
今日は埼玉県行田市まで取材に行ってきました。埼玉県の北のはずれ、利根川を越えれば群馬県です。
取材相手は日曜日の9条の会でお目にかかった金子安次さんと同じ、アジア太平洋戦争で中国の捕虜になり、軍事裁判で不起訴の後に帰国した人です。
子どもの頃からの軍国少年で、早く兵隊に行きたくてしょうがなかったそうです。徴兵検査は第一乙種合格。もう少し身長があれば甲種合格だったそうですが、第一乙種はほとんど甲種と同等の扱いだったそうです。
しかし、実際に兵隊になってみると、憧れていた軍隊生活とは大違い。厳しい訓練とビンタの嵐。
それでも出世したくて、命令される以上に率先してなんでもやり、最終的には曹長まで上り詰めました。
家が貧しくて上級の学校に行けなかったため、出世はそこまで。軍隊も学歴社会だったのです。
●16年目の花嫁
出征前の鈴木さんには結婚を約束した女性がいました。しかし、自分はこれから戦争に行くのでどうなるかわからないからと、結婚はしませんでした。
ほんとうはどうなるかわからない、でも、必ず生きて帰ってくる、そう信じて彼女は鈴木さんを送り出しました。
兵隊になった鈴木さんは、数カ月で中国大陸へ。それから敗戦までの5年間、中国大陸を転戦します。
敗戦は上官から伝えられました。したがって、内地の人々のように天皇の放送、いわゆる「玉音放送」は聞いていません。
鈴木さんはほっとしました。これで日本に帰れる。
鈴木さんは進軍してきたソ連軍の手引きで、日本に向かうはずの船に乗り込みます。
しかし、どうもおかしい。船は東ではなく、北へ北へと向かっています。
ついたところは、なんとウラジオストック。ソ連です。
鈴木さんはシベリアの収容所で木材伐採の重労働を課せられました。ここで、6割の仲間が亡くなりました。
5年間を過酷なシベリアで過ごした鈴木さんは、建国間もない中華人民共和国に送還されます。
シベリアとはまったく違い。食事も衛生状態もすばらしいものでしたが、鈴木さんたち捕虜は素直にそれを受け入れられません。「おれたちはもうすぐ死刑になる。だからうまいものを食わせているんだ」
しかし、何年経っても刑場に呼び出されることはありません。毎日毎日反省反省。自分が中国でどんなことをしたのか、すべてを手記に書くことをもとめられました。
「天皇のためにこれほど働いて、こんな目にあっているのに、天皇は助けに来てくれない」
鈴木さんたちは、だんだん天皇に対して不信感を抱くようにもなっていきました。
6年経って、全員の手記が揃った頃、中国で始めて軍事裁判が開かれました。
判決が出て有罪になったのは、千数百人の捕虜のうち、軍隊で大きな影響力を持っていた数十人だけ。しかも、死刑はひとりもいません。
鈴木さんたちは不起訴になり、すぐに帰国が許されました。
日本を経ってから16年が過ぎ、20際だった紅顔の美青年は、36歳になっていました。
内地で待つ彼女のもとには、役場から鈴木さんが帰国するという連絡が入りました。
「うれしくてうれしくて、でもほんとうに帰ってくるのかしら。これは夢ではないのかしら。何がなんだかわからなくて、ボーっとしてしまいました」
彼女は鈴木さんのお兄さん夫婦とともに、舞鶴港に迎えに行きました。
中国からの引き揚げ船「興安丸」が港につき、たくさんの人が降りてきましたが、なかなか鈴木さんの姿はわかりません。
気づいたのは鈴木さんでした。鈴木さんは彼女を見つけて大きく手を振っていました。
今の若者とは違って、駆け寄って抱き合ったりはしませんでしたが、心と心でしっかり抱き合っていました。
「もし帰ってこなかったら、一生独身でいるつもりでしたから、手に職をつけようと、裁縫と編み物をならいました。ほんとうに他の人と結婚するつもりはなかったんですよ」
16年間待ち続けた奥さんは、それから戦後の混乱期を鈴木さんを助けて乗り切っていきます。
夫妻はともに80歳を越えました。鈴木さんは今、「中国帰還者連絡会」の一員として、中国で日本軍が行ったことの真実を、後世の人々に残すために活動し続けています。
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