ひまわり博士のウンチク

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ガザからの緊急メール 31日続報

2008年12月31日 | ニュース
 ガザ在住のアブデルワーヘド教授からの緊急メール続報です。(翻訳は岡真理さん)

 引き続き大使館への抗議・要請もお願いします。

 ◆イスラエル大使館 [広報室/文化部]
  (FAX)03-3264-0792
  (駐日イスラエル特命全権大使 ニシム・ベンシトリット)

 ◆アメリカ大使館 
  (FAX)03-3505-1862
  (J・トーマス・シーファー駐日米国大使)

■転送・転載歓迎■

 京都の岡です。

 イスラエルによる今回のガザ攻撃は、第2次インティファーダにおけるイスラエルの軍事侵攻がもっとも激化していた時期のそれとだぶります。
 もちろん、規模も犠牲者の数も、今次の攻撃ははるかに上回っていますが。

 ジェニン難民キャンプを土砂の海にせしめた2002年の「防衛の盾」作戦。
 武装抵抗勢力の拠点だけでなく、たとえば社会保険省の事務所や学校が攻撃され、パソコンのデータが破壊されました。市民社会建設のために営々と築かれてきた社会のソフトウェアがターゲットにされました。

 今回、攻撃目標とされた地点のリストを見ると、あのときと同じ意図を感ぜずにはおれません。

 「防衛の盾」作戦では、その直前にイスラエル市街で起きたパレスチナ抵抗勢力メンバーによる自殺攻撃に対する報復作戦とされながら、作戦自体はそのはるか前から準備され、イスラエルは作戦を開始する絶好のタイミングを狙っていました。

 同じように、ハマースのロケット砲攻撃に対する報復とされる今回の攻撃も、6ヶ月以上前から準備されていたようです。

"Israel's Shock and Awe planned 6 months"
http://www.palestinechronicle.com/news.php?id=57f0a945f0ce661c0e64a1fe8900c4c4&mode=details#57f0a945f0ce661c0e64a1fe8900c4c4

 2003年イラク戦争の「衝撃と畏怖」作戦に倣った今回の攻撃では、わずか2日のあいだに数十箇所に対して「同時攻撃」がなされています。長期にわたる入念かつ周到な準備なくしては不可能なことです。

 ハマースは西岸・ガザでの独立国家建設について協議する準備があることを表明し続けていましたが、イスラエルは、ハマース政権誕生のときからハマースの壊滅を狙っていたという分析もあります。

"Hamas has been targeted since it was elected"
http://www.thenational.ae/article/20081229/OPINION/539221568/1080/FOREIGN

………………………………………………………………………………………


 ガザ市内在住のアブデルワーヘド教授(ガザ・アル=アズハル大学英文科教授)のメールを転送します。


●ガザより(11)

 今日、エジプトで、イスラエルのガザ侵攻に抗議する大規模な民衆デモ。
 今日、ガザ侵攻に抗議するパレスチナ人(イスラエルの1984名のアラブ系市民)による複数のデモ。
 イスラエル警官40人が負傷、140人のパレスチナ人がイスラエル警察に逮捕。
 イスラエル軍から今晩、シファー病院の病棟1棟を爆撃するという脅迫電話。さらに多くの人々を正真正銘のパニックに陥れる。
 アラブ連盟は、次の金曜に開催予定だった≪緊急非常≫サミットを日曜に延期。


●ガザより(12)
  2008年12月30日 0:59(現地時間)

 ガザ地区に対する急襲はなおも続いている。ハーン・ユーニスにさらなる襲撃。昨晩、10回以上も。うち2回はハーン・ユーヌス自治地区の建物に対して。
 ガザ市では、シュジャイヤ地区(ガザ市東部)の古いモスクが攻撃され破壊された。
 ガザ北部では、ロバに引かれた荷車が空襲され、避難途上の一家が死亡。
 だが、発表によれば、攻撃されたのはグラッド・ロケットを積載した車だという!ことの真相はと言えば、不運な一家が家財道具を荷車に載せてロバに引かせていたに過ぎないのだ!
 毎時間のようにイスラエルの爆撃でさらなる数の民間人が死んでゆく。
 イスラーム大学と予防安全保障局の一群の建物に新たな攻撃。アル=アズハル大学の校舎も被害に見舞われた。

 イスラエルのヘリや飛行機が今も頭上を飛びかっている。今晩もガザに対してさらなる攻撃があるにちがいない。 ガザのパレスチナ人は対空兵器など何一つ持ってはいないというのに! 
 これが私たちにとっての新年のスタート、これが私たちの「ハッピー・ニュー・イヤー」、これが、失敗に終わった恥知らずのブッシュ政権と民主主義が私たちに送るラスト・メッセージなのだ!
 昨日、カイロでは大規模なデモがあった。デモ参加者が叫んだのはムバーラク大統領を非難するスローガンだった。裏切り者ムバーラク、ムバーラクに死を、イスラエルはナイルの地から出て行け、といった敵意に満ちた言葉の数々。


●ガザより(13) 夜のガザの爆撃 
   2008年12月30日 6:27PM(現地時間)

 2008年12月30日、ガザは5分間で20基のミサイルによる爆撃。同夜、ほかにも20ヶ所が攻撃される! 
 パルテル〔パレスチナの電話会社〕の録音メッセージが、パレスチナの外から有線および携帯電話にかかってくるパレスチナ人市民に対する脅迫電話に注意するよう警告している!
 分からないが外部の誰かが私に電話をかけようとしていた。だが携帯は電気がないため使用不能で、発電機を作動させるのは、外界に発信するためだ。
 さまざまな無人機が私たちの頭上から立ち去る気配はない。今まさに、付近のどこかが攻撃された。爆撃が膨大な回数に及ぶため、どこに着弾したか、もはや見分けることができない。ガザ市内だけでこの状態だ。ほかの地域も言うまでもない。
 地元メディアのニュースによれば、イスラエルの地対地ミサイルがブレイジュ難民キャンプに、また砲弾が何発かハーン・ユーニス東部に撃ち込まれたという。
 ガザ・ワーディ東部では(ガザ・ワーディは小さな村だ)、民家が1軒、空爆された。
 爆発で2人が亡くなり、ほかは負傷!公式の死者数は390に達し、負傷者は約1800人、子どもをはじめ膨大な数の民間人が含まれている!
 アル=カッサーム旅団が今、記者会見で新たな闘いの誓いを立てている。
 イスラエル航空機および無人機が空で広範囲にわたり活動しているにもかかわらず、彼らは150発のロケット弾を発射したという。 ハッピー・ニュー・イヤー!


●ガザより(14) 爆撃、再び!!!!!!!!
  2008年12月30日 8:59PM

 今晩の猛爆撃がたった今始まった。民家や政府関連の場所が狙われている。
 またもテル・エル=ハワが狙われている!ベイト・ラヒア、ジャバリーヤ村、ハーン・ユーニス、ラファにも攻撃。イスラエルはラファ国境地帯のトンネル200本を破壊と発表した。
 ある男性は攻撃のひとつに巻き込まれ、まる1日行方不明となり、家族は3日間、喪に服した。今日、その男性がシファー病院の集中治療室で存命中であることが判明した。スドゥキ・ハンマードだ!
 これ以上、新たな攻撃の波について伝えることができない。民家一軒が今まさに燃えている!なんということだ!


●ガザより(15)
  2008年12月30日 11:56PM

 ミリヤム・クック先生(デューク大学)、ご厚意とお気遣い、感謝します。
 幸いなことに、ほんの10分前に、この5日間で初めて電気が復旧した。
 ガザは今、午前零時。無人機の唸り声が耳障りとはいえ、ミサイルがそこらじゅう、目と鼻の先やはるか彼方にシャワーのように降り注ぐことに比べれば何でもない。
 20分前、付近で軍用ヘリによる攻撃があったが、どこだか場所を特定できない。燃えた家は、近所にある政府関係の建物の近くだ。 私が住んでいるテル・エル=ハワーは政府関係の建物が数多く集まっている地域だ。それらの建物の多くが一度ならず攻撃されている!
 今やガザの80%以上が停電している!
 実を言えば、ガザのいたるところでパニックが起きている。多くの民家が、故意あるいはその他で、攻撃されているのだ。ガザに対する今回の軍事攻勢で42人の子どもたちが殺された。これらの子どもたちがハマースの活動家でロケット弾を発射しているというのだろうか!
 ハマースのアル=カッサーム旅団には1万2千人がいると思う。その中核は、まだ何の戦闘もしておらず、依然、士気と強度を保っている。一方、主たる犠牲者は警官隊、民間の労働者、子どもや学生をはじめとする無辜の人々だ。イスラエルが攻撃しているのはホテル、スポーツセンター、空き家、パスポートの発給や税関、税務に使われていた政府関係の建物である。彼らは庁舎や、ガザではまだだが、町々や村々の役所を攻撃している。
 彼らはまた10のモスクを攻撃し、うち6つは完全に破壊された。だが、いずれの場合も、モスク周辺は著しい害を被った。
 ジャバリーヤ難民キャンプではある家族の5人姉妹が、モスクの壁が崩れ落ち、瓦礫の下敷きになって殺された。

 世界じゅうの人々が、ムスリムの国々でさえも、楽しい時を過ごしているはずのクリスマスに何が起きているのか、書かれねばならない多くのことの、これはごく一部である。

 みなさんが楽しいクリスマスと良いお年を迎えられますように。


●ガザより(16)
  2008年12月31日 8:29AM(現地時間)

 ガザ地区では何時間も雨が降り続いている。
 この新たな状況を受けて、イスラエルの無人機、無人飛行機およびヘリコプターが空から姿を消した。だが、イスラエルの戦車および大砲から何回にもわたって砲撃がある!とはいえ、睡眠を中断されずに何時間か眠ることができた!
 子どもたちは緊張と恐怖と不安からわずかながら解放された。ガザは見捨てられた街のようだ!

アブデルワーヘド
ガザ・アル=アズハル大学
芸術人文学部英語学科教授


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大晦日

2008年12月31日 | うんちく・小ネタ
 年越しそば

Soba

 無量の同級生の家がそば屋なのです。
 一時期、学校が終わるとすぐに「そばや行って来る」とランドセルを放り出して、荻窪駅北口の商店街グリーンロード寿にある、「田むら」に遊びに行ってました。
 でまあ、ご挨拶を兼ねて「年越しそば」はそこにしようと決めていました。
 無量はざるそば(無量はこれが一番好き)、那由が鴨南蛮、カミさんがおかめそば(共食いです)、ぼくが肉南蛮。
 期待してなかった分、思いのほかうまかった。とくに、ざるそばはなかなかのもの。
 具が多すぎるぐらいたっぷりで、ボリュームも十分でした。


 「大晦日」のウンチク

 「大晦日」をどうして「おおみそか」と読むのでしょう。
 そもそも「おおみそか」とはどういう意味なのでしょうか? 
 月末のことを「みそか」と言います。漢字で書くと「三十日」です。
 月末は28日も31日もあって、30日とはかぎらないのに、それでも月の終りは「みそか」と言います。
 12月31日は一年の最後の「みそか」なので「おおみそか」というわけです。

 では「晦日」という字にはどんな意味があるのでしょう。
 旧暦では月が新月から満月になりふたたび新月にもどるまでを1ヵ月としていました。
 月末に近づいて月が細くなってやがて見えなくなることを、「月隠り」(つきごもり→つごもり)と言いました。
 月が「隠(こも)って」暗くなる日を晦(くら)い日、「晦日」と書いて「つごもり」と読みました。それが、月末を「みそか」とよぶことと結びついて「晦日」を「みそか」と読むようになったのです。
 明治時代の文豪、樋口一葉の代表作「大つごもり」は、「大晦日」のことを描いています。

 大晦日につく鐘、「除夜の鐘」は百八つと決められています。仏教で、人は生きているあいだに百八つの煩悩(ぼんのう)、つまり心をまどわしたり悩ませたりするものを身につけると言われています。それを、鐘の音とともに洗い浄めるのが除夜の鐘です。

 年越しそばは「細く長く、来年も幸せを“そば”からかき入れる」という意味があります。
 そして、薬味にねぎを入れるのは、この1年の労を“ねぎ”らう、ということから来ています。
 (『イラスト版 行事食・歳事食』合同出版 より)

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九州から直送

2008年12月30日 | 食・レシピ
 お正月用にと、カミさんの実家からおいしい宅配便が届きました。
 パレスチナが大変な時にいささか能天気な記事で気が引けるのですが……。

Hamachi

 全長65センチの立派なハマチ、もう少しでワラサです。
 とりあえず、三枚におろして、刺身用と照り焼き用の切り身、そして、中落ちを落とした中骨と頭は荒汁にする予定です。

Sashimi

 とりあえず、今夜のおかずに刺身を作りました。
 新鮮なのでまだ身が堅いのですが、脂がのっていて実にうまそう。

 そして、ラーメン好きの那由のために、熊本ラーメンが一箱送られて来ました。

Rahmen

 これがまた、インスタントとは思えないほど、実にうまいのです。
 ここ荻窪といえばラーメンの本場なのですが、わが家の近くにある専門店と十分競える味です。
 とんこつと醤油の2種類ありますが、九州ラーメンはやっぱりとんこつがいいようです。

 正月はハマチとラーメンで過ごすことになりそうな。

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ガザからの緊急メール 30日続報

2008年12月30日 | ニュース
 昨日の「緊急メール」に続き、30日未明(午前1時過ぎ)続報が入りましたのでお知らせします。

…………………………………………………………………………………

 京都の岡です。
 ガザのアブデルワーヘド教授からのメールを転送します。
 昨晩から今日にかけて攻撃を受けた地点のレポートです。

 イスラエルの攻撃目標がこうして列挙されると、社会が社会として成り立つためのソフトウェアの部分を狙い撃ちしていることが分かります。
 イスラエルの総選挙をにらんでの、内政の延長線上にある戦争、という専門家の指摘はそのとおりなのかもしれませんが、その戦争にかこつけて、イスラエルが何をなぜ破壊しようとしているのか、まで深く考えるべきだと思います。

 以下のレポートはその示唆を与えてくれるように思います。

 同教授宅にイスラエルから脅迫電話がかかった旨、すでにお伝えしましたが、事実を外の世界に報道しようとするジャーナリストや記者たちも攻撃の標的になっています。

おか まり

******転載・転送歓迎******

 昨晩、ガザ市内だけで20ヶ所が空襲された。爆撃について私が知るかぎりのことをお伝えする。

1.
 自宅近所に3回目の攻撃。元公安局。
 うちミサイル1基が不発のまま、自宅アパートのあるビルの正面、救急ステーションから数メートルのところに落ちる。

2.
 ガザのイスラーム大学の主要校舎二つが粉々に。
 建物の一つは実験室棟、もう一つは講義棟。いずれも地上4階、地下1階建て。

3.
 ビーチ難民キャンプ、イスマーイール・ハニーエ氏の住まいの隣家が空と海から同時攻撃され崩壊。

4.
 モスク2つが空襲され粉々に。中にいた10人が死亡、うち5人はアンワル・バルーシャ氏の娘たち。自宅が危険なのでモスクに避難していたのだろう。
 これで、破壊されたモスクは計6つに。

5.
 内務省のパスポート局の建物も今朝、破壊された。

6.
 文化省のビルも今朝、こなごなに。

7.
 首相執務室のビルも空襲され完全に破壊。

8.
 民事行政の主要ビルも完全破壊。

9.
 地元メディアが報道していないため、私が把握できていない複数ヶ所に何度かの攻撃が実行されている。夜間、ヘリコプターが複数回にわたり攻撃するのを目撃。

10.
 ジャバリーヤ青年スポーツセンター(UNRWAの施設)が、空から直撃された。

11.
 サライヤ政府センター近くの空き家が空襲され破壊。

12.
 ゼイトゥーン地区で移動中の車体が攻撃され破壊、男性2人、子ども1人が死亡。

13.
 下校途中の高校生の姉妹2人が、空爆を受け死亡。

14.
 いつかの警察署が再度、攻撃される。

15.
 イスラエルはジャーナリストおよび記者に対し自宅もしくはオフィスにとどまること、従わない場合は攻撃目標にすると公式に伝達。
 ガザで起きていることをメディアに報道させないためだ。

16.
 病院二つが標的に。ファタ病院はまだできたばかりで操業していなかったが、空から攻撃された。
 もう一つのほうは小さな個人経営の病院。
 テル・エル=ハワーのアル=ウィアム病院も標的にされた。

17.
 ベイト・ハヌーンの庁舎も昨晩、破壊された。

18.
 ラファの自治体のビルも昨晩、破壊された。
 
19.
 ラファの庁舎も昨晩、標的にされた。
 
20.
 ラファのハシャシュ地区が昨晩、二度にわたり攻撃された。いずれもミサイル2基によるもの。
 2回目の着弾で周囲15軒の家々が破壊される。
 
21.
 ゼイトゥーン地区のグランドにミサイル一基、着弾。

22.
 ラファ国境地帯にある40個のトンネルに対し空から攻撃、トンネルすべてを破壊。

23.
 ビーチ難民キャンプの警察署、完全に破壊。

24.
 旧エジプト・ガザ総督の邸宅も空と海からミサイル攻撃を受け完全に破壊。

続報
 ガザの負傷者のための民間協会が破壊された。
 ガザとハーン・ユーヌスにあるアル=ファラフ慈善協会の二つの建物も破壊された。

続報2
 数分前、ウンマ大学の新しい小さな校舎が1棟、攻撃を受け、破壊された。

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ガザからの緊急メール

2008年12月29日 | ニュース
 イスラエル軍による非人道的な空爆によって、今日12月29日現在、犠牲者はすでに300人を超え、まきぞえによって一般市民からも多数の犠牲者が出ています。
 イスラエルはハマスのロケット弾に対する報復だと言っていますが、これはいわばパチンコで石をぶつけられたのに対して大砲で仕返しするようなもので、規模がまったく違います。
 先日、このブログでエドワード・サイード氏の新刊刊行を紹介したばかり、実に残念です。
 ガザのアブデルワーヘド教授の手記が京都の岡真理さんの翻訳で、メーリングリストを通じ送られて来ました。
 まさに、広島・長崎の原爆や東京大空襲と同じようなことがパレスチナで起こっていると、岡真理さんは怒りを表しています。
 昨日から送られて来ている記事ですが、午後から多忙になり、アップが送れてしまいました。
 
 手記は27日より29日到着分まで紹介しています。

◇長文ですが、以下転載です【転送・転載歓迎】

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 京都の岡です。
 空爆下のガザのアブデルワーヘド教授のメールを転送します。同教授はガザ・アル=アズハル大学の英文学科の教授です。
 電気が切れたガザで、発電機でかろうじて電力を維持しながら、世界に向けて発信しています。

 イスラエルがハマースの攻撃に対する報復としてハマースの拠点を攻撃しているという日本の報道は偽りです。これは、非戦闘員、民間人に対する大量虐殺です。

 重慶・ゲルニカ・ドレスデン・東京大空襲、そして、ヒロシマ・ナガサキ、同じことが2008年12月の今、起きています。


●ガザより1

 25の建物がイスラエルに空から攻撃された。建物はすべて地上レベルに崩れ去った。死者はすでに250名に達する。負傷者は何百人にものぼるが貧弱な設備しかないガザの病院では、彼らは行き場もない。
 電気も来ないが、ディーゼル発電機でなんとかこれを書いている、世界にメッセージを送るために。携帯電話もすべて使用できない!


●ガザより2 27日午後6時

 なんという光景だ。数分前、パレスチナ側のカッサーム・ロケットが飛んでいく音が聞こえた。続いて、もう一つ、そして爆発音。2発目は、パレスチナ人を標的にしていたイスラエルの機体から爆撃されたものと思われる。
 今、聴いたニュースによれば、イスラエルのアパッチ・ヘリが攻撃したのは、釣堀用の池のあるリクリエーション・グラウンドだという。シファー病院は、195人の遺体、570人の負傷者が同病院に運ばれていると声明を発表している。
 刻一刻と死傷者の数は増え続けている。これはガザ市だけの数字だ。ほかの町や村、難民キャンプからの公式の発表はない。
 自宅アパートの近くで末息子がスクール・バスを待っていたところ、以前、国境警備局があったところが攻撃された。息子が立っていたところから50メートルしか離れていないところで、男性二人と少女二人が即死した!
 真っ暗な夜だ。小さな発電機を動かして、ネットを通じて世界と交信している。


●ガザより3 27日午後8時

 今宵、ガザの誰もが恐怖におびえている。
 完全な暗闇。
 子どもたちは恐怖から泣いている。死者は206人。遺体はシファー病院の床の上に横たえられている。負傷者は575名をうわまわるが、同病院の設備は貧弱だ。
 病院事務局は市民に輸血を要請している。
 教員組合は虐殺に抗議し3日間のストライキを決定。
 イスラエルの機体がガザ市東部を爆撃、大勢の人々が死傷した。
 犠牲者の数は増え続けている。
 瓦礫の下敷きになっている人々もいる。
 一人の女性は二人の幼い娘と一人の息子を亡くした。彼らは通学途中だった!


●ガザより3 27日午後11時

 23:00。イスラエルのF16型戦闘機による、複数回にわたる新たな爆撃。
 ガザでは3つのテレビ局を視聴できるが、これは電力をなんとか確保できた場合の話だ。
 空爆はガザ市東部に集中。ある女性は10人の家族を失った。生き残ったのは彼女と娘一人だけだ。娘はメディアに向かって、何も語ることができなかった。何が起こったのか見当がつかない、と彼女は言う。
 町のいたるところでパニックが起きている。最悪の事態が起こるのではないかとみな、恐れている。
 エジプト、ヨルダン、レバノンで、この残虐な空爆に対するデモが行われた。
 死者数は、219以上にのぼる。225という説もある。


●ガザより4 空爆下、冷たく暗闇のなかで

 今晩、爆破のせいで窓ガラスが砕け散った家庭にとっては冷たい夜だ。ガザの封鎖のため、窓ガラスが割れても、新たなガラスは手に入らない。
 私が居住するビルでは、7つのアパートが、凍てつく夜をいく晩もそうした状態で過ごしている。彼らは割れた窓をなんとか毛布で覆っている。
 何百軒もの家々が同じ境遇に置かれているのだ!
 私に言えることはそれくらいだ。他方、ハニーエ氏は地元テレビでハマースについて話をした。彼の話は、士気を高め、ハマースは屈服しないということを再確認するものだった。
 死者の数は210に、重傷を負った者も200人に達した。
 今また、ガザの北部で新たな爆撃が!


●ガザより5 ガザに対するイスラエルの攻撃を中止させる行動を!

 今、10分のあいだに5回の空爆。標的は人口密集地域の協会や社会活動グループ。モスクもひとつやられた。
 もう30時間、電気が来ない。なんとか小さな発電機でこらえている。インターネットで世界に発信するためだ。


●ガザより6 イスラエルから脅迫電話が!!

 今しがた、イスラエルから何者かが電話してきた。末息子が応答したが、電話の主は、私が武器を所有しているなら、住まいを攻撃すると脅しをかけてきた。


●ガザより7 今のところ無事だが……

 私も家族も無事だが、緊張が続き疲労している。
 自家用発電機のトラブルのせいで、依然、電気なしの状態。
 2時間前、隣接するビルがヘリから小規模なロケット砲で攻撃された。標的は7階のアパート。私のアパートは4階だ。それから、通りの向かいにあるビルの5階のアパートも攻撃された。
 耐え難い状況だ。住民は正真正銘のパニックに襲われている!
 昨晩、F16型戦闘機がアル=アクサー衛星放送局を攻撃した。同局は粉々になり、周囲のビルも多くが居住不可能になってしまった!
 ビルの持ち主も住人たちもよそへ移らなければならない!
 シファー病院の向かいにある小さなモスクも粉々になり、その攻撃のせいで周りの住宅も深刻な被害を受けた。私の友人の家もその一つだ。何が起きたのか、言葉では言い表せない! と言う。
 彼の家は重篤な被害に見舞われた。56歳になる姉は重傷を負った!
 さらに英国の委任統治時代に英軍が建設した庁舎(アル=サライヤ)もやられた。標的になったのは刑務所だった。収容されているのは政治犯や一般の囚人だというのに!
 メディアは死者280名と報道しているが、シファー病院で医師をしている友人の一人は、死者は約500名に達し、負傷者も1000人以上にのぼるという!
 ラファの国境地帯でも攻撃はエスカレートしている。トンネルを破壊するための作戦が展開されているのだ。
 何百人ものパレスチナ人が怒涛のようにエジプト国境に徒歩で押しよせているが、エジプト人官憲の発砲に遭って、誰もエジプト側に入れないでいる。


●ガザより8

 数分前、複数の地点を狙ってまた空襲があった。死傷者多数。うちの窓ガラスも砕け散った。
 税関事務所と入国管理事務所も先刻、破壊された。飛行機やヘリがまだ上空で作戦を継続中。


●ガザより9 破壊

 F16型戦闘機がガザ最大の、公安関係のビルを破壊した。アラファトの身辺警護のためにEUが建設した一群のビルだ。4発のミサイルを受けてビルは粉々になった。
 各地の警察署も攻撃され、今日、すべて破壊された。230もの地点がイスラエル軍用機の標的になっているという話だ。
 今日の攻撃で、子どもを含む大勢の民間人が死傷した。
 ラファの国境地帯ではパレスチナ人が一人射殺された。
 さらに発砲があり、エジプト人官憲が一人撃ち殺された。
 国境の状況も悲惨だ。イスラエルによる地上攻撃もありうる!

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連絡先:パレスチナの平和を考える会
email: palestine.forum@gmail.com
tel: 090-9273-4316

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●緊急抗議行動の呼びかけ
 (核とミサイル防衛にNO!キャンペーンの杉原浩司さんより)

 明日12月30日(火)午後に行われる東京・イスラエル大使館に対する緊急抗議行動の呼びかけとガザからの緊急メールの続報を転送します。至急広めてください。参加できない方もイスラエル大使館、米国大使館に抗議のファックスをぜひお送りください。

 ◆イスラエル大使館 
  [広報室/文化部](FAX)03-3264-0792
  (駐日イスラエル特命全権大使 ニシム・ベンシ)

 ◆アメリカ大使館 (FAX)03-3505-1862
  (J・トーマス・シーファー駐日米国大使)

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 イスラエルがガザに空爆を行い、27日と28日の2日間で死者は287人、負傷者は700人に達しました。イスラエルはさらに予備役兵6500人の招集を閣議決定し、地上戦を行う準備をしていると報道されています。

 イスラエルは40年あまりに渡ってガザ占領を続けた挙げ句、ハマース政権の成立以後は封鎖を強化して人の出入りを禁じ、ガザ住民が衛生な水も電気もない劣悪な環境下で生きることを強い、その生殺与奪を握ってきました。
 150万人がひしめき、どこにも出口がないたった360平方キロの土地で、寒さと飢えに苦しみ、窮乏してゆく生活に疲れ切った人々の上に、いま爆弾が落とされ続けています。

 イスラエルは、ハマースによる100発あまりのロケット弾に対する報復を口実としています。しかし、その多くは空き地などに落下し負傷者もほとんど出ないものであり、2月の総選挙を前にした政治的パフォーマンスであるのは明らかです。米国の政権移行期のタイミングを狙い、周到に準備を尽くした確信犯的攻撃は、いかなる意味においても認められるものではありません。

 しかし米国もイギリスも、ハマース政権の存在を理由に、イスラエルの行動に対し一定の「理解」を示しています。国連安保理も、米国の抵抗のために公式の非難声明を出せていません。パレスチナのアッバース大統領でさえ、イスラエルに抗議をしつつ、今回の事態をハマース政権非難のために利用しています。もはや「対テロ戦争」の言辞を都合良く利用し、民衆の生命よりも自らの権力維持に心を砕く政治指導者たちには何の期待も出来ません。

 私たちがすぐに事態を変えられるわけではありません。しかし抗議行動を呼びかけ、広め、より多くの人々の関心を喚起し、イスラエルの暴挙を黙って見逃すことはしないのだ、ということを示しましょう。中東各地で抗議行動が起きています。ロンドンなど欧州の都市や、イスラエル国内でも抗議のデモが始まっています。29日現在、大阪ではイスラエル領事館に対する申し入れ行動が行われています。規模は小さくとも、各地で抗議のうねりを作り出すことが必要です。

 参加される方は、出来るだけ自分でプラカードなどを用意してきてください。大使館への申し入れ書は呼びかけ人が用意しますが、他に用意されたものがあれば、一緒に提出する予定です。

  日時 12月30日(火) 14時~

  場所 地下鉄有楽町線 麹町駅 日本テレビ方面改札待ち合わせ
    (ある程度人数が集まったら、イスラエル大使館の方へ移動します)

 個人の有志が呼びかけるデモであり、この呼びかけを見た人は、各自の判断で参加を決め、一人一人の責任において行動してください。

  呼びかけ:イスラエルのガザ空爆に抗議する有志
(080-3426-9415)

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■リンク NAKBA(ナクバ) パレスチナ1948 NAKBA 土井敏邦『沈黙を破る』

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今年のベスト5

2008年12月28日 | 本と雑誌
2008shinkan

 出版不況といいながら、今年もたくさんの本が出版されました。
 ぼくが入手した2008年の新刊の一部を、とりあえずサッと引っぱり出せるものだけ積み上げてみましたが、この高さが限界。
 ぼく自身が手がけた本は、含まれていません。手前味噌になりますので。

 ここに積んでない本で印象深いものは、ギュンター・グラス『玉ねぎの皮をむきながら』、池澤夏樹『光の指で触れよ』、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『ディオニュソスの労働』、ノーム・チョムスキー『メディアとプロパガンダ』あたりでしょうか。

 さて、良書がひしめく中で、ベスト5を選ぶことは無謀とも思えるのですが、自分の興味本位で次の5冊を挙げてみました。(発行順)

             ‡

 堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書 1月)

Mika_tsutsumi

 経済においても、軍事においても、アメリカという国が貧困層を作ることで成り立っていることが実によくわかります。
 自由の国と言いながら、貧困層は国家から何ら保護を受ける手段を持たず、本来の自由を享受できないでいます。
 国家は国民を守らない、その図式は現代の日本に、そして未来の日本にそのまま当てはまると、多くの読者が感じるでしょう。

             ‡

 明田川融『沖縄基地問題の歴史』(みすず書房  4月)

Okinawakichi

 沖縄の基地問題は、200年ほど前にさかのぼって語られていきます。
 軍隊を持たず、中国との貿易で栄えていた琉球王国は、薩摩藩の侵略によって日本に併合され、そこから悲劇が始まりました。
 戦争中は本土の盾にされ、密約により米軍基地を残したままの返還、そして、日本国内にある米軍基地の75パーセントが沖縄に集中する現実。
 非武の島が戦の島に変わっていく歴史が、詳細な調査を元に述べられています。
 復帰にまつわり、日米政府の思惑が交錯する様は圧巻です。

             ‡

 笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店 6月)

Tibf089

 沖縄戦とともに、不毛な裁判が話題になった南京事件を象徴する事件「百人斬り競争」は、裁判が決着した現在でも否定し続ける人が後を絶ちません。また、学問上での綿密な調査のもとに、ほぼ全貌が明らかになった「南京事件」そのものも、否定論がことごとく論破されているにもかかわらず、同じ否定論を繰返し登場させて歴史の歪曲をあおる輩が次々に登場しています。
 この本は著者が長年にわたる研究の集大成としてまとめたもので、同じ著者の岩波新書版『南京事件』を併せて読むことで、「南京事件」に関しては自分の背骨に一本筋が通ったようになり、否定論を叫ぶ人たちが、いかに低レベルで感情的な論をふりまいているかがわかります。

             ‡

 豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫 7月)

Shouwatennou_2

 昭和天皇は「国体護持」すなわち自身の身を守るために、政府を飛び越えてマッカーサーと直接頭越し外交をおこないます。
 昭和天皇とマッカーサーの会見は11回におよび、後を引き継いだリッジウェイ最高司令官とも7回におよぶ会見を行っています。
 マッカーサーには戦争の責任はすべて引き受けると感動させる反面、国内では責任をすべて「東条(英機)におっかぶせる」というダブルスタンダードが、公開された当事の通訳の記録で明らかにされています。
 敗戦時における沖縄密約も、通訳の記録から解き明かしています。

             ‡

 戸谷由麻『東京裁判』(みすず書房 8月)

Tokyo_saiban

 今年の第一位に挙げたい本です。36歳の若い研究者は、アメリカ在住という利点を生かして、米公文書館の史料を熱心にあたり、既成概念を排除した冷静な分析を行っています。
 そこで現れてくるのが、最も信頼できるであろう新しい「東京裁判」像です。
 単に「勝者の裁き」と決めつけるのでなく、今日の国際裁判における人道法の発展に多大な貢献をした事実が浮かび上がって来ます。
 圧巻は、厳しいパル判事批判。彼のいわゆる「平和主義」が国際法上まったく受け入れられないものであり、罪をおかした人間が裁かれずに放置されてしまう危険性を示しました。
 「パル判決書」は「大東亜戦争肯定論」と歴史観上通じるところがあり、右派論壇はむしろパルによる反対意見を正しく読み込んでいるといいます。
 博士論文を拡大したものだそうですが、それにしてもすばらしい。


 以上5冊はすべて社会科学書の部類に入る本ですが、今年は文学書の中にも興味深い本が少なくありませんでした。
 自身がナチスの親衛隊であったことをカミングアウトしたギュンター・グラスの『玉ねぎの皮をむきながら』(集英社 5月)は、巨匠が自分に都合の悪いことをあえてほじくり出すような、どこまでが真実でどこまでがフィクションなのか分からない本。
 二部作になっている池澤夏樹『すばらしい新世界』(中央公論社 2000年8月)と『光の指で触れよ』(1月)は世界を舞台に人の絆、家族の絆を描いています。時に荒唐無稽な話が挿入されていて、それは受け入れられませんでしたが、全体的には質の高い作品でした。
 もう一冊桐野夏生『東京島』(新潮社 5月)は、31人の男とともに無人島に漂着したたった一人の女の物語。このような設定では成り行きがどうなるのかだいたい読めてしまいそうなのですが、そこがそうならないのが桐野夏生の不気味なところ。島を東京に見立てて、「コウキョ」だの「チョウフ」だのと土地の名前を付けて生活し、たった一人の女「清子」は東京島に君臨し、男たちをコントロールしているかに見えるのですが……。
 現代の人間関係に隠された部分を剥き出しにした刺激的な作品です。

 この他に、資料に使った既刊本は数知れず。忙しい忙しいと言いながら、何冊読んだんだろ。自分で呆れます。
 しかし、制作費の高騰からか、本の値段がどんどん高額になっています。『沖縄基地問題の歴史』(4,200円)や『東京裁判』(5,460円)などを見ると、笠原教授の『「百人斬り競争」と南京事件』(2,730円)などが安く感じてしまいます。
 読者が少ないから発行部数が抑えられて単価が上がる、単価が上がるからますます読者の手が伸びなくなる、まったく悪循環で、どこかで断ち切らないといけませんね。

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どうしよう……

2008年12月25日 | 本と雑誌
 何気なくみすず書房のホームページを開いたら、重要で、しかも決して安くない出版物が連続で出版されることを発見してしまいました。

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 1月20日にはエトムント・フッサールの『イデーン II-II』
 この本は現象学哲学の大家フッサールの代表的な著作で、原書は全3巻からなる大著です。翻訳は1、2巻をそれぞれ2冊に分けた全5冊で、これはその4冊目。
 最初の1冊が出たのが1979年12月、2冊目が5年後の1984年6月、3冊目はそれからさらに7年後の2001年9月です。
 このペースだと、5冊目が出て完結するのは2015年くらいになるという、気の長い話です。(ぼくはこの本をその時読むことができるのだろうか)
 そうこうしているうちに、一時は猫も杓子もとずいぶんもてはやされた「現象学」ですが、一部の熱心な研究者やファンを除いて、今ではすっかりナリを潜めてしまいました。
 

 2月20日には待ちに待ったエドワード・W・サイードの『故国喪失についての省察 2」がようやく出版されます。
 この本は「1」が2006年4月に発行されて、出版社はすぐにでも「2」が出るようなことを言っていたのですが、それが待てど暮らせど出版されず、翻訳にずいぶん手間取っていました。
 文学、音楽、歴史、哲学と幅広く世界を読み解いてきた著者の、35年間にわたる評論活動の集大成です。
 権利を剥奪された故国パレスチナを、それを破壊する国アメリカで教鞭をとるという、困難な状況の中にあえて身を置きながら見据え続ける視線には、時に悲壮感さえ感じてしまう時があります。
 どうしても読んでおきたい一冊です。


 そしてそのうえ、先頃参加した「南京事件71周年 2・13集会」で「南京事件70周年国際シンポジウム」の記録本を予約してしまい、それが2月発行の予定。

 どれも決して安価な本ではなく、これに必要な資料を購入するための経費を加算するとけっこうな出費になりそうです。
 困った……。

 ならば買わなければいいと言われそうですが、そうはいかないので、困った……。


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【新刊】「証言 沖縄戦の日本兵」

2008年12月23日 | 本と雑誌
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 証言 沖縄戦の日本兵
 國森康弘 著
 岩波書店発行

 今月19日発売の新刊です。
 この本はジャーナリストの国森氏によって、「沖縄戦での激戦を生き延びた人々が戦後に作った戦友会の名簿や、人伝いの商会を通じて、体験を語ってくれる人を探し」、接触を試みた150人あまりのうち21人の元兵士が、「重い口を開いてくれた」証言をもとに構成されています。
 これまで沖縄の地上戦についての証言は主に住民によって語られたもので、旧日本軍の将兵から様子をうかがうことはほとんどありませんでした。
 そうした意味で、歴史認識の「空白を埋める」貴重な記録です。

 林博史教授によると、雑誌『世界』に連載されていたものの単行本かではないかということですが、確認はしていません。

 元小隊長だった稲垣さんは、「捕虜になったら『女は辱めを受ける』とか『男は耳や首を切られる』とかそういった誤ったことは言ったかもしれない」と証言し、これまでの住民証言を裏付ける証言をしています。
 また、当時座間味に駐屯した元伍長の野村さんは、多くの住民を犠牲にした罪悪感から、敗戦後33年ものあいだ、慰霊に生きたくても行けなかったと語っています。
 「兵隊よりも民間の人を殺しちゃったから、大勢。それが申し訳ないという気がして。兵隊が死ぬのはしょうがないけれども、集団自決で(住民が)こう死んじゃっているんだから……。のこのこ行けない」
 「悲惨そのもの。(殉国美談のような)美しい死なんてない。(米軍に)捕まったらどうされるか分からないという恐怖心で自決する。お互い殺し合って子供まで殺してね……。日本軍があの座間味に行かなければ本当になんでもなかったんだけど。日本の兵隊があそこへ行ったばかりに大勢死んじゃって、申し訳ないって思う。だから三三回忌まで行けなかった」

 壕に避難する住民を追い出したこと、捕虜になって戻って来た住民をスパイとして殺害したこと、戦闘で負傷したら、毒を飲まされて殺されそうになったこと、などなど。生々しい証言が次から次へと出て来ます。

 そうした残虐な証言の中に、特攻隊員として阿嘉島に配属された御簾納(みすのう)さんの言葉が印象的でした。

 六十余年前に経験した当時の雰囲気が、ここ何年かの政治の潮流に「ぼんやり」と見て取れるという。イラクに自衛隊を派遣した小泉政権、教育基本法を変え憲法改訂を目指した安倍政権らの動きが「心配」だという。
 「なぜなら、日本人は本来、好戦的で集団行動を好む。さらに対中国、朝鮮、東南アジアに優越感を持っている。もし憲法を変えて、たがが外れたら、日本国民はとことん戦争を突き進むかもしれない」。
 御簾納氏は「たがが外れた」状態を身を以て知る一人だ。


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AKIクリスマス・チャリティー個展

2008年12月22日 | アート・文化
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 「オーストラリア王立子供病院」への寄付を目的に、青山H・A・Cギャラリーで開催されている「AKIクリスマス・チャリティー個展」&オープニングライブを見て来ました。

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 知的障害をもつイラストレーターのAKI君は、今年(2008年)7月18日からスペイン「バルセロナ海洋博物館」で行われていた「HEART ART IN BARCELONA」で「マザーフォレスト」が「金賞」(GOLDEN AWARD)を受賞しました。金賞は約500名のなかから10名。またこの作品は「日本・スペイン文化親善名誉作家」に選ばれました。

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 受賞作の「マザーフォレスト」。

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 会場にはAKI君の今年の作品が壁面いっぱいに展示されていました。鮮やかな色彩とともに、「不思議なAKIワールド」が広がっています。

 「これはトナカイ?」
 「ちがいます、へらじかです」
 「ここに寝てるのは?」
 「さあ、なんでしょう」
 「………」
 「これは、びーばーです、ここにもいます」

 AKI君との不思議な会話。

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 ギャラリーの奥にキャンバスが用意されていて、これからライブペイントのパフォーマンス。

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 演奏に合わせてすいすい絵が仕上がっていきます。今年のテーマはやっぱりオーストラリア。絵はコアラかな。

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 絵が完成すると、AKI君も演奏に加わりました。
 左から「ゲンゾウ(永原元)」「ベンゾウ(湯川トーベン)」「アキゾウ(AKI)」、三人合わせて「マンモスズ」。

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 「次は何やる?」。内緒話。

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 「えのテーマ、かんがえてませんでした。『むだい』でもいいですか。……あ、いまおもいつきました。『きずな』です」
 このコアラの親子の絵は、タイトルが「絆」だそうです。

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 「お疲れさんした……」

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「冬至」のウンチク

2008年12月21日 | うんちく・小ネタ
 今日、12月21日は冬至です。毎年21日と決まっているわけではなく、通年は22日が多いようですが、今年は1日早く訪れました。
 
 わが家では夕食にカボチャの煮付けが出て、風呂のふたを開けるとゆずの香りが漂って、ぽっかりと黄色い色が鮮やかに浮かんでいました。
 カボチャのほうは、ぼやぼやしているうちに子どもたちにすべて食べられてしまい、ひとつも口にできませんでしたが。

 さて、冬至とは1年で昼が最も短い日。この日から一日一日と日が長くなりますから、「太陽がよみがえる日」と考えられ、大昔の日本では豊作を祝う祭りが行われていました。

 天文学的には、地球が太陽に対して23.4度傾いていることから、地球から見て太陽が最も南にある時が冬至です。つまり、冬になると太陽は、地平線からあまり高く上らなくなります。

 冬至といえばゆず湯。これは温泉などに浸かって病気を治す「湯治(とうじ)」にかけたと伝えられています。ゆずを入れて温まることが「湯治」につながるということですね。
 これはゆずに新陳代謝を活発にして血行を良くし、身体を温め、殺菌作用もある成分が含まれているためです。
 ゆずを入れるのは「融通が利く」ようになるという、願いが込められているともいわれています。

 また、冬至にはカボチャを食べる風習があります。カボチャを食べると風邪を引かないという言い伝えがあります。しかし、わが家では皆風邪を引いてしまい、手遅れでした。
 カボチャにはビタミンが抱負に含まれていますから、冬の寒さに耐える身体を作るという、昔の人の知恵ですね。
 
 おもしろいことに、冬至に食べるカボチャは、じつは夏野菜です。それがなぜ冬至かというと、カボチャはたいへん保存がよく、食べ物の少なくなる冬にそなえ、保存食として大切に保管されていたのです。
 昔は現在のようにいつでも何でも手に入ることはありませんから、寒い冬を乗り越える体力を維持するための、大切な食べ物だったのです。

 明日からはどんどん日が長くなります。それを考えると心がうきうきして来ますね。
 しかし今日も明日も気温が19度以上というおかしな気象状態です。やっぱり温暖化のせいでしょうか。

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「あれから1年、まだ解決していない」

2008年12月20日 | 昭和史
 「あれから1年、まだ解決していない」と題する、沖縄戦教科書検定問題の集会が府中で行われたので、行ってきました。
 講演は教科書執筆者で歴史教育者協議会前委員長の石山久男さんと、歴史学者で関東学院大学教授の林博史さん。
 小規模の後援会で、とくに林教授は自宅が近所とのこと、普段着でぶらりよ来た感じでした。
 石山さんは大江・岩波沖縄戦裁判首都圏の会で度々お目にかかっているのですが、名刺交換は初めて。
 林教授はまったくの初対面です。

Fuchu_ishiyama

 石山さんは、首都圏の会で話していた内容とほとんど同じでしたが、あらためて沖縄戦裁判の原告側の意図と、これまでの流れを時系列でわかりやすくまとめて話してくれました。

 原告側の意図は、今後「憲法を変えて戦争のできる国にする」ために、沖縄戦など日本軍の印象を悪くする内容の教科書だけでなく、あらゆる出版物をすべてなくしておきたい、自衛隊を日本軍にするときに兵士になる人間がいないと困る、ということにあると語りました。もちろんそれだけではないのですが、簡単に説明するにはわかりやすい話です。
 また、「あれから1年、まだ解決していない」という集会の表題の意味は、2006年度の教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」には軍の命令があったという記述に検定意見がつき、削除されてからいまだに復活していないことにあるからです。
 沖縄県での県民大会をはじめ、激しい抗議の中で文科省は柔軟な態度を見せかけたものの、さらなる右派の圧力のために、記述を復活させるところまでいっていないという事実が残されています。
 沖縄戦裁判の二度の判決で右派原告側が敗訴したことを受けて、文科省としては右翼政治家の圧力との板挟みで、明確な態度を取れていないことなどが語られました。
 先日、検定内容を公開するというニュースが流れましたが、実は欺瞞で、公開は検定終了後に限られ、それではこれまでも閲覧可能だったので何ら変わりがないこと、それ以上に、検定途中での漏洩に厳しくなり、漏洩が発覚したら即刻検定を打ち切ると言っていることのほうに危機感が感じられます。今回の検定改革はマイナスこそあれプラスは何もないとのことでした。

Fuchu_hayashi

 初めてお会いした林教授は、著書での激しい論調からは想像できない温厚な印象でした。

 今回のはなしの目玉は、太平洋戦争末期におけるアメリカ軍の報道から、日本の新聞がネガティブキャンペーンを張ったことについて発表がありました。
 ネガティブキャンペーンについては1944年10月6日の閣議決定「決戦世論指導方策要綱」と同年12月5日起案の内務省通達「決戦世論指導方策要綱に基づく言論集会の取締方針再検討に関する措置概要」で、全国の主要新聞社に指示をする内容です。
 ネガティブキャンペーンとは、アメリカの雑誌『ライフ』に掲載された、ボーイフレンドの米兵から送られたとされる日本兵の頭骸骨の前で手紙を書く少女の写真を利用したものです。(現物写真はプリントが悪く、ここでは紹介できません)
 「屠り去れこの米鬼」という見出しで、アメリカがいかに残酷であるかを国民に宣伝しています。
 林教授はこの研究を発表することを、右派に利用される恐れがあると躊躇していたそうですが、自身の中でまとまりがついたので発表するということです。
 すなわち、戦争末期の時期にこのようなキャンペーンを張るということは、アメリカ兵の残虐性を喧伝することで、日本軍の残虐行為をカモフラージュする意図があったのだろう、ということです。

 林教授の話は、戦場における民間人の処理をどうするかという問題は、サイパン陥落の時からあったと言います。当時の日本軍は天皇の名のもとに命令をくだしていたので、民間人に自殺を命令するわけにはいかないが、自決するように誘導すれば天皇に罪がおよばないと考えました。
 その考えは沖縄においても同じで、具体的な言葉による軍命令はなくても、手榴弾を渡すなど自決への誘導があればそれは軍が関与した「命令」ということになる、と結論できます。

 大著『沖縄戦と民衆』に続く著作が来春発行になる予定で、おそらく今日の話の詳細が掲載されていると思います。
 『沖縄戦??強いられた「集団自決」』(仮)というタイトルで吉川弘文館より発行。
 「400字300枚くらいなので、前回より安いです」ということですが、今日は障りだけで詳しくは本を読んでほしいと言う雰囲気でした。

 林教授も石山さんも、みんなで一緒に後片付けをして帰りました。

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魑魅魍魎の館

2008年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
Kokkai

 最近仕事で国会裏にある議員会館に何度も通っています。
 議員会館に入るにはまず、ロビーに備えてある12センチ四方くらいの紙に訪問先と自分の名前などを書いて、窓口に提出します。
 係員の女性がそれを見て議員の個室に電話をかけ、「××の○○さんが取材でいらしてます」と確認をとります。
 面会が可能なら紙にスタンプをを押して、「どうぞ」といって渡してくれるので、それをもってエレベーターホールに向かいます。
 エレベーターホールの前には警備員が立っていて、四角い紙の隅っこをミシン目に沿って三角にピリッと切り取り、「確認しましたのでどうぞ」。
 後はエレベーターに乗って目的の階に向かえば、もう警備員はいません。
 用事が終わって帰る時には、入る時に受け取った紙を回収箱の投げ入れます。間違って持って帰ると一大事。議員会館を出ていないことになって捜索されます。

 いつもはもっと早い時間なのですが、今日は参議院で厚生労働委員会が開催されていたために、対策の打ち合わせとかで会うのが夕方になってしまいました。
 帰りがけ、日はとっぷりと暮れて、国会議事堂がライトアップ。
 なんとなく、原爆ドームのライトアップに似ているような。

 今日も、そのなかで魑魅魍魎の駆け引きが行われていたことでしょう。
 参議院で審議されていた「雇用対策関連法案」は強行採決が行われ、民主、社民、国民新党の賛成多数で可決されました。反対が自民党となぜだか共産党。
 「雇用対策関連法案」の内容は、与党が提出した法案と大差ないものでしたが、ねじれ国会の参議院では野党が提出した法案として可決されました。
 共産党から、「国民の命に関わる法案を、十分な審議をせずに採決していいのか」という、しごくまともな発言があり、自民党から拍手が上がったとか。

 なんか変。しかし、社民党だってそう思っているはずでは。
 強行採決は自民党の得意とする技ですが、民主党にお株をとられた格好です。
 なんだかなあ。どっちが与党かわかりません。

 自共連立はないだろうけど、魑魅魍魎を絵に描いたような出来事です。
 「国民は今皆大変なんだから、ふざけてる場合じゃないんだぞ!」とどやし付けたくなりました。
 面会に行った議員にはそんなことは言いませんでしたが。

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『私は貝になりたい』がもたらすもの

2008年12月17日 | 日記・エッセイ・コラム
 大江健三郎氏は16日付の朝日新聞に掲載された「定義集」のなかで、文学関係を中心に本を読み続けてきた人生で、詩や小説よりも評伝によって教えられたところが多いと書いています。
 さらに、この国が純文学の読者を失っていると指摘した上で、文学と読者との関係を再建してくれる新しい批評家の出現に期待するとも。

 つい先頃、長年非常に広範かつ深い知識のもとに、あらゆる分野での評論活動を続けて来た加藤周一氏を、私たちは失ってしまいました。彼はある一分野の専門にとどまらず、批評対象についてさまざまな、あらゆる角度から批評できる評論家であり、彼を越える人物を、ぼくは氏をおいて後にも先にも知りません。

          ◆

「これじゃあ貝になれない」と黒澤明は言った
 去る土曜日に行われた「南京事件71周年記念集会」のあと、G出版社の社長と短い時間でしたが、評判の映画『私は貝になりたい』について語り合いました。実は二人とも、1958年に放送されたドラマは見ていても、今回の映画は見ていません。その理由は、その価値が不透明でどうも積極的に見に行こうという気にならない、という点で共通していました。
 見ていない映画についての批評はできるはずもないので、そこで語られたことは脚本家橋本忍によるシナリオについてでした。
 黒沢映画の脚本家として多くの傑作を遺して来た橋本氏は、ドラマ『私は貝になりたい』の脚本を読んだ黒澤明が言った「橋本よ、これじゃあ貝になれないんじゃないか?」という言葉が、それから50年間も頭の隅にひっかかっていたそうです。
 そこで今回、大きく二つのシーンを書き加えることで、頭のひっかかりを取り去ろうと試みたというようなことを、最近何かで読んだ覚えがあります。
 その二つのシーンとは、ロケーションなどの演出は別として、1. 家族が助命嘆願を行う。2. 収監された後、ドラマではいなかった子どもとの対面シーンを加えたことだといいます。
 複数の批評家による文章や観客の反応を新聞やネットで読む限り、この二つのシーンを追加することで、橋本氏が黒澤明の言葉から解き放たれたとは思えません。どうも橋本氏は、「貝になりたい」というBC級戦犯の絶唱が理解しきれていないのではないかと思えるのです。そのために50分にもわたる挿入部分は、もしかすると映画としての面白さは増したのかもしれませんが、「貝」に至る流れとしてはいささかピント外れに感じられます。
 現代の、あまりにも戦争との距離が開いた時代環境のもとでこの映画を見せられた観客は、豊松が加害者でもあるという重要な部分が欠落し、過去の戦争についての歴史認識に歪みをかかえたまま劇場を後にすることになってしまうのではないかという危惧を、ぼくは否定できないでいるのです。
 ドラマの脚本と観客の間に当初から介在する問題点、軍事裁判という特殊な裁判に対する不十分な理解と、最下層の兵士である二等兵が絞首刑の執行を受けるという、つくられた悲劇性だけが強調されるという、歪んだ歴史認識は作品に残されたままなのです。
 敗戦から50年を経て、アジア太平洋戦争が歴史の一頁としてしか認識できないでいる現代人には、不公平な軍事裁判とともに、加害者ではなく被害者としての清水豊松が、他の要素を圧して強い印象を残す結果になってしまったようです。

             ◆

死刑になった二等兵は一人もいなかった
 かといって、ぼくはこの映画を全否定するつもりはありません。観客がこの映画がフィクションであることを認識し、かつ十分な歴史認識を持ったうえで見るのであれば、戦争の実態を一部かいま見ることになり、反戦への意識を高めるきっかけになるのではと、わずかながら期待してはいます。
 なぜなら、同じ脚本家によるこの作品が1958年に放送されたときには、多くの視聴者が加害者である清水豊松の後悔と戦争そのものの悲劇を感じ取り、「貝になりたい」心理状態を共有することができたからです。
 そこで必要になってくるのが、50年を隔てて希薄になってしまった戦争への認識を埋める、優れた批評家の存在です。先のドラマが放映されたときには国民の多くがもっていた認識が、今とこれからの観客にどうしても伝え直すことが必要なようです。
 大江氏のいう「読者(観客)との関係を再建してくれる新しい批評家」の誕生が、映画の世界においても待たれます。
 
 原作者の加藤哲太郎は曹長(下士官)であり、遺書という形で登場させた創作上の人物赤木(映画およびドラマでは二等兵清水豊松)も、曹長であって二等兵ではありません。映画を見に行ったほとんどの人が知らないことだと思いますが、加藤氏を含めたBC級戦犯5700人のうち、死刑を執行された二等兵はただの一人もいませんでした。
 死刑になったBC級戦犯は901人(『BC級戦犯裁判』林博史)で、その多くは下士官以上で兵長以下の兵はわずか25人、その中に二等兵は一人もいません。
 清水豊松のように、捕虜殺害に手を下したもののそれが上官の命令だった場合は、死刑ではなく、重労働(懲役)に処せられ、しかもほとんどが減刑されて数年で釈放されています。
 つまり、ドラマとしての面白さを増すことを目的に、主役を二等兵にしてしかも最後に絞首刑を執行させたところに、いかにフィクションとはいえ重要な事実との違いを発生させてしまっているのです。

 さらに、日本軍の「習慣」をまったく考慮しない、軍事法廷における裁判の粗雑かつ不公平さが、かなり印象的に描かれていて、それは今回の映画でも同じでしょう。
 そのことによって安易に連想されてしまうのが、「東京裁判否定論」と「A級戦犯無罪論」です。つまり、きちんとした歴史認識のもとでこの映画を見ない限り、靖国派や歴史改竄派に利用されかねない危険があることを認識しておく必要があります。
 こうした連想に歯止めをかけるためにも、的確な解説ができる優れた批評が必要なのです。

             ◆

重要なのは「加害責任」と「戦争責任」
 加藤哲太郎氏は著書『私は貝になりたい』のなかで、戦後結成された保安隊(自衛隊の前身)について次のように書いています。
 「保安隊の諸君は、赤木氏(原作に登場する主役)およびすべてのBC級戦犯の例にかんがみて、自己の行動を律するのが、自分のために得策であることを知るべきである。戦争だから、戦争の要求にしたがって行動したという自己弁護は成り立たぬであろう」
 つまり、「日本軍の常識」は国際社会では通用しないよ、ということです。何があろうとも、(たとえ自分が命令違反で処刑されようとも)納得できない命令は拒否できる可能性が常にあること。可能性がある以上、命令であろうが何であろうが、実際に自分が人を殺したという事実は消し去ることができないし、許されることはないということです。

 彼が「貝になりたい」と思ったのは、多くの評論家が語るように、一言で言ってしまえば「人間不信に陥ったから」でしょう。しかしそれには大きな理由があります。彼は社会や家族などの現実から逃避したのではなく、また死刑になる自分に嫌気がさしたのではなく、まして不公平な裁判を行ったアメリカに対する恨みでもなく、真に伝えたかったのは、どうしても不毛な戦争をやめようとしない人間すべてに対する不信です。
 加藤哲太郎は、戦争そのものと戦争をはじめた人間たちに、自分だけでなく人類全員に対して「貝になれ」と叫んでいるのです。そうすれば戦争などできやしないだろうと。

 NHKスペシャルで、ちょうどタイムリーに「最後の戦犯」と題する番組が放送されました。番組では不公平な裁判への批判も加えながら、捕虜を殺してしまった兵士の責任と、日本軍の習慣は国際社会ではまったく通用するものではないことが表現されていました。さらには母国が日本の植民地であったがために、日本人として収監され裁かれた朝鮮人を登場させるなど、史実にのっとった実に良い番組でした。
 もっとも、このような内容で映画をつくっても、興行的に成功するとは思えませんが、それが残念でもあります。

 最後に、加藤哲太郎著『私は貝になりたい』(春秋社版)から、重要な部分を引用しておきます。長くなりますが、映画の印象と異なる真理が描かれている部分ですので掲載しておきます。

             ◆

原作の「貝」の部分
 いったい私たちは誰のために戦争したのかしら? 天皇陛下の御為めだと信じていたが、どうもそうではなかったらしい。
 天皇は、私を助けてくれなかった。私は天皇陛下の命令として、どんな嫌な命令でも忠実に守ってきた。そして日頃から常に御勅諭の精神を、私の精神としようと努力した。私は一度として、軍務をなまけたことはない。そして曹長になった。天皇陛下よ、なぜ私を助けてくれなかったのですか。きっとあなたは、私たちがどんなに苦しんでいるか、ご存じなかったのでしょう。そうだと信じたいのです。だが、もう私には何もかも信じられなくなりました。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍べということは、私に死ねということなのですか? 私は殺されます。そのことは、きまりました。私は死ぬまで陛下の命令を守ったわけです。ですから、もう貸し借りはありません。だいたい、あなたからお借りしたものは、支那の最前線でいただいた七、八本の煙草と、野戦病院でもらったお菓子だけでした。ずいぶん高価な煙草でした。私は私の命と、長いあいだの苦しみを払いました。ですから、どんなうまい言葉を使ったって、もうだまされません。あなたとの貸し借りはチョンチョンです。あなたに借りはありません。もし私が、こんど日本人に生まれかわったとしても、決して、あなたの思うとおりにはなりません。二度と兵隊にはなりません。
 けれど、こんど生まれかわるならば、私は日本人になりたくはありません。いや、私は人間になりたくありません。牛や馬にも生まれません、人間にいじめられますから。どうしても生まれかわらねばならないのなら、私は貝になりたいと思います。貝ならば海の深い岩にヘバリついて何の心配もありませんから。何も知らないから、悲しくも嬉しくもないし、痛くも痒くもありません。頭が痛くなることもないし、兵隊にとられることもない。戦争もない。妻や子供を心配することもないし、どうしても生まれかわらなければならないのなら、私は貝に生まれるつもりです。


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南京事件71周年 12・13集会

2008年12月13日 | 昭和史
過去と向き合い、

東アジアの和解と平和を


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 楽しみにしていた野中広務氏の講演に行ってきました。
 後半には笠原十九司さんと能川元一さんの対談があるので、もちろんそちらも目当てです。

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 野中氏は小学校6年生のとき、南京占領のニュースをリアルタイムで聞いているそうです。
 もちろんその時に、南京事件のような大虐殺が起きていることなど国民には知らされていません。

 国交正常化前の1971年にはじめて南京を訪問して、以降あわせて3回訪問しています。
 98年に訪問したときは、「公立南京大虐殺記念館」ができたということで訪問したものの、30万人という被害者数に納得できず、その表示を避けて「献花」をおこなったとか。
 当時の日本の新聞が展示されていたが、新聞社名はあえて表示せず、女性に対する残虐行為もあえてあらわされていなかったことに、日本に対する配慮が感じられたと語りました。
 「しかしそれでも、正しい史料がきちんと表示されていました」

 旧日本軍遺棄化学兵器の被害者訴訟で来日した少女に出会って。
 「政府は訴訟で争うのではなく、誠意を持って対応してほしい」

 自身が議員を退任したことについて。
 「この国をむちゃくちゃにする小泉純一郎と同じ時期にバッジをつけているのは恥ずかしい。家内にやめるぞ、と言った」

 はじめて生で講演を聴いた野中氏の印象は、頑固そうだけどユーモアにとんだ愉快なオヤジさん、という感じでした。

 自身冒頭で、「自民党の元幹事長が、なんでこんなところに顔を出すのかと非難を浴びそうですが」と語ったように、微妙な部分で同意しかねる内容もありましたが、しかし、平和に対する意識はしっかりしたものをもっており、OBとして自民党に影響を与えてほしいところです。
 80歳、まだまだ健在です。

【追記14日】
 この記事には、珍しくも何ともないことなのであえて書きませんでしたが、野中氏が記念館を後援会員とともに訪れた際、会員の一人から「南京で何人もの女子供を上官の命令で殺した」と告白したことが、ネット右翼の間でウソだでっち上げだと波紋を広げているようです。
 あいかわらず、「連合軍のプロパガンダである」とか「東京裁判ででっち上げられた」とか「70年代以降『朝日新聞』が捏造した」とか言っていますが、それらの論理がすでに学問的に破綻していることすら知らないのか、あるいは認めたくないようです。
 敗戦後に捏造されたものでない証拠はいくらでもあります。
 その一部を紹介すると、第11軍司令官として武漢攻略作戦を指揮することになった岡村寧次中将は、「南京事件の轍を履まないための配慮」と題した次のような回想を残しています。

 「十月十一、十二の両日、私は幕僚をともない、北岸の広済に第六師団を訪問した。(中略)もう一つの重大な目的は、近く漢口に進入するに際し、南京で前科のある第六師団をしていかにして正々堂々と漢口に入城せしむるかを師、旅団長と相談するにあった。ところが、稲葉師団長と第一線を承わる牛島旅団長(後の沖縄の軍司令官)は、すでにこのことに関し成案を立てていた。両氏が言うには『わが師団の兵はまだまだ強姦罪などが止まないから、漢口市街に進入せしむるのは、師団中もっとも軍、風紀の正しい都城連隊(宮崎県)の二大隊にかぎり、他の全部は漢口北部を前進せしむる計画で、前衛の連隊を逐次交代し、漢口前面に到達するときには必ず都城連隊を前衛とするようにする』と」

 要約すると、稲葉師団長と牛島旅団長が言うには、日本軍の兵隊たちは強姦罪が止まないから、漢口(現在の武漢)攻略戦で漢口市街への進入は、師団中で最も風紀の正しい都城連隊の二大隊に限るようにせよと言ったということです。

 また、支那派遣軍の総司令官だった松井石根は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監中、南京事件の事実を認めた上で、その責任は師団長にあり、自分には責任がないと弁明するとともに、その内容を獄中日記に遺しています。
 さらに、次のような記述も、松井石根が南京事件を発生当初から知っていたことがかいま見られます。

 「九日、読売新聞に石川達三なる者談話記事あり。南京当時の暴行事件を暴露せるものなり、小説家の由(よし)、困った男なり。わざわざ問題の種を邦人中より蒔くの愚、蔑(さげす)むべきなり」(一九四六年五月一〇日付)

 以上のように、南京事件は発生直後から軍中央で問題化されていたことであって、連合軍のプロパガンダでもなければ、敗戦後の東京裁判や朝日新聞の報道で捏造されたものでもありません。
 野中氏が講演会員から聞いたような話は、当時南京攻略に参加した日本兵の証言としていくらでもあります。それが少数であれば裏付けをとりにくく証拠としては弱かったかもしれませんが、現在までに大冊の本が何冊もできるくらいの証言が、日本側と中国側から集められています。
 証言や証拠類のすべてをウソだでっち上げだと言っていたら、広島・長崎の原爆投下も東京大空襲も消滅させることができるでしょう。

 まるで、おもちゃ屋の前でひっくり返って泣きわめいているだだっ子と同じですね、ネット右翼は。
 しかし、かといって放置しておくことは、彼の「言い分を認めた」ととられてしまいますから、ここにはっきりと誤りを指摘しておくことにします。(追記終)

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 後半は、笠原十九司さん(左)と能川元一さん(右)の対談形式で、南京事件の象徴としての「百人斬り競争」について、史料を示しながら概略が語られました。

 「新聞記者までが『これでチャンコロ(戦時中使われた中国人の蔑称)をぶった斬ってくるといって、取材目的で戦場に出かけるのに帯刀して行った。そういう時代だったんです」

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 「地方の新聞記事には、戦場で地元の人間が手柄を立てると、写真と名前に親のコメントを載せて掲載していました」
 「新聞の見出しがすごい『愛刀に血の御馳走』、『和尚でも人を斬れる』。殺生しないはずの坊主が人を斬るわけです。まるで江戸時代。チャンバラの世界ですね」
 「(歴史改竄派は)日本刀は2、3人しか斬ることはできないといい、それを『百人斬り競争』はなかった証拠のように言っていますが、それは白兵戦でのこと、名刀は40人以上斬っても刃こぼれひとつしないことが実証されています」
 「論争は学問的には決着していますが、政治的な部分で、自民党右派を中心に不戦決議に反対するなど、相変わらず反論がでています」

 笠原さんは、現代の戦争は殺す側と殺される側の距離が開いていることを指摘し、それがゲームのように人を殺すことに対して心理的な抵抗がなくなることの危機感を訴えました。

 「『現代の感覚で過去をさばいてはいけない』という論理がありますが、しかし、当時も理性ある軍人は暴走する麾下の兵士に『スポーツ競争じゃないんだぞ』と戒めたと記録に残っています」

 「小中学生への教育で、もっと自我を知る教育をすすめ、それによって他者を知ることを学ばせなければいけません」

 いつものことながら、理路整然と話を進める笠原教授の講演はじつに説得力があります。

 閉会後、年明けに大学でお会いする約束をして、帰路につきました。

 開会の挨拶が俵義文さんで、閉会の挨拶が石山久男さん、そして会場には大江・岩波沖縄戦裁判の事務局長、寺川さんの顔も。
 メンバーがけっこうダブってます。

 しかしやっぱり会場は年齢層が高い。もう少し若い人に参加してほしいところですが。

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石川光陽『東京大空襲の全記録』

2008年12月11日 | 写真
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 〈グラフィックレポート〉東京大空襲の全記録
  石川光陽
  岩波書店 刊

 去る8日月曜日、TBSで東京大空襲のドキュメンタリードラマが再放送になって、そこで紹介されているのが、当時警視庁の記録カメラマンだった石川光陽です。

 最初に放送されたときにこの写真集の存在を知り、入手したかったもののすでに絶版で、古書でもとんでもない値段がついていてあきらめていました。
 今回、何気なくサイトを調べたところ、笹塚の古本屋が格安で出していることを発見。
 即刻電話で取り置きしてもらい、昨日めでたく入手。
 定価2000円の写真集が、アマゾンの中古で7000円。それを1800円で買うことができました。(ばんざーい!)
 後で見ると、アマゾンのそれも売れていたのでびっくり。

 戦災の被害状況は報道管制下におかれた当時、写真撮影することは禁止されていて、憲兵に見つかればカメラもろとも没収でした。
 光陽は警視総監から空襲災害の写真撮影を直接依頼され、そのための配慮も特別に受けていました。
 したがって、石川光陽は空襲災害の写真をくまなくカメラに収めた、唯一の日本人だったのです。

 「それから君も知っている通り、空襲災害の状況撮影は一切禁止になっていて、撮影の現場を官憲に見つかるとカメラは没収され、処罰されることになっている。君の撮影は許可されるように警視総監名で撮影者は君の名で憲兵隊本部、陸軍省、管内各警察、消防所長宛に公文書の書類を出すから、遠慮なく撮影してくれ」(まえがき)

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 石川光陽が使用しているカメラは、当時、家が一軒建つといわれたほど高価な「ライカDIII」。会計係に日参して無理矢理買ってもらったとか。
 そのカメラを首から提げた光陽は、警視庁のドラ息子といわれたそうです。
 最近は、「M3」の程度のよいのが標準レンズ付で30万円くらいです。それでも高価ですが、当時のライカはよほどの金持ちでもなかなか手が出なかった。今の物価に換算すると、ン千万という感じでしょうね。
 よくぞまあ警視庁が……。

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 この写真集には昭和17年4月18日に、初めて東京が空襲されたときから、終戦後の占領時代まで収録されています。
 荒川区尾久の爆弾の直撃を受けて一家6人が死亡した現場。

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 この写真は、ドラマにも同じシーンがあらわされていました。
 昭和20年1月27日に銀座が爆撃されたところを、警視庁の屋上から撮影したもの。

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 3月10日の東京大空襲は、木造が主体の日本の建築事情に合わせて開発された焼夷弾が大量に使用されました。
 焼夷弾はクラスター爆弾の一種で、子爆弾の中には高温を発して燃焼するナパームが詰められていました。
 写真は焼夷弾の焔で焼かれた死体が散乱する、台東区浅草花川戸の路上。

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 この写真集は前作『痛恨の昭和』の後、光陽の死後出版されたため、撮影時を特定するのに困難を極めたと、編集を担当した森田峰子さんは書いています。
 死後発見された「帝都空襲誌」という手記や、コンタクトプリントおよびネガに記録された使用フィルムの文字などを手がかりに、時系列をつなげていきました。

 ここに掲載されたコンタクトプリントをみると、映画で使用されるフィルムに特徴的な、ノッチの両端が丸いものを使用しています。
 これはおそらく映画に使う長尺フィルムを切ってマガジンに込めて使用していたものと見られます。本文にも、これまでAGFA、KODAKなどの文字が入っていたものが、「昭和17年に入ると、フィルムに文字が何も入らなくなる」と書かれています。

 この写真集には、石川光陽の手記による記録が同時に掲載されていて、写真とともに実に臨場感のある記録になっています。
 『痛恨の昭和』とともに、復刊されることが望まれる貴重な資料です。

 しかし、貴重なライカを空襲の現場に持ち歩くなんて、さぞかし勇気がいったでしょう。
 壊されなくてよかった。
 ぼくなら壊されてもいいようなカメラをもっていきますが、それではプロじゃありませんね。

 【リンク】『痛恨の昭和』

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