ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

朕と私と天皇と

2019年04月06日 | 昭和史



 坂口安吾による『天皇陛下にささぐる言葉』と言う、B6判32ページほどの小冊子が話題である。
 戦後間もない1948年に雑誌「曠野通信」に発表されたもので、戦中であれば不敬罪間違いなしで、収監され拷問を受けていたであろう。
 表題の「天皇陛下にささぐる言葉」に加え「堕落論」「天皇小論」「もう軍備はいらな」を併載、坂口安吾の反天皇制・反戦小論文集である。
 ちょっと長くなるが、一部を転載する。

 朕はタラフク食っている、というプラカードで、不敬罪とか騒いだ話があったが、思うに私は、メーデーに、こういうプラカードが現れた原因は、タラフク食っているという事柄よりも、朕という変テコな第一人称が存在したせいだと思っており、私はそのことを、当時、新聞に書いた。
 私はタラフク食っている、という文句だったら、殆ど風刺の効果はない。それもヤミ屋かなんかを風刺するなら、まだ国民もアハハと多少はつきあって笑うかも知れないが、天皇を風刺して、私はタラフク食っていると弥次ってみたところで、ヤミ屋でもタラフク食っているのだもの、ともかく日本一古い家柄の天皇がタラフク食えなくてどうするものか、国民が笑う筈はない。これが風刺の効果をもつのは、朕という妙テコリンの第一人称が存在したからに外ならぬのである。
 朕という言葉もなくなり、天皇服という妙テコリンの服もぬがれて、ちかどろは背広をきておられるが、これでもう、ともかく、風刺の原料が二つなくなったということをハッキリとさとる必要がある。
 人間の値打というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものの真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということとは関係がない。況んや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。
 天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、ただ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。
 名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。
 人間の気品が違うという。気品とは何か。たとえば、天皇という人は他の誰よりも偉いと思わせられ、誰にも頭を下げる必要がないと教育されている。又、近衛は、天皇以外に頭を下げる必要はないと教育されている。華族の子弟は、華族ならざる者には頭を下げる必要がないと教育されている。
 一般人は上役、長上にとっちめられ、電車にのれば、キップの売子、改札、車掌にそれぞれトッチメラレ、生きるとはトッチメラレルコト也というようにして育つから、対人態度は卑屈であったり不自由であったり、そうかと思うと不当に威張りかえったり、みじめである。名門の子弟は対人態度に関する限り、自然に、ノンビリ、オーヨーであるから、そこで気品が違う。


景文館書店 発行
200円(+税)

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たった一人の叛乱

2017年12月21日 | 昭和史
エスペランティスト、由比忠之進さん抗議の焼身自殺から50年

 1967年11月11日の夕刻、テレビは衝撃的なニュースを伝えた。
 「(佐藤栄作)首相訪米の11日夕、エスペランティストの老人が沖縄返還、ベトナム和平問題に対し佐藤首相に抗議、焼身自殺を計った。午後5時50分ごろ、東京都千代田区永田町1の6、首相官邸正面と道路をへだてた反対側の歩道で男が立ったまま胸にガソリンをかけマッチで火をつけ、あおむけに倒れた。炎は高くあがり、1分近く燃え続けた……」
 このエスペランティストの老人が由比忠之進さん73歳である。このニュースを知った全国のエスペランティストたちは大きな衝撃を受けた。この前日、エスペラントの定例会に参加していて、「来週は来られないから……」ともらしていたのを、仲間たちは聞き逃してしまっていたという。
 やさしい、エスペラントに熱心なおじいさんであった由比さんの強い決意と行動は、だれも予想できなかった。

由比忠之進さん。


事件を知らせる翌日の読売新聞。
 
 エスペラントとは、ポーランド人の眼科医で言語学者ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフによって1880年代に創案された国際共通言語である。日本ではプロレタリア運動の一環としてエスペラントが広められたところから、「エスペラント運動」と呼ばれた。言語の壁をなくし、世界のプロレタリアートが連帯することを目的としたのである。
 外国語、特にヨーロッパ諸国の言語は実に多様で、ほぼ1国1言語であった。ごく最近まで、日本にはチェコ語、ポーランド語、フィンランド語などなど、それらの諸言語の翻訳者が存在せず、出版社や報道機関ではいったんエスペラントに訳した原稿を日本語に重訳するという手法がとられた。したがって、1960年代ごろまでは、エスペラントに堪能な人々が大変重宝された時代であった。



 そんな時代の一つの成果として生まれたのが、世界中の子どもたちのつづり方と絵を集め1953年から刊行された平凡社の『世界の子ども』(15巻)である。世界中のエスペランティストと連携し、日本の優秀なエスペランティストが集結して、非情な苦労のもとに完成させたと聞く。各巻A5変形判平均210頁で420円という、小説の単行本が200円前後で買えた当時としてはかなり高価な本である。小学生であった筆者は父親が翻訳メンバーとして携わっていた関係で無償で読むことができたが、友だちに勧めると高すぎて買ってもらえないといわれ、子どもでも買える値段で出版してもらいたいと平凡社にはがきを書いた覚えがある。



 ベトナム戦争さなかの1960年代には、南ベトナム人民支援の一環として4冊のベトナム文学がエスペラントからの重訳で出版された。アイ・ドゥク・アイ著 岡一太・星田淳共訳『トーハウ』(1965年 新日本出版社)、井出於菟ほか訳『ベトナム小説集 炎のなかで』(1966年東邦出版社)、グエン・コンホワン著 井出於菟・栗田公明共訳『袋小路』(1967年 柏書房)、フーマイ著 栗田公明訳『最後の高地──小説ディエンベンフー』(1968年 東邦出版社)である。ちなみに、訳者の一人井出於菟(いで・おと)は筆者の父のペンネームで、エスペラントで思想・理念を表すideoからつけたそうである。
 これを機に、エスペラントの翻訳者集団「エスペラント・セルボ」が組織され、世界人民と多くの情報が共有されるようになった。

 あまり知られていないが、多数の著名人がエスペラントに携わった経験を持つ。山田耕筰はロシア皇帝にエスペラントで手紙を書き、大杉栄は日本で最初のエスペラント学校を作った。大本教の出口王仁三郎はエスペラントで宗教を広めることを試みた。新渡戸稲造や柳田国男もエスペラントに深く興味を持ち、名著『沖縄の歴史』を書いた比嘉春潮は、由比忠之進さんの追悼集会の発起人となった。そして、ローマ字を広め、多くの学校の校歌を作詞した歌人の土岐善麿もエスペランティストの一人である。
 ヤクルトがヨーグルトを意味するエスペラントjahurto(ヤフルト)からつけられたことは知られているが、宮沢賢治の童話には、東北地方の地名がエスペラント風にアレンジされて登場するのも面白い。「イーハトーヴォ」(岩手)、「シオーモ」(塩竈)、「センダード」(仙台)、「ハームキア」(花巻)、「モリーオ」(盛岡)、などなど。
 


 近年、グローバリズムの影響かどうかわからないが、改めてエスペラントが注目されつつあると聞く。今年9月、エスペラント運動の歴史を簡潔にまとめた『日本エスペラント運動の裏街道を漫歩する』(エスペラント国際情報センター)が出版された。詳細な運動史は1987年に三省堂から『反体制エスペラント運動史』として出版されたが現在は絶版。入手可能な出版物としては日本エスペラント学会の私家版『日本エスペラント運動史』がある。エスペラントの先駆者ザメンホフについては岩波新書の『エスペラントの父 ザメンホフ』がよい。
 エスペラントで戦後の家計を助けた父だったが、なぜか子どもたちにエスペラントを教えることも勧めることもしなかった。多分子どもの自主性に任せた、ということなのだろう。したがって。残念なことに筆者自身はエスペラントができない。

 佐藤訪ベト阻止の羽田闘争に参加した京大生の山﨑博昭さんが機動隊に虐殺された10月、由比忠之進さんが抗議の焼身自殺を遂げた11月、その1967年から50年目の2017年が、まもなく終わる。


 エスペラント運動と出版物についての問い合わせは、(財)日本エスペラント協会(〒162-0042 東京都新宿区早稲田町12−3 エスペラント会館 電話: 03-3203-4581)まで。

「山﨑博昭プロジェクト」忘年会

2017年12月20日 | 昭和史


19日は「山﨑博昭プロジェクト」の忘年会だった。
今年10月には「かつて10.8羽田闘争があった」(寄稿編)を合同フォレストから出版し、その編集者として招かれた。
元東大全共闘議長山本義隆(左の帽子)、山﨑と同期で中原中也研究で知られる詩人の佐々木幹郎をはじめ、発起人を中心に18人ほどが集まり、近況や昔話に花を咲かせた。
それにしても、よくぞ集まったものと驚くほどのすごいメンバーだ。
来年10月には、「かつて10.8羽田闘争があった」の資料編が刊行される予定で、「寄稿編」以上に編集が難航すrことが目に見えている。
はてどうなることか。

大田昌秀『沖縄 鉄血勤皇隊』

2017年06月17日 | 昭和史

 
 先日亡くなった大田昌秀さんの最後の著書である。
 大田さんは生前、「生涯で100冊の本を出す」と言っていたが、90冊は超えたはずだが100冊には届いていないのではないだろうか。
 米軍基地返還後の沖縄経済と琉球独立に関する本を書きたいと、ずいぶん調査をされていたようだ。楽しみにしていたがその本は出ずじまいだった。
 本書の奥付けを見ると、発行日が「2017年6月12日」となっている。6月12日は大田さんの92歳の誕生日である。6月初めには店頭に並んでいたので、版元が気をきかせたのだろう。
 しかし、奇しくも命日になってしまった。出版社としては複雑なところだろう。
 写真は10年ほど前、東京阿佐ヶ谷の居酒屋で撮ったツーショット、それと自筆の毛筆書きサインのみの名刺。
 
 「鉄血勤皇隊」とは沖縄戦にかり出され、日本軍と行動をともにした十代の少年兵達である。武器を持たされることはめったになく、弾運びや伝令が主な仕事だった。米軍の艦砲射撃や機銃掃射の飛び交う中、危険な作業を強いられた少年兵の犠牲者数は約900名。これは沖縄戦の悲劇の象徴とされる「ひめゆり学徒」の犠牲者数をはるかに超えている。しかし、本土では「ひめゆり学徒」は知っていても「鉄血勤皇隊」を知る人は少ない。
 「鉄血勤皇隊」の慰霊碑は、主に出身学校単位で複数ある。その中の一つに、大田さんの出身校である沖縄師範学校の犠牲者を慰霊する「沖縄師範健児之塔」がある。大田さんはその脇に、学生時代からの念願であった「平和の像」を建立した。だが、いつもひっそりとしていて、訪れる人は疎らだ。
 「ひめゆり」もそうだが、「鉄血勤皇隊」も本土の法律では兵士として認められる年齢に達していない若者が多数いる。明らかに沖縄差別であり、さらには政権が末期症状になると、無謀・横暴な行動に出ることのあらわれである。現在の安倍政権のやりかたもそれに近い。
 
 大田さんの鉄血勤皇隊に関する著書は複数あり、『沖縄健児隊』というタイトルで出版されたものが最初で、この本の出版社は約束された「平和の像」建立の寄付金を払わないどころか、印税も未払いのまま廃業してしまったという。大田さん自らが鉄血勤皇隊として動員され、「千早隊」という伝令を受け持つ危険極まりない体験をもとにドキュメンタリータッチで書かれた『鉄血勤皇隊』(ひるぎ社)は前著を増補したものである。後に那覇出版社から新書判になって復刊された。
 本書『沖縄 鉄血勤皇隊』(高文研)は、出身校単位の記録を元に書かれているので、「鉄血勤皇隊」の全体像がわかりやすい。
 第3章の慰霊棟についてのエピソードは、以前お話をうかがったことがある。裏話的な要素が多くて興味深いので、本になったことはあり難い。

 15日に、大田さんの葬儀は無事に執り行われたと聞いた。本来ならば参列すべきだったが、どうにも動きがとれず、献花だけで遠方から冥福を祈った。
 

アジア記者クラブ3月定例会

2017年03月15日 | 昭和史




アイコンクリックで原寸大チラシ

 田中宏さんは、一橋大名誉教授で経済学者。在日外国人問題にくわしい。現在の、極右によるヘイトスピーチなど、在日外国人差別の根源は、明治時代からの侵略政策にもとづく朝鮮・中国蔑視に始まったと説く。
 今年、2017年は、1937年の盧溝橋事件(7月)、南京大虐殺(12月)から80年にあたる。日本政府がいまだに背を向けたまま解決することを拒んでいる、戦争責任・戦後責任について語っていく。
 
〈著書〉
『虚妄の国際国家・日本 アジアの視点から』風媒社 1990年7月
『Q&A外国人の地方参政権』五月書房 1996年3月
『戦後60年を考える 補償裁判・国籍差別・歴史認識』創史社 2005年8月
『在日外国人 法の壁、心の溝 第3版』(岩波新書)岩波書店 2013年5月

広中一成『通州事件』

2017年02月23日 | 昭和史

 
 通州事件とは、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件から22日後の7月29日未明、北京市の東20キロにある通州で起きた事件である。日本居留民225人(日本人114人、朝鮮人111人)が、叛乱を起こした日本の傀儡政権である冀東(きとう)防共自治政府の保安隊によって殺害された。
 この事件は現代においては、中国人保安隊の残虐性が強調され、日本居住民の被害を際立たせることで、一部右派の論客によって、あたかも南京大虐殺と対抗させるような論評がなされている。規模も事件の背景も違うので、比較対象にはなり得ないのだが、「中国人の方が日本人よりも残虐なことをやっている」ととんちんかんな喧伝をしている。
 忘れてならないのは、この事件の背景には、日露戦争の勝利で勢いをつけた日本が、朝鮮半島から中国東北地方を侵略したという事実があることだ。
 本書は、日本、中国、台湾の資料を収集し、感情的な先入観を排除しつつ、冷静に歴史事実を解き明かしていく。
 全体は、第一章「通州事件前史」、第二章「通州事件の経過」、第三章「通州事件に残る疑問」の3章と二つのコラムからなり、日本、中国それぞれの兵力、日本軍による報道規制、さらには阿片密貿易に関する知見など、限られた紙数を友好的に使って細密である。
 本文はたいへん読みやすくわかりやすい。特に二章などは、テンポよく簡潔に日中戦争の経過を追っているので、アジアの現代史をこれから学ぼうとする人にはきっかけになるだろう。
 しかし、資料の不十分な点は否めない。本書は一般向けである、などと気取らず、さらなる研究の継続と詳細な研究書の発表が望まれる。
 
 それと編集者の端くれとして一言いわせてもらえば、(これは著者の責任ではなく、出版社のあり方だが、つくりがいささか荒っぽい。ハシラやノンブルの欠落したページがあったり表組みや写真の置き方などに気配りが足りない。決定的なのは、テキストが大幅に脱落しているページがあった。組版でテキストデータが写真の下に入り込んで隠れてしまったのだろうが、ごく初歩的なミスである。校正で気付かないのはおかしい。
 見えない部分がどうにも気になったので問合せをしたところ、迅速適切に対応してくれたので、大過はなしとしたい。程度の問題はあるが、誤植のまったくない本は奇跡に近いのだから。
     星海社新書(発売:講談社)定価880円(+税)

太平洋戦争開戦75年

2016年12月08日 | 昭和史

 1941年12月8日付『朝日新聞』夕刊。
 
 今日、12月8日は、太平洋戦争開戦から75年に当たる。
 敗戦の8月15日(天皇放送の日)以上に、日本の歴史を大きく変える事件なのだが、報道も薄く、ことさらイベントもないせいだろうか、知らない人が多い。

 この日から日本国民は、歴史上類いない悲惨な道を歩むことになる。
 既にこの年から、小学校は「国民学校」となり小学生は「少国民」と呼ばれるようになっていた。つまり相当前から戦争への態勢が進められ、年齢を問わず国家に奉仕することを強要する準備が整えられていたのである。
 
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。 大本営陸海軍部。12月8日午前6時発表、帝国陸官軍は、本8日未明、西太平洋において、アメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり。」
 
 75年前のこの日の朝突然、臨時ニュースが流れて日米開戦が伝えられた。後に嘘つきの代名詞とされる「大本営発表」第1回目(以降、戦闘行動が続いていた1945年8月14日まで、840回)である。
 そして、午前11時には戦果の発表がなされる。
 
 「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。
 帝国海軍は、ハワイ方面のアメリカ艦隊並びに航空兵力に対し決死の大空襲を敢行し、シンガポールその他をも大爆撃しました。
 大本営海軍部、今日午後一時発表
 1、帝国海軍は本8日未明、ハワイ方面の米國艦隊並に航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。
 2、帝国海軍は本8日未明、上海においてイギリス砲艦ぺトレル号を撃沈せり、アメリカ砲艦ウェーク号は同時刻我に降伏せり。
 3、帝国海軍は本8日未明、シンガポールを爆撃して大なる戦果をおさめたり。
 4、帝国海軍は本8日早朝、ダヴァオ、ウエーク、グアムの敵軍事施設を爆撃せり 。」
   〈大本営海軍部12月8日午前11時10分発表〉

 
 真珠湾攻撃が「奇襲」であったかどうかという議論はおいといて、この日の大本営発表はまだ真実であった。しかしこの後の日本は、山本五十六の予言通り、半年後の1942年6月にミッドウェイで大敗を帰するまでは快進撃を続け、日本中が提灯行列でうかれていた。
 その、ミッドウェイ海戦を伝える大本営発表はこうだ。
 
 「(前略) 一方同五日洋心の敵根拠地ミツドウェーにたいし猛烈なる強襲を敢行するとともに同方面に増援中の米国艦隊を捕捉、猛攻を加へ敵海上および航空兵力ならびに重要軍事施設に甚大なる損害を与へたり、(中略)
 現在までに判明せる戦果左の如し
 1、ミツドウエー方面
  (イ)米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネツト型一隻撃沈
  (ロ)彼我上空に於て撃墜せる飛行機約百二十機
  (ハ)重要軍事施設爆砕
    (中略)
 2、本作戦におけるわが方損害
  (イ)航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破
  (ロ)未帰還飛行機三十五機」(以上抜粋)

 
 しかし実際には、わずか数分で空母3隻が被弾炎上し、艦上戦闘機は飛び立つまもなく大半を失い、ろくな抵抗ができないまま連合艦隊は壊滅した。
 これ以降、南方での日本軍は敗退を続け、敗戦への道を辿ることになるのだが、大本営発表は相変わらず「勝った勝った」と国民を煽り続けた。
 日本軍の損害は軽微に、英米軍の損害は過剰なまでに誇大な表現で伝えた。
 有名なエピソードで、大本営発表を聞いた天皇が「サラトガが沈んだのは、今度で確か4度目だったと思うが」と皮肉ったことが伝えられている。
 やがて本土空襲が続くようになると国民の間から大本営発表に対し「勝っているのにどうして何度も空襲があるんだ」と疑うようになってくる。
 
 そして現在、政府はNHKのみならず、民放までも圧力で報道をコントロールするようになった。政府による情報操作が始まれば、それは国民の悲劇の始まりを意味する。
 「大本営発表」が過去の出来事と一概に勝たず蹴られない風潮にあることを知っておこう。
 
 
 
 

NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」

2015年06月16日 | 昭和史
 日曜日に放送された、NHKスペシャル「沖縄戦 全記録」を録画で観る。
 
 太平洋戦争末期、日本国内における唯一の地上戦では,沖縄県民の約4分の1が犠牲になったと伝えれているが、一家全滅や被害が甚大なためにその全体像はいまだにわかっていない。
 全戦死者数約20万人のうち、県民の犠牲者は12万人に及ぶ。

 NHKでは、これまで非公開とされてきた、沖縄県が戦後唯一全世帯を対象に行った戦没者の調査記録のうち、亡くなった日付や場所が特定されている住民、8,2074人の記録を解析。それによると、アメリカ軍が上陸してから戦闘が終わるまでのあいだになにが起きていたか、具体的な数字として見ることができた。
 日本軍の組織的戦闘が終わる前後に犠牲者数が突出していることや、伊江島ではわずか一日で、全犠牲者の半数が命を落としている実態が明らかになっている。

 住民に多数の犠牲が出た背景には、深刻な戦力不足のもと、住民が「防衛召集」の名のもとに、ろくな訓練も受けずに戦場に駆り出された事実がある。
 元日本兵は語る。「(住民が)一番危ない仕事をしている」
 沖縄戦に参加した元アメリカ兵は、取材記者を前に「現場はパニックになり、私も機関銃を撃ちまくりました。翌朝見観に行くと、すべてが住民の死体だったのです」と、思わず涙を流した。
 
 アメリカ軍により機密扱いとされていたジェームズ・バーンズ曹長による陣中日誌が見つかった。
「住民の死体の山が放置されている」。戦闘の詳細がタイプされた、分厚い大判の日記の中には「住民」という言葉が頻繁に登場する。「殺害した4700人のうち、2000人が沖縄の住民だった」というある日の記録がある。

 住民の犠牲は戦闘によるものだけではなかった。
 大本営は、「皇土防衛のための前縁は沖縄にあり」との作戦計画を立て、現地の32軍に一日でも時間を稼ぐ持久戦を求めた。
 長勇参謀長は住民にこう呼びかけていた。
「全県民が兵隊になることだ、すなわち一人十殺の闘魂を持って敵を撃砕するのだ」
 そのために、住民が爆弾を抱えて「切り込み」を行い、そのため多数の犠牲者が出た。
 アメリカ軍が最後の攻撃を仕掛けた4月20日、島の女性達も切り込みを行っていた。当時16歳だった女性の証言がある。
「天皇のために命を捧げなさい、国のために死ぬのは当然だ。捕虜になることは一番恥ずべき行為だと、小さい時から言い聞かされ、そういう教えしかわからなかった」
 
 一日に島の住民の半数を失った伊江島では、いわゆる「集団自決」も起きていた。投降を呼びかけるアメリカ兵が、家族親戚26人が隠れていたガマにやってきた。
 軍に召集されていた住民の1人が「今から死ぬ」と言って持っていた爆弾を爆発させた。
 生き残ったのは4人だけだった。
 一億玉砕が刷り込まれた住民達に、生き残るという選択肢はなかった。
 
 アメリカ軍も、4,000人に上る海兵隊員の犠牲者を出した。当時のアメリカ軍の映像には、精神に異常をきたす兵士の姿も映し出されていた。
 バーンズの陣中日記には、「この36時間で戦闘神経症の兵士が231人も出た」とある。

 組織的戦闘が終わった6月23日までの1週間に、沖縄住民の犠牲者のうち6割近くが命を落としている。
 司令官の牛島満は、最後まで抵抗し持久戦に持ちこむことを決断、本島最南端に司令部を移した。そのため南部には、防衛召集で集められた兵隊や一般住民がひしめくように集まっていった。
 バーンズの陣中日誌には「南部には13万人と見られる住民がいるようだ。一時休戦を申し入れ、住民を保護すべきではないか」という意見が述べられている。しかしこの計画が実現することはなかった。
 6月23日、牛島司令官が自決し、日本軍の組織的戦闘は終わった。しかし一部の兵士達は、最後までゲリラ的戦闘を続けていたのである。それがさらに、住民の犠牲を生むことになった。

 バーンズ曹長の陣中日誌は次のような言葉で締め括られていた。
「戦場のすべてを見た。もう十分だ」

「東京大空襲」から70年

2015年03月10日 | 昭和史
 今日は、「東京大空襲」から70年にあたる。東京への空襲はこれだけではなかったが、3月10日未明の空襲はことさら大規模なものだった。
 ここに一冊の写真集がある。石川光陽が警視庁のカメラマン時代に東京大空襲の全貌を撮った写真を日記形式の手記とともにまとめたものである。
 『グラフィックレポート 東京大空襲の全貌』1992年3月10日、岩波書店の発行で、東京大空襲から47年目にあたる日であった。
 

 
 戦争が始まれば空襲があることは予想していたのだろう、防空演習は昭和8年(1993)頃から行われていたらしい。しかしそれが本格的になったのは太平洋戦争が始まってからで、隣組単位の防空演習が定期的に行われた。「逃げるな、消火に務めよ」というのが国からの通達であった。しかしそれを守った多くの庶民が命を落とす結果になった。
 

 
 18ページに掲載された1枚の写真(昭和18年=1943撮影)。バケツリレーと細いホースでの放水、まるで植木に水をやっているような長閑な写真であるが、ほとんどの人がこれで焼夷弾の火が消えると信じていた。あらゆる情報が極秘扱いされ、焼夷弾の実態を人々はまったく知らなかった。これが防空演習である。
 同時に「防空」と名のつくグッズがいくつかあった。人々を蒸し焼きにした庭先の浅い「防空壕」、火が燃え移って人間バーベキューを作った綿入りの「防空頭巾」など、役に立たないどころかかえって被害を拡大した。「防空頭巾」は戦後、防寒具として使っていた記憶がある。
 

 
 昭和20年(1945)3月10日、墨田区本所の焼死体。死体をここに集めたわけではない、このように、いたるところ焼死体だらけであった。この日、数時間のあいだに約10万人の人が犠牲になった。
 石川光陽は3月10日付の手記で次のように書いている。(抜粋)
 
 3月10日 土曜日 晴 強風 風位北
 さきに房総半島沖をはるかに遁走した筈の敵機は、B29の約130機を主力にして、超低空で午前0時25分頃江東地区に襲いかかってきたのだ。探照燈の光芒は銀色の敵機を捕え、その周囲にいくつかの高射砲弾の作裂するのがよく見える。来たなと思った瞬間、江東地区の夜空が真紅に染って大火災の発生を知らせた。
 私は急いで屋上から防空本部室に入ると、正面の大管内図に青赤の豆ランプが本所、深川、江戸川、浅草地区に無数に光っていた。
 原警務課長の前に行って、これから現場へ急行する旨を報告すると、課長は私の手をしっかり握って「そうか行くか。今夜の空襲は今までとは違っている。充分気をつけてな、死ぬなよ、元気で帰ってくるんだぞ」。課長は部下思いで常に部下の身を案じておられたが、こんなことを言われるとなにか異常なものを感じた。
 すぐ裏庭の車輛班にいき、何回も猛火の中を私とくぐり抜けてきた老朽のシボレーにエンジンをかけて出発した。オートバイの伝令も飛び出して行った。
 (中略)
 火は倍々たけりたって強風を呼び、その強風は火を煽って、多くの逃げ感う人びとを焼き殺していった。私の目の前でも何人かが声もなく死んでいったが、どうすることも出来なかった。倒れた死体は路面を激流のように流れる大火流に、芋俵を転がすように流されていってしまった。猛火は横に唸りを発して街路を火焔放射器のように走り、その火流の中を荷物や布団が大小の火の玉になって無数に転がっていく。眼前の建物は屋根を残して、筒抜けに猛火が突き抜けて、隣から隣へと劫火は突っ走っていくのがよく見える。
 私は最早これが最後だと覚悟した。然し勝利の凱歌を聞かずにここで死んでいくことはなんといっても口惜しい。
 じっと眼をつむっていると心のどこかで、猛火渦巻き狂うこの修羅場にわれ等同僚は今ぞすべてを擲って、ただ醜敵の猛攻撃の前に敢然と立ちはだかって、1人でも多くの都民を救出しようとの一念に燃えて、鬼神も哭く働きをしているのだと思うと、じっとしていられなくなった。
 (中略)
 それからどこをどう這い回ったか判らなかったが、劫火はまだ空を蔽って流れる猛煙を真っ赤に染めていたが、いつの間にか敵機の姿はなく、煙の間を通して東の空がうす明るくなってきた。その時、私は生きていたんだとはじめて感じた。
 周囲にも何人かの人が生きていた。その人たちの姿を見て私はとめどなく涙が出て仕方がなかった。悲しかったのではない。見知らぬ人びとだがよくぞあの猛火を潜って生きていてくれたと思うと嬉しかったのだ。すぐにも抱きついてみたい衝動にかられた。そしてこの試練に打ち勝った人びとに「さあ戦友よ、前進あるのみだ、一切の退路は断たれ道は焼けただれているが、ひたむきの前進あるのみだ。それが勝利へのただ一つの道なのだ」と叫びたかった。
 その人たちの顔は真っ黒にくすぶり、眉毛や頭髪は焼け、煙と灰塵で目がただれたようになっている。衣服はボロボロになって焼け焦げだらけ、手首はやけどで赤く腫れ上っていて痛々しい。そういう私も同じ状態で、まだ燃え盛る道路に出た。
 電車通りには至るところ架線がおちて蜘蛛の巣のように垂れ下がり、電車は焼けて骨だけ残り鉄の大きな鳥籠のようになって焼け残っていた。昨夜来の強風はきなくさい煙を焼け跡からしきりに送りつづけている。
 私は死体の多い言問橋を渡り、浅草花川戸に行き、両国橋の交番まで来たが、私の乗り捨てておいたシボレーも完全に焼けていた。私はトボトボと警視庁へ向って歩き出した。
 (以下略)
(86~92ページより)
 
 近頃は、東京が空襲を受けたことすら知らない人が増えていると聞く。自分には関係ないと考える無関心な人の多さに驚く。関心があろうがなかろうが、戦争が始まれば頭の上から爆弾が降ってくる。そのときになって、反対しておけばよかったと後悔しても手遅れなのだ。
 戦闘員だけでなく、非戦闘員(一般人)も多大な悲劇を被る、それが戦争だ。
 戦争で平和は創れない。憲法で戦争をしないと誓った日本だからこそ、世界中の紛争に歯止めをかけることができるはずだ。けっしてどこかの国と一緒になって闘ってはならないのだ。
 しかし今、安倍晋三極右政権(アメリカの新聞で「ウルトラライト」と表現された)によって、不戦を誓った憲法9条は風前の灯である。日本がなぜ70年もの長期にわたって平和だったのか、自衛隊は人を殺さず、日本人で戦争の犠牲になった人はアジア太平洋戦争以降まったくない。憲法9条があってこそであることを肝に銘じるべきだ。
 ある人が言った。「脱原発も、秘密保護法も、集団的自衛権も、TPPも、憲法改定も、私たちの生活を大きく左右する重大な問題であるにも関わらず、まるで人ごとである。反対か賛成かと聞けば、ほとんどの人が反対と答える。それなのになぜ、これらを推進する自民党が大勝するのか。ようするに、ほとんどの日本人が自分の暮らしを守ることに本気になっていないのだ」

 その通りだと思う。
 日本人よ、本気になろう!

公開誌上討論「南京大虐殺」

2014年11月24日 | 昭和史

 
 『週刊金曜日』は定期購読しているわけではなく、興味深い記事が掲載されている号のみ書店で買うことにしている。このところ3週間ばかり購読していなかったところ、『東京新聞』に毎週日曜日掲載されているコラム、「週刊誌を読む」に「週刊文春VS週刊金曜日』と題し、「新しい歴史教科書をつくる会」の創設者藤岡信勝氏と、『週刊金曜日』編集委員の本多勝一氏が、南京大虐殺についての論争を誌上で展開していると紹介されていた。
 急いで、最新号も含め3週分のバックナンバーを購入した。1回1200字以内で両者の意見が見開きで掲載されている。現在3信までが掲載されていて、以降も継続し5信まで予定されている。
 
 何か新しい情報があるのではないか、という期待もあって読んだが、それぞれが持論を展開するだけで、ことさら未知の情報はなかった。とくに藤岡氏の論理は、「南京事件まぼろし派」が以前から言い続けてきていて、都留文科大学の笠十九司教授等によってとうの昔に論破された内容のものだ。
 中国のいう犠牲者30万人説に信憑性がないから、大虐殺はなかったとか、写真に偽装が見つかったからすべて偽物だとか、まいどまいどいい加減にしろと言いたくなる。『朝日新聞』が間違えた、だから「従軍慰安婦」は存在しなかった、という屁理屈と同じだ。
 論理の蒸し返しに『金曜日』の記者が「うんざりだ」といったら藤岡氏は逆切れした。南京大虐殺は「国民党軍が外国向けに記者に作らせたプロパガンダ」にいたっては、「妄想もいい加減にしろ」と言いたくなる。南京大虐殺がまぎれもない事実であることは、前述の笠原教授のほか、洞富雄氏、藤原彰氏等多数の学者によって証明されている。
 ちなみに、公開討論を申し入れたのは、本多氏個人ではなく『週刊金曜日』の編集部である。誌面を読むかぎり、本多勝一氏こそ「うんざり」しているのだろう、ほとんど記者にしゃべらせて自分は相づちを打つだけ。だからこれは、藤原信勝VS週刊金曜日であると言った方が正しい。それも藤原氏は気に入らないようだ。
 
 今後どういう展開になるかわからないが、どうも闘う土俵が違う気がする。どこまで行っても平行線で、最後まで交わることはないだろう。ウサギを見て「あれはネズミだ」と言い張る人間に、ウサギであることを証明するのは難しい。
 しかし、このところ南京事件は話題に上らず、人々の記憶から薄れかけているので、論理をまとめるための材料としては大変役に立つ。

沖縄と結ぶ杉並の集い

2012年07月23日 | 昭和史
2012okinawa
 
 22日日曜日、毎年恒例の「沖縄と結ぶ杉並の集い」が行われた。
 翌23日にはオスプレイが岩国に陸揚げされようとしている日、ヤマトとウチナーの温度差、そしてその根源的な問題について、琉球大学名誉教授の高嶋伸欣(たかしま・のぶよし)さん(写真右)と、ヘリ基地建設反対協議会の安次富浩(あしとみ・ひろし)さん(写真左)に話をうかがった。
 
 高嶋さんは現在、杉並に住んでいる。沖縄の基地問題など、復帰以降の沖縄の歴史に詳しい。
 安次富さんは東京下町の生まれだが、現在は沖縄に在住。興奮するとベランメエになるという。
 
 高嶋教授とお会いするのは実に3年ぶり以上だが、安次富さんとは先頃辺野古を訪れたときに会っていて、最近ちょくちょく顔を合わせる。
 
高嶋名誉教授
・八重山の教科書問題に触れた。問題の大きい育鵬社版歴史教科書が不採用とされたが、その討論にまぎれて同社の公民教科書が採用されてしまったこと。しかし竹富町のみが承諾しなかったために、無償配布であるべき義務教育の教科書を、文科省は「採用できないならば有償にする」と脅しをかけた。それでも竹富町は拒否し続けた。脅せば渋々でも受け入れるだろうと踏んでいた文科省は、自ら違法行為を行うことになってしまい、現在苦慮中。
 「沖縄の粘りがヤマトの民主化につながります」
 
・辺野古移転推進派の國場組社長の國場幸一氏は沖縄タイムスの取材で次のように語った。
 「(鳩山政権が迷走したことについて)自民党にも責任がある。地元の要望を聞いてあと数十メートル、70メートルくらい、沖合に滑走路を建設することを認めていればOKだった。米側も防衛省も一貫性がない。小泉政権時代『1センチなりとも譲らない』と、ばかなことを言うから合意できなかった。今、防衛省や米政府は後悔している」
 國場組は沖縄ではもっとも大手の建設会社だが、基地建設が海上などの高等技術を要する場合、沖縄の企業は参加できない。
 その國場幸一氏もオスプレイの配備については「安全が確認されるまでは配備されるべきではない」と語っているという。
 
・平成6年版の三省堂発行『新日本史B』には、他の日本史教科書では省略されている次のような「サンフランシスコ平和条約」の条文が掲載されている(太字部分)。
 第3条 日本国は,北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)……を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する.このような提案が行なわれ且つ可決されるまで,合衆国は,領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して,行政,立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする.
 年配の人ならば、かつての教科書では沖縄がアメリカの「信託統治領」であったと書かれていたはずである。しかしこれは誤りである。
 アメリカは沖縄を占領することを正当化するために国連に信託統治を申請していたが、実際にはそうならなかった。信託統治であれば国連憲章が適用され、特定の国が軍事基地として利用することができなくなるからだ。
 アメリカは当初から信託統治にすることは毛頭なく、したがって第3条の条文に太字部分を付け加えた。申請が下りるまで自由に使わせろというわけである。すなわち永久に申請中としたわけである。
 このことを当時の外務大臣吉田茂は気付いていた。しかし、昭和天皇が自らの保身のために政治に口を出し(これはもとより、象徴天皇となった新憲法下では憲法違反である)「好きなようにやらせろ」といったことが、沖縄の基地が固定化することにつながった。
 高嶋さんは、新憲法で戦争放棄(9条)が加えられたのは、戦争をしないという条件のもと天皇制の維持を目的としたのではないか、と疑われているという。だが、現在改憲の流れの中で憲法9条の箍が外れれば、日本は一気に軍事国家に逆戻りしかねない。
 
 Times_kenpo
 高嶋さんは新聞一面を使用して掲載された「日本国憲法全文」を見せ、「どこの新聞がいつ掲載したものでしょうか」とクイズを出した。琉球大学の講義でも使われていて、ほとんどの学生たちは新憲法が交付された1946年か施行された1947年ではないかと答えたそうだ。
 この新聞の日付は1972年5月15日である。そう、沖縄の施政権が日本に移行した日の「沖縄タイムス」である。
 この日まで、沖縄にはアメリカの憲法も適用されておらず、憲法のない無法地帯だったのだ。そのために米兵が引き起こした無数の理不尽極まりない事件の数々に、沖縄住民はことごとく泣き寝入りさせられた。
 すべては昭和天皇の「好きなようにやらせろ」という一言がもたらしたのである。

安次富浩さん
 これを受けて安次富さんは、「改正するなら1条から8条までを削除しろ」という。つまり、天皇についての条項である。
 「天皇を天皇制から解放してあげましょう」
 高嶋教授が補足して、「天皇制が諸悪の根源であり、原子力村の財界人の中には、皇室との婚姻関係を持っている人間が少なからずいる。象徴天皇という天皇制を利用しているのだ」と語る。
 
 オスプレイが配備されようとしていることに触れ、「森本防衛大臣がオスプレイは安全だというなら、自衛隊が買い取って大臣専用機にしたらいい。石原東京都知事も専用機にしたらいい」
 「日本の政府が民意を反映せず、アメリカの言いなりになり続けるならば、(沖縄は)ヤマトを見捨てる」
 高嶋さんは、「国民がものを言う時代になって来た。見捨てられないようにがんばりましょう」
 
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「密約」西山太吉講演会

2012年07月22日 | 昭和史
Takichi_nishiyama
 
 21日土曜日、高円寺の東京土建杉並会館で西山太吉さんの講演会が行われた。
 西山さんは1972年、沖縄返還協定にまつわる密約事件の取材をめぐり、国家公務員法違反容疑で逮捕され、懲役4カ月執行猶予1年の有罪判決を受けた。
 この事件は「西山事件」として後に澤地久枝氏の綿密な調査をもとに事件の詳細が明かされ、『密約』(岩波現代文庫)が出版された。さらに、山崎豊子氏による長編小説『運命の人』が2009年に出版されている。『運命の人』は昨年TBSでドラマ化されているので記憶に新しい人も多いだろう。
 この密約は現在、米公文書館による情報開示や、国内でも佐藤栄作元首相の事務机の中から秘密文書が発見され、存在があきらかにされているが、にもかかわらず、政府及び外務省は「沖縄返還協定がすべてであり、密約など一切ない」(河相周夫北米局長)とシラを切り続けている。
 著書に『沖縄密約』(岩波新書)、『機密を開示せよ』(岩波書店)。
 
 「密約」はそもそも、任期を間近に控えた佐藤栄作首相(当時)が「佐藤内閣の歴史的成果」として、沖縄返還を自身の実績にするため、すべてに優先して「返還」という事実のみを急いだ結果であると指摘する。
 実はアメリカは、戦後27年間沖縄を支配し続けて、その維持(経済的・人的)にそろそろ限界を感じていた。しかし、東西冷戦が続きベトナム戦争が泥沼する中、基地としての沖縄を手放すことはできない。つまり、沖縄返還とは、その維持費用を日本に負担させるための手段であったのだ。
 アメリカは返還に当たって多くの条件を突きつけ、施設を買い取らせ、27年間にわたる維持費用を日本に負担させることを目論んだ。
 早急な返還を求める佐藤政権の弱みに付け込み、「条件をのまなければ返してもらえなくなるかもしれない」という恐怖心をあおり、ニクソン大統領(当時)の突きつける理不尽な条件をほとんど呑むことになった。それらの中には、法外な費用や核の持ち込みなど、到底国民が納得しないであろう項目が多数含まれ、それらが「密約」となり、アメリカの議会及びニクソン大統領を満足させた。アメリカでは沖縄返還を「もっとも成功した外交政策の例」としている。
 アメリカは目論見通り、沖縄返還に当たり日本から莫大な利益を得たことになった。
 
 「アメリカは沖縄の基地に関しては全部(費用が)タダ。出て行くわけがありません」
 
 西山さんは、「石橋(湛山)内閣が続いていたら、安保(日米安全保障条約)のない、まったく違う日本になっていただろう」とも語った。
 石橋内閣というのは佐藤内閣よりも3代前である。それがなぜかといえば、石橋湛山は安保破棄とアメリカとの距離を置いた日本を作ることを理想としていた。しかし、総理大臣就任早々に体調を崩し、わずか2カ月で退任せざるを得なくなった。後を引き継いだ岸信介も池田勇人も安保推進派であり、石橋湛山の理想を継ぐことはなかったからだ。佐藤内閣はそうした背景のもとに誕生した。ちなみに佐藤栄作は岸信介の弟である。
 
 民主党内閣の鳩山由紀夫総理大臣が、政権交代時の公約である「普天間基地移設はできれば国外、少なくとも県外」を翻したのはなぜか。その公約をつぶしたのは間違いなく外務事務次官であるという。
 西山さんは記者当時、外務省担当で外務事務次官という立場を周知していた。
 「外務事務次官というのは〝天皇〟なんですよ。外務大臣は2年で交代するけれども、外務省のトップである外務事務次官はずっといる。外務大臣は事務次官の指示に従うしかない。今の日本は日米官僚・軍隊の連合体で、日米関係をおびやかすような政策は全力で排除する。にもかかわらず押し通したらどうなるか……」
 もしかすると、ミステリー小説のようだが命にかかわるのかもしれない。
 
 現在「秘密保全法」が作られようとしている。この法律のターゲットは新聞記者など報道機関であって、政府や官僚に都合の悪い事実が報道された場合、罰することができるというものだ。これはウィキリークスなどによって次々に秘密が暴露されていることに危機感を感じたのであろう。問題は、その使われ方である。
 「国民だって何も言えなくなる。これは現代の治安維持法だ」と西山さんは語る。
 「しかし、日本では国内から情報が出て来たことはない。みんなアメリカなど海外からですよ。自分たちの歴史を海外からの情報に頼る。日本とはまったく変な国です」
 
 「今の日本を見ていると、軍事優先の論理が交代するどころか共貸されようとしている。これは十分警戒に値する」
  
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「ガマフヤー」具志堅隆松さん

2012年05月15日 | 昭和史
Gushiken1

 12日から14日まで沖縄に出かけた。平和行進に便乗しての、取材と打ち合わせが目的。
 「ガマフヤー」の具志堅隆松さんと某出版社の仕事の関係で会う。話を聞きながら遺骨収集現場を案内してもらった。
 
 「ガマフヤー」とは沖縄の方言で「ガマを掘る人」転じて遺骨を収集する人のことを言う。具志堅隆松さんはあるとき、宅地造成でユンボに削り取られた斜面から、遺骨や遺品が見つかったことから、「このままにしておけない」と、国に遺骨の発掘を優先することを申しいれた。
 ところが、国が行う遺骨収集は、入札で土木業者に委託するというものだった。つまり、土木業者の金儲けの手段になっているのである。これを知った具志堅さんは怒り心頭に発し、業者に手を付けさせず、国の制度を利用して、ホームレスや失業者のために事業として、またボランティアの協力者をつのり発掘をはじめたという。
 
 沖縄本島は道路建設や宅地造成で急速に開発が進み、激戦地など、いまだに遺骨が回収されないままの山や丘が切り崩されている。具志堅さんは工事中に遺骨が発見されたら、遺骨の回収を優先するように工事業者に申し入れている。
 今回案内されたのは三か所で、冒頭の写真は激戦で名高い前田高地の一角。近くには基地交付金で建設された「立派」な前田トンネルが走る。
 宅地造成工事のさなかに、日本軍の構築による広大な壕が発見された。この壕の趾から大量の遺骨と遺品が発見され、現在工事は止められている。
 
Gushiken2
  ビンや飯盒、砲弾の破片、注射器など。
 
Gushiken3
 これは銃剣(ゴボウ剣)。
 
           ◇
 
 具志堅さんが「アジト」と呼ぶ小屋がある場所から、すぐに下りになる西原の斜面に案内された。
 「さ、行きましょう」と言いながら、具志堅さんは靴を履き替えている。
 「え、靴履き替えるんですか?」
 「ちょっときついところへ入るんでね」
 そう言われても、こっちは履き替える靴などもってきていないからスニーカーのままだ。
 斜面を下ると、そこはもうミニジャングルだった。
 「両手、空けといてね」
 おいおい、こっちは何の準備もしてないんだからお手柔らかに頼みますよ。
 カメラとバックを斜めに掛けなおして、薮の中を進む。折れて先の尖った竹、足に絡み付くツタや大きな倒木が行く手を阻む。
 「どっちに行こうかな」
 具志堅さん自身も試行錯誤しながら薮をかき分けながら進んでいく。こっちはついていくだけで大変だ。折れた枝に引っ掻かれるし、蚊にも刺される。
 「ハブが出そうですね」
 「いるでしょうね」
 「え?」
 「小屋からそんなに離れてないから(かまれても)大丈夫」
 できればかまれたくない。
 
Gushiken4
 
 具志堅さんは途中途中の木の枝に目印の赤いテープを貼って行く。迷子にならないためかと思ったが、そうではなく、通り道の痕跡を残すためだ。富士の裾野の青木ヶ原じゃあるまいし、方向まで見失うことはない。
 「地面に赤いテープがあったら、遺骨ですから踏まないでね」
 突然そう言われて足下を見ると、大腿骨とおぼしき大きな骨が転がっている。
 「頭蓋骨があります」
 指差す方を見ると、原形をとどめた頭蓋骨があった。
 
Gushiken5
 
 丘の上で戦死した遺体が雨風にさらされながら、年月の経過とともに白骨化し、ばらばらになって斜面を滑り落ちてきたのだろうと言う。
 
 発見した遺骨で引き取り手のないものは摩文仁の共同墓地に納められるが、見つけてすぐには移動しないそうだ。現在ではDNA鑑定できる可能性が高く、遺族を見つけられる可能性が高まっているといわれる。したがって、遺族が見つかれば現場に来て引き取ってもらうようにしているそうだ。しかし、そばに名前の入った遺品でも残っていない限り、特定することは不可能で、これまで遺族がわかった遺体は5体ほどだという。
 
      ◇
 
Gushiken6
 
 ここは、NHKでも紹介された真嘉比小学校の下の造成地。ゆいレール「おもろまち」駅のすぐ近くで、沖縄戦では米軍の首里への侵攻を食い止めようと激しい戦闘が繰り広げられ、日本軍は全滅、米軍も2000人ほどが戦死した激戦地だった。
 この地で道路建設が始まったとき、掘り下げられた土の中から膨大な量の遺骨と遺品が掘り出された。中断した道路工事は遺骨の収集が終ってから継続され、現在一部が開通している。
 
 かつて、高台の小学校近くに1本の立ち木があり、戦争中その木の陰に隠れていて戦死した日本兵がいたのだろうか、「兵隊さんを見た」という情報が多数寄せられたそうである。その木は気味悪がられて切られてしまったが、ほんとうに切ってしまってよかったのかどうか、遺骨を見つけて欲しいというメッセージではなかったのかと具志堅さんは言う。
 
Gushiken7
 
 現場で見つけた小銃の弾丸と薬莢。上の鉄片は砲弾の破片と見られる。
 持ち帰るとき、空港で止められた。想像はしていたのでダメなら廃棄しようと思っていたが、空港職員が親切で、資料にしたいと言ったら警察官の許可を得てくれた。中には本物の実弾を持ち帰ろうとする人がいるので、規制を厳しくしているそうだ。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
■2011・6・7 中村哲医師講演会■
~ケシュマンド山系に記録的集中豪雨 緊急報告~

主 催/ペシャワール会現地報告会実行委員会
後 援/杉並区教育委員会

 2011年6月7日、アフガニスタンで活躍する中村哲医師の講演会を実施いたします。
 後援へのご参加と、ご賛同をお願いいたします。
 
 〔日時〕2012年 6月7日(木)18時20分 開場 18時40分 開演
〔会場〕セシオン杉並大ホール(地下鉄丸ノ内線東高円寺下車5分)
〔料金〕前売り 1,200円/当日 1,500円(高校生以下無料)
 
◆詳しくは以下にアクセス
 http://blog.goo.ne.jp/gallap6880/d/20120503


「命どぅ宝」の原点を探る

2012年02月04日 | 昭和史
 戦さ世んしまち
 みるく世ややがて
 嘆くなよ臣下
 命どぅ宝

   〈意味〉
   「戦世」は終わった 
   平和な「弥勒世」がやがて来る
   嘆くなよ、おまえたち、
   命こそ宝

 沖縄で反戦平和の合い言葉になっている「命どぅ宝」について、その原点を調べる必要が生じた。
 いつどこでだれから聞いたか忘れたが、この言葉は琉球王朝最後の国王である尚泰が、琉球処分で首里城を明け渡すときに民の前で歌ったとされると信じていた。
 
Shoutaioh
 琉球王国最後の国王、尚泰。
 
 その話が先日、大田昌秀さんとお会いしたときに出て、大田さんは「じつは私もそう思っていたんですがね」と僕の浅学をフォローしてくれながら語ってくれた。
 琉球大学に留学に来ていたロンドン大学の学生が、この言葉は沖縄芝居の台詞であることを話してくれて、『沖縄芸能史話』(矢野輝雄 著)にそのあたりが詳しく出ているという話だ。
 この本は1974年に日本放送出版協会から発行されて後、1993年に榕樹社から新訂増補版が発行されている。杉並中央図書館に出向くと新版はなかったが、旧版が一冊あった。
 
Yano_teruo2
 1974年発行の『沖縄芸能史話』。四六判で456ページ。
 
 大田さんからいくつかのヒントをもらっていて、この本を紹介してくれた他、山里永吉の作による「首里城明渡し」という沖縄芝居についてお話ししていただいた。その芝居の幕切れで、「散山節(さんやまぶし)」が演奏され、それにのせて「命どぅ宝」が歌われたことなどである。
 山里永吉という人は画家で劇作家、有名な著書に『沖縄歴史物語』(勁草書房)がある。
 
 『沖縄芸能史話』の旧版には、ことさら「命どぅ宝」についての記述はなく、山里が標準語で書いた脚本の一部と、上演時役者によって翻訳されたウチナーグチの台本が対訳で掲載されていた。
 原作には「戦さ世ん 済まち/弥靭世ん やがてぃ/嘆くなよ臣下/命どぅ宝」の歌が散山節として存在していて、ウチナーグチに訳された方はその部分が、同じ散山節としながらも歌詞が異なり「朝夕(あさゆ)住(し)みなれて/暮らちちゃる御城(ぐしく)」となっている。
 これだと上演のときに「命どぅ宝」は消滅していたことになる。ただ、もともとの脚本にはあった様子が確認できた、……と思った。
 これはもしかすると新版の方に詳しくのっているのではないかと、古書店に半額で出ていた『新訂増補版 沖縄芸能史話』を購入した。だが、期待に反して旧版以上の記述はない。
 
Yano_teruo
 1993年発行の『新訂増補 沖縄芸能史話』。A5判で440ページ。
 
Ohno_michio
 大野道雄『沖縄芝居とその周辺』。A5判並装312ページ。
 
 あるとき偶然、琉球大学の仲程昌徳教授による、『「首里城明渡し」小論』と題する論文に出合った。そのなかで、名古屋の沖縄近代史研究家、大野道雄氏が著した『沖縄芝居とその周辺』(みずほ出版)に以下のような記述があることが紹介されていた。
 
  さて、もう一方の山里永吉の作品は、昭和五年(一九三〇)に大正劇場で初演された「首里城明渡し」の終幕のセリフといわれています。この芝居のあら筋は、明治十二年(一八七九)、沖縄にも廃藩置県が布告され、王府の様々な抵抗空しく、泣く泣く明治政府に首里城を明け渡すという物語なのですが、この終幕で、いよいよ最後の琉球王尚泰が那覇港から東京に出発するとき、見送りに来た人々にいうセリフが「戦さ世ん済まち・・・・・・・」なので、このあと散山節の絶唱で幕となる。というのが現在上演されている「首里城明渡し」です。
 ところが、昭和五年に発表された原作には、この那覇港の別れの場が無く、したがって「命どぅ宝」の名セリフも無く、散山節もありません。終幕は首里城から移った中城御殿(現在の沖縄県立博物館)で、尚泰が寂しく城を眺めて幕、となっています。「命どぅ宝」が出て来るのは、同じ山里永吉作でも昭和七年に発表され上演された「那覇四町昔気質~廃藩置県と那覇人気質~」という芝居の方なのです。この芝居もサブタイトルにあるように、廃藩置県をあつかった作品で、終幕は那覇港、船上の人となった尚泰が「戦さ世」のセリフをいい、地謡が同じ歌詞を散山節で歌って幕になります。「大詰めに散山節がはいって幕になるが、私の戯曲としては最初の試みである」と作者がわざわざ断っているところをみると、「命どぅ宝」の名セリフはこちらが本家でしょう。

 
 矢野の『沖縄芸能史話』の記述に反して、山里の「首里城明渡し」にはもともと「命どぅ宝」の歌はなかったというのである。山里にはもう一つ廃藩置県にかかわる沖縄処分を題材にした「那覇四町昔気質~廃藩置県と那覇人気質~」という作品があって、こちらの方に出てくるという。
 さらに、山里のこの二つの脚本のほかに、真境名由康(まじきなゆうこう)による「国難」という作品において、すでに歌われていたとある。この芝居では1609年、薩摩の侵略で破れた尚寧王が、首里城内で家臣一同との別れに際してこの歌を詠む。成立年月日ははっきりしないが、真境名の創作活動期から判断して、山里と同時期かそれ以降であろうと思われる。
 さあ、どれが真実なのか。
 沖縄芝居は、おおかたが口立てといわれるアドリブ演劇である。大まかな筋は決まっているが、上演にあたっては動きも台詞も役者まかせ、したがって、台詞などの詳細な記録は残らない。
 大正から昭和初期にかけて活躍した伊良波尹吉(いらはいんきち)という、尚泰王を演じさせたらぴかいちという名優がいて、彼が「首里城明渡し」上演の際、山里の脚本に「命どぅ宝」の歌を創作し加えたという説もある。
 
 結局、はっきりした原点は不明なのだ。しかし、この有名な「命どぅ宝」の歌が、明治初期の琉球処分で尚泰が城を出て行くときに歌ったものではなく、後の沖縄芝居のなかで歌われたことは間違いないようだ。脚本家の山里永吉、真境名由康、さらには役者の伊良波尹吉のいずれかが創作したのか、あるいは上演を重ねるごとにじょじょに完成されていったものなのか、これを突き止めるには相当な労力と資料の探求が必要だ。
 
Sai_on_2
 18世紀の琉球政治家、蔡温。
 
Saion
 1967年発行の『蔡温選集』(沖縄歴史研究会)。本当は全集が欲しいのだが、高価で買えない
 
 もう一つ、大田さんから重要なキーワードをいただいた。18世紀の琉球政治家に蔡温(さいおん 1682-1762)という人がいた。たいへん優秀な人物で、多くの著作を残したが、ほとんどが沖縄戦で消失したという。残された著作の一つに『教条』という名言集があって、漢文で書かれたものだが、そのなかに次のような意味の文章がある。
 
 何ものにも勝って命こそが大切である。他のすべてのものは失っても取り戻すことができるが、命だけは取り戻すことができない。何よりも命を大切にすべきである。(大田昌秀氏より)
 
 これはまさに、「命どぅ宝」の哲学を言い表している。

 まとめよう。
 1. 「命どぅ宝」の哲学は、18世紀の政治家蔡温によって語られていた。
 2. 歌の原型は、真境名由康の「国難」、山里永吉の「那覇四町昔気質」か「首里城明渡し」の脚本または上演時の台詞、いずれかがはじまり。
 3. 歌が広まったのは、伊良波尹吉ら役者の技量によるところが大きい。
 4. 以上から、琉球処分のときに首里城を去る尚泰王本人が歌ったものではない。
   大正から昭和にかけて沖縄芝居のなかで育ち、一般に広まり現代に至った。
 
 というところだろう。
 
 琉球・沖縄の人々に親しまれ尊敬された蔡温の哲学が、現代の沖縄の人々の心に伝わり残されていることは、沖縄近代史を語るうえで欠かすことができない。
 
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日米開戦70年とメディアの責任

2011年12月07日 | 昭和史
Kaisen
 
 大本営陸海軍部発表 帝国陸海軍は今8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイのパールハーバーを奇襲し、大国アメリカとの戦争に突入した。新聞をはじめとしたメディアはこぞってこの敗戦を支持し、国民を鼓舞させた。
 国民は熱狂し、当時の代表的な知性とされた小説家の伊藤整は「ああこれでいい。これで大丈夫だ」といい、俳優の徳川夢声も「身体がキューッとなる感じ」と語ったと、今朝の朝日新聞社説にあった。
 奇襲攻撃の裏には経済の衰退、政治の混迷、軍部の暴走など、さまざまに語られているが、政治家や軍人の一部には勝ち目のない戦争に反対するものもあったと聞く。しかしその声に耳を傾けず無謀な戦争に突入したのは、メディアの責任が少なからずある。
 政府によって統制されたメディアが、戦争に向かっての世論を形成したのである。

 インターネットが発達した現代でも、テレビ・新聞など大手メディアの影響は大きい。深くものを考えない国民の多くはメディアで黒といえば黒と信じ、白と翻れば「やっぱり白だった」と疑うことを知らない。メディアは、そうして世論を形成し為政者の都合が良いように国民をリードしていく役割も担っている。
 福島原発事故にかかわる放射能汚染も、政府が安全といえば安全とそのまま伝え、「ただちに」という有名な無責任発言も、その裏にあることは伝えることなく、そのまま報道した。
 「『ただちに』ということは、その後のことについては保障しないということだ。さらに、時をおいて差し障りが生じても、それは『因果関係が確定できない』という理由から、責任が問われることはなくなる」と〝ただちに〟推理できる国民は少数派だ。多くは「では安全なんだ」と思い込んでしまう。
 
 もう一つ、
 アテネ、北京両五輪の柔道男子で金メダルを獲得した内柴正人が、準強姦罪で逮捕されたという報道があった。マスコミはこぞって大罪人扱いだ。ところが、「あれは相手の女にはめられた可能性がある」という噂もネット上には流れている。被害届が出れば女性を守ることが司法の基本であるし、そうでなければ立場の弱い女性を守ることはできないから当然ではある。しかし、世に痴漢冤罪の事実は数知れない。気に入らない上司や同僚を陥れるために、友人に頼んで痴漢の罪を着せることが少なからずあるという。
 内柴正人の行動は軽率な部分も否めない。がしかし、真実が確定する以前から、マスコミが頭から「容疑者」「犯人」と決めてかかるのはいかがなものか。「容疑者」とは疑いをかけられたというだけで、罪が確定したわけではない。にもかかわらず、まるで判決が確定したかのごとく、メダル剥奪だの黒帯剥奪だのという話しが出ている。拙速すぎないか。
 メディアが「犯罪人」と同等の扱いをすれば、世間一般では「容疑者」イコール「犯罪者」と思い込む。
 どのような状況で何があってそうなったのか、真実は本人にしかわからないが、報道されている状況と本人のブログなどから判断して、女性には悪いが「さもありなん」と勘ぐってしまう人は、自分も含めて複数いるだろう。
 断っておくが、内柴正人をかばうつもりも、男に有利な発言もするつもりはない。こういう問題は慎重な上にも慎重に扱わなければならないことは重々承知の上で、もし被害者と加害者が逆であったならこれほど割りにあわないことはない。内柴正人の人生にかかわる。
 
 報道は表現が難しい。さらに、スポンサーで成り立っている民放は、視聴率と広告料が命の綱だ。それがたとえニュース番組であっても、視聴者の興味を引くような報道のしかたが選ばれるのだろう。
 そうであったとしても、メディアは、自らの影響を身を以て感じてほしいし、国民も、報道されることをただまともに受けるのでなく、「判断力」というフィルターを通して受け取ることが重要ではないだろうか。

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