ひまわり博士のウンチク

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荻外荘(てきがいそう)公園

2015年03月14日 | まち歩き
 近衛文麿の別荘「荻外荘」を杉並区が買い取り、公園にする計画になっていたところ、今日から公開というニュースを新聞で見てさっそく出かけた。
 

芝生が敷かれ、子どもの遊び場にされてしまった「荻外荘」の庭。奥の日本建築が「荻外荘」。
 
  「荻外荘」は荻窪駅から南へ徒歩数分のところにあり、近くには大田黒公園や角川庭園など、かつての大邸宅を杉並区が買い取ったり寄付されて整備した公園がある。
 「荻外荘」も同様に、日本庭園と資料館をあわせたような公園になっていることを期待して出かけていった。
 初日とあって、近隣の人々が近衛邸の方向に向かっているのをちらほら見かける。
 

「荻外荘」の正門。表札ははぎ取られたまま、まだ整備されておらず、一般公開までの道のりは遠そうだ。
 
 大田黒公園の前を過ぎ、緑化園を過ぎたところに古びたもんがあり、そこが近衛邸「荻外荘」だ。ところが、門は閉まっている。今日開園のニュースを知ってきた何人かが、呆然とたたずんでいた。
「おかしいな、裏に回ってみよう」と坂を下って庭園の方にまわる。
 なんと、芝生の子ども公園になっていた。何たることか。ここは日本庭園と小さな田圃があったはずのところだ。探訪は水戸光圀の小石川庭園に倣って、農民の苦労を体験するという名目で作ったどう見ても趣味の域を出ない小さなもので、お殿様や貴族のポーズである。
 かつての「荻外荘」に思いを馳せ、懐かしさに惹かれてやってきたお年寄りたちもがっかりした様子だ。
 もう一度門の方にまわってみると、石畳の通路と並木を分ける手すりのようなものが新しく作られている。ということは、いずれ整備して公開するのだろうと期待したい。
 ところで、写真の向かって右側の門柱には、「近衛」と書かれた陶製の表札が埋め込まれていたはずだったがなくなっている。もう近衛家のものではなくなったので意図的に外したのか、それとも盗まれたのか。
 
 「荻外荘」は歴史的な建物である。言ってみれば、大田黒公園や角川庭園よりも遥かに資料価値がある。
 アジア太平洋戦争中は、重臣たちが丁々発止と意見を戦わせ、近衛文麿は吉田茂と膝を付き合わせて、戦争早期終結のための奏上書を書き上げた。残念ながら、奏上書は陸軍のスパイによって発見され、吉田も近衛も拘束され、天皇のもとには届かなかった。
 
 敗戦後、A級戦犯として出頭を求められた近衛は、出頭の日の前日、服毒自殺を遂げる。それも「荻外荘」であった。
 近衛内閣当時は、後の吉田茂の「目黒の公邸」、鳩山一郎の「音羽御殿」、田中角榮の「目白御殿」がそうであったように、第二の首相官邸の役割を持った。
 「荻外荘」の名は荻窪の外だからで、名言・格言的な意味はない。
 
 そういう重要な建物なのだから、資料的な価値を維持しながら一般公開できるようにしてほしいものだ。
 
 息子が暇そうにしているので、一緒に行ってみるかと声をかけた。
「どこいくの?」
「荻外荘、近衛文麿の元別荘だ」
「テキガイソウ? 敵が居そう?」
 たしかに、「荻外荘」には敵も味方もいた。


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