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ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

潔し「通販生活」

2016年11月17日 | 日記
 「通販生活」という雑誌がある。知っている人は、この雑誌がただの買い物雑誌でないことをよくわかっている。がしかし、知らない人は存在そのものすら知らない。そういう雑誌だ。
 だいぶ前になるが、歴史学者の林博文教授を囲んだ集いがあって、その席上で、「通販生活」が憲法九条についてアンケートをとった話が出た(記憶に間違いなければ、林教授が記事を書いたとかなんとか……)。「通販生活」の影響力について語り合ったのだが、知ってる人のあいだでは評価が高かった反面、参加者の半数以上が存在を知らないか知っていてもほとんど読まれていないマイナーな雑誌だと思っていた。
 これほど評価が分かれる雑誌も珍しい。
 で、その「通販生活」が今年の夏号で、「自民党支持の読者の皆さん、今回ばかりは野党に一票、考えていただけませんか」という呼びかけで参院選特集を掲載した。
 もちろん、詳細なその理由も含めての記事なのだが、それに対して一部の読者から、政治色が強すぎる、買い物雑誌にふさわしくないなどの批判がよせられた。「左翼雑誌か」という意見もあったらしい。
 それに対して、冬号で批判への回答を掲載した。
 「買い物雑誌に政治を持ちこむな」という意見に対しては、暮らしのすべてが政治の影響を受けているとし、したがって、平和だからこそ買い物ができることを説く。
「お金もうけだけ考えて、政治の話には口をつぐむ企業にはなりたくないと考えます」と結んだ。
 「左翼雑誌か」という意見に対しては、「通販生活」のスタンスは、戦争と原発、沖縄差別は「まっぴら御免」だとした上で、「こんな『まっぴら』を左翼だとおっしゃるのなら、左翼でけっこうです」と答える。
「良質の商品を買いたいだけなのに、政治信条の違いで買えなくなるのが残念、と今後の購読を中止された方には、心からおわびいたします。永年のお買い物、本当にありがとうございました」と締め括った。
 じつに潔いではないか。
 この件は、東京新聞の11月10日付けで紹介された他、テレビのニュースにもなった。
 
 そいう自分は、過去に「通販生活」は購読していたのだが、購読料を払い忘れていたら送られて来なくなってしまった。定期購読の読み物が山ほどあって、とても手が回らないのでそのままになってしまっている。さて、継続を申し込むべきかどうか、少しだけ迷っている。
 
 先日、「アジア記者クラブ」のボランティアをしている女性が、「集団的自衛権反対」などのステッカーを貼ったバッグを持って、お孫さんを保育園に迎えにいったところ、母親の一人からステッカーを見とがめられ、「あなた、アカですか?」と言われたそうな。
 今時そんなこという人いるんだってビックリしたと言う。どうも日本人はレッテルを張って批判したり評価したりする傾向にある。人間にはさまざまな側面があることを認めようとしない。
 どんなによいことでも、それが自分と信条的に合わない人間が関わっていれば賛成できない、ということだ。どんなに良い品物でも、買わないということだ。実にくだらない。

崎山多美『うんじゅが、ナサキ』

2016年11月15日 | 日記


ご無沙汰しておりました。
ようやく、戻って参りました。
ずっと更新していなくて、先日所用で訪れた議員会館の廊下で、知り合いの国会議員から「ブログ、楽しく拝見させていただいてます」なんて声をかけられ、ヒジョーにこそばゆかった。(見え見えの社交辞令だ)

今日、入院中の友人とメールをやりとりしていて、「今すぐ更新しろ、責任をとれ」と脅され……いや、激励されて、たまたまネタもあったことだし、再開することにした。続くかどうか心配ではあるが。
まあ、発信するべきことが山ほどあったのに、多忙にかまけてずっとサボっていたことを気にはしていたのだ。

で、再開第1号は新刊紹介。出版人だから話の中心はやっぱり本の話になる。

崎山多美は沖縄在住の作家で、芥川賞候補にもなった実力派である。
この方、沖縄方言で小説を書く。
最初に出会った小説が、講談社文芸文庫の『現代沖縄文学選』に収録されていた「見えないマチからションカネーが」であった。全編沖縄方言で、なにがなにやら煙にまかれたみたいで最初さっぱりわからなかったのに、読んでいるうちにストーリーが見えてくる。
衝撃的なエンディングのその作品は、沖縄方言が何倍もの効果を発揮していた。

『うんじゅが、ナサキ』は、雑誌「すばる」掲載の、連作短編6作品を1冊にまとめたものである。
小さい薄っぺらな本だ。
この一連の作品は、沖縄国際大学教授の黒澤亜里子さんが、ゼミの教材として使っていると、沖縄発信の雑誌『けーし風』の特集記事で企画された座談会で紹介していた。
ぜひとも読みたかったのだが、2012年からぽつりぽつりと発表した作品を、「すばる」のバックナンバーで集めるのが一苦労だった。
特に、2013年の10月号は、Amazonの中古でとんでもない値段がついていて入手困難だった。
で、その一連の作品を中心に、「崎山多美作品集」を作ろうかと、水面下で出版社と話を進めていて、企画書を出すところまで行っていたのだけれど、他社から先に出されてしまった。本書のように150ページばかりの薄っぺらな本ではなく、ほうぼうにバラバラと掲載されているものを一堂に集めたかった。
「なんでこんな本にしちゃったんだろう」とちょっとがっかりした。

作品の内容まで語りきれなかったけれど、地べたに近い目線から、じわりじわりと沖縄の現実がしみてくる作品群である、とだけ言っておこう。
あ、ちなみに「うんじゅが、ナサキ」とは、標準語で言うと「あなたの情け」という意味らしい。
標準語にしてしまうと身もふたもない。

発行:花書院 B6判並製152ページ 1200円(+税)


『潜入盗測』完結記念シンポジウム

2016年02月28日 | 日記

 
 「盗撮」ではない、「盗測」である。誤解されそうなタイトルだ。
 
 「東京新聞」に出ていた小さな記事を目に止めて参加することにした。
 昨日の土曜日、明治大学の研究棟会議室である。第一会議室は研究棟の中で最も広く、50人くらいは入れるので、こんな本のシンポジウムにそんなに人が集まるのだろうかと思っていたら、いつのまにか満席近くなっていた。こういうものに興味を持つ人がけっこういることに驚く。
 
 「潜入盗測」とは、他国に潜入して極秘裏に測量し、侵略準備のための地図をつくってしまうことである。つまり、スパイ行為のひとつだ。
 まだ空撮技術も十分でなかった時代、日本軍がが未知の大陸に軍を進める際、地図(外邦図)は絶対必需であったはずだが、どのようにして作図したのか、これまであまりよくわかっていなかった。欧米ではかなり精巧な地図の存在が確認されていて、しかしそれらは極秘資料で、日本軍が容易に入手できるものではない。
 測量技師であった村上千代吉は、日露戦争当時から「潜入秘密即量」を命じられ、主に中国沿岸部の「盗測」を行った。作成された地図は、日中戦争が本格化してから、多大な力を発揮することになる。日本陸軍が南下して南京事件に至るまでの道筋は、村上の作成した地図にたよったところが大きいといわれる。
 
 今回出版された『潜入盗測』(全4巻)は牛越(李)国昭氏が、遺族から託された32冊の手帖と日記を分析し研究した成果である。手帖は、日露戦争末期の1905年から日中戦争が始まる(柳条湖事件)1931年までで、1932年から59歳で死亡する1938年までは日記として残されていた。
 
 「鉛筆書きの細かい字で綴られ、旧仮名づかい、カタカナまじりの文章で、しかも多分に自己流の崩し方の文字が市販のポケット手帳のページごとにびっしりと書き込まれていた」そうで、判読するのに大変苦労したとある。
 それにしても、大変重要かつ貴重な資料で、近代史の研究をしている人間なら手元においておきたいはずだ。しかし、……
 
 完成した本は、全4巻A5判平均500ページの大部で、村上が作成した地図は無論のこと、関連写真も紹介されている。したがって、定価は1冊あたり5,000円(税抜き)。セットでまともに購入すれば21,600円にもなる。これがそうそう売れるものでないことは一目でわかる。だから、何年後かに売り切り絶版になることは目に見えていて、そうなるとこの何倍もの値段になってますます入手しにくくなる。
 シンポジウム参加者には、これを15,000円で販売するという。さあ、どうしようか……
 
 シンポジウムでは手帳の持ち主である村上千代吉氏の孫、佐藤礼次さん、「外邦図」研究家の大阪大学名誉教授・大阪観光大学教授の小林茂氏、中国研究所理事長の杉山文彦氏が壇上に立ち、休憩をはさんで著者の牛越(李)国昭氏の話を聞く。
 余談だが、どうもこの方、時間の配分がへたくそで、レジュメの半分も話さないうちに時間を使いきってしまった。質問時間を省いて話を進めたがそれでも終わらない。なるほど、本が大部になるわけだと思った。
 
 小林氏からは「外邦図」の役割について、まったく未知の自分にも大変わかりやすい話が伺えた。
 中研の杉山氏は、琉球王国と中国・日本の関係について歴史歴な話をされたが、そのあたりはほとんど既知の内容であった。「古地図から判断すれば、尖閣諸島が日本固有の領土というにはいささか無理がある」、というのは同感。共産党までもが「尖閣諸島は日本固有の領土」などといっているが、客観的に見て無理がある。
 右派からは否定され、研究の不備な点は散見されるものの、井上清氏の『尖閣列島』(初版・現代評論社 復刊・第三書房)はかなり説得力がある。
 
 牛越(李)氏の講演は、冒頭の「外邦図」についての概略や村上千代吉の生い立ちなどについては面白かったけど、時間が足りなくなった後半は何がなんだかわからなくなった。ほとんど『潜入盗測』の一巻に書かれていることだそうなので、そちらを読むことにしたい。
 
 で、その買おうかどうしようか迷った『潜入盗測』(全4巻)だが、気づけば、カバンをパンパンに膨らませていた……。
 
 この手の本は、通読する気は毛頭ない。前書き・あとがきを読んだら目次に目を通し、興味深い個所だけ読む。どんなことが書かれているかをおおかた記憶して、必要が生じたときに、その個所を精読する。もちろん、「必要性」が生じないでずっと書棚の肥やしになることもある。それでもこうした資料性の高い書籍は手元に置いておきたい。図書館は往復する時間がもったいないし、必要な資料が揃っているとは限らない。杉並中央図書館は、都内でも有数の蔵書数を誇っているが、それでも見当たらないもののほうが多いのだ。
 
 カバンから出して書棚を見渡し呆然とした。
 さて、どこに置こう……?

「碧雲荘』移築

2016年02月17日 | 日記

 
 わが家から徒歩数分、杉並区天沼の日大三校通りから路地を荻窪駅方向に入って数十メートルの住宅街に、古びた和風の民家がある。もうぼろぼろで、住宅としては取り壊すしかないと思えるような建物だが、実は太宰治が最初の妻と1936年11月から翌年6月までの半年ほど暮らし、「人間失格」の原型とされる短編「HUMAN LOST」を執筆した家だという。
 土地は区が近隣の土地とともに福祉施設整備のために入手。建物を今年四月までに撤去しなければならず、保存か取り壊しかで議論されていた。
 それを、大分県湯布院町で旅館を営む女性が、移築費用全額を負担して引き受けてくれることになったと、今朝の新聞で知った。
 

 

 
  そんな由緒ある建物とは、ごく最近まで知らなかった。ずっとただの空家だと思っていたのだ。
  しかし、それを知った上であらためて観ると、100年の風雪に耐えてきた姿はそこはかとない威厳を感じる。
  杉並区内に残せなかったのは残念だが、歴史的建物が残されることは喜ばしい。


「ピケティ」齧られる

2016年02月09日 | 日記

 
 トマ・ピケティの『21世紀の資本』が鼠に齧られた。
 
 原稿の整理中、引用部分を確認すすつもりで脇に積んであった『21世紀の資本』を手に取ったら、カバーにキズがついている。
 「なんだ? どこかに引っ掛けたのかな」
 持ち歩いているとき、カバンの中でなにかに当ってキズがついたのかと思った。しかし、持ち歩いていた時は、カバーを外して中味に書店のカバーをかけていたからそんなはずはない。
 よく見ると、わずかだが中にもキズがある。「歯形? あ、鼠だ」
 
 実は昨年の秋頃に鼠さわぎがあった。筋向かいの家が改築して一部取り壊しになったものだから、そこを逃げて来た鼠が引っ越して来たのだろうと想像した。
 鼠除けを使ったり、通り道になりそうなところをふさいだり、食べ物を処分するなど対策を講じたら、ここしばらくは気配を感じなくなっていたのだが……。
 油断した。
 どうやらまた戻って来たらしい。
 
 アシのYに「小さい歯形がついてる」と話したら「かわい~い!」といって笑った。
 笑い事じゃない。
 トマ・ピケティの『21世紀の資本』は高価な本だから、かなり悔しい。
 
 なぜだかやられたのはこの1冊だけで、他の本はまったく無事だった。
 もしかしてこいつ、安倍晋三の化身かなにかで、ピケティが憎かったのだろうか。
 
 今日からまた、鼠よけの香を焚いておこう。
 そのうちに、みすず書房に頼んで新しいカバーを都合してもらおうと思う。

「安倍政治を許さない」栞

2016年02月03日 | 日記

 
 こんなものを作ってみた。
 先日、某出版社を訪ねたとき、そこの社長がカバンに下げ札のようにしてぶら下げているのを見たからだ。
「集会なんんかで、参加している人の持ち物に付けられているのを見ることはあるけど、街中では見かけないね」
 金子兜太さんのこの書は、ネットで日本中に出回って、安全保障法が成立しようとする昨年、国会をこの書のメッセージパネルが包囲した。
 オリジナルは白い紙に墨書されたものだが、「黒に白抜きもあったよ」と聞き、だったら、赤地に白抜きのをつくって、栞にしようと思い立った。自分は出版屋だし。
 赤は労働者の血の色(共産主義の象徴の赤旗はその意味がある)、怒りの色だ。
 持ち物に付ければ周囲の目にとまる。しかし自分の気持ちを持続させるには本の間にいつもはさんでおける栞がいいと思ったのだ。それに、友人や知り合いから「それは何だ?」と問われれば、そこから会話が始まる。
 JPGデータをフォトショップで手頃な大きさに縮小し、諧調を反転させて一旦黒地に白抜きのものを作る。それをダブルトーンで赤に変換させた。
 最初、丸いものにしようと思ったが、つくってみたら日の丸に見えたので四角にした。さりげなさが必要なので、通常の栞より小さめのサイズにする。
 A4判に8枚並べたデータを作成し、カラー出力する。それを裏表2枚に合紙して厚みを出す。さらに幅広の透明粘着テープで補強し、印刷部分を保護した。
 8枚の栞を切り離してパンチ(穴の大きさを変えられるものがいい)で3ミリほどの穴を空け、栞用のリボン(TOKYU HANDSの製本材料を売っているところにある)を適当な長さに切って取り付けた。
 こう書くとずいぶん面倒なようだけれど、ちょっと器用な人なら簡単にできる。データ制作からはじめて16枚つくるのに1時間ほどでできた。
 栞のリボンの代わりに古い携帯ストラップの紐にすれば、スマホに取り付けられるし、キーホルダーにもなる。
 つくってみてはいかがか。

元日「正午浅草」

2016年01月02日 | 日記

 
 「正午浅草」とは、永井荷風が晩年、日記『断腸亭日乗』に連日のように記した言葉だ。浅草六区のストリップ劇場に毎日足を運び、楽屋に入り浸った。
 
 今年は昨年秋に義母が他界したことで喪中の正月になり、祝い事は行わない。正月らしいことは何もしないので、外に出て家族で食事をしようということになった。ところが、子どもたちはそれぞれ所用で揃う時間が昼過までしかない。長女などは浅草まで言って戻ってくる時間はないという。では食事は近場で済ませて、浅草には長男を含めて3人で出かけることにした。
 正午過ぎに浅草に着いたが、まさか家族でロック座というわけにもいかないので、仲見世でも冷やかそうというわけである。
(ロック座は浅草六区にある老舗のストリップ劇場。ここから多くのコメディアンが飛び立って行った。東八郎、大宮敏充(デンスケ)、コント55号、などなど。ストリップの合間にコントが行われ、コメディアンたちが活躍した)
 
 想像を絶する人出だった。地下鉄銀座線の浅草駅で降りるともう既に人込み。地上は機動隊の規制が張られ、DJポリスまで出ていて、雷門をくぐるだけで長蛇の列だった。門の中に余裕ができないと、道路を渡って仲見世に入ることはできない。
 仲見世巡りが目的のひとつだったのだが、それはあきらめて、周辺を散策することにした。
 
 驚いたのは、外国人の何と多いこと。周囲から聞こえてくる言葉は中国語、韓国語、英語にフランス語、それと東南アジアからの観光客だろうか、よくわからない言語も混じる。中東から来たと思われる家族も見かけた。石油成金かよほど金持ちなんだろう。
 
 歩きかけたところでスマホを家に置き忘れていたことに気づいた。充電しっぱなしでバッグに移すのを失念していたのだ。だから、写真はすべて息子に撮らせた。
 
 

 玉ねぎの漬け物の専門店。ワインだの味噌だの考えられるさまざまなもので、漬けるのは玉ねぎだけ。麹漬けのタマネギがうまかったので買って帰った。
 

 
 ブラシ専門店には、タワシで作ったアートが飾られている。店頭に、タワシでできた親亀の上に子亀を乗せて、子亀の上に孫亀を乗せてあった。店内にはタワシのワニや亀やうさぎや豚などがところ狭しと並んでいたが、店員が睨みをきかしているので息子に写真を撮れとはいえなかった。
 もちろん、タワシだけではなく、高級品の化粧用から塗装、清掃用まで、さまざまなブラシがところ狭しと陳列されている。
 
 ベルトの専門店、ステージ衣装の専門店など、浅草ならではの店が並ぶ。
 人がたくさんたかっているのでなにかと思えば、ビッグダディーの店。客を何やらからかっているが何を売っているのかよくわからない店だ。

 浅草は観光地だから、ガイドに従って浅草寺を中心とした名所を回るのも良いけれど、よそではあまり見かけない店を冷やかして歩くのも面白い。
 家族三人、舟和でお茶をして四時頃に浅草をあとにする。来たときよりも人が増えていた。雷門の前がフェンスでさらに規制され、地下鉄の駅の方向にまっすぐ横断できなくなっていた。まるで国会前のデモ規制みたいだ。
 正月に出かけるのはよしたほうがいい。

鉄瓶壊れる

2015年12月14日 | 日記
 なにごともなし。
 とはいうものの、世の中は相変わらず騒がしい。 
 「インドと原子力協定締結」
 平和より経済優先。唯一の被爆国としての精神はどこへ行った。「アホノミクス」
 羽生結弦、世界記録でドヤ顔。実績を残した人間の、自然に現れたドヤ顔は納得。しかし表彰台で君が代を大口空けて歌うのには、「それってどうなの?」。
 土曜日は、近所の同級生が集まって同窓会。集まれば訃報と病気の話。年々喪中ハガキが増え、結婚式や誕生祝いの知らせが減る。
 しかし「安倍晋三に直接苦言を呈する人間はいないのかね」「あんな自民党になんで投票するんだろうね」と息巻く精力はおおせい。
 
 去年からせっかく使いはじめた鉄瓶が錆びて使い物にならなくなった。水を入れると内部の錆がぼろぼろとはがれ落ちる。ていねいに手入れをしながら使っていれば何十年でももったのだろうけれど、流しの下に何年も放置されていたものだから悲惨な状態になってしまった。もったいない。
 穴はあいていないから、内側を磨いてコーティングするなどの処理ができるのなら修理したい。
 
 さしあたって加湿用のケットルが必要なので、ネットで購入した。近所の雑貨店やスーパーに気に入ったものがなかったからだ。
 

 
 銅製である。ドーだ!
 事務所用なので、来客の目もあるからあまり家庭っぽすぎる安物は使えない。
 ご存知のように、薬缶とか急須のような、注ぎ口のあるものは思いのほか高価である。銅製のケットルなど、上を見れば数万円するものもざらだ。今回購入したのは、通常定価は万を越えるのだが、かなり安くなっていて上等のケットルと変わらない値段で購入できた。というよりも、安かったので買ったのだ。
 
 ただし、安いだけのことはあって、蓋の把っ手を留めるビスが木工用の丸ネジであったり、表面がキラキラすぎる。使い込めば味が出るのだろうか。
 お湯の沸くのは早いが、鉄瓶と違って冷めるのも早い。熱しやすく冷めやすい、誰のことだ?

今年は豊作

2015年12月06日 | 日記



 今年もゆずが色づいた。忙しくてほっておいたら、例年にない数の実が成っていた。
 そういえば、昨年は大きめだったが数がすこぶる少なかった。
 柑橘類は隔年結果性。つまり、一年おきに実が成ることになっている。結実すると木が疲れて翌年は実が成らなくなる。1年休ませると、また翌年実を付ける。
 

 
 数を正確に数えたわけではないが、ざっと1000個は越えているだろう。
 写真は収穫したほんの一部だ。まだそうとうな数が残っているが、12月中にはすべて収穫してしまわないと、木が疲弊する。
 
 収穫しながら伸び過ぎた枝を落とし、実を近所に配布した。
 ついでに、長野の妹の家にお裾分け、小ぶりの箱に入るだけ詰めて送った。

アーサー・ビナードさん講演会

2015年08月30日 | 日記

 
 28日金曜日、岩波書店の食堂で行われたアーサー・ビナードさんの講演会に出かける。誰でも参加ができるということだったが、岩波社員と出版関係者中心の、まあ内輪の講演会で30人くらいが参加した。
 彼の著作は多数あるが、有名なのは『ここが家だ ベン・シャーンの第五福竜丸』(集英社)。岩波からは『ガラガラヘビの味』(岩波少年文庫)、『3.11を心に刻んで』(岩波書店編集部編)などがある。主催が岩波新書編集部だったので、たぶん新書の企画が進行中なのだろう。
 日本にはもう25年いるそうで、達者な日本語と詩人らしい豊富なボキャブラリーを駆使して実に饒舌だ。しかし、奔放な性格らしくて、講演の承諾をとってから、当日になっても確認の連絡がとれず、本当に来てくれるのかどうか主催者をやきもきさせた。30分前に会場入りのはずが、予定時間を過ぎても現れない。まるでマイルス・デイビスだ。もっともマイルスのようにお気に入りのワインが手に入らなくて機嫌を損ねたというのではなく、ただの大雑把。
 
 この日は原爆を中心に、戦争で用いられる言葉について、彼なりの解釈を聞いた。
 演題は「カリフラワー雲とキノコ雲の狭間で」
 「カリフラワー雲」とは聞き慣れないが、ビナードさんにいわせると、原子雲はキノコの形には見えないそうだ。英語のmushuroom cloudを直訳したのでキノコ雲になったが、日本でキノコといえば椎茸や松茸で、原子雲とは似ても似つかないという。確かにそうだ。
 彼は、いろいろ考えた末、カリフラワーの形が近いことに気づいた。スーパーでカリフラワーを買って来て葉の部分を取り去り、モノクロで撮影したらものの見事に原子雲になった。それから彼は「キノコ雲」という言葉は使わないそうだ。
 「カリフラワー雲」が一般に広まらないのは、第一に語呂が悪いし、毒キノコはあるけれど、毒カリフラワーはないだろうかという。確かにそうだ。
 どうでもいい話だが、面白かった。
 
 原爆体験者の中には、原爆のことを「ピカ」と表現する人と「ピカドン」と表現する人がいる。この違いを知っているかと会場に問いかけたが、即答できる人はいなかった。「ピカ」が光で「ドン」が音だから、時間差で「ピカドン」と表現されたことはわかるし、一定の距離がなければ「ピカドン」とならないことは理解できるが「ピカ」だけで「ドン」がなくなることについてはうまく説明できない。
 この二つの言葉の違いは原爆を体験した地域差による。「ピカ」と表現するのは、爆心地近くにいた被爆体験者で、光を見た瞬間に意識を失い、音を聞くことがなかったからだという。爆心地から一定の距離をおいて体験した人だけが「ピカ」と「ドン」の両方を確認できた。それに、爆心地近くでは、音よりも光の衝撃がいかに大きかったかを物語る。
 
 すべてを紹介できないが、ビナードさんの突っ込みは、安倍首相の70年談話について「触れる価値もない」と批判しながら、「何の関わりもない私たちの子や孫に、謝罪をし続ける宿命を負わせたくない」とは全く誤りだと語る。戦争に関わった人間に育てられ、財産を築いたのだから「関わりがない」はずはない、だから戦争の罪は未来永劫忘れてはならないと語る。言葉足らずは否めなかったが、いいたいことはわかる。
 彼の突っ込みは今年の原爆の日祈念式典での広島市長の談話にまで及び、いずれも原爆の恐ろしさの印象を薄めようとしているかのようで恐ろしいと言った。
 
 すべてを紹介することはできないが、日本語に対するいささか乱暴な突っ込みもあった。最後のほうでメモをとり忘れたが、なにかの標語に「いえるかな 素直な一言 ありがとう」というのがあり、この中の「素直」という言葉が引っかかるという。英訳すると「obedient」。これは「服従」を意味するから、批判せずに言うことをきけ、黙って政府に従うような子どもに育てということになるからだそうだ。
 しかしこの論理は違うと思う。英語には日本語の「素直」に当る言葉はない。日本語の「素直」がイコール「服従」には当らない。「素」は何ものにも染まらないこと、「直」はまっすぐで曲のないこと。つまり素直とは、既成概念にとらわれずに物事を判断し行動するという意味だ。だからこの標語は、「どう思われるだろうか」とか「はずかしい」とか考えずに、感謝の気持ちがあったら、こだわりなく「ありがとう」といおうと言う意味だ。そこからコミュニケーションが育つ。
 日本語は表音文字の平仮名と表意文字の漢字で成り立っている。漢字の持つ意味を知らずに単語として英訳してしまうと誤りを犯しかねないのだ。
 反論しようと思ったが時間がないのでやめた。
 
 彼の論理は基本的に、言葉を英訳してそこから日本語を解析し、自分の論理を組み立てるところにある。眼から鱗の話も多々あったが、気をつけないと暴走しかねない。
 
 しかし、何はともあれ面白かった。

「アベ政治を許さない」

2015年07月09日 | 日記
澤地久枝さんの呼びかけ。

アベ政治を許さない!!

7月18日(土)午後1時きっかり
同じポスターを全国一斉にかかげよう



(小さい画像クリックで拡大)

https://sites.google.com/site/hisaesawachi/

みんなで掲げりゃ怖くない!

バッシ~高円寺~壊れた眼鏡

2015年05月02日 | 日記
 朝9時半に、総合東京病院に行く。
 抜糸のためである。バッシである。
 歯を抜くのと同じ音であるのはいただけない。間違って歯を抜かれたらどうする。(そんなことはない)
 
 なんと、13針も縫ってあったそうだ。いつのまに!? なんでこんなところまで、という個所もあったらしい。
 糸を取り除いてもらったら、急にもとに戻った感じで爽快な気分になった。
 抜糸の代金230円なり。会計を待っているあいだ、ほかの患者も70円とか150円とか。この病院、ずいぶん安くないか?
 この病院は、送迎バスが出ている。沼袋ルート,野方ルート、練馬ルートなどなど、かなり親切である。運転手の人件費もかかるだろうし、経営的に大丈夫なのだろうか。
 

 
 で、送迎バスの高円寺ルートに乗り、10分ほどで高円寺駅に着く。ついでなので、久しぶりに高円寺を散策する。残念ながら開店時間の遅い古本屋は11時前にはまだどこも営業していなかった。都丸書店など、午後1時からだ。しかも、月、木、金、土の週4日しか店を開かない。
 高円寺と言えば、月9のドラマ「ようこそ、わが家へ」は高円寺が舞台だ。「円タウン」などという、まるで岩井俊二監督の「スワロウテイル」に出てくる架空の町の名前をパクったみたいなタウン誌はもちろん存在しない。もちろん、沢尻エリカみたいに美形の記者がうろうろしているはずもない。いるのは最近とみに増えた外国人旅行者ばかりだ。
 日本はゴールデンウィークだけれども、外国は違うはずなんだが……。
 

 
 まずは、純情商店街に侵入。ねじめ正一の小説で有名な商店街で、入口の看板こそ立派だが、そんなに大きな商店街ではない。むしろ、情けないくらい小さい。もともと、あった商店街ではなくて、小説に書かれていたあたりの商店街に、後づけでネーミングしたものだ。だから、小説に出てくる鰹節屋など端から存在しない。
 
 
 
 むしろ隣接する中通商店街の方が規模が大きい。中通商店街を阿佐ヶ谷方向に進んだ左側に、沖縄料理の「抱瓶」がある。
 純情商店街も中通商店街も特に収穫なし。北口にまわる。
 

 
 pal商店街は阿佐ヶ谷のパールセンターと並んで、実に充実した商店街である。中学や高校の頃は、欲しいものがあると友だち何人かでつるんで買い物をした。
 いずれの商店街もそうだが、めまぐるしく閉店開店があって、昔からの店がどんどんなくなっていく。とくに飲食店は出入りが激しい。そんな中で 最近進出してきたのだろう。いかにも「こだわりの店だ、食いに来い!」とでも言いたげなラーメン屋の看板があった。
 

 
 いつも不思議に思うのだが、こういった「こだわりの店」的なラーメン屋の店長は、なぜ格闘技の選手みたいなポーズで写真に写りたがるんだろう。 
 
 約1時間ぶらぶらしたが、結局何の収穫もなく、思い立って荻窪の「眼鏡市場」に行く。
 

 
 先日自転車で転倒して、ケガの原因になったのがこの眼鏡だ。倒れた拍子に眼鏡フレームで額を大きく切った。でもって、眼鏡も大破した。
 やむをえず、室内用の眼鏡で外出もしているので、遠くが見えにくい。早急に作り直す必要があった。
 以前、別の眼鏡屋に行ったら、検眼がへたくそでなかなかあわせられない。それを人のせいにして「これ以上は視力を上げることはできませんねえ」と抜かした上に、いかにも「もう年だから諦めろ」的なことを言われた。しかし、荻窪の眼鏡市場は実にていねいで、これまでよりもすっきり見えそうな感じで期待が持てる。
 何の加工もしなければその場で作ってもらえるのだけれど、諸処の事情から薄く色をつけてもらっている。そのために完成まで1週間かかるそうだ。
 
 酔っぱらって転んだだけなのに、ずいぶん高いものについてしまった。
 
 

うっとうしい…

2015年04月30日 | 日記
 ようやく、大げさなガーゼはとれたけれど、縫合してある糸がつれて、実にうっとうしい。
 

 
 こんな(写真)状態で縫合したところが、顔の右半分を中心に目の上、鼻や口の周囲など十数か所。(4針くらいかと思っていた)
 これがちょっと顔を動かすたびにヒッツレて気になる。集中力がそがれて原稿にも身が入らないし読書も集中できない。
 いやはやなんとも……。
 
 仕事はたまっているので、とにかくできるペースでやるしかない。
 アシのYはちょうど仕事の狭間で、東京ドームに野球を観に行ってしまった。いなくなると緊張感まで失せる。
 
 明後日は抜糸の予定なのだけれど、それまでの2日間を考えると苛立たしい。
 自分で撒いた種とはいうものの、ケガをするというのはろくなことではない。

五社英雄監督『三匹の侍』

2015年04月29日 | 日記
 1964年の映画、五社英雄監督『三匹の侍』を観る。もちろん録画で、当然リアルタイムでも観ている。それ以来だから半世紀ぶりというわけ。
 

 
 『三匹の侍』はフジテレビの人気時代劇で、1963年から6シリーズ放送された。
 このドラマで画期的だったのは、立ち回りで効果音が加えられたことだ。現在の時代劇では当たり前のようになっているが、人が切られるシーンやものが突き刺さったりするときに「ズバッ!」「ビシュッ!」という音をシンクロさせ、驚異的な臨場感を生み出した。
 それまでの、いわゆる「シャンバラ」はせいぜい刀が触れ合う音が付けられているくらいで、肉を切り骨を断つ音はなかった。もちろん、実際に刀で人を切っても、あんな音はしない、だからこれは、五社監督の想像力の賜物だ。
 
 この効果音が話題になった当時、スタッフの苦労話が週刊誌などで紹介されたものだ。その時の記憶を辿るとこうだ。
 五社英雄は映像だけでしか表現できない立ち回りに、なんとか効果的なSE(サウンドエフェクト=効果音)を付けたいと考えた。
 発想のヒントになったのは漫画や劇画の擬音だそうだ。ものを切るときに「スパッ!」とか「ズバッ!」という表現があるが、実際にそんな音はしないのに誰もそれが変だと思わない。だったらテレビでそれができないだろうか、と。
 しかし、包丁で肉のかたまりを切ると、独特の感触はあるものの音にはならない。どんなにマイクを近づけても思うような音にはならなかった。河原で犬の死骸を刀で切ってみたこともあったそうだ。肉のかたまりよりは手応えがあったが、しかし音にはならない。
 あるとき、家で奥さんがキャベツを切っている時の音を耳にした。
 「それだっ!」
 キャベツを切る時の「ザクッ」という音が、刀で突き刺す時の音にぴったりだと感じた。
 試行錯誤の末、布袋に野菜くずをぎっしりと入れ、その中にマイクを仕込み、外から大工道具のノミで突き刺してみた。刺す角度や速度、強さなどいろいろ試して後は録音したテープの速度を変えたりして、ようやく出来上がったそうである。現在ならコンピューターで何の苦労もなくできることなのだが、なにもかもアナログの時代では、想像を絶する苦労があったのだ。
 
 苦労と言えば番組作りも大変だった。『三匹の侍』がはじまった1963年当時、ようやくドラマがVTRで作られるようになったばかりだった。
 それまではなんと、ドラマも生本番だった。『三匹の侍』より5年ほど前にNHKで放送された『事件記者』というドラマは、はじめの頃は30分枠でほとんどスタジオでの生放送だった。出演者が小道具を忘れたり台詞を間違えたり、視聴者にはわからないトラブルが山ほどあったという。
 山田吾一に園井啓介が「あれ、胸に花なんか差してどうしたの?」と言わなければならないのに、山田吾一は花を忘れてカメラの前に出てしまった。園井啓介は一瞬慌てたが「あれ、いいネクタイしてるね、どうしたの?」と台詞を変えた。ところがそれはいつものよれよれネクタイで「いやあ、今日は僕の誕生日でね」という台詞が引きつったそうだ。
 
 VTRの黎明期は、レコーダー1台が当時の価格で1千5百万円くらいした。今なら億単位だ。録画テープは2インチ幅のオープンリールで、ものすごく高価だった。編集スタジオのゴミ箱に捨ててあった数十センチの切れ端を「これもらっていい?」と聞いたことがあった。「捨ててあるんじゃない、つなげてまた使うんだ」と言われ、手にした数十センチで七千円位するともいわれた。
 だから、VTRで制作されても番組を保存しておくという発想はなかった。あくまでも制作するだけに使われ、放送が終わったら別の番組に上書きされていたのである。だから、『三匹の侍』も6シリーズのうち前半の3シリーズは残されていない。
 

 
 リアルタイムで観ていた人の多くが、三匹の侍といえば丹波哲郎、平幹二朗、長門勇が印象に残っていることだろう。しかし、丹波哲郎が主演で出ていたのは最初のシリーズだけで、第2シリーズからは『人間の条件』で一躍スターの仲間入りをした加藤剛が入り、リーダー格は平幹二朗になった。加藤にとっては初めての殺陣だった。はじめのうちはどうにもぎくしゃくしていたが、回を追うごとに上達していった。加藤剛という人は現場で腕を磨いていった人の典型だ。
 
 『三匹の侍』は白黒テレビが大多数を占めていた時代の、最高視聴率42%を記録した大ヒットドラマである。当時の新聞のラテ面を見ると、カラー放送の場合はわざわざ「カラー」と表示されていた。
 五社英雄はこの実績がありながら銃刀法違反で逮捕されるなど、ダーティーなイメージがつきまとった。