旧:鳳凰堂のランダムウォーカー <伏見の光>

2019.4.22以降、新規の主要な記事は新サイト「fusiminohikaru.net」
で書いています。 

特別支援教育 4 「こんな夢を見た」2

2012-05-17 19:12:34 | 特別支援教育
 で、その夢ですが・・・。

 まず、私が主に担当していた子ども、亡くなった子どもですが、を、なぜか、私が自分の
家に連れて帰っている。
 
 これは当時の実際に自分が住んでいたところ。自分の子どもが小さい時はしばらく奥さんの
実家にいたのですが、まさにそこ。

 連れて帰った子どもはちょっと具合が悪くて、ぐったりした感じなのです。

 現実にはもちろん仕事で担当している子どもを自宅に連れ帰るなんていうことはないわけです。
 ですが、最重度の子どもたちの場合は、担当の教員と一対一で過ごす時間が長くなることが多く、
場合によっては9時すぎから3時頃までずっと一緒に過ごす日が多くなったりすることがあります。

 自宅から通っているわけではない、病院の看護の体制は人の人数としては常に厳しい状態ですか
ら、そんなに一人一人の入院している人らにゆっくり関わったりできない、つまりは、その子の
その時点の生活の中で最も濃密に関わる大人が担任の教員だったりすることは、まあ、普通にある
わけですね。教員の側にしたって、例えば自分の家に小さい子どもがいたとしても(実際、いましたが)、
その子関わる時間はこんなに長くはならない。
 そういう中では単に指導・被指導の担任と児童という関係以上の人と人との関係性というのが
深まりやすいということがあります。これは、場合によってはマイナス、よくない方向に作用したり
することもあるのですが。

 だから、いわば「家族」的に自分が担当している子を自宅に連れ帰ってしまうような場面というの
が夢の中に違和感なく出てくる、これは自分の側の深層というか潜在的心理の反映でしょう。

 で、その子をフロアチェア、床におく椅子にちょんと座らせる。

 うちの奥様は「あら、連れて帰ってきたん。具合悪いのんと違うの?」とか、これも普通に言ってる。
奥さんも前は同じ学校で仕事をしてましたから、状況はまあわかってるわけです。
わかってるにしたって、そこで普通に喋ってるというのが、またおかしいところではあります。

 ここからがこの夢のメインのところでして、

 私がその椅子に座らせた子の前に行くと、子どもが手を少し挙げるようにしたので、私はそれに応じる
ように、ちょうどETの映画で指と指が触れ合う場面のように、自分の指先とその子の指先をくっつけた
のです。

 すると、なにかシュルシュル~というような音がして、なんとその子は指先と指先がふれあっている
その場所から、スーッと私の体の中に全部吸い込まれてしまったのです。

 「えーっ!なに、えーっ!」みたいに私はすごくあわてます。

 「ちっょと、今、ここにおった!、ここにおった!」とか、奥さんに言って、もう混乱をしている。

 混乱しているのだけれど、同時に、その子が自分の体の中に吸い込まれたことは全然不快ではない、むしろ
なにか暖かい気持ちになっている。だけど、やっぱりその状況が理解できずにあわてている、そんな感じ。

 ここで夢は終わりです。

 あんまり情緒的になるのは好きでもないのですが、この夢を見てから、その子は自分の中にいると思うように
しています。

 まあ、いつもこんなことを考えるわけではないのですが、今でも時々思い出すのです。これは、どうだろう、
もう15年以上前のことですが。

 で、この子に怒られないように、恥ずかしくないように頑張らないといけないな、とか時々考えていました。

 ということで、この子は亡くなっても、ずっと私に対して影響を及ぼしているわけですね。

 人は人と人との関係の中で成長したり発達したりする。この子の命の意味とかこの子と出会った意味という
のは、少なくとも私にとってはかなり大きかったわけで、それは、ある意味、人の命が存在する意味とか価値と
いうことにつながるのではないか・・・、とか思ったりしました。

 はい、「こんな夢をみた」、おしまい。

 これ、書いてよかったかな?、と今、ちょっと自分の中にいる彼に聞いておきました。
 


 



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特別支援教育 3 「こんな夢を見た」

2012-05-17 06:19:06 | 特別支援教育
特別支援教育 3 「こんな夢を見た」



 初めて勤めた養護学校は病院が隣接している学校でした。区分としては「病弱養護」ということになります。

 旧の国立療養所、現在は独立行政法人国立病院機構だったかな、には、重症心身障害児の入院する病棟が設置
されているところがあります。そこに入院してる学齢の子どもたちは、入院したまま病院から学校に通います。

 当然、体調面での弱さを抱えている子どもたちであり、命のぎりぎりのところで頑張っている子どもたちもい
ます。そのため、ほとんど毎年のように亡くなる子どもがありました。

 理解はし、覚悟はしているつもりであっても、子どもらの死に直面するというのは、様々な面で厳しいところ
があります。特にそれが自分が直接担当している子どもであった場合などは、仕事の上での自己の存在価値を
考えたりすることになります。

 体調が悪く非常に厳しい状態が続いていれば、それなりの覚悟というか気持ちの準備のようなものができるの
ですが、そうではない、唐突な死というのもあります。

 ある朝、職場へ行ってみたら、昨日まで学校に来ていた子が亡くなっていた、そういうケースもあります。
私自身、かつてこうした事態に直面しました。

 その時の感情は、すぐには悲しいというような気持ちがわいてこなかったのをおぼえています。呆然というの
に近い。 それで、その次に感じたのが、妙な怒りのような感情。
「おまえ、何、勝手に死んでんねん!。俺はどうすんねん!」こんな感じに近い。

 で、お通夜に行ったり、告別式に行ったり。何度、そんなことをしたのか・・・。もちろん、直接自分が担当し
ていない子どもの場合の方が多かったですが。

 日頃、夢はあまりみません。見ているのだろうけど、おぼえていないことが多い。

 また、夢の内容を長くずっとおぼえているということも少ないです。なぜか、大学の卒業論文が書けない夢とい
うのを年に何度かみて、それはだいたい状況が同じなのでおぼえていますが。

 そうした中でとてもよく覚えている夢があります。 

 えーと、それはまた次回に。全然、夢の話になってない・・・。
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特別支援教育 2 特別支援学校教員にとって必要な資質とは?

2012-05-17 00:23:55 | 特別支援教育
特別支援教育 2 特別支援学校教員にとって必要な資質とは?

☆特別支援学校の教員をめざされている方で、検索等からこの記事を見てくださる方があるようです。
このブログは雑多な内容を書きなぐっています。特別支援教育関連の内容はあまり多くありませんが、右側のカテゴリー分類のところから「特別支援教育」を選択、クリックしていただくと、関連記事のみが一括して表示されますので、よかったら御覧ください。

現在、このブログは新規のサイトに移行しています。
この記事についても、追加のコメントを以下のサイトに記載しています。
特別支援教育 2 特別支援学校教員にとって必要な資質とは?」を参照していただければ幸いです。



以下、2012記載の本文。趣旨については現在も同様に考えています。
(2019.5追加記入)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これは以前にどこかでもう書いたのだけれど、数年前、同僚の先生と「特別支援学校の教員にとって大事なことはどういうことかな」と
いう話をしたことがあります。別にあらたまってしたわけではなくて、雑談的にですが。

 単純に言うなら
「児童・生徒の実態や課題を正しく把握し、それに基づいて適切な指導ができること」なんていうことになるのでしょうけど。
それはそうで、これについてはまた書こうかなと思いますが、

 私がその話の中で挙げた大事なことは「共感する力」です。
 それは、もちろん子どもたちに共感するということもありますし、保護者に共感するということもあります。

 「やったー」「できたなー」「なんだろう?」「おかしいなぁ!」「大変やったね」「頑張ったね」「しんどかったね」
言葉で共感を表現することはできます。
 また、共感したふりをすることもできます。 それはそれで大事なこともあるかと思いますが、根っこのところで、本当に
「共感する」ことができるかどうか。場合によっては、これは難しいことがあるかもしれない。

 でも、特別支援学校の教員にとっては、この根っこのところでの共感する力というのはすごく大事だと思います。

 もうひとつ挙げたのは「幅広い文化や芸術にふれ、そこから色々なことやものを吸収できる」というようなこと。

学校教育というのは文化を伝えるという意味が大きい。それは特別支援教育でも同様ですが、あらかじめ定められた一定の内容
を基本にして授業をすすめるというよりも、クラスや個々の子どもらの実態に応じた授業を自分たちで創造していかなければならない
という面が大きいです。

 そういう時に、文化を伝える側の教員の中に、その豊かな蓄積や多くの引き出しを持っていなくて、どうして豊かな授業がつくれるのか。
まあ、これは自戒の念もこめて書いてるのだけれども。

 音楽、歌や演奏、とりあげる題材、話す言葉や台詞、使う教材や教具、それらのすべてが必然的に教職員、教職員集団の文化を反映して
しまうことになる。

 としたら、それは小説でも、絵本でも、音楽でも、演劇でも、映画でも、絵画でも、陶芸でも、木工でも、とにかく幅広い文化に広くふれ
てそこから何かを吸収すること、自分の中に取り入れ幅を広げることはとても大事になる。

 ひとつの事について深く追求していくのもよいし、幅広く様々な経験を広げるのもよい。一見、日々の教育活動と直接には関わりがない
ように思えることがあるかもしれませんが、それは何かの形で日々の実践の中に生きてくることというのはあると思います。

 だから、やはり「いい文化」、何がそうなのかは難しいですが、あー、食文化というのも非常に大事ね、ふれる機会というのは大事にし
常にそういう志向を持っていたいものだと思います。

 有名な谷川俊太郎さんの詩です。特別支援教育の視点で、読んでみてほしいです。

「 生きる   

                                     谷川俊太郎

生きているということ

いま生きているということ

それはのどがかわくということ

木漏れ日がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみをすること


あなたと手をつなぐこと



生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして
かくされた悪を注意深くこばむこと



生きているということ

いま生きているということ

泣けるということ

笑えるということ

怒れるということ

自由ということ



生きているということ

いま生きているということ


いま遠くで犬が吠えるということ

いま地球が廻っているということ

いまどこかで産声があがるということ

いまどこかで兵士が傷つくということ

いまぶらんこがゆれているということ


いまいまがすぎてゆくこと



生きているということ

いま生きてるということ

鳥ははばたくということ

海はとどろくということ

かたつむりははうということ



人は愛するということ


あなたの手のぬくみ

いのちということ」





 



コメント (2)
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