もうかれこれ二十年以上になりますが、ぼくが生まれてはじめて船で沖釣りに行ったとき、天候もよく結構な釣果が得られました。それからすっかり釣りにはまって、一時は毎週のように三浦半島や千葉の浦安辺りに出かけて行ったものです。
釣りをするということは、当然魚を料理しなければならないわけで、おのずと調理法などを覚えていきます。覚えるだけでなく、料理の腕も上達します。魚の料理であれば、やはり刺身を中心にした和食になり、焼き物や天ぷら、煮魚なども作れるようになっていきました。
釣りたての魚は当たり前の話ですが新鮮で、たとえば鯵や鯖のような大衆魚でも、最上級の高級魚に引けを取らないおいしさです。余計な手を加えずに素材そのものの味を生かすには、やはり和食がもっとも適した調理法です。
ぼくは料理がうまくいくとよく冗談で、「これ、吉兆並みだよね」などと恐れ多いことを言っていました。
料亭の最高峰「吉兆」の創業者である湯木貞一氏による『吉兆味ばなし』(暮しの手帖)という本が手元にあります。多くの料理人が吉兆の味に追いつけ追い越せとしのぎを削り、それでも吉兆はそうした巷の料理人たちには容易に手の届かない高嶺に存在していました。
もちろんぼくは、一度も吉兆の暖簾をくぐったことはありません。ブランドというものを、ぼくはあまり信じていませんし、値段が高くて旨いのは当たり前と思っていますから。強がりではなく、行ってみたいと思ったこともありません。それでも湯木氏の料理哲学はすばらしいと感じていました。
この本を読むと、料理が「おもてなしの心」であることを自然と感じさせます。そうした吉兆の哲学を家庭にも取り入れてほしいと、『暮しの手帖』の創立者、花森安治氏が生前企画し、死後出版されました。
??一年に一度の鮎の季節ですから、〈鮎の塩焼き〉にしましょう。桂かごに入れて笹焼き、たで酢をそえます。
先代は鮎の塩焼きひとつにも心を込めて客に供しました。しかし、その子が引き継いだ〈船場吉兆〉では、その鮎の塩焼きを、客が残すと次の客に使い回していたと言います。
使い回された料理の種類は、鮎の塩焼きをはじめ、わかっているだけで16品目に及び、それらはおもに「下座の客」に出されていたと、従業員は語っています。客を上下で区別していた!
しかもそれは14年間も続けられていたというから驚きです。先代が亡くなったのが1997年ですから、料理の使い回しは先代の生前から行われていたことになります。
はたして、亡くなった先代はこの事実を知っていたのでしょうか。
もし先代が船場吉兆のように利益優先で料理を作っていたならば、吉兆はこれほどの名店になることはなかったでしょう。うまい和食を来店したお客さんに食べてほしい、ただそれだけだったと思います。しかし、二代目は違っていた。〈吉兆〉の暖簾にあぐらをかき、「おもてなしの心」は失われ、「はじめに利益ありき」、その考えが吉兆に務める料理人たちに浸透し、このような事件を誘発する原因になったことは想像に難くありません。
大阪商人の挨拶は「もうかりまっか」であることは有名ですが、商いが儲け第一でないことは古くからの商人なら誰でも知っていることです。
「商いとはとはお客様に奉仕すること。辛くとも飽きずに続けること。それが“あきない”」だといいます。
儲けとは、お客様に奉仕した結果いただくものなのです。
つまり、「もうかりまっか」とは「もうかるほどにお客様にご奉仕なさってますか」という意味なのですね。
今日28日、〈船場吉兆〉は廃業を宣言しました。これは〈船場吉兆〉だけの問題ではなく、「人」をないがしろにしてただひたすら利益だけを追求する、今の日本の経済界全体に言えることではないかと思います。
??湯木さんが、大阪の新町にはじめて〈吉兆〉ののれんを掛けたのは、昭和五年、三十歳の秋でした。それから、まだ五十年はたっていないのです(出版当時)。湯木貞一という一人の人間の、その鋭い感覚と、それを生かし切る技術の深さを、ぼくはかねがね、あの〈星ケ岡茶寮〉の北大路魯山人と並べて考えています。そして、魯山人はむしろ陶器に才を発揮したが、料理は、あるいは吉兆がまさっているとおもっているのです。
これは花森安治氏による「後書き」の一節です。苦労して時間をかけてつくりあげた至高の料亭も、跡を継いだ人間が先代以上の努力で守り続けなければ、いとも簡単に崩壊してしまう、暖簾(ブランド)とはまさに「砂上の楼閣」と言えるでしょう。
*〈吉兆〉の「吉」は正しくは「土」に「口」。
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◆あなたの原稿を本にします◆
出版のご相談はメールでお気軽に galapyio@sepia.ocn.ne.jp まで
釣りをするということは、当然魚を料理しなければならないわけで、おのずと調理法などを覚えていきます。覚えるだけでなく、料理の腕も上達します。魚の料理であれば、やはり刺身を中心にした和食になり、焼き物や天ぷら、煮魚なども作れるようになっていきました。
釣りたての魚は当たり前の話ですが新鮮で、たとえば鯵や鯖のような大衆魚でも、最上級の高級魚に引けを取らないおいしさです。余計な手を加えずに素材そのものの味を生かすには、やはり和食がもっとも適した調理法です。
ぼくは料理がうまくいくとよく冗談で、「これ、吉兆並みだよね」などと恐れ多いことを言っていました。
料亭の最高峰「吉兆」の創業者である湯木貞一氏による『吉兆味ばなし』(暮しの手帖)という本が手元にあります。多くの料理人が吉兆の味に追いつけ追い越せとしのぎを削り、それでも吉兆はそうした巷の料理人たちには容易に手の届かない高嶺に存在していました。
もちろんぼくは、一度も吉兆の暖簾をくぐったことはありません。ブランドというものを、ぼくはあまり信じていませんし、値段が高くて旨いのは当たり前と思っていますから。強がりではなく、行ってみたいと思ったこともありません。それでも湯木氏の料理哲学はすばらしいと感じていました。
この本を読むと、料理が「おもてなしの心」であることを自然と感じさせます。そうした吉兆の哲学を家庭にも取り入れてほしいと、『暮しの手帖』の創立者、花森安治氏が生前企画し、死後出版されました。
??一年に一度の鮎の季節ですから、〈鮎の塩焼き〉にしましょう。桂かごに入れて笹焼き、たで酢をそえます。
先代は鮎の塩焼きひとつにも心を込めて客に供しました。しかし、その子が引き継いだ〈船場吉兆〉では、その鮎の塩焼きを、客が残すと次の客に使い回していたと言います。
使い回された料理の種類は、鮎の塩焼きをはじめ、わかっているだけで16品目に及び、それらはおもに「下座の客」に出されていたと、従業員は語っています。客を上下で区別していた!
しかもそれは14年間も続けられていたというから驚きです。先代が亡くなったのが1997年ですから、料理の使い回しは先代の生前から行われていたことになります。
はたして、亡くなった先代はこの事実を知っていたのでしょうか。
もし先代が船場吉兆のように利益優先で料理を作っていたならば、吉兆はこれほどの名店になることはなかったでしょう。うまい和食を来店したお客さんに食べてほしい、ただそれだけだったと思います。しかし、二代目は違っていた。〈吉兆〉の暖簾にあぐらをかき、「おもてなしの心」は失われ、「はじめに利益ありき」、その考えが吉兆に務める料理人たちに浸透し、このような事件を誘発する原因になったことは想像に難くありません。
大阪商人の挨拶は「もうかりまっか」であることは有名ですが、商いが儲け第一でないことは古くからの商人なら誰でも知っていることです。
「商いとはとはお客様に奉仕すること。辛くとも飽きずに続けること。それが“あきない”」だといいます。
儲けとは、お客様に奉仕した結果いただくものなのです。
つまり、「もうかりまっか」とは「もうかるほどにお客様にご奉仕なさってますか」という意味なのですね。
今日28日、〈船場吉兆〉は廃業を宣言しました。これは〈船場吉兆〉だけの問題ではなく、「人」をないがしろにしてただひたすら利益だけを追求する、今の日本の経済界全体に言えることではないかと思います。
??湯木さんが、大阪の新町にはじめて〈吉兆〉ののれんを掛けたのは、昭和五年、三十歳の秋でした。それから、まだ五十年はたっていないのです(出版当時)。湯木貞一という一人の人間の、その鋭い感覚と、それを生かし切る技術の深さを、ぼくはかねがね、あの〈星ケ岡茶寮〉の北大路魯山人と並べて考えています。そして、魯山人はむしろ陶器に才を発揮したが、料理は、あるいは吉兆がまさっているとおもっているのです。
これは花森安治氏による「後書き」の一節です。苦労して時間をかけてつくりあげた至高の料亭も、跡を継いだ人間が先代以上の努力で守り続けなければ、いとも簡単に崩壊してしまう、暖簾(ブランド)とはまさに「砂上の楼閣」と言えるでしょう。
*〈吉兆〉の「吉」は正しくは「土」に「口」。
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