ひまわり博士のウンチク

読書・映画・沖縄・脱原発・その他世の中のこと

岩井俊二「ヴァンパイア」

2012年09月23日 | 映画
Vampire
 
 岩井俊二監督の「ヴァンパイア」を観た。10年ぶりの長編映画だそうだ。一昨年公開された長編映画、「ニューヨーク、アイラブユー」では一部監督をしているが、単独作品は久しぶりだ。
 「LoveLetter」「リリイ・シュシュのすべて」「花とアリス」「四月物語」を観て、いずれもよかったのと、彼の脱原発や最近の尖閣問題に関わる発言に共感できたこともあり、この最新作はできるだけ早いうちにぜひ観ておきたいと思ったのだ。(「スワロウテイル」だけまだ観ていない。近々レンタルで観ることにする)
 
 観た感想を一言でいうと、これまでの祝い作品と比べて「難解」である。ただの吸血鬼ものの娯楽映画として観れば、これほどつまらない映画はない。しかし、それにしてもこの映像の美しさはなんだろう、とつい目が釘付けになってしまう。そして、「血」「死」「生」「人間」といったキーワードに、それぞれ込められた意味はなんなのかと考えざるを得ない。
 
 ここに登場するヴァンパイアは、美女の首に噛み付き血を吸うコウモリを人格化したあの卑俗的な存在とはまったく異なる。岩井俊二のヴァンパイアは、妖怪ではなく人間なのだ。そこにある種のメタファがあるのだろうが、いや、なければならないはずなのだが、それが見つからず、一晩悩んだ。
 
 この映画はカナダで撮影され、全編英語で台詞が語られる。出演者も留学生役の蒼井優以外全員が英語圏の俳優・女優である。(蒼井優の髪が、最近の似合わないショートカットではなかったのでよかった)
 ヴァンパイアのサイモンは高校教師で、アルツハイマー病の母親と二人暮らしで、ごく当たり前の生活を送っている。すでにこのあたりが、これまでの吸血鬼のイメージとは異なる。
 彼はネットの自殺サイトに集まる「死にたい少女たち」から血を採取しているうちに、やがて、純粋な愛に目覚め、生きることの意味を見いだしていく。
 
 この作品の製作中に、3.11が起きた。この映画がなにがしかのメタファであるならば、「血」とは命そのものであり、ヴァンパイアとは我々人間なのだと考えられる。基地問題も原発も、誰かの犠牲のもとに成り立っているのだから、そこで作られる「安全」とか電気を享受して「生きる」我々はヴァンパイアに他ならない。
 ただこの作品の原作は、3.11が起きる前に完成していた。だから、東電や財界をヴァンパイアに見立てたと考えるのはこの作品の本質を見誤る。
 この映画は「純愛映画」である。吸血鬼サイモンは、死と対面し続けることで生きることと愛の意味を具現化していたのだろう。
 サイモンの母親は、体重による足腰の負担を軽減するために、多数の風船を身体につけている。しかしその風船を持たないサイモンが、最後の場面で短時間だが身軽に跳躍する。そして、新たな一歩を踏み出したかのように見えたサイモンだが、ヴァンパイアをやめることはできなかったようだ。
 
 それにしても、難しい。難しく考えるから難しいのか、ほんとうに難しい映画なのか、それもよくわからない。これはやはり、DVDを購入して繰り返し観なければと感じた。
 ともかく、ややこしい理屈は抜きにしても、感性を激しく揺すぶられる映画であることは間違いない。
 
 もう一度言う。
 「あの映像の美しさはなんだろう」
 
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「いじめ」と「尖閣諸島」

2012年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
 とりあえず、二つのことについて書いておきます。
 一つは「いじめ」についてで、もう一つは「尖閣諸島」の問題についてです。全く別個に見えるこの二つの問題が実は、根源的に同一であるからです。
 それは、「ナショナリズム」です。ナショナリズムは差別意識によって構成されています。具体的にどういうことなのか、少し長くなりますがかいつまんで述べていきたいと思います。


 まず、「いじめ」は子どもたちだけが考え出し実行したものではありません。誰かから教わったか、誰かの行為から学んだかのいずれかです。その誰かとは当然大人たちであるということは、すぐに思い当たります。
 
 この世に生を受けた子どもは、その瞬間からもっとも身近な大人である親から様々なことを学びます。最初の言葉は間違いなく親から学びますし、ものの扱い方もそうです。物事の善し悪しも、基本的に親の判断をそのまま踏襲します。
 
 幼い子どもにとって親は至高の存在ですから、疑う余地などまったくありません。自分の親から、「あの子は汚いから」「あの子は貧しい家の子だから」「病気がうつるから」「頭が悪いから」、だから一緒に遊んではいけません、などと、これまで砂場で仲良く遊んでいた子どもたちから自分の子どもを引き離し、親の眼鏡にかなった子どもとだけグループをつくって、手も服も汚れない「上品」な遊びを子どもに勧める親もいます。ホントです。
 
 こういう話はテレビドラマなどでよく見かけることですが、多少の誇張はあるものの、実際に存在する出来事が大半です。ドラマなら「なんてひどい親たちだろう」と、問題を解決しようと孤軍奮闘する熱血先生を応援したりもします。ところが、自分が同じようなことをしていても、それには気付いていない場合がほとんどです。テレビに登場する理不尽なモンスターペアレントと自分自身を重ね合わせることは決してしません。
 
 また、親同士のうわさ話も、子どもたちの耳に入ります。誰々の親が犯罪を犯したとか、会社が倒産したとか、離婚したとか、不倫がばれたとか、そんな話をさも楽しげに昼間のリビングで高価な紅茶をすすりながら話し、そのまま家に持ち帰ってご主人に自慢げに話すのを、子どもはそれとなく聞いています。具体的な内容はわからなくても、子どもたちは「そうか、他人の不幸って面白いものなんだ」と、真っ白な心に「差別意識」が刷り込まれていくのです。
 
 子どもが親の影響を最も強く受けるのは、3歳から7歳の間といわれていて、その間に物事に対する判断の基幹部分が構成されます。これは、性格や人格の根本を成すものです。
 7歳以降になると義務教育が始まります。子どもの行動範囲や交友関係は大幅に拡大し、7歳までに芽生えた思考の基幹にそって人格が構成されていきます。そうして、ほぼ15歳くらいまでに、その人の人格の基礎が出来上がり、以後、それをもとに人生経験を積み、社会性を身につけて、大人になっていくのです。
 15歳までに出来上がったシナリオに、演出やアレンジを加えて以後の人生を送っていくということになります。何ともおそろしく残念な話ですが、どうもこれは事実のようです。
 このシナリオを、ライフ・スクリプト(人生脚本)と呼んでいる心理学者もいます。
 
 親から刷り込まれた差別意識が暴走するのは、15歳ころまでの社会常識がきわめて希薄な時期です。陰湿で過激な「いじめ」が、おもに中学校で行われているということからも頷けます。
 本質的に自分が悪いことをしているという意識がなく、もし「悪いこと」と思っていたとしてもそれは、先生など一部の大人からそう指摘されたからであって、自分自身で判断したことではありません。したがって、ある「いじめ」のやり方が注意されたとしても、他のやり方で「いじめ」が行われることになり、終りがありません。
 たとえば、教科書に落書きするのは悪いことだけど、帽子やランドセルを池に放り込むのならいいだろう、とまあ、ちょっと極端ですがそういうことです。
 大人はそういうことはしませんが、一人の人を取り囲んで糾弾したり、ネットで悪口を広めたりするのも同じことです。大人のいじめは狡猾になって、法に触れるぎりぎり手前のことをやるようになります。
 大人の世界で恒常的に存在する差別やいじめが、子どもたちを「いじめ」に走らせるのですから、子どもたちの間で表面化した「いじめ」だけに目を向けるということは枝葉末節であり、何ら根本的な解決にはなりません。
 
 「尖閣諸島」問題の根源はやはり、差別であり「いじめ」です。
 冒頭に「ナショナリズムは差別によって構成される」と書きました。改めてここにナショナリズムとは何かということを定義しておきます。ナショナリズムとは、自国あるいは自民族が最も優秀で秀でていて、他民族はすべて劣等民族であって排斥されて然るべきものであるという考え方です。
 典型的な例は、太平洋戦争以前のナチスドイツや日本(大日本帝国)がそうです。ナチスドイツでは、ドイツ人が世界で最も優れており、劣等民族であるユダヤ人は世界から抹殺すべきだという考えのもとに行われたのがホロコースト(大虐殺)です。大日本帝国憲法下の日本では、日本古来の宗教である神道をモデルに、天皇を頂点とした国家神道を作り、「八紘一宇(はっこういちう)」の名のもとに、中国や朝鮮を侵略していきました。八紘一宇とは、日本が中心になって世界中を一つの国として統治するという意味で、他国を見下した驕った考え方で、日本の侵略行為を正当化するために使われました。
 おわかりのように、ナショナリズムは他国や他民族を差別する考え方です。自分の国を愛することは決して間違ったことではありませんし、実際そうあるべきです。しかし、そのためによその国を差別し、侵略や略奪をおこなったり、のけ者にするべきではないことは誰にでもわかりそうなものです。ところが世の中には、東京都の石原慎太郎知事のように、中国人を「シナ人」と言って差別する人間は少なくありません。わが杉並区にもそんな弁護士がいました。「北朝鮮では子どもたちもスパイだから、小学校の催しに招待するべきではない」と、日本に住んでいる朝鮮の幼い子どもまでのけ者にしようとしたのです。そんな人間が弁護士の資格を持っていること自体驚きです。
 
 ナショナリストの根本にあるのは、「恐れ」です。自分に対する自信のなさです。他人を差別しいじめることで、自分自身がいじめられる立場になることを防いでいるのです。すなわち、ナショナリズムとは、他民族、他国家から自分たちが排斥されるのではないかという恐れから、相手から差別を受ける前に身をまもるという考え方です。
 もし、中国や韓国に対する差別意識がなければ「尖閣諸島問題」も「竹島問題」も起こらなかったでしょう。最初から何の問題にもならなかったはずです。もちろん同等のことが韓国や中国にも、ついでにアメリカにも言えるわけですが、こと今回の「尖閣諸島」に関しては日本に問題があります。
 
 それは、はじめから「尖閣諸島」は日本のものと決めてかかっていることで、議論の余地をなくしていることです。日本の国内にも「尖閣諸島を日本の領土と決めてかかることは疑わしい」とする学者や研究者がいます。ところがそういう意見は「中国の回し者」「共産主義の手先」といって、論議の俎上に乗せようともしません。
 おどろくのは「尖閣諸島」については、朝日新聞も共産党機関紙の赤旗までもがナショナリズムに同調し、マスコミのすべてがナショナリズムと化しています。
 
 「尖閣諸島」がどちらの領地であるかという以前に知っておくべき背景があります。
 中国には歴史的に他国から侵略され差別され続けてきた事実があります。特に日本からは「満州(東北地方)」侵略、三光政策、南京事件を始め、虐殺強奪による多大な被害を受けてきました。中国ではそういった歴史的事実を学校で教えていて、それを日本では「反日教育」と呼んでいます。
 しかし日本では、旧日本軍が中国で行ってきた残虐行為を日本の学校で教えることはありません。ですから、日本と中国が、歴史的に(特に明治以降)どのような関係であったのか、日本人の多くは知りません。
 今回の「反日」デモは、日中の近代史を学んだ若者たちが、「日本は中国人をどこまでいじめれば気が済むんだ」という怒りの爆発です。「尖閣諸島」は引き金に過ぎず、根源は中国に対する歴史的かつ構造的な差別です。
 
 「満州国」時代に、日本人が中国人に対してどんないじめを行ってきたか、以前、身近な人から実体験を聞いたことがあります。
 「かわいそうだと思わないでもなかったけれどネ、みんながやっていることだったから。それに、へたに庇ったりすると、非国民にされるしネ」
 どこか、現在の中学校のいじめと考え方が似ていませんか。
 外国の学校でも、日本のアメリカンスクールでも「いじめ」はあるそうです。しかし、人間としての尊厳を奪い取るような、陰湿な「いじめ」は日本独特のものだと、外国の生徒たちは口を揃えます。
 やはりそこには、明治時代から続く日本型ナショナリズム、国粋主義が現在も根強く残っていることが原因と言えるのではないかと思われます。
 
 「いじめ」をなくすのには、目の前で起きていることを解決すると同時に、まず、子どもたちと直接接する先生や親とその周辺の人々から、差別意識をなくすことです。子どもにだけ原因を求めるのは枝葉末節です。
 
 不幸な出来事に遭った人を見て、「ざまあ見ろ」と思った。
 不幸な出来事に遭った人を見て、「気の毒に」と思った。
   どちらも差別。
 ホームレスを見て、「汚らしい」と思った。
 ホームレスを見て、「ああはなりたくない」と思った。
 ホームレスを見て、「かわいそうに」と思った。
   どれも差別。
 
 不幸な出来事に遭った人も、ホームレスも、自分と同じ人間。けっして気の毒でもかわいそうでもありません。
 
 日本には「お気の毒に」という相手を慰める挨拶があります。ところがそれを言う人の根本には、「自分はそうではない、そうなるはずもない」という思いがあります。「お気の毒に」と言った瞬間に、自分が相手より上位に立っていることを感じるはずなのです。とっても日本的な差別意識だと思います。
 
 江戸時代の身分制度が士農工商であることは誰もがご存知のはず。生かさず殺さずとした農民に対し、上を見るな下を見て暮らせと、士農工商の下にエタ、という身分を作り差別の対象としました。かれらは、一般の庶民とともに暮らすことを許されず、与えられた地域にを作って住まわされました。それが被差別のルーツです。比差別の出身者は現在でも差別の対象とされることがあり、問題は残されています。
 
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真珠の耳飾りの少女

2012年09月10日 | アート・文化
Mauritshuis
 
 混雑を覚悟で、マウリッツハイス美術館展に家族で出かけた。目当てはもちろん、「真珠の耳飾りの少女」(ミーハーだもので)。
 人気の展覧会に行く度にその混雑に辟易として、「今度からは平日にしよう」と言っていながら、性懲りもなく日曜日に出かける。まったく学習しない家族である。
 上野地区ではこの日、いくつかの大きな展覧会が重なっていて、改札を出た瞬間に人の波。この人込みの多くは、たぶんツタンカーメン展目当てなのだろうと思うことにした。途中、ツタンカーメン展が開催されている上野の森美術館の入口では時間制限が行われていて、入場まで1時間待ちだの2時間待ちだのという声が聞こえていた。やっぱり!
 ツタンカーメンは前回来日したときに見ているし、もともとそれほどの興味はない。
 
 目的の上野動物園横のマウリッツハイス美術館展は上野動物園脇の東京都美術館で行われている。まさかと思った。こちらも入場制限だ。入場まで50分待ちと出ていたもので、並びかけたものの「平日に出直そう」と帰りかけたら係員に呼び止められた。
 「今日の方がいいですよ、これからは平日でももっと込みますから」
 ほんとうかどうかわからなかったが、並び直した。すると、思いのほか列がすすんで、30分ほどで入場できた。短気は損気である。
 
 会場内は入場制限の効果もあって、普通の込み方だった。
 いつも思うのだが、日本の展覧会場で設けられる足下の柵は実に邪魔である。これまでに観た海外の美術館の多くは柵などなくて、至近距離に顔を近づけてみることができる。絵画というものは、何メートルも離れていては観ることのできない細かな表現や筆のタッチがあるのだ。ただその場に人を呼べばいいという、金儲けだけが目的の展覧会が日本で開かれる展覧会なのだ。
 マウリッツハイス美術館は邸宅を美術館にしたもので、少ない点数ながら17世紀オランダの美術を中心に優れた作品が多い。同じような規模の美術館がアメリカのボストンにあることを思い出した。
 「イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館」である。だいぶ以前に所用でボストンに出向いた際、時間に余裕ができたので立ち寄った。小さい美術館ながら、フェルメール、ボッティチェリ、レンブラントなど、日本ではめったに観ることのできない名画がずらりと並んでいた。
 絵の前に柵などないし、写真撮影も自由だ。ただ、アメリカの美術館に共通しているのは、なぜだかビデオ撮影は禁止されている。いまだに理由はわからない。
 もっとおどろいたことに、帰国してまもなく、この美術館が盗難にあって、フェルメールやレンブラントがごっそり持っていかれたことだ。渡米が数日遅れていたら、観ることができなかった。
 盗まれた作品は、いまだに発見されていないという。
 
 さて、今回のマウリッツハイス美術館展ではフェルメールの「耳飾りの少女」に話題が集中しているけれども、レンブラントやルーベンスなど、おなじみの巨匠の作品も多く展示された。
 しかし美術に特に精通しているわけではない僕は、そうした巨匠たちの作品もさることながら、これまでなじみがなかったライスダールやホッペマの風景画にひかれた。精緻な筆致で描かれたのどかな風景の中で、人々や動物たちが暮らしを営む。小さく描かれているからといって、全く手を抜くことなく、わずか1センチに満たない大きさの人物の、表情が思い浮かぶのだ。すごい!
 風俗画もいい。オスターデの「ヴァイオリン弾き」など、ぼけーっと座った子どもの靴は片一方なかったり、大きなジョッキを片手に酔っぱらった労働者は、今にもクダをまきそうだ。まるで、堤幸彦の映画のように、画面の隅々まで目が離せない。
 めったにないことだけれど、静物画にも感動した。当時は写真の代わりでもあった絵画だが、写真では表現できないことが、油絵にはできるということも、この時代の静物画を観て気付かされた。長くなるので詳細は書かない。 
 
 さて「真珠の耳飾りの少女」だが、一番近くで観ることができるコースでは立ち止まれない。わずか数秒しか観られないのだ。「立ち止まれません。歩いてのご鑑賞となります」と係員が急かせる。これはずいぶん昔、ミロのヴィーナスが日本に来たときに初めて行なわれた方式で、不評だったものだからその後は行われていなかった。ようするにチラリとしか見ることができないのだ。ゆっくり観るためには、その「最前列」の後、数メートル離れたところからしか観られない。こうなると、写真や複製画を観ているのと同じで、わざわざ会場に来た意味がない。
 双眼鏡を持ってくるんだったと後悔した。
 うしろから美大生らしい若いカップルの会話が聞こえた。
 「耳飾りを目立たせるために、普通より大きく描いているんだって。あんな大きな真珠ってめったにないから」
 「へえ、そうなんだ」
 「あんな真珠、数億円するだろうって先生が言ってた」
 どこの美大だろう、何を教えているのか彼等の教授(講師?)は。
 それにしてもフェルメール人気はすごい。数年前までは見向きもされなかったのに、「牛乳を注ぐ召使い」だったか「手紙を書く女」だったかがコマーシャルに使われてからだ。そして、「真珠の耳飾りの少女」で極まった感がある。
 この絵のポイントは耳飾りではなくて視線と口元だと思う。フェルメールの才能は、見る側に語りかけてくるような、テレパシーともオーラとも表現できそうな雰囲気だ。
 新聞広告で、女優の武井咲がそっくりさんをやっていて、それはそれでよくできていたけれど、あくまでも形だけのまねに過ぎない。武井咲が、あの表情を理解していたとは到底思えないし、カメラマンがフェルメールの意図を把握した上で撮影したとも思えない。
 写真や複製では決して描ききれない付加価値をこの絵に感じた。
 
 展示の仕方やプロモーションには不満が残るが、全体的に内容のすばらしい展覧会であった。暑い中を並んで損はなかった。疲れたが。
 
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松林宗惠監督「風流交番日記」

2012年09月01日 | 映画
Koban1
Koban2
 
 この映画を初めて観たのは、小学生のとき、それも教室でだった。公開されて間もないこの映画のフィルムが16ミリになってなぜ学校にあったのかはわからないが、一度ならず観た記憶がある。
 教室で映画を見せるのは、教師の都合で自習になったり、他のクラスと授業の進行速度をあわせるための時間調整だったりする。現代では考えられない。
 戦後の小学校では、授業の一環として児童が揃って映画館で映画鑑賞をしたり、16ミリに落とした劇映画を一つの教室に一学年を集めて観せるということはしばしばあった。多分、教師も教室も不足気味であった当時、上級生が映画を観ているあいだに、空いた教室で下級生が授業をやったり、あるいは教師が会議に入ったりしていたのだと思う。
 戦後の産めよ増やせよのいわゆる団塊現象で、子どもの数が急速に増えたのに教室が足りず(もちろん教師も)、午前と午後の2部授業というのもあった。
 テレビがまだ普及していなかった時代、映画は娯楽の王様だった。夏休みには校庭で映画鑑賞会が行われたりもしていた。それで記憶に残っているのは「ダニー・ケイの牛乳屋」。
 
 で、この「風流交番日記」、公開は1955年、ちょうど敗戦から10年目だ。監督の松林宗惠(まつばやし・しゅうえ)は僧侶でもある、希有な体験を持つ映画監督だ。
 交番は新橋駅前に実際にあった。鉄筋コンクリート造りの立派な建物である。駅周辺はまだ閑散としていて交通量も少ない。
 出演は、若き日の小林桂樹、宇津井健、ベテラン巡査として志村喬。ヒロインは当時を代表する美人女優の安西郷子。三橋達也の細君になった人だ。ほかに、のちに明智小五郎で名を挙げる天知茂や、丹波哲郎らも端役で登場する。
 
 ストーリーは、現在ではあり得ないことの連続である。美人令嬢の好感を得ようと手錠を見せ、あげくふざけて彼女の手と自分の手を手錠でつないでから、鍵を忘れたことに気付いたり、勤務中に結婚披露に招かれて制服のまま酒を飲んだり、札つき美人詐欺に百円捲き上げられてしまう警官もいる。
 コメディーであって深刻な話はない。たいした事件も起きず、警官たちはいずれもお人好しで気さく、どちらかというとのんびりした映画だ。
 まだ戦後色の強い時代、戦時中の特高や憲兵などのイメージを払拭したい民主警察が、「愛される警察」の宣伝を目的とした映画ではないかと勘ぐりたくなる。いや、実際その目的はあるのだろう。
 街の風景や警官の日常など、現代ではとても信じられないようなことが当たり前に行われている。そのあたりを見比べてみるのも面白い。
 
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