朝日新聞に掲載されている大江健三郎氏の「定義集」で興味深い内容にであったので久しぶりに書いてみます。
「現在の自分再読で発見」というタイトルに、「人には何冊の本が必要か」というサブタイトルがついています。
新制中学の生徒だった時に、先生に借りた岩波文庫の『トルストイ日記抄』を不良少年たちにとがめられた経験から始まる話が「人には何冊の本が必要か」。
本を貸してくれた先生は、「人はどれだけの土地が必要か」というトルストイの寓話と取り違えたのかもしれない、といいます。
青年期以後、人には何冊の本(を持っていること)が必要か、という問題は、収納スペースのかたちで私に取り付きました。家族ができると、住宅事情の切実さも加わってある期間ごと大幅な整理をする必要が生じました。十日ほどかけて選別し始末した本がすぐにも必要となり、買い戻す。そうしたことが繰返し起こったものです。
最近の若い作家たちはいざ知らず、ぼく世代以上の物書きといわれる人たちは、大体において蔵書家でもあります。ぼくの父親もそうで、ぼくの現在の蔵書の三分の一程度はそれを引き継いだものです。
『マルクス・エンゲルス全集』などは、父の生前に完結せず、「お前が完結させろ」といわれている気がして、それからさらに何年もかかった全集を、別巻まで含めて揃えました。
こうした、処分するわけにはいかない蔵書以外、とくに仕事で参考資料として購入したものは用が済めば処分するべきなのでしょうが、それがなかなかできません。実際、大江さんではありませんが、なぜか処分した本に限ってすぐに必要になったりするものです。
同じ本を二度三度と繰返し買い直したこともある反面、処分したと思って買い直したものが、蔵書していたという、なんともおっちょこちょいなこともやらかしています。
「定義集」は朝日新聞の書評に掲載された、フリーマン・ダイソンの『叛逆としての科学』の話題に移ります。
大江さんは二十年前に同じ著者の『核兵器と人間』から再録されていた論文の一つに懐かしさを感じ、蔵書の山の中から今は絶版になったその著書を“掘り起こ”します。
深夜、書庫に入り込んだ私は、その奥に平積みしてある山に見当をつけて掘り進めました。やっとのことで探し出し、自分がかつて読み・再読して引いた赤鉛筆の傍線と、新著の達意の訳にあらためて傍線したところをくらべてみました。ダイソンに対してというより、いま現在の自分について発見があります。
本を“掘り進む”という体験は、並の読者には理解しにくいかもしれません。書棚から溢れ出しその周囲に積まれた本の山の中から一冊を見つけ出すという作業は、遺跡の採掘に似ています。
で、良い本は何年もたってから読み直すと、自身のこれまでの体験・経験が加わって、新しい感動を呼び起こすことが少なくありません。詳細はここでは書ききれませんが、ぼくにとっては岩波新書の向坂逸郎著『資本論入門』などがそうでした。
フリーマン・ダイソンはノーベル賞を受賞してもおかしくない物理学の巨人ですが、核の廃絶と平和構想について卓越した文章を書いています。
大江さんが書評で知ってすぐに取り寄せて読みはじめたという『叛逆としての科学』のような大著を、じっくりと読む余裕は今のところぼくにはないのでとりあえずスルーするつもりでいますが、大江さんが感銘を受けたという論文「平和主義者たち」は機会をつくって読んでみたいと思います。
「定義集」は10月21日付の朝日新聞朝刊、『叛逆としての科学』の書評は、9月7日の読書欄に掲載されたもので、以下のサイトで読むことができます。
http://book.asahi.com/review/TKY200809090097.html
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