ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

富山の押し寿司

2009年05月30日 | 食・レシピ
Toyama1
 
 富山から著者の方が見えて、お土産に押し寿司をいただいた。
 これまで富山には縁がなかったので、写真では見たことがある有名な鱒の寿司をこれまで味わう機会はなかった。
 いただいたのは2種類で、鰤の寿司も。
 
 駅弁として売られているものなので、これで1人前なのだろう。
 箸は1膳だけである。
 器も凝っていて、蓋を4本の竹で抑え、それぞれの両側を太いゴム輪でとめてある。
 つまり、ずっと押しつづけているわけだ。
 
Toyama2
 
 こちらがご存知鱒の寿司。
 たっぷり二人前はありそうだ。
 
Toyama3
 
 こちらが鰤の寿司。
 こちらは大根の薄切りやニンジンの細切りが一緒に押されている。
 白いのは大根で、この下に鰤がある。
 
 さて味はと言うと、甲乙つけがたい。
 鱒の寿司は文句なくうまい。しかも後を引く。
 いくらでも食べてしまいそうなのでこわい。
 
 鰤の寿司は、なんとなく鯖の押し寿司に似た味なのだが、鯖よりも癖がない。
 鰤である必要はなさそうなのに、しかし、これもうまい。
 やっぱり後を引く。
 
 アシのYを含めて家族全員で分けたが、両方とも、一人で全部食べてみたい。
 東京駅で売っているらしいので買って来よう。
 なかったら、こんどまた著者の方にお願いしよう。
 安いものではないので、いささか気が引けるが。

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AKIデザイン・Tシャツフェア

2009年05月28日 | アート・文化
 5月25日から開催されている「AKIデザイン・Tシャツフェア」の最終日、イベントに招待されていってきた。
 
Aki01
 
 会場の青山HACギャラリーには、ところ狭しと手書きのデザインTシャツがならぶ。
 1点5000円。カンバスに描かれた絵は高価だが、こちらは入手しやすい。
 
Aki02
 
 メインゲストはアボリジニのゲイリー・(MICK)・マーチンさん。
 左から二人目。
 前半はAKIを交えてのトークショーである。
 「2週間日本にいるので、当分食べられませんからカンガルーの肉をたくさん食べて来ました」
 「……」
 いきなり豪速球がきた。
 
Aki03
 
 アボリジニの現状について語るMICKさん。
 白人化されるアボリジニ文化に懸念を示す。
 前回のAKIのパーティーで来賓のオーストラリア大使館の人が語った言葉とは、だいぶ温度差がある。
 この後北海道でアイヌとの交流を行うという。
 
 Aki04
 
 AKIにも通訳が必要である。
 AKIの通訳は元ちゃん(永原元)。
 MICKさんの動物についての話を聞いて、「枕カバーに動物の絵がありました」。
 会場内「……?」
 「いきなり言ったって分かんないよ。まず持って来てみんなに見せなきゃ」
 MICKさんのお土産だという。
 枕カバーじゃなくて、これはクッションカバーだ。
 
 Aki05
 
 エミューの卵を持って、これもアートの素材であることを説明するMICKさん。
 「中味は食べました」
 エミューの卵は七色の層になっていて、彫り方の深さで色が変わるという。
 手に取って穴のあいたところをみせてもらったが、確認できなかった。
 
 コアラの話から動物の臭いについて。
 「山火事でコアラが焼かれてたくさん死にましたが、彼らは木から木へと飛び移ることができないのです。一度降りてから次の木にのぼっていくので火の勢いには負けてしまいます」
 「コアラはユーカリの葉しか食べません。水分もそこからとります。それが尿になるととても臭いのです。コアラを探すときは臭いのする方を見ればいいのです」
 そういえば以前、オーストラリアの友人が、日本人はなんであんな臭い動物を抱きたがるんだろう、と不思議がっていた。
 AKIが質問。
 「カンガルーの袋の中は臭いですか」
 「動物はみんな臭いです。カンガルーの袋の中も動物の臭いです。寒い日には手を入れると温かいです」
 「アボリジニが山火事で死ぬことはありません。どこに住めば安全か知っていますから」
 白人はずいぶん犠牲になった。
 
Aki06
 
 後半はライブペイント。
 この日のメンバーは豪勢だ。
 左から、高橋マコト(ギター)、沼田恵三(ギター)、安曇野めぐ留(ボーカル)、そして永原元(太鼓)。
 ほとんど打ち合わせなしだったようで、1曲ごとに出だしを打ち合わせ。
 あの歴史的名曲「竹田の子守唄」や、安曇野めぐ留の「守子唄」など。
 「守子唄」とは「子守唄」がお手伝いの子守りであるのに対して、仕事の唄。
 「竹田の子守唄」はしたがって、「守子唄」である。
 「竹田の子守唄」については、「深い意味があって……」と臭わせたものの、会場に来た人でわかった人が何人いたか。
 「被差別絡みの楽曲であった為に日本の放送局はこの楽曲を放送したがらなくなり、いわゆる「放送禁止歌」(封印作品)として長い間封印されることになった」曲である。
 
Aki06b
 
 アボリジニが大勢でうたう民謡を、みんなで歌った。
 白人文化に抵抗する親たちから、白人の手によって引き離された子どもたちが唄った、ほんとうは悲劇的な唄なのだが、悲惨さはほとんどない。
 みんな小学生になったように一生懸命、でも楽しそうだった。
 
 ♪「lnanay ・ イナネイ」

 lnanay gupu wana lnanay gupu wana ay ay ay oola,
 0ola oola, 0ola ay yippy yay yippy yay,
 Goolwana goolwanna goolwanna goolwanna goolwa choo
 Goolwana goolwanna goolwanna goolwanna goolwa choo
 lnanay gupu wana lnanay gupu wana ay ay ay oola,
 Oola oola, 0ola ay yippy yay yippy yay,
 Goolwana goolwanna goolwanna goolwanna goolwa choo
 Goolwana goolwanna goolwanna goolwanna goolwa choo
 
 アイヌと同じでアボリジニも文字を持たない。
 したがって、コミュニケーションはすべて口伝である。
 この唄も、アルファベットを当てたものなので、実際の発音は直接耳にしなければわからない。
 
 今レコーディング中の曲に、今日ここでみんなが唄った声を合わせるそうだ。
 
Aki07
 
 時間が短かったので、この日のライブペイントの絵は小さめ。
 「タイトルは『生命の輝き』です」
 この絵はMICKさんにプレゼントされた。
 
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沖縄番外編 豚の顔/ソーキそば

2009年05月26日 | 旅行記
Butanokao1

 旭橋の居酒屋。
 
Butanokao2
 
 塩味、醤油味、甘醤油があり、これは醤油味。1500円。
 大きいのでアシのYと半分ずつ分ける。
 長女のお気に入り。残りの半面をほとんど一人で食べた。

 Sohkisoba1
 
 つい、写真を撮る前に箸をつけてしまった。
 ソーキそばにジューシー(混ぜご飯)付で550円。安い!
 
Sohkisoba2
 
 高江からの帰り道で寄った、うまいと評判のそば屋。
 お世辞にもきれいな店ではないが、味は絶品だった。
 700円。
 肉の骨まで軟らかい。
 やっぱり撮る前に箸を付けてしまった。

 ソーキそばは、国際通りにうまい店があったのだが、今回は立ち寄れなかった。

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クローデル『リンさんの小さな子』

2009年05月25日 | 本と雑誌
Rinsan
 
 リンさんの小さな子
 フィリップ・クローデル著
 高橋啓訳
 みすず書房刊

 沖縄までの3時間弱のフライトで読むには手頃と思い、持参した。
 新聞の書評で同じ著者の『ブロデックの報告書』が掲載されていて、これまであまり意識していなかったこのフランス人の作家に興味を持った。
 そこで、これ以前にフランスでベストセラーになったと伝えられている『灰色の魂』を含め、3冊を同時購入した。
 
 『リンさんの小さな子』はこの3冊の中ではもっとも短い。本文162ページでしかも40字13行とざっくり組んである。
 往路のフライトで読んでも時間が余りそうだが、ぼくに限ったことかもしれないが、電車と比べて飛行機の中というのは不思議と読書が進まない。
 したがって、ちょうどいい分量と思ったのだ。
 
 戦争で娘夫婦を失った老人は、生後間もない赤ん坊を抱いて故国を離れ、見知らぬ国で難民になる。
 持ち物は1枚の写真と一握りの故国の土。息子夫婦の残した、生まれて間もない赤ん坊だけが生きがいなのだ。
 大きなビルが建ち並び、たくさんの人々が行き交う大都会で、言葉はまったく通じない。
 老人は孤独だ。
 老人は小さな赤ん坊を宝物のように守りながら、あてがわれた難民施設でじっと生きていく。
 そのうち、散歩で立ち寄った公園で、一人の太った男と出会い、言葉が通じ合わないのに、二人は親友になる。
 あるときは一箱のタバコが、あるときはレストランでの食事が、そしてあるときは、友人から赤ん坊へのドレスがプレゼントされ、それらが二人の交流の象徴として描かれる。
 この物語で舞台となる土地ははっきりと記されていない。
 しかし、老人の故国はヴェトナムで、戦争とはヴェトナム戦争。難民になった土地はどこかフランス国内の港町であろう。
 でも、そんなことはさほど重要でない。
 やがて養老院に移された老人は、せっかく出会えた親友と会うことができなくなった。
 無関心で気力のない人々に囲まれ。老人は友に会いたい、と何日も思い続ける。
 言葉が通じないために、養老院の看護師たちにそのことを理解してもらえない。
 老人は収容所からの脱走を試み、しかし失敗する。
 それでもある日、ついに塀の低いところを見つけて監視の目を盗み、脱走に成功する。
 老人は、見知らぬ街をおおよその勘だけをたよりに、あの、親友と出会った公園に向かった。
 かけがえのない赤ん坊を胸に抱いて、再び「彼」と出会うために。
 養老院の外は激しく車が行き交っていた。
 
 淡々と続くこの物語は、最後の最後で「やられた!」。
 あまりにも感動的すぎるエンディングが待ち受けていたのだ。
 
 ミステリーではないが、決して最後を先に読んではならない作品である。
 
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沖縄6 5.15平和行進/平和とくらしを守る県民大会

2009年05月24日 | 旅行記
 1972年5月15日、沖縄は米軍基地を残し、施政権だけが日本に返還された。
 「核抜き本土並み」とはいうものの、返還後は日本がアメリカの軍事行動を支持することもあり得るという、事前協議が行われていた。
 基地なし返還でなければ意味がないとの沖縄住民の願いは、形だけの返還を急ぐ佐藤政権によって無視された形だ。
 それが、日本中の米軍基地の75%が沖縄に集中するいまの現実を作り出している。
 
Hsukai2
 
 返還から37年目の今年5月15日、米軍基地撤廃をもとめて、県内三カ所から平和行進が行われた。
 名護、本部(もとぶ)、那覇の3コースに分かれて出発した平和行進は、宮古、八重山を会わせると3日間で述べ7,181人が参加した。
 3日目の17日に開催された県民大会は、真夏を思わす炎天下、平和行進参加者に県内外の平和団体が加わり、平和行進のゴールでもある沖縄コンベンションセンターに3,500人以上が集まっておこなわれた。
 
 予定より1時間遅れの午後4時過ぎ。平和行進は3コースに分かれて灼熱の太陽と右翼の妨害にもめげずに、続々ゴールイン。
 
Shukai3
 
 米軍基地撤退に向けて「ガンバロウ」のシュプレッヒコールで気勢を上げる3,500人の参加者。
 
Shukai1
 

 安次富浩さん、伊佐信次さんらが壇上から反対闘争の現状を報告し、糸数慶子参議院議員をはじめ、県選出の国会議員が次々に壇上に上がって激励の挨拶を行った。
 
 沖縄の米軍基地は、日本が莫大な税金をかけて海兵隊をグアムに移転させるものの、実質は基地の縮小につながらず、それどころか、新たな基地の建設で一層県民の負担が大きくなることがわかっている。
 
 (沖縄報告はこれで一旦終了します)
 
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沖縄5 象の檻跡/大田元知事

2009年05月23日 | 旅行記
Yomitan1
 
 読谷村の楚辺通信所跡地で知花昌一さんと待ち合わせる。
 ここはかつて、巨大な檻を思わせる通信施設があったところで、アメリカの占領を象徴する施設として有名だった。
 
Yomitan2
 
 この写真は今から7年前、2002年の3月に撮影したもの。
 この通信施設はキャンプ・ハンセン内に移設されることになって、移転が完了した2006年12月に敷地は日本に全面返還された。
 2007年6月には、すべてが撤去されている。
 知花さんによると、新しい通信施設は、「象の檻」といわれたような鉄塔群は存在せず、コンパクトでより高性能の設備だという。
 
Yomitan3
 
 知花さんはこの通信所の土地の一部を所有する反戦地主だ。
 長年、この土地の返還に向けて日米両政府を相手に闘ってきた。
 写真は、航空写真を広げ、自身の所有地を示す知花さん。
 
Yomitan4
 
 残波海岸での昼食のとき、三線を出して弾き語りを聴かせてくれた。
 本来はライブハウスでなければ聞くことはできないのだが、好意で演奏してくれたのだ。
 もちろん、こっそり録音してある。
 
 この後、大田昌秀元知事の大田平和総合研究所に向かう。
 泡盛とコニャック、それにたっぷりの沖縄料理で迎えられ、話が弾んだ。

Ohta

 初代県知事の屋良朝苗さんのこと、「沖縄の歴史」をまとめた比嘉春潮さんのこと、基地のこと、県政のこと。
 録音しておかなければならないほどのすばらしい内容の話だったのに、なぜか録音機を車の中に置いたままホテルの駐車場に入れて来てしまった。
 大失敗である。
 「また、いつでもいらっしゃい」
 といわれたので、また出かけるか。
 
 話が弾み、ホテルに戻ったのは深夜だった。
 
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沖縄4 ひめゆりの塔~健児の塔

2009年05月22日 | 旅行記
 今回、南の方を回る予定はなかったのだが、時間が空いたので南部の戦跡を回ることにした。
 那覇のホテルから小一時間かかるとフロントに脅されたが、これまでの体験上そんなにかかるはずはないと、勝手に思い込んで車に乗り込む。
 
 小一時間どころか、30分で着いた。
 道がすばらしくよくなっていて、とても走りやすかったのだ。
 
Himeyuri1jpg
 
 ひめゆりの塔は、井原第三外科壕跡の上に建てられている。
 正面の大きな碑は1974年に建てられたもので、戦争直後に建てられた碑は右端に残されている。
 
Himeyuri2
 
 この小さな碑は、1946年、遺族によって建てられたもの。
 
Himeyuri3
 
 資料館は、前回来たときからリニュアルされて、実に立派になり、展示も充実している。
 資料館内に、壕の内部から外をながめるようにしつらえた施設があり、上を見ると外が見えている。
 資料館内で地下に降りたところはなかったのに、どういう構造になっているのかと不思議に思っているとき、奇しくもひめゆりの生存者の一人、宮城喜久子さんにお会いした。
 
 「お久しぶりです」
 「おやおや、東京から?」
 「はい」
 
 「ああ、これはレプリカですよ」
 「え? ずいぶんみごとですねえ」
 「こんな壕の中に負傷者を担いで出入りしたんですか」
 「いいえ。負傷した人は入れません。ここには100人くらいの医者と看護婦がいただけです。治療なんかできません。だいいち、包帯も薬もないんですから」
 「じゃあ、ここは医者と看護婦が退避していた壕なんですか」
 「病院壕なんて名ばかりですよ」
 
 何人もの負傷者を抱えて四苦八苦していたのは緒戦の頃の話。戦況が悪化してからは、米軍の攻撃から身を守るための壕になっていった。
 しかし、この第三外科壕は、米軍のガス弾の攻撃を受け、中にいたほとんどが亡くなった。
 
 *参考=『沖縄戦の全女子学徒隊』青春を語る会編 フォレスト発行 琉球新報社発売(地方小扱)
 
Kennji1
 
 ひめゆりの塔にほど近い場所に、「健児の塔」がある。
 健児の塔は、鉄血勤皇隊として戦場に駆り出され、短い生涯を終えた少年たちの慰霊碑である。
 鉄血勤皇隊は、ひめゆりと同じ10代の少年たちだが、一般にはひめゆりほど知られていない。
 それを裏付けるように、かつてはあったのだろう記念品売り場はシャッターが下ろされ、ひめゆりと比較しても寂しいかぎりである。
 
 やはり、少年よりも少女の方が悲劇性があるからだろうかと、いささかひがんでしまう。
 
 さまざまな理由から遺族や生存者の、しっかりした組織化と活動ができなかったからだろう。
 元沖縄県知事の大田昌秀さんは、鉄血勤皇隊員としての体験がある。
 大田さんは当時19歳で、中では年長だったため、小銃や手榴弾を手渡されたが、若い隊員の多くには武器はなく、ほとんどが砲弾の飛び交う中を伝令や弾運びに使われた。
 
Kennji2
 
 沖縄戦では、数えで15歳以上(満年齢14歳)の男子はことごとく徴集されて、日本軍とともに闘った。
 天皇のために命を捧げることこそ男子の本懐であるという、皇民化教育の犠牲者である。
 
 *参考=『血であがなったもの』大田昌秀 那覇出版社
 
Ishiji1
 
 ひめゆりの塔からさらに4キロほど南に行ったところに、「平和の礎(いしじ)」と平和祈年資料館がある。
 平和の礎には、無数の黒い御影石に、約24万人の戦没者名が刻まれている。
 
Ishiji3
 
 ここには、日本人だけでなく、朝鮮人やアジアの人々、そして欧米人も含め、名前が判明している沖縄戦犠牲者のすべてが記録されている。
 
Ishiji2
 
 礎の向こうに見える赤瓦の建物が、県立平和祈年資料館。
 この資料館は大田県政時代に計画されたものだが、その後政権が保守に渡ってから展示内容に変更が加えられようとした。
 とくに、日本兵の残虐性を表現した展示物に手が加えられようとしたが、住民からの怒りの反発によって当初の予定通りの展示になったいきさつがある。
 
 この日はこの後、県民大会に参加する予定になっていたので、資料館までは見学する時間がなかった。

 リンク=「大田昌秀さんと『鉄血勤皇隊』」
 
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沖縄3 渡嘉敷島

2009年05月21日 | 旅行記
 渡嘉敷島に渡った日は、ちょうど梅雨入りで雨模様だった。
 前日までの猛暑がウソのように肌寒い。
 朝10時、那覇市の船着き場「とまりん」からフェリーで1時間10分である。
 夕方のフェリーで那覇に戻るつもりなので、3時間だけレンタカーを借りる。
 小さい島なので、一通りまわっても3時間で十分余裕がある。
 徒歩か自転車でと考えがちだが、ほとんどが山道なので、それは無謀だと、観光事務所で注意された。
 
 期待していた戦跡案内図は用意されていない。
 それに比べてダイビングスポットの案内はやたら詳しい。
 
 案内図にない戦跡と、注意を聞いて出発。
 
Tokashiki1
 
 「集団自決跡地」の碑は国立青少年交流の家の敷地内にあった。
 実際に「集団自決」があったのは、この碑の裏側だが、ハブが恐くて入れなかった。
 
Tokashiki2
 
 この獣道のような薮の隙間を降りたところにある。
 右に碑文の一部が見えるが、内容は酷いものである。
 
 「……米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は 「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで 親戚縁故が車座になり1ケの手榴弾に2、30名が集まった瞬間不気味な炸裂音は谷間にこだまし……」
 
 誰一人「祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした」人間などいない。
 ウソの情報で怯えきった悲壮な死だ。手榴弾では死にきれず、自分で死ぬことの出来ない年寄りも子どもを大人が殺し、大人たちは包丁や丸太で殺し合ったのが真実である。
 
Tokashiki2b
 
 「集団自決跡地」の碑は、このような扉の奥にある。
 知らなければ誰も気づかない。ハブよけのためのフェンスだと説明があるのだが、だったら碑の後ろに作ればいいものを、わざわざ碑を隠すように作られている。
 この島はどうも戦跡を隠したいような意図が見え隠れする。
 
Tokashiki7
 
 「集団自決跡地」とは好対照に、道路際の目立ったところにある「戦跡碑」。
 紹介するまでもないこちらの碑文は、曾野綾子選による。
 言わずもがなだ。
 
Tokashiki4
 
 沖縄は、本島、離島含めて多くの碑があり、1951年に建てられたこの「白玉之塔」はもっとも古い碑の一つだろう。
 
 「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。
 満6年忌を迎えた昭和26年3月28日、住民集団自決の現地北山(現青少年交流の家敷地近く)で、白玉之塔の除幕式と合同慰霊祭が行われ、戦没者(日本将兵81柱、軍人軍属92柱、防衛隊42柱、住民383柱)の御霊を島守りの神として仰ぎ祭られています。
 毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、本土や沖縄本島から遺族が参列して慰霊祭が催されています。
 昭和35年現地西山が軍用地に接収されたため、昭和37年4月19日現在のギズ山に移動し新しく建立されました」
           (渡嘉敷島ホームページ)
 
Tokashiki5
 
 この壕に隠されていた木製の特攻艇は、一隻も使われることはなく、日本兵自らの手で爆破された。
 特攻兵たちは攻撃もできず逃げ場も失い、全員が自決した。
 
Tokashiki6
 
 金網の脇から中に足を踏み入れ、中をのぞくと真っ暗だ。本島のガマのように奥深くはない小さな洞穴で、遺骨はもちろん遺品らしきものなど何も残っていなかったが、なにか異様な雰囲気があって奥まで入ることは躊躇してしまった。
 だいいち、中の様子が分からないと、狭いので頭をぶつけたり服を汚す覚悟がいる。
 次の機会には、誰か案内を頼んで同行してもらおう。
 
 何枚か写真を撮っているうちに、オーブが写り込んでいることに気づいた。
 最初は小さなのが一つ二つだったのに、この写真では壕の中から団体でこちらに向かって来ている。
 危険を感じてあわてて離れた。
 
 今回は本島がメインで、離島はついでだったので、案内を頼まなかった。
 次の機会には、慶良間諸島全域を回ってみたい。
 ボートをチャーターしなければならないだろう。
 
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沖縄2 辺野古から高江へ

2009年05月20日 | 旅行記
Henoko0
 
 これまで、沖縄の北の方に行くことはほとんどなかったので、基地の建設で揺れている辺野古や高江は初めての体験だ。
 那覇から高速道路を使って約1時間半ほどで辺野古の海岸につく。
 美しい海だ。
 ジュゴンが棲み、美しい珊瑚が海底を飾るこの海を埋め立て、米軍基地が建設されようとしているのだ。
 「このあたりにジュゴンはいない。エサを食べた食みあともない」
 臆病なジュゴンが調査船の音に驚いて身を隠してしまったことが理解できていない、初めに結論ありきの調査で、政府は強引に工事を進めている。
 
 町中にある危険な普天間飛行場を移転し、沖縄住民の負担を軽減することが目的だというが、環境を破壊し漁業にも影響が出る。
 
Henoko1_2

 ピースリボンがたくさん結びつけられた有刺鉄線の向こうは、キャンプ・シュワブ。
 総面積約20.63km?の広大な「アメリカ」が広がる。
 
Henoko2_2
 
 有刺鉄線の前で支援者に基地反対を訴える、「命を守る会・ヘリポート建設阻止協議会」代表世話人の安次富浩(あしとみ・ひろし)さん。
 
Henoko3_2
 
 安次富さんの好意で、ボートに乗せてもらった。
 「美しい海を肌で感じてもらいたいからね」と笑う。
 海の水はどこまでも透明だ。水中を泳ぐカラフルな魚や、ジュゴンが好んで食べると言われる藻がまるで手が届きそうなところに見える。
 背景はキャンプ・シュワブ。ここを埋め立てて軍事基地を作るなど、正気の沙汰ではない。
 
Takae1_2
 
 海から山に。
 高江は緑に囲まれたヤンバル(山原)にある。
 ヤンバルクイナ、ノグチゲラなど、絶滅危惧種が多数棲息する。
 ここに作られようとしているのは、垂直離着陸機を発着させるためのヘリパッドだ。
 米軍がここに配備しようとしている垂直離着陸機オスプレイは、非常に不安定な飛行機で、頻繁に事故を起こしている。
 プロペラが発着時には上を向き、飛行時には前を向くという構造上、操縦が非常に難しく、ちょっと強い横風でもあおられて墜落の危険がある。
 
Takae2_2
 
 現在でも15カ所あるこの危険な施設を、高江の集落を取り囲むように、新たに6カ所も建設されようとしているのだ。
 
Takae3_2
 
 沖縄を車で走っていると、基地のフェンスが見えないところはほとんどない。
 日米安全保障条約によって、日本の国内にある米軍基地の75%が沖縄に集中している。
 沖縄本島の地図に、米軍基地のある所を塗りつぶしていくと、ほとんど半分近くが埋まってしまう。
 
Takae4_2
 
 「基地がなくては生きていけない」という話が“常識”になってしまうほど、住民は日米の政府によってコントロールされてしまっている。
 しかし、元沖縄県知事の大田昌秀さんは、この米軍基地を活用すれば、基地から得られる経済効果の数倍が得られ、間違いなく沖縄は豊かになるという。
 その事実は、特定のだれかの利益のために妨害され消し去られ、住民には届きにくくなっている。

 *参考=『「アメとムチ」の構図』沖縄タイムス社
 *リンク=「アメとムチ」の構図
 
 
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沖縄1 チビチリガマとシムクガマ

2009年05月19日 | 旅行記
 15日から18日まで、沖縄に行ってきた。
 もちろん観光旅行ではないので、シュノーケルも水着も持っていかない。
 
 初日は知花昌一さんの案内で、象の檻(米軍通信施設)跡地やチビチリガマ、シムクガマを見て回った。
 知花さんは反戦地主として10年間、象の檻の所有地返還を求めて闘って来た。
 また、チビチリガマの「集団自決」犠牲者の遺族でもある。
 
Chibichiri5

 チビチリガマは今から30年前、絵本作家の下嶋哲朗さんによって発見された。それまでは、この場所にガマ(洞窟)があることすら、知られていなかった。
 *参考=下嶋哲朗『チビチリガマの集団自決』凱風社
 
Chibichiri2
 
 通常は入ることの出来ないガマの中に、知花さんの案内で特別に入れてもらった。
 散乱した遺骨は、後世に事実を伝えるためにそのままこの場所に残されている。
 入れ歯があった。
 成人男子は戦争にとられ、「自決」したのが年寄りと女性子どもばかりだったことが、残された遺品でわかる。
 
Chibichiri3
 
 これは櫛とコンパクトだ。きっと若い女性のものだったのだろう。
 
Chibichiri4
 
 飲料水をためておいたのか、空き瓶が一カ所にまとめられていた。
 これらの写真にあり、茶褐色の燃えさしのように見えるのは、皆遺骨だ。
 心ない訪問者の靴から守るために、近年立ち入り禁止になった。
 
Chibichiri6
 
 「ここでは85人の人が『自決』しています。他に言葉が見つからないので『自決』といいますが、最年少は生後4カ月です。そんな子どもが自決しますか?」
 入り口で、知花さんが初めて来た人にもわかるように、やさしく説明する。
 慰霊塔の上に、大きなオーブが現れた。(上方の丸い透明な浮遊物)
 
Shimuku1
 
 シムクガマは巨大なガマで、ここには約1000人が避難していたが、一人の「自決」者も出ていない。
 チビチリガマでは約140人が避難して、85名が「自決」して亡くなった。
 「鬼畜米英の捕虜になれば、女は強姦され、男は戦車でひき殺される」
 日本軍によってそう教え込まれた住民は、残虐に殺されることを怖れ、次々に命を絶った。
 
Shimuku2
 
 シムクガマには、ハワイ帰りの二人の日本人がいた。彼らは、米軍は国際法に従っているから捕虜を虐待などしないと説得し、投降することを薦めたのだ。
 
 このガマの中を流れる川は、洞窟の中を2000メートル以上も流れ、海にそそいでいる。
 
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隔年結果

2009年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
 柑橘類は、収穫後十分なケアをしないと隔年結果になってしまう。
 ようするに、ほっておいたら一年おきにしか実を結ばないということ。
 一昨年、豊作だったのを収穫したあとそのままほっておいたら、やはり昨年はろくな実を結ばなかった。
 「チッソ分の多い速効性の化成肥料」を「収穫後施肥」する必要があるらしいが、果樹園ではないので、自然のままでよいのでは、とも思っているのだが……。
 
 実を結ぶと、樹木はそうとう疲弊するらしい。
 
Sudachi1
 
 今年はたくさんの花が咲きはじめている。
 
Sudachi2
 
 蜜を求めて虫もたくさん来ている。
 昨日、金魚の水槽を庭で洗っていたら、大きな蜂に襲われそうになった。

 受粉もうまくいって、きっと豊作だろう。
 おつかれさまという意味でも、今年は施肥を行うことにしようか。

【リンク】酢橘

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12時、後楽園ホール

2009年05月10日 | スポーツ
 前日の昨日、神取忍氏の秘書から電話があって、新刊の発売日ということで、後楽園ホールで行われた女子プロレスの招待を受けた。
 神取氏は、国会議員であると同時に、現役のプロレスラーでもある。
 水道橋駅を出ると、この日は東京ドームでの野球の試合がデーゲームなので、けっこうな混雑だ。
 オレンジ色の応援グッズがちょろちょろとウザッたい。
 
5101
 
 神取忍著『技あり』を、まるで、荻窪タウンセブンの地下食品売り場みたいなかけ声で客寄せをやっている。
 しかし、開演前は、ほとんどの客はまず座席に直行で、立ち止まる人はあまりいない。
 
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 毎度のことだが、女子と侮ってはいけない。けっこうな迫力である。
 この日は場外乱闘あり、流血ありの、すさまじい試合だった。
 女子なんだが……。
 
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 セミファイナルのタッグマッチで、神取忍・ジャガー横田組は勝利。
 日曜日とあって家族連れが多く、「カンドリ、ガンバレー!」と子どもたちの声援しきり。
 今でもなかなかの人気である。
 
 招待客の中には聴覚障害の人も多数あった。
 あまり知られていないが、神取忍は障害者対策で政府と闘っているし、環境問題にもさまざまにかかわっている。
 福祉や教育への予算がカットされているこの時代に、障害者福祉への予算を取り込もうとしては蹴られている。
 まだ新人だから圧力はあまりないようだが、影響力が出て来たときには自民党からの反発が大きくなるだろう。
 この人は、自民党にいてはいけないと思う。
 爆弾は同じ威力なら中から爆発させた方が効果が大きい、というのが彼女の持論だが、次の公認はむずかしいだろう。
 
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 女子プロレス界きっての美形レスラー、井上貴子はヒールである。
 しかもけっこうえげつない。
 
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 試合が終わればサイン会、握手会。
 やっぱり神取の前は人だかりが一番多い。
 この日は本を買ってくれた人にサインと握手。
 おかげで本はたくさん売れた。
 
5106
 
 井上貴子サンとツーショットを撮って、オジサンうれしそうだ。
 ヒールでもリングを降りれば、にこやかにサービス。
 
 みんな一生懸命だし、プロレスが好きなんだと思う。
 神取を含めて、大儲けしてる人間は一人もいない。
 客を楽しませ、自分たちも楽しみ、それだけが女子プロレスだ。
 
 次は8月16日だそうだ。
 今度は家族で行ってみよう。
 
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金魚昇天

2009年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
Kingyo

 6年間生きた金魚が、今朝死んだ。
 (写真は元気なころのもの)
 2カ月ほど前、異様に体がふくらみ、ウロコが跳ね上がり、異常が起きたことには気づいていた。
 しかし、その対処法がわからず、近所の店で聞いても要領を得ない。
 それが松かさ病であることがわかり、治療を始めたのは数週間経ってからだった。
 気づいてすぐに対処すれば回復する可能性が高かったようだが、遅れてしまうと回復は不能とのこと。
 かわいそうなことをしてしまった。
 
 それでも諦めずに治療を続け、金魚はウロコが跳ねたまましばらくは頑張っていたのだけれど、次第に動きが鈍くなり、昨日とうとう横になってしまった。
 
 今朝起きた時には死んでいた。
 
 長く生きていたので、金魚とはいえ死ねば悲しいし淋しい。
 先ほど整理し終わって、水のない水槽をもとの位置に戻した。
 
 「いなくなっちゃったね」
 
 カミさんも淋しそうだった。


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出版記念パーティー

2009年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
 徳間書店から出版された、小宮ベーカー・純子さんの『オーラ13の魔法の法則』の出版記念パーティーに招待されて行ってきた。
 小宮ベーカーさんは、ご主人が英国人だもので、基本的にイギリス在住。しかし、頻繁に来日する。
 この本の念校を兼ねて、3月から来日していて、5月の下旬まで滞在する予定だ。
 その間、いつものことだけど、ご主人はイギリスで留守番である。
 
Juju01
 
 自由が丘の駅から5分ほどのところにある、英国風カフェ「セントクリストファーガーデン」に、午前11時半に着く。
 建物はおしゃれで美しいけれど、ぼくはこの手の店は苦手なのだ。
 招待状にはインフォーマルとあり、もっとも服装に困る。
 正装なら持ってないから断るし、カジュアルなら普段着で問題なしなのだが。
 めったに着ないスーツに、慣れない革靴で、それだけで疲れる。
 往きの電車の中で、前の座席に座った若い女性がじろじろと見る。
 やっぱり慣れないカッコをすると、どこか変なのだろうか、と気になる。

Juju02

 会場は奥の建物の2階。
 ドラマのロケにでも使えそうな雰囲気だ。
 
Juju03
 
 もともとは民家だったものを改築したのだろう。
 中庭には花が咲き乱れていた。
 今日は満月だそうで、ちょうど満月の時間が午後1時5分なのだとか。
 その時間に合わせ、みんなでいっせいに願い事などをする。
 そういうグループなのである。
 しょせん自然現象。ぼくにとっては、どうでもいい。
 自分以外に願い事はしないことにしている。
 
Juju04
 
 これで2人前である。
 ものすごく甘くて、とても食べきれない。
 周囲を見渡して完食した人は見当たらなかった。
 甘いのをいささか無理をして食べた最後のひとつが余分だったようで、気分が悪くなった。
 英国人はしょっちゅうこんなものを食べているのだろうか。
 絶対健康によくないと思う。
 
 
 “ああいう世界”の“そういう催し”がいくつかあって、2時過ぎにお開き。
 慣れない服装と甘過ぎる食べ物で、いささか閉口した。
 出版記念パーティーは、やっぱり居酒屋がいい。

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「朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争」

2009年05月08日 | 本と雑誌
Sensoshashin1
 
朝日新聞の秘蔵写真が語る戦争
朝日新聞「写真が語る戦争」取材班
朝日新聞出版

 この本は、朝日新聞に毎月一回、2006年7月から2009年3月まで連載されていた「写真が語る戦争」をまとめたもの。月一回だもので、見逃しているものもあり、また切り抜いて保存していなかったので、書籍化されたことは喜ばしい。
 
 このシリーズは、朝日新聞の大阪本社にある、通称「富士倉庫資料」に大量に保管されている写真から発掘したものだ。
 
 朝日新聞本社には、通称「富士倉庫資料」と呼ばれる大量の写真資料が保管されている。撮影時期は1931(昭和6)年の満州事変の前後から第2次世界大戦敗戦までの時代が中心で、アジア各地へ派遣された特派員の撮影や通信社からの配信による写真からなる。その総数は、7万枚に及ぶ。

 戦争中の日本では、新聞に掲載される写真は軍部による検閲を通過しなければならない。したがって、「掲載不許可」や「修整指示」が頻繁に行われ、当時は日の目を見ることがなかった写真が、この本意は掲載されている。軍部がどのようなところに目を光らせていたのか、興味深い。
 
Sensoshasin2

 こんな写真がある。
 戦地にいる兵士のための慰安を目的に、大阪の吉本興業が人気芸人たちを「わらわし隊」として戦地に派遣した。この写真は横山エンタツや花菱アチャコらスター芸人が、飛行機で上海から南京に入ったときのもの。
 軍の飛行士や銃の照準などを削除するよう指示がされている。「後に『週刊朝日』に掲載された際は、どちらも消し去られている」とあるが、どのように消したのか。現代のようにデジタル処理ができるわけではない。
 
Sensoshashin4
 
Sensoshashin3
 
 この二枚はスクープといえるものだ。
 両方とも南京事件の現場を撮影したもので、上の写真は中国で販売されている図録に掲載された写真で、東中野修道ら歴史改竄派によって合成だという主張も出ていた。
 
 下は神戸市の帰還兵士の家に保管されていたもので、子息が父親の遺品を整理していて見つけたというもの。
 子どもの頃に見せてもらった時にはネガもあったらしいが、それは現存していない。
 
 二枚の写真の赤枠で囲んだところの兵士を見て欲しい。
 この両方は同一人物とみられ、同じ時に別の角度から撮影したものだろう。
 科学的検証の結果、修正や合成の痕跡は見当たらないという。
 これは中国の図録に掲載された写真が、合成であるという歴史改竄派の主張を覆すものだ。

 保守論客の一人である秦郁彦氏によると、「……撮影日時や場所が特定できない以上、中国側が演技している場面を複数の角度から撮った写真だという可能性までは、排除できない。ただ、この時期の日本軍は内陸部へ退却する国民党軍を追撃する立場で、国民党側がこれだけの数の日本軍の軍服や帽子を入手するのは極めて困難だろう」と語る。
 すなわち、中国側の捏造の疑惑は薄いと、秦郁彦氏は語っている。

 従軍記者による写真だけでなく、戦時下の子どもたちや、銃後を守る女性らの姿も多く納められている。大変貴重な一冊だ。
  
 
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