドキュメンタリーとは異なるのだから。
 遊川和彦といえば実績のある脚本家だ。それがなぜこのようにセオリーを外したエンディングにしてしまったのか、理解に苦しむ。
 カミさんなどは観ていて、「お母さんの(黒木瞳)の仕掛けた冗談じゃないかな、ぱっと目をあけたりして……」と最後の最後まで期待して、本当に死んでしまったことがわかったときには涙ぐんでいた。これは決して感動の涙ではない。決してあってほしくなかった結末に対する怒りの涙だ。
 視聴者の多くが「そりゃあないよ」と感じたことだろう。
 
 「もうひとつの最終回」
 そこで日テレに提案だが、悲劇的ではない「もうひとつの最終回」を作ってはどうか。ひかりは全快し、正純とふたりで新しい人生を歩み始める。そして正純には新しい番組へのオファーが来る。そうすれば次回作が制作できるし、視聴者には新たな期待が生まれる。
 ぜひともそう願いたいものだが、いかがであろうか。

TBS「戦後70年~千の証言~」

2015年03月09日 | テレビ番組
 TBSテレビのドキュメンタリー、「戦後70年~千の証言~」を観た。
 初めて見る映像だった。太平洋戦争中のアメリカ軍戦闘機には、戦果を確認するための機載カメラが翼に埋め込まれており、撮影された膨大なフィルムがアメリカ公文書館に保管されていた。その中から終戦間近、日本本土への空襲を記録した映像を探し出し構成したドキュメンタリーである。これまで記録が乏しく、あまり知られていない地方都市への空襲の実態と、そのすさまじさが明らかになっている。
 
 記録映像は北は北海道から南は沖縄まで、主立った都市をことごとく空襲していることがわかる。
 空襲というと東京大空襲のように、B29による焼夷弾を思い浮かべるが、機銃掃射による空襲もそうとうな恐怖を感じた。
 アメリカ軍の戦闘機に搭載された機銃は、1秒間に70発の弾丸を発射し、引き金を引いている間中発射し続けるという。とんでもない殺戮装置だ。

 このドキュメンタリーのメインテーマは、1945年8月5日の中央本線湯ノ花(いのはな)トンネル直前での列車銃撃事件である。満員の新宿発長野行きの中央線下り列車が、米軍の艦載機P51の機銃掃射に襲われた。八王子空襲で不通になった中央線が4日ぶりに開通し、疎開や買い出しで長野に向かう乗客が窓にまでぶら下がるほどの超満員であった。
 
 八王子を過ぎ浅川(現・高尾)駅を出た列車が湯の花トンネルに差し掛かったとき、突然空襲警報が発令され、女性車掌は乗客に窓の鎧戸を下ろすようにアナウンスした。しかし、連日の空襲に慣れた乗客たちは、8月の猛暑の中、サウナのようになった車内に風を取り込むことを優先し、ほとんどの窓が開け放たれたままだった。
 米軍の艦載機P51の標的になった列車は、無防備に機銃の弾丸を浴び、車内はたちまち地獄と化す。約880人が死傷(少なくとも52人が死亡)、米軍列車銃撃による日本最大の犠牲を生んだ。
 
 車内には、母親が苦労して手に入れた切符で、空襲の激しい東京から長野に疎開する姉妹がいた。この列車攻撃で、その姉妹の姉が犠牲になった。広島に原爆が投下される前日、終戦のわずか10日前であった。
 
 取材班は、この攻撃に参加したパイロットを捜しにアメリカに渡り、部隊の同窓会が行われている現場に行く。しかし、そこでは直接攻撃に加わったパイロットは見つからなかった。
 
 中央線の列車攻撃ではないが、他の攻撃に参加したという同じ部隊のパイロットに、前出の姉妹のうちの、生き残った妹の証言をはじめとした証言映像を観てもらうことができた。彼は、飛行機からは人間の姿が見えない、だから地上でなにが起きているかはわからなかったと言い、「まったく酷いことだ。中央線を攻撃したのは私ではないが、しかし、私の国アメリカがやったことだから、謝罪しなければならない」と涙を流した。
 このような反応をする元米軍兵士は希であろう。多くの元兵士は、自分のやったことは、アメリカを守るために必要なことだったと悪びれない。そして、地上でなにが起きているのかなど、知りたいとも思わないと。
 
 この感覚は、テレビゲームと同じである。約600時間に上る記録映像の中で、動く人影が見られるのはわずか15秒であった。つまり、人間を殺している自覚がないのだ。
 
 現代の戦争はほとんどが遠隔操作や無人機によって攻撃が行われる。そうなるとますます「殺している」自覚がないだろう。本当にゲーム感覚で大量殺人が行われるのだ。
 
 戦争は人間を鬼にする。戦争とは、自分が殺されるだけでなく、自分自身も殺人者になる、ということを知るべきだ。
 
 カミさんが、「安倍晋三はこういう番組を観ているのかなあ」とつぶやいた。ぼくは「絶対見ないだろうね」と言った。

ドラマ『天才探偵ミタライ』

2015年03月07日 | テレビ番組

 
 夜遅くに、録画してあった『天才探偵ミタライ』(原作:島田荘司『傘を折る女』)を観る。
 出演者に惹かれて録画してあったドラマを、コマーシャルを飛ばしながら観た。ミステリーとしては久しぶりに面白いドラマだった。
 ストーリーもトリックもたいしたことはない。犯人も動機もすぐにわかってしまう。だから、ミステリーとしては3流なのだが……。
 しかし、玉木宏演じる探偵のミタライが、遺留品や関係者の証言、および服の汚れ具合とか当日の天候など、さまざまな要素をつなぎ合わせての推理は、実に論理的で明解、納得がいく。
 ラジオで放送された謎の出来事、白いワンピースの女が雨の中、わざと車に傘を引かせて、壊れた傘を手に、びしょ濡れになって歩き去る出来事をビルのベランダからみたという報告だけで、彼女が人を殺してきたことの詳細を推理するシーンでまず視聴者を引きつける。
 初対面の女性刑事(坂井真紀)の服装や表情、靴の汚れ具合から、いきなり推理・分析を機関銃のように述べ、3日間風呂に入っていないなどと言って退ける。
 シャーロック・ホームズとワトソンを思わせる、相棒の作家(堂本光一)とのキャッチボールはまるでコントだ。
 リアリズムなどくそくらえと言っているようなドラマ展開で、殺人事件が起きているのにまったく重たくならない。こんなミステリーもあっていい。思えば、江戸川乱歩の『少年探偵団』もアンチリアリズムだった。
 殺人現場で不審死を遂げ、犯人と勘違いされる女性がハムスターアレルギーで、ケージから逃亡したハムスターに指をかじられたことに鑑識や解剖医が気づかないわけがない。いくら片付けたと言っても、犯人の残した残留物が少なすぎる。『科捜研の女』のまり子さんならたちまち山ほど遺留品をかき集めるだろう。
 とまあ、そんな不自然なところはとりあえず置いといて、気楽で楽しいミステリーだった。
 最後に「to be continue?」とあったから、もしかすると第2弾があるのかも。ちょっと楽しみだ。
 
 それにしても、役者が達者だと、それだけでドラマは面白くなる。

ドラマ『学校のカイダン』に見る日本人

2015年02月23日 | テレビ番組

(日本テレビホームページより)
 
『学校のカイダン』というドラマがある。飛ばしてしまうことはあるけれど、神木隆之介君が出ているので、時間があれば観ている。
 去る21日土曜日の放送では、今の日本を象徴するシーンがあった。主役の女子生徒会長(広瀬すず)は、心を動かす名演説で、生徒たちからの信頼を高めていった。ところが、その後にスピーチライター(神木隆之介)の存在がばれてしまう。生徒たちは、「だまされた」「裏切られた」と生徒会長の退学を求め署名運動までする。
 万事休すと思われた日の朝、そのスピーチライターが生徒たちの前に姿を現す。
「お前たちはこれでいいのか。誰かが右を向けと言えば右を向き、左を向けと言えば左を向く。。自分というものはないのか」「仮に生徒会長の演説がスピーチライターによるものだとしても、お前たちはそれに感動したじゃないか。自分に聞いてみろ、本当はどう思っているのか」(簡単に言えばこう言うことだ)
 これはまさに、今の日本人に向けられた言葉だと感じられた。たとえば、「日本国憲法はアメリカから押し付けられたものだから認められない」とか「原発事故の処理がなってなかったから菅直人はダメだ」とか、ひとつでも気に入らないところがあったり、失敗をすればすべてにノーを突きつけてしまう。要するに、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのだ。
 常々思っていたことだが、どうも日本人の多くは「小異を残して大同に従う」ことの意味がわかっておらず、感情的に走りやすい。ダイヤモンドにわずかな傷を見つけて、ダイヤモンドそのものを偽物扱いしてしまうようなもので、それはかけがえのない宝をどぶに捨てることに等しいと知ってほしいものだ。
 その逆もある。基本的にダメな人間であっても、マスコミがダメなおころを隠し、よいしょすれば簡単に支持が得られる。たとえば、冷静に考えればよいところなど何一つない安倍晋三への支持がなぜ高いのか、マスコミの演出に他ならないのだ。
 
 話は変わる。ドラマの内容ではなく出演者の話だ。
 本当はあまり言いたくないことなのだが、まるで腫れ物にさわるように誰も言っていないのであえて言わせていただく。
 このドラマの主演を張っている広瀬すずの演技はいったいなんなのか。下手くそも極まれり、とても主演女優のレベルではない。せいぜい端役だが、それでもでもいかがなものか。
 可愛いとか16歳にしてはがんばっているなどとネット上では持ち上げられているが、本当にみんなそう思っているのだろうか。
 演技の上手い下手に、年令は関係ない。共演の杉崎花(17歳)や名子役の芦田愛菜(10歳)を見ればわかる。
 台詞はぶつ切れ、体は動かず、役づくりも演技の工夫もなくただ台詞を読んでいる。(演説はスピーチライターの原稿をコピーするという設定だから、それはともかくとしての話だ)
 発声も悪いから少し声を張るだけでひっくり返る。相手役の神木隆之介がこれでもかとばかり芝居を仕掛けているのに、まるで石仏のごとく反応しない。リアクションがまるでないのだ。頭のてっぺんにミサイルが落ちてきても平然としているだろうきっと。
 言葉が重要なドラマなのに、肝心の台詞が伝わって来ないのだからお話にならない。たぶん、自分に与えられた台詞の意味を百分の一も理解していないだろう。
 大根役者という言葉があるが、これは大根にもならない菜っ葉、それも腐った菜っ葉だ。腐った菜っ葉に寄り付くのは骨の髄までむさぼろうという、数字欲しさのテレビ局のウジ虫ばかりだ。
 悪いのは広瀬すずではない、ただ顔が可愛いだけで数字に期待するテレビ業界だ。もし本当に彼女を女優として育てたいのなら、これからでも遅くはない、きちんと基礎訓練を行って、俳優のいろはを身につけてからテレビに出すべきだ。何度も出演させているうちに上手くなるだろうなどと考えているなら、それはテレビ局の傲慢というものだ。一旦へたくそのレッテルを貼られると、容易に回復できないのがこの世界だ。彼女のためを思うならもう少し慎重に扱うべきではなかったのか。
 しかし過去には、どうしようもなくへたくそとされた俳優が、徐々に、あるいはある日突然きっかけをつかんでそれなりの役者に育つ例は少なくない。彼ら彼女等はいずれも一度はどん底に落とされ、最低の評価を跳ね返してのし上がってきている。井川遥や菜々緒がいい例だ。2人ともかつてはひどいものだったが、今ではいずれも「らしさ」が出ていていい女優になったと思う。特に最近の井川遥は肩の力が抜けて実にいい。
 広瀬すずも、まず自分がへたくそであることを自覚して、そこから役者としての修行を重ね、本当の女優としてのし上がってくることを期待したい。しかし、本人がその気にならなければどうしようもないが。
 ちなみに、ロッテのコマーシャルもひどい。踊れないタレントを無理矢理踊らせて何になる。

限界集落株式会社

2015年02月08日 | テレビ番組

(写真はNHKホームページより)
 先週から始まったNHKドラマ『限界集落株式会社』(毎週土曜夜9時より)が興味深い。
 山深く囲まれた人口50人ほどの小さな集落「止村」は、市町村合併後、病院はなくバスも廃止に向かい、消滅寸前の限界集落と化している。
 この村の産業は農業主体であるが、村人たちは農業だけでは食べていけない。
 農家の大内正登(反町隆史)は、20代の頃に有機農業に挑戦したが失敗。多額の借金をつくり、両親と娘を残して、東京に逃げていた。
 正登が去ったあと、老夫婦だけでキャベツの有機農業を続けていたが、手間と費用のかかる有機野菜では採算が取れず、周囲から農薬を使って安価で見栄えの良い野菜を作ることをしきりに勧められていた。しかし、正登の父一男(井川比佐志)は頑固に有機農法をやめようとしない。
 一男が亡くなり、13年ぶりに村を訪れた正登は、父の作った野菜に心を動かされる。
 正登は父の畑を継ぐと娘の美穂(松岡茉優)と年老いた母・弥生(長山藍子)を助けるため故郷に戻った。しかし、そこに待っていたのは「農業」をとりかこむ低収入の壁だった。
 そこに、たまたま故郷が同じという経営コンサルタントの多岐川が(谷原章介)現れる(偶然というにはでき過ぎだが)。多岐川は美穂が東京で就職活動をしていたときに一度会っており、そのときは美穂の故郷を「限界集落」とバカにしていた。
 しかし多岐川は、この村には何があるか、何ができるかを考え、村全体を株式会社にしようと農業の活性化を計る。
 
 僕はかつて、三浦半島でスイカがとれ過ぎ、畑ごとブルドーザーでつぶしているのを見たことがあって、買い手のつかない大量のキャベツを涙ながらにブルドーザーでつぶすシーンは、そのときの状況を思い出させた。
 仲間と車で釣りに出かけた帰りのこと、「それ、潰しちゃうんならもらえませんか?」と声をかけたら「いくらでも持っていけ」とブルドーザーの男性が怒ったような声で返事をしたのを覚えている。そのときは「ラッキー!」とばかり車に積めるだけもらって帰ったものだが、後に生産過剰で農作物を潰しているニュースがテレビで流れ、なんとも寂しく残念な気持ちにとらわれたものだった。
 これはまさに資本主義の弊害で、物が物のままでは役に立たず、必ず現金化されることを前提に生産が行われていることの象徴だった。
 このドラマは、資本主義というシステムの中で、その欠陥を逆手に取って没落寸前の村を再生しようとするドラマだ。農協の管理下におかれている農業と、今後TPPが締結されたあとの日本の農業のあり方に、一石を投じている。
 まだ2回だが、今後の展開が楽しみだ。

プレミアムよるドラマ「徒歩7分」の不思議

2015年02月05日 | テレビ番組


 
 毎週火曜、夜11時15分からの短い連続ドラマ「徒歩7分」になぜかはまっている。
 番組ホームページには以下のように紹介されている。
 
 田中麗奈さん主演!
 黒崎依子32歳。彼氏なし、友達なし、仕事なし。今更ですが、一人暮らし、始めます!
 ナイナイづくしの女・依子。そして依子が暮らし始めたアパートから徒歩7分圏内でおこる小さな小さな出来事たち。隣人、元彼、妹、お弁当屋さんにストーカー(?)……淡々と流れる時間の中で、身近な人々との間で交わされる何気ない会話やしぐさを丁寧に描き、そうした日常の中にこそ潜んでいる、かけがえのない大切な瞬間を皆様にお届けします。

http://www4.nhk.or.jp/toho7min/
 
 実にくだらないドラマである。ただしそのくだらなさは、芸人が大騒ぎするバカバカしいくだらなさではない。あまりにも日常的でこんなことを題材にしてよくドラマが成立するものだというくだらなさだ。
 前回は、トイレの前の廊下の壁に立てかけてあった折りたたみ椅子が倒れ、それがつっかえてドアが開かなくなり、出られなくなるという設定だ。(これはカミさんの知り合いが実際に同じ目にあって、3日間閉じ込められたという)
 そして、トイレの中と外界とのやりとりだけで30分もたせる。まさに快挙だ。
 見知らぬ男から毎日のように投函される手紙。勝手にストーカーと決めつける依子。それについて隣人や妹とのあまりにも当たり前な会話だけで30分。
 困ったことがあると元カレのところに相談に行っては迷惑がられる。「もう来ないでくれる?」と拒否されると「そしたらもう会えなくなるんだよ」と成立しない会話の連続で30分。
 
 主人公の依子はとにかく無気力不器用その上空気を読まない。政治も経済も世の中の大事件とも無縁なところで生きている。「ばっかだなあ、こいつ」と笑いながらも、そういえば似たようなのがいたかもしれないと、過去に出会った誰かと重ね合わせてしまう。
 いかにもありそうな事件の連続、しかし大事件にはならない。いかにもいそうな変なやつ、どこかで見かけた人々。田中麗奈演じる依子は、典型的なダメ女なのだけれど、もしそばにいたら、明太子やうどんなどを持っていってやりたくなる、ほっておけない存在なのだ。
 本当にくだらない、しかしつい続きが見たくなる、実に変なドラマである。しかし、こういう意味不明のマイナーなドラマはけっこう好きだ。そういうドラマが多いのはテレ東の金曜深夜だけれど、これはNHKのBSプレミアム。
 
 この理屈抜きのくだらなさを一度体験してみてはいかがか。ただし、何でも理屈に合わなければ納得できない頭の固いご仁は、見れば見るほど腹が立つだろうから、やめておいた方がいいかも。
 
 田中麗奈は併行してもう一本、ドロドロ系の連ドラ「美しき罠」で主演を務めているけれど、彼女の雰囲気としては「徒歩7分」のほうが役柄として圧倒的にいい。美人すぎない可愛らしさが活きている。