ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

上関の原発反対運動

2011年08月10日 | 旅行記
 8月6日から8日にかけて、広島-祝島-上関と回ってきた。
 
 山口県の南西にある上関(かみのせき)では、計画から30年以上も反対派と推進派のせめぎ合いが続いている。しかし、3.11の福島原発事故で安全神話が崩れ、上関では街ぐるみの反対運動に発展した。
 
00hiroshima01

 66年目のヒロシマ。
 
01hiroshima02
 
 66年目の被爆アオギリ。わきの二世も成長していた。
 
Bangai01
 
 腹ごしらえに入った平和公園近くの食堂。メニューはこれだけ。しかも「日曜日なので一品料理はない」という。それにしても安い。
 
Bangai02
 
 280円のうどん。見栄えはともかくうまかった。
 
Bangai03
 
 足りないと言ったら出てきたカレー。あふれている。たしか180円だったか。物価だけなら数十年前のまま停滞している。
 
Bangai04
 
 上関に向かう電車の中。どこもかしこも赤ヘル一色だ。今年は53年ぶりに原爆の日にプロ野球の公式戦が行われた。しかしカープは負け。勝たせればいいものを原巨人は空気を読めない。
 
Bangai05
 
 岩国。初めてホームに降り立った駅。かつては海軍で栄えた軍港の街も過疎の嵐が襲う。
 
Bangai06
 
 錦川鉄道の観光列車。東京近郊ではほとんど見かけなくなったディーゼルエンジンの気動車だ。
 
Bangai07
Bangai08
 
 柳井港駅。まるで映画のワンシーンのような駅だ。ここから祝島への船に乗る。
 
Bangai09
 
 金魚提灯祭りだそうだ。いたるところに金魚をかたどった提灯が下がる。どんな祭りかはわからない。
 
Iwaishima01
 
 祝島に向かう船。小さいが乗り心地はよかった。
 
Iwaishima02
 
 祝島に上陸するとすぐ、「原発絶対反対」の看板が目に飛び込んでくる。原発は祝い島ではなく、目の前の上関町長島に計画されているのだが、いつも原発を目にして暮らさなければならないのは、上関ではなく祝島の住民である。
 
Iwaishima03
 
 島内の道は坂道が多く狭い。大きな車は通れないので、交通手段は軽トラックである。特にこんな耕耘機が荷物運びに活躍している。
 
Iwaishima04
 
 島の「自動販売機」。カボチャと芋が置いてあった。缶に200円入れて勝手に持っていく。このほかにクーラーボックスに入ったモズクもあった。
 
Iwaishima05Iwaishima06
 
 この島の名勝「塗り土塀」。台風など、強風から家を守るために屋根は低く重い土塀が周囲を囲む。

Iwaishima08
 
 祝島唯一の小学校。かつては中学校との併校だったが、現在は小学校のみ。
 
Iwaishima09
 
 広い校庭に原発交付金で建てられた立派な校舎。しかし、生徒数は全校合わせて7名。東北からの避難者を受け入れるまでは生徒数2名だった。
 
Iwaishima10
 
 校庭から上関町長島を望む。正面やや左寄りが原発建設予定地だ。ここが完成すれば、祝島の人々は日々原発を目の前にして暮らすことになる。
 
Iwaishima11
 
 案内をしてくれた上関町議会議員清水敏保さん。
 
Iwaishima12
 
 海上に転々と浮かぶ黄色いブイの内側は中国電力によって漁業権が買い取られている。ここを埋め立て、施設を建設する。この中に入ると一日罰金500万円だと主張しているそうだ。「無断駐車1万円」みたいで非常に幼稚な感じがする。
 
Iwaishima13
 
 まだ十分住めそうな空家。過疎の象徴だ。
 
Iwaishima14
 
 戦国時代の砦のような豪邸もあった。近づくと矢で射られそうだ。
 
Iwaishima15Iwaishima16
 
 島に電気は来ているが、ガス水道はない。井戸とプロパンガスがライフラインの一角を担う。
 
Iwiaishima17
 
 観光客用にレンタサイクルを始めたそうだ。しかし、この島で自転車はきついと思う。
 
Iwaishima18
 
 ちょっと何か買おうにも店がない。しかも日曜日は基本的にどこも休みだそうである。町議会議員の清水さんが無理に頼んで店を開けてくれた。
 
Bangai10
 
 道ばたに落ちて朽ちた草刈り鎌。東京では考えられない。
 
Bangai11
 
 海岸の溝に落ちて泣いていた生まれたての猫。親猫がくわえてきたのだろうか。同行のOさんが東京まで連れて帰った。
 
 Kaminoseki01
 
 祝島を離れ、上関の原発工事現場に向かう。
 
Kamonoseki02
 
 道路脇に、原発推進派の立て看板。「妨害」する人は上関に来るなだと。看板が新しいところを見ると、3.11以降に建てたものか。推進派の焦りが感じられる。
 
Kamonoseki03Kamonoseki04
 
 山に入るといたるところに「立ち入り禁止」の札が目につく。
 
Kamonoseki05
 
 原発建設予定地の田の浦海岸は現在領有権を巡って係争中である。中国電力は立ち入り禁止にしているが、反対派の主張ではまだ公共の場である。
 
Kamonoseki06Kamonoseki07
 
 団結小屋。3.11以降工事が止まっているので、今は一休み。
 
Kamonoseki08
 
 団結小屋から先は、まるで獣道のような急坂を海岸まで下っていく。その途中にある反対派の監視小屋だが、工事が停止しているので、誰もいなかった。
 
Kamonoseki09Kamonoseki10
 
 田ノ浦海岸の工事現場。立ち入り禁止となっているが、かまわず入った。山を削り、環境を破壊しながら進められた工事の傷跡が生々しい。しかしやがて、ユンボも錆び付いていくだろう。
 
Kamonoseki11
 
 フェンス際を走る高圧線ケーブル。土木工事に高圧電流が必要なわけないので、脅しである。
 
Kamonoseki12
 
 この美しい海岸も、ほっておけば埋め立てられる。
 
Kamonoseki13
 
 どこかにセンサーが仕掛けてあるのだろう。すぐに立ち退けと、スピーカーががなり立てた。もめ事は面倒なので、みんなで記念撮影をして早々に立ち退く。
 
Kamonoseki14
 
 降りてくるときにイヤな感じがしたのだが、日頃の運動不足がたたって延々と続く急坂に膝と腰が悲鳴を上げた。
 気温は35度近い。ズボンまで汗びっしょりになり、2キロぐらい減量できた気がした。
 
Kamonoseki15
 
 帰りの途中、中国電力のPR施設の「海来館(みらいかん)」に立ち寄る。閉館中の東電「電力館」とは比較するべくもないが、充実とはほど遠い。
 それでも3階建ての最上階には原発「安全宣伝」コーナーがあり、こりもせずに嘘八百が並べられている。
 原子炉格納容器の壁を切り取ったものや、鉄筋の一部、配管のパイプの肉厚などを誇示していたが、短く小さくカットされているので厚く太く見える。
 しかし、巨大な原子炉格納容器の鉄板の厚さが17センチ程度では爆発には耐えられない。
 「こんなに厚いから大丈夫です」といいたいのだろうが、広島に投下された原爆は、爆風だけで鋼鉄の橋桁を飴のようにひん曲げた。
 原爆に換算すると数十倍の核燃料を閉じ込める格納容器は、あくまで事故を起こさないことが前提なのである。事故が起きたらひとたまりもない。
 
 上関原発が計画されたのは今から30年前。30年経ってようやく地ならしが始まった程度にまでしか進んでいない。反対派の努力があってこそだ。3.11以降、町民の多くが反対に回り、推進派の勢力は急速に弱まった。
 これまで隠し続けてきた原発利権の仕組みや、交付金の不可解な流れが一気に暴露され、「飴と鞭の構図」が住民に知らしめられつつある。
 世界中の世論にも後押しされて、2、3年後には中止になるだろう。
 
 住民の反対で中止に追い込まれた原発計画は、住民投票で話題になった新潟県西蒲原郡巻町の巻原発が有名だが、そのほかにいくつもある。
 一時的な交付金に目がくらんだ地元業者のだましに、住民が気づけば原発立地は成り立たなくなるのだ。
 
 ◆毒まんじゅうの仕組み
 交付金は、計画が決まるとすぐに毎年一定の金額が交付されるが、原発が完成して稼働すると交付金はなくなる。労働機会が増えて法人税の収入が自治体に落ちるからという理由からだ。
 しかし、不要な箱ものの建設に金を使ってしまった自治体は、交付金で地元を活性化することができていない。交付金が止まれば元の木阿弥である。そこで、一度原発を受け入れてしまうと、次々に誘致し続けなければならなくなる。福井県の原発銀座が例である。
 やがて、これまで農業などで生計を立てていた住民は、収入のいい原発で働くようになって、原発なしではやっていけない自治体になってしまう。当然地場産業は衰退して、街の個性は失われる。
 これが、毒まんじゅうたる所以である。
 
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沖縄番外編 豚の顔/ソーキそば

2009年05月26日 | 旅行記
Butanokao1

 旭橋の居酒屋。
 
Butanokao2
 
 塩味、醤油味、甘醤油があり、これは醤油味。1500円。
 大きいのでアシのYと半分ずつ分ける。
 長女のお気に入り。残りの半面をほとんど一人で食べた。

 Sohkisoba1
 
 つい、写真を撮る前に箸をつけてしまった。
 ソーキそばにジューシー(混ぜご飯)付で550円。安い!
 
Sohkisoba2
 
 高江からの帰り道で寄った、うまいと評判のそば屋。
 お世辞にもきれいな店ではないが、味は絶品だった。
 700円。
 肉の骨まで軟らかい。
 やっぱり撮る前に箸を付けてしまった。

 ソーキそばは、国際通りにうまい店があったのだが、今回は立ち寄れなかった。

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沖縄6 5.15平和行進/平和とくらしを守る県民大会

2009年05月24日 | 旅行記
 1972年5月15日、沖縄は米軍基地を残し、施政権だけが日本に返還された。
 「核抜き本土並み」とはいうものの、返還後は日本がアメリカの軍事行動を支持することもあり得るという、事前協議が行われていた。
 基地なし返還でなければ意味がないとの沖縄住民の願いは、形だけの返還を急ぐ佐藤政権によって無視された形だ。
 それが、日本中の米軍基地の75%が沖縄に集中するいまの現実を作り出している。
 
Hsukai2
 
 返還から37年目の今年5月15日、米軍基地撤廃をもとめて、県内三カ所から平和行進が行われた。
 名護、本部(もとぶ)、那覇の3コースに分かれて出発した平和行進は、宮古、八重山を会わせると3日間で述べ7,181人が参加した。
 3日目の17日に開催された県民大会は、真夏を思わす炎天下、平和行進参加者に県内外の平和団体が加わり、平和行進のゴールでもある沖縄コンベンションセンターに3,500人以上が集まっておこなわれた。
 
 予定より1時間遅れの午後4時過ぎ。平和行進は3コースに分かれて灼熱の太陽と右翼の妨害にもめげずに、続々ゴールイン。
 
Shukai3
 
 米軍基地撤退に向けて「ガンバロウ」のシュプレッヒコールで気勢を上げる3,500人の参加者。
 
Shukai1
 

 安次富浩さん、伊佐信次さんらが壇上から反対闘争の現状を報告し、糸数慶子参議院議員をはじめ、県選出の国会議員が次々に壇上に上がって激励の挨拶を行った。
 
 沖縄の米軍基地は、日本が莫大な税金をかけて海兵隊をグアムに移転させるものの、実質は基地の縮小につながらず、それどころか、新たな基地の建設で一層県民の負担が大きくなることがわかっている。
 
 (沖縄報告はこれで一旦終了します)
 
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沖縄5 象の檻跡/大田元知事

2009年05月23日 | 旅行記
Yomitan1
 
 読谷村の楚辺通信所跡地で知花昌一さんと待ち合わせる。
 ここはかつて、巨大な檻を思わせる通信施設があったところで、アメリカの占領を象徴する施設として有名だった。
 
Yomitan2
 
 この写真は今から7年前、2002年の3月に撮影したもの。
 この通信施設はキャンプ・ハンセン内に移設されることになって、移転が完了した2006年12月に敷地は日本に全面返還された。
 2007年6月には、すべてが撤去されている。
 知花さんによると、新しい通信施設は、「象の檻」といわれたような鉄塔群は存在せず、コンパクトでより高性能の設備だという。
 
Yomitan3
 
 知花さんはこの通信所の土地の一部を所有する反戦地主だ。
 長年、この土地の返還に向けて日米両政府を相手に闘ってきた。
 写真は、航空写真を広げ、自身の所有地を示す知花さん。
 
Yomitan4
 
 残波海岸での昼食のとき、三線を出して弾き語りを聴かせてくれた。
 本来はライブハウスでなければ聞くことはできないのだが、好意で演奏してくれたのだ。
 もちろん、こっそり録音してある。
 
 この後、大田昌秀元知事の大田平和総合研究所に向かう。
 泡盛とコニャック、それにたっぷりの沖縄料理で迎えられ、話が弾んだ。

Ohta

 初代県知事の屋良朝苗さんのこと、「沖縄の歴史」をまとめた比嘉春潮さんのこと、基地のこと、県政のこと。
 録音しておかなければならないほどのすばらしい内容の話だったのに、なぜか録音機を車の中に置いたままホテルの駐車場に入れて来てしまった。
 大失敗である。
 「また、いつでもいらっしゃい」
 といわれたので、また出かけるか。
 
 話が弾み、ホテルに戻ったのは深夜だった。
 
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沖縄4 ひめゆりの塔~健児の塔

2009年05月22日 | 旅行記
 今回、南の方を回る予定はなかったのだが、時間が空いたので南部の戦跡を回ることにした。
 那覇のホテルから小一時間かかるとフロントに脅されたが、これまでの体験上そんなにかかるはずはないと、勝手に思い込んで車に乗り込む。
 
 小一時間どころか、30分で着いた。
 道がすばらしくよくなっていて、とても走りやすかったのだ。
 
Himeyuri1jpg
 
 ひめゆりの塔は、井原第三外科壕跡の上に建てられている。
 正面の大きな碑は1974年に建てられたもので、戦争直後に建てられた碑は右端に残されている。
 
Himeyuri2
 
 この小さな碑は、1946年、遺族によって建てられたもの。
 
Himeyuri3
 
 資料館は、前回来たときからリニュアルされて、実に立派になり、展示も充実している。
 資料館内に、壕の内部から外をながめるようにしつらえた施設があり、上を見ると外が見えている。
 資料館内で地下に降りたところはなかったのに、どういう構造になっているのかと不思議に思っているとき、奇しくもひめゆりの生存者の一人、宮城喜久子さんにお会いした。
 
 「お久しぶりです」
 「おやおや、東京から?」
 「はい」
 
 「ああ、これはレプリカですよ」
 「え? ずいぶんみごとですねえ」
 「こんな壕の中に負傷者を担いで出入りしたんですか」
 「いいえ。負傷した人は入れません。ここには100人くらいの医者と看護婦がいただけです。治療なんかできません。だいいち、包帯も薬もないんですから」
 「じゃあ、ここは医者と看護婦が退避していた壕なんですか」
 「病院壕なんて名ばかりですよ」
 
 何人もの負傷者を抱えて四苦八苦していたのは緒戦の頃の話。戦況が悪化してからは、米軍の攻撃から身を守るための壕になっていった。
 しかし、この第三外科壕は、米軍のガス弾の攻撃を受け、中にいたほとんどが亡くなった。
 
 *参考=『沖縄戦の全女子学徒隊』青春を語る会編 フォレスト発行 琉球新報社発売(地方小扱)
 
Kennji1
 
 ひめゆりの塔にほど近い場所に、「健児の塔」がある。
 健児の塔は、鉄血勤皇隊として戦場に駆り出され、短い生涯を終えた少年たちの慰霊碑である。
 鉄血勤皇隊は、ひめゆりと同じ10代の少年たちだが、一般にはひめゆりほど知られていない。
 それを裏付けるように、かつてはあったのだろう記念品売り場はシャッターが下ろされ、ひめゆりと比較しても寂しいかぎりである。
 
 やはり、少年よりも少女の方が悲劇性があるからだろうかと、いささかひがんでしまう。
 
 さまざまな理由から遺族や生存者の、しっかりした組織化と活動ができなかったからだろう。
 元沖縄県知事の大田昌秀さんは、鉄血勤皇隊員としての体験がある。
 大田さんは当時19歳で、中では年長だったため、小銃や手榴弾を手渡されたが、若い隊員の多くには武器はなく、ほとんどが砲弾の飛び交う中を伝令や弾運びに使われた。
 
Kennji2
 
 沖縄戦では、数えで15歳以上(満年齢14歳)の男子はことごとく徴集されて、日本軍とともに闘った。
 天皇のために命を捧げることこそ男子の本懐であるという、皇民化教育の犠牲者である。
 
 *参考=『血であがなったもの』大田昌秀 那覇出版社
 
Ishiji1
 
 ひめゆりの塔からさらに4キロほど南に行ったところに、「平和の礎(いしじ)」と平和祈年資料館がある。
 平和の礎には、無数の黒い御影石に、約24万人の戦没者名が刻まれている。
 
Ishiji3
 
 ここには、日本人だけでなく、朝鮮人やアジアの人々、そして欧米人も含め、名前が判明している沖縄戦犠牲者のすべてが記録されている。
 
Ishiji2
 
 礎の向こうに見える赤瓦の建物が、県立平和祈年資料館。
 この資料館は大田県政時代に計画されたものだが、その後政権が保守に渡ってから展示内容に変更が加えられようとした。
 とくに、日本兵の残虐性を表現した展示物に手が加えられようとしたが、住民からの怒りの反発によって当初の予定通りの展示になったいきさつがある。
 
 この日はこの後、県民大会に参加する予定になっていたので、資料館までは見学する時間がなかった。

 リンク=「大田昌秀さんと『鉄血勤皇隊』」
 
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沖縄3 渡嘉敷島

2009年05月21日 | 旅行記
 渡嘉敷島に渡った日は、ちょうど梅雨入りで雨模様だった。
 前日までの猛暑がウソのように肌寒い。
 朝10時、那覇市の船着き場「とまりん」からフェリーで1時間10分である。
 夕方のフェリーで那覇に戻るつもりなので、3時間だけレンタカーを借りる。
 小さい島なので、一通りまわっても3時間で十分余裕がある。
 徒歩か自転車でと考えがちだが、ほとんどが山道なので、それは無謀だと、観光事務所で注意された。
 
 期待していた戦跡案内図は用意されていない。
 それに比べてダイビングスポットの案内はやたら詳しい。
 
 案内図にない戦跡と、注意を聞いて出発。
 
Tokashiki1
 
 「集団自決跡地」の碑は国立青少年交流の家の敷地内にあった。
 実際に「集団自決」があったのは、この碑の裏側だが、ハブが恐くて入れなかった。
 
Tokashiki2
 
 この獣道のような薮の隙間を降りたところにある。
 右に碑文の一部が見えるが、内容は酷いものである。
 
 「……米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は 「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である」として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで 親戚縁故が車座になり1ケの手榴弾に2、30名が集まった瞬間不気味な炸裂音は谷間にこだまし……」
 
 誰一人「祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした」人間などいない。
 ウソの情報で怯えきった悲壮な死だ。手榴弾では死にきれず、自分で死ぬことの出来ない年寄りも子どもを大人が殺し、大人たちは包丁や丸太で殺し合ったのが真実である。
 
Tokashiki2b
 
 「集団自決跡地」の碑は、このような扉の奥にある。
 知らなければ誰も気づかない。ハブよけのためのフェンスだと説明があるのだが、だったら碑の後ろに作ればいいものを、わざわざ碑を隠すように作られている。
 この島はどうも戦跡を隠したいような意図が見え隠れする。
 
Tokashiki7
 
 「集団自決跡地」とは好対照に、道路際の目立ったところにある「戦跡碑」。
 紹介するまでもないこちらの碑文は、曾野綾子選による。
 言わずもがなだ。
 
Tokashiki4
 
 沖縄は、本島、離島含めて多くの碑があり、1951年に建てられたこの「白玉之塔」はもっとも古い碑の一つだろう。
 
 「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。
 満6年忌を迎えた昭和26年3月28日、住民集団自決の現地北山(現青少年交流の家敷地近く)で、白玉之塔の除幕式と合同慰霊祭が行われ、戦没者(日本将兵81柱、軍人軍属92柱、防衛隊42柱、住民383柱)の御霊を島守りの神として仰ぎ祭られています。
 毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、本土や沖縄本島から遺族が参列して慰霊祭が催されています。
 昭和35年現地西山が軍用地に接収されたため、昭和37年4月19日現在のギズ山に移動し新しく建立されました」
           (渡嘉敷島ホームページ)
 
Tokashiki5
 
 この壕に隠されていた木製の特攻艇は、一隻も使われることはなく、日本兵自らの手で爆破された。
 特攻兵たちは攻撃もできず逃げ場も失い、全員が自決した。
 
Tokashiki6
 
 金網の脇から中に足を踏み入れ、中をのぞくと真っ暗だ。本島のガマのように奥深くはない小さな洞穴で、遺骨はもちろん遺品らしきものなど何も残っていなかったが、なにか異様な雰囲気があって奥まで入ることは躊躇してしまった。
 だいいち、中の様子が分からないと、狭いので頭をぶつけたり服を汚す覚悟がいる。
 次の機会には、誰か案内を頼んで同行してもらおう。
 
 何枚か写真を撮っているうちに、オーブが写り込んでいることに気づいた。
 最初は小さなのが一つ二つだったのに、この写真では壕の中から団体でこちらに向かって来ている。
 危険を感じてあわてて離れた。
 
 今回は本島がメインで、離島はついでだったので、案内を頼まなかった。
 次の機会には、慶良間諸島全域を回ってみたい。
 ボートをチャーターしなければならないだろう。
 
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沖縄2 辺野古から高江へ

2009年05月20日 | 旅行記
Henoko0
 
 これまで、沖縄の北の方に行くことはほとんどなかったので、基地の建設で揺れている辺野古や高江は初めての体験だ。
 那覇から高速道路を使って約1時間半ほどで辺野古の海岸につく。
 美しい海だ。
 ジュゴンが棲み、美しい珊瑚が海底を飾るこの海を埋め立て、米軍基地が建設されようとしているのだ。
 「このあたりにジュゴンはいない。エサを食べた食みあともない」
 臆病なジュゴンが調査船の音に驚いて身を隠してしまったことが理解できていない、初めに結論ありきの調査で、政府は強引に工事を進めている。
 
 町中にある危険な普天間飛行場を移転し、沖縄住民の負担を軽減することが目的だというが、環境を破壊し漁業にも影響が出る。
 
Henoko1_2

 ピースリボンがたくさん結びつけられた有刺鉄線の向こうは、キャンプ・シュワブ。
 総面積約20.63km?の広大な「アメリカ」が広がる。
 
Henoko2_2
 
 有刺鉄線の前で支援者に基地反対を訴える、「命を守る会・ヘリポート建設阻止協議会」代表世話人の安次富浩(あしとみ・ひろし)さん。
 
Henoko3_2
 
 安次富さんの好意で、ボートに乗せてもらった。
 「美しい海を肌で感じてもらいたいからね」と笑う。
 海の水はどこまでも透明だ。水中を泳ぐカラフルな魚や、ジュゴンが好んで食べると言われる藻がまるで手が届きそうなところに見える。
 背景はキャンプ・シュワブ。ここを埋め立てて軍事基地を作るなど、正気の沙汰ではない。
 
Takae1_2
 
 海から山に。
 高江は緑に囲まれたヤンバル(山原)にある。
 ヤンバルクイナ、ノグチゲラなど、絶滅危惧種が多数棲息する。
 ここに作られようとしているのは、垂直離着陸機を発着させるためのヘリパッドだ。
 米軍がここに配備しようとしている垂直離着陸機オスプレイは、非常に不安定な飛行機で、頻繁に事故を起こしている。
 プロペラが発着時には上を向き、飛行時には前を向くという構造上、操縦が非常に難しく、ちょっと強い横風でもあおられて墜落の危険がある。
 
Takae2_2
 
 現在でも15カ所あるこの危険な施設を、高江の集落を取り囲むように、新たに6カ所も建設されようとしているのだ。
 
Takae3_2
 
 沖縄を車で走っていると、基地のフェンスが見えないところはほとんどない。
 日米安全保障条約によって、日本の国内にある米軍基地の75%が沖縄に集中している。
 沖縄本島の地図に、米軍基地のある所を塗りつぶしていくと、ほとんど半分近くが埋まってしまう。
 
Takae4_2
 
 「基地がなくては生きていけない」という話が“常識”になってしまうほど、住民は日米の政府によってコントロールされてしまっている。
 しかし、元沖縄県知事の大田昌秀さんは、この米軍基地を活用すれば、基地から得られる経済効果の数倍が得られ、間違いなく沖縄は豊かになるという。
 その事実は、特定のだれかの利益のために妨害され消し去られ、住民には届きにくくなっている。

 *参考=『「アメとムチ」の構図』沖縄タイムス社
 *リンク=「アメとムチ」の構図
 
 
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沖縄1 チビチリガマとシムクガマ

2009年05月19日 | 旅行記
 15日から18日まで、沖縄に行ってきた。
 もちろん観光旅行ではないので、シュノーケルも水着も持っていかない。
 
 初日は知花昌一さんの案内で、象の檻(米軍通信施設)跡地やチビチリガマ、シムクガマを見て回った。
 知花さんは反戦地主として10年間、象の檻の所有地返還を求めて闘って来た。
 また、チビチリガマの「集団自決」犠牲者の遺族でもある。
 
Chibichiri5

 チビチリガマは今から30年前、絵本作家の下嶋哲朗さんによって発見された。それまでは、この場所にガマ(洞窟)があることすら、知られていなかった。
 *参考=下嶋哲朗『チビチリガマの集団自決』凱風社
 
Chibichiri2
 
 通常は入ることの出来ないガマの中に、知花さんの案内で特別に入れてもらった。
 散乱した遺骨は、後世に事実を伝えるためにそのままこの場所に残されている。
 入れ歯があった。
 成人男子は戦争にとられ、「自決」したのが年寄りと女性子どもばかりだったことが、残された遺品でわかる。
 
Chibichiri3
 
 これは櫛とコンパクトだ。きっと若い女性のものだったのだろう。
 
Chibichiri4
 
 飲料水をためておいたのか、空き瓶が一カ所にまとめられていた。
 これらの写真にあり、茶褐色の燃えさしのように見えるのは、皆遺骨だ。
 心ない訪問者の靴から守るために、近年立ち入り禁止になった。
 
Chibichiri6
 
 「ここでは85人の人が『自決』しています。他に言葉が見つからないので『自決』といいますが、最年少は生後4カ月です。そんな子どもが自決しますか?」
 入り口で、知花さんが初めて来た人にもわかるように、やさしく説明する。
 慰霊塔の上に、大きなオーブが現れた。(上方の丸い透明な浮遊物)
 
Shimuku1
 
 シムクガマは巨大なガマで、ここには約1000人が避難していたが、一人の「自決」者も出ていない。
 チビチリガマでは約140人が避難して、85名が「自決」して亡くなった。
 「鬼畜米英の捕虜になれば、女は強姦され、男は戦車でひき殺される」
 日本軍によってそう教え込まれた住民は、残虐に殺されることを怖れ、次々に命を絶った。
 
Shimuku2
 
 シムクガマには、ハワイ帰りの二人の日本人がいた。彼らは、米軍は国際法に従っているから捕虜を虐待などしないと説得し、投降することを薦めたのだ。
 
 このガマの中を流れる川は、洞窟の中を2000メートル以上も流れ、海にそそいでいる。
 
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