ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

獺祭で年越し

2017年12月31日 | 雑感


友人たちとの忘年会で大変うまかったので、奮発して(それほどでもないか)獺祭(だっさい)の大吟醸を買った。
本当は正月に開けるつもりだったが、待ちきれず年越しそばと一緒にいただくことにした。
「なかなかである」

で、正岡子規に『獺祭書屋俳話』という評論集がある。獺祭とはカワウソが捕獲した魚を食べる前に並べておく習慣を言ったものだが、獺祭書屋とは執筆中に調べもののために引っぱりだした参考資料が、まるで獺祭のように足の踏み場もないほど散らばっていることを言う。正岡子規は散らかった自分の書斎を獺祭書屋と表現したのである。

中央大学のY教授の研究室などはまさにそれ。ドアを開けたとたん、目の前に書棚がそびえ立つ。訪問者はその脇をカニの横ばいのごとく堆く積まれた書物の間にできた畦道を辿って行かねば、奥のデスクに鎮座するY教授のもとにはたどり着けない。
訪問者用の折りたたみいすは1脚しか置けないので、「一人しか入れないから」とあらかじめ言われていたにもかかわらず、2名で訪問して一人は立ちっぱなしだったことがあった。
ワンルームマンションくらいの広さはあるのだが、壁面はびっしり書棚で埋まり、部屋の真ん中にも背中合わせで書棚がある。書棚に入り切らない本が床に古紙回収業者の集積所のように山をなしている。これぞ究極の獺祭書屋である。
大量の書物のなかから必要な本を見つけ出すよりも、図書館に行った方が早いと、本人も自覚しているようだ。

実は、そういう当方の書斎も、油断をしているとたちまち獺祭書屋の態を成しかねない。

たった一人の叛乱

2017年12月21日 | 昭和史
エスペランティスト、由比忠之進さん抗議の焼身自殺から50年

 1967年11月11日の夕刻、テレビは衝撃的なニュースを伝えた。
 「(佐藤栄作)首相訪米の11日夕、エスペランティストの老人が沖縄返還、ベトナム和平問題に対し佐藤首相に抗議、焼身自殺を計った。午後5時50分ごろ、東京都千代田区永田町1の6、首相官邸正面と道路をへだてた反対側の歩道で男が立ったまま胸にガソリンをかけマッチで火をつけ、あおむけに倒れた。炎は高くあがり、1分近く燃え続けた……」
 このエスペランティストの老人が由比忠之進さん73歳である。このニュースを知った全国のエスペランティストたちは大きな衝撃を受けた。この前日、エスペラントの定例会に参加していて、「来週は来られないから……」ともらしていたのを、仲間たちは聞き逃してしまっていたという。
 やさしい、エスペラントに熱心なおじいさんであった由比さんの強い決意と行動は、だれも予想できなかった。

由比忠之進さん。


事件を知らせる翌日の読売新聞。
 
 エスペラントとは、ポーランド人の眼科医で言語学者ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって1880年代に創案された国際共通言語である。日本ではプロレタリア運動の一環としてエスペラントが広められたところから、「エスペラント運動」と呼ばれた。言語の壁をなくし、世界のプロレタリアートが連帯することを目的としたのである。
 外国語、特にヨーロッパ諸国の言語は実に多様で、ほぼ1国1言語であった。ごく最近まで、日本にはチェコ語、ポーランド語、フィンランド語などなど、それらの諸言語の翻訳者が存在せず、出版社や報道機関ではいったんエスペラントに訳した原稿を日本語に重訳するという手法がとられた。したがって、1960年代ごろまでは、エスペラントに堪能な人々が大変重宝された時代であった。



 そんな時代の一つの成果として生まれたのが、世界中の子どもたちのつづり方と絵を集め1953年から刊行された平凡社の『世界の子ども』(15巻)である。世界中のエスペランティストと連携し、日本の優秀なエスペランティストが集結して、非情な苦労のもとに完成させたと聞く。各巻A5変形判平均210頁で420円という、小説の単行本が200円前後で買えた当時としてはかなり高価な本である。小学生であった筆者は父親が翻訳メンバーとして携わっていた関係で無償で読むことができたが、友だちに勧めると高すぎて買ってもらえないといわれ、子どもでも買える値段で出版してもらいたいと平凡社にはがきを書いた覚えがある。



 ベトナム戦争さなかの1960年代には、南ベトナム人民支援の一環として4冊のベトナム文学がエスペラントからの重訳で出版された。アイ・ドゥク・アイ著 岡一太・星田淳共訳『トーハウ』(1965年 新日本出版社)、井出於菟ほか訳『ベトナム小説集 炎のなかで』(1966年東邦出版社)、グエン・コンホワン著 井出於菟・栗田公明共訳『袋小路』(1967年 柏書房)、フーマイ著 栗田公明訳『最後の高地──小説ディエンベンフー』(1968年 東邦出版社)である。ちなみに、訳者の一人井出於菟(いで・おと)は筆者の父のペンネームで、エスペラントで思想・理念を表すideoからつけたそうである。
 これを機に、エスペラントの翻訳者集団「エスペラント・セルボ」が組織され、世界人民と多くの情報が共有されるようになった。

 あまり知られていないが、多数の著名人がエスペラントに携わった経験を持つ。山田耕筰はロシア皇帝にエスペラントで手紙を書き、大杉栄は日本で最初のエスペラント学校を作った。大本教の出口王仁三郎はエスペラントで宗教を広めることを試みた。新渡戸稲造や柳田国男もエスペラントに深く興味を持ち、名著『沖縄の歴史』を書いた比嘉春潮は、由比忠之進さんの追悼集会の発起人となった。そして、ローマ字を広め、多くの学校の校歌を作詞した歌人の土岐善麿もエスペランティストの一人である。
 ヤクルトがヨーグルトを意味するエスペラントjahurto(ヤフルト)からつけられたことは知られているが、宮沢賢治の童話には、東北地方の地名がエスペラント風にアレンジされて登場するのも面白い。「イーハトーヴォ」(岩手)、「シオーモ」(塩竈)、「センダード」(仙台)、「ハームキア」(花巻)、「モリーオ」(盛岡)、などなど。
 


 近年、グローバリズムの影響かどうかわからないが、改めてエスペラントが注目されつつあると聞く。今年9月、エスペラント運動の歴史を簡潔にまとめた『日本エスペラント運動の裏街道を漫歩する』(エスペラント国際情報センター)が出版された。詳細な運動史は1987年に三省堂から『反体制エスペラント運動史』として出版されたが現在は絶版。入手可能な出版物としては日本エスペラント学会の私家版『日本エスペラント運動史』がある。エスペラントの先駆者ザメンホフについては岩波新書の『エスペラントの父 ザメンホフ』がよい。
 エスペラントで戦後の家計を助けた父だったが、なぜか子どもたちにエスペラントを教えることも勧めることもしなかった。多分子どもの自主性に任せた、ということなのだろう。したがって。残念なことに筆者自身はエスペラントができない。

 佐藤訪ベト阻止の羽田闘争に参加した京大生の山﨑博昭さんが機動隊に虐殺された10月、由比忠之進さんが抗議の焼身自殺を遂げた11月、その1967年から50年目の2017年が、まもなく終わる。


 エスペラント運動と出版物についての問い合わせは、(財)日本エスペラント協会(〒162-0042 東京都新宿区早稲田町12−3 エスペラント会館 電話: 03-3203-4581)まで。

「山﨑博昭プロジェクト」忘年会

2017年12月20日 | 昭和史


19日は「山﨑博昭プロジェクト」の忘年会だった。
今年10月には「かつて10.8羽田闘争があった」(寄稿編)を合同フォレストから出版し、その編集者として招かれた。
元東大全共闘議長山本義隆(左の帽子)、山﨑と同期で中原中也研究で知られる詩人の佐々木幹郎をはじめ、発起人を中心に18人ほどが集まり、近況や昔話に花を咲かせた。
それにしても、よくぞ集まったものと驚くほどのすごいメンバーだ。
来年10月には、「かつて10.8羽田闘争があった」の資料編が刊行される予定で、「寄稿編」以上に編集が難航すrことが目に見えている。
はてどうなることか。

崎山多美さん

2017年12月16日 | 文学
法政大学に、崎山多美さんの講演を聞きにいく。
平日の昼間でゼミの講義の一環だから参加者のほとんどは学生。それに一般の参加者も少なくはないが、多くは年配者。



崎山多美さんは「水上往還」で芥川賞の候補にもなった沖縄の作家である。作品の多くが沖縄方言で書かれているためか、本土で知る人は少ない。
参加した学生の多くは、名前すら聞いたことがなかったのではなかろうか。
沖縄方言の中で宮古の言葉は「はひふへほ」が「ぱぴぷぺぽ」になると聞いた。
離れ小島のことを「パナリ」というのはそれだったのかと納得。
離れ→はなり→ぱなり

「小学校の校庭に米軍ヘリから落下物がありました。そんな事件の話を聞いて、早く普天間基地を辺野古に移した方がいいと思っている人、手を挙げてください」
学生の中からちらほら手が挙がる。
「それじゃあ困るのよね。普天間の基地をなくすことと辺野古に基地を作るのは別のことだから」と、辺野古の実情をひとくさり。



終了後、研究室で話ができた。
「『南島小景』以外ほとんど拝読しました」
「すばらしい! 私は一人のファンは百人分と思っています」
「先生の本は、すぐに絶版になって残念です」
「そうなんです。それにバカバカしい値段がつけられて……。
沖縄の方言はおわかりになるの?」
「いえ、会話なら何とかなりますが、文章に書かれるとほとんど分かりません」
「分からなくていいんです、心が伝われば」



「鉄犬ヘテロトピア文学賞」なる意味不明の賞が、主催者から授与された。
どういう意味なのか説明されたがそれでもよくわからない。



へんてこなトロフィーに、それ以上に凝った造りの箱。
なんじゃこりゃ!
沖縄まで容易に持ち帰れないし、迷惑だろう。

崎山さん、羽田に降り立ったのは30年ぶりだそうである。
「沖縄にいらしたら声をかけてくださいね。連絡先は◯◯で」