monologue
夜明けに向けて
 




蜂窩織炎の治療中、次々にやってくる看護師さんたちはみんな違う尋ね方で同じことを尋ねる。ロックンローラーなの?洋楽のミュージシャンなの?ロックをやってるの?などなど、それぞれに応える時ロックンロールとロックの違いなどすこしだけ説明して、日本で英語の歌を歌っても通じないのでしかたがないのでアメリカに行ってロックミュージシャンとして暮らしていたことを説明した。すると一度機械浴があった時、ふたりの看護師が介助してくれて浴槽に漬かっているわたしにロックの曲を歌ってくれとリクエストした。わたしはすこし迷いながら歌い出した。ふたりともビックリしてそんなに大きな声が出るとは思わなかったという。それで、小さな声で囁くように歌ったらロックじゃないから、とわたしはいった。
あばら骨折で東川口病院に入院していた頃、前回腓骨骨折した時顔なじみになったヘルパーやリハビリ科療法員や医師たちに請われて退院時にまたフェアウェルライブをすることになった。前の退院ライブをした時はその日自分はシフトで見に来れないからどうしたらいいの?と言われて困った。すると他のヘルパーさんがビデオで撮ってフェイスブックにアップするから大丈夫と助け船を出してくれた。そのライブのためにわたしは退院する患者さんを幸せに、と送り出す歌をパソコンで作って歌ったのだが今回はわたしはリハビリを推進する歌をギターで作ったりして準備した。わたしが声出し練習も必要というとここなら歌っても大丈夫といわれてリハビリ室での声出し練習でプレスリーの「ハウンドドッグ」をこれ以上ないほど声を出して必死で歌った時、リハビリをしていた患者たちが踊り出してわたしの目の前の席に集まってきた。それから患者さんたちはわたしが毎日稽古で色々歌うとうれしそうに楽しそうにリハビリした。それが病院でリハビリの邪魔になるとだれかが問題にしたらしく、リハビリの患者さんたちはわたしが練習に歌う色々な歌を楽しみにしていたのだけれど、東川口病院のような良い病院によくそんないやらしい仕打ちができるスタッフがいたものだと今でも不思議なのだけどわたしの声出し練習は全く音の漏れない特別な防音室内のみということにされたのだった。それでわたしはフェアウェルライブの日まで完全防音室内で音が漏れないように個人的にギターと歌を稽古した。ある時、ここなら声出し練習しても大丈夫とリハビリのリーダーがいうので病室の外の一角で「ホテルカリフォルニア」をギターで弾き語り練習した。するとどこからか看護師がやってきて、もう少しボリュームを下げてくださいと頼みに来た。どこかの病室で聞こえてうるさかったらしい。リハビリのリーダーはわたしに申し訳なさそうに謝りながらまた完全防音室での稽古を頼んだ。わたしは折角リーダーが骨折って場所を探してくれたのにとそのリーダーがかわいそうに思った。わたしのあばら骨折を癒してくれた整形外科の小川政明医師は自分でもウクレレを弾くので音楽がわかりわたしと仲が良くてわたしのフェアウェルライブを楽しみにしていた。わたしがその退院ライブで歌った数曲中ギターを弾き語りしたボン・ジョビの「リヴィング・オンア・プレイヤー」に感動して「あの歌はどういう意味ですか?」と訊ねた。「祈りに生きる」という意味です、とわたしが答えると「それじゃ、ピッタリですね」と笑っていた。世の中には同じ歌を雑音と感じてうるさがる人もいれば魂に触れて感動する人もいるのだ。
fumio

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1週間の抗生剤点滴治療が終えてやっと導尿のカテーテルを尿道から抜いてもらった。
それからわたしは自分のマイ尿器を使用した。その尿器が、こぼれないということをフランス語をもじったコ・ボレーヌという名前というと看護師さんがわたしにフランス語を喋れるのかと訊ねた。弟はフランス留学してフランス語の通訳をやっていたけれどわたし自身はフランス語は喋れないけれど歌のなかに出てくる歌詞の場合は原語で歌います。と答えた。それでビートルズの「ミッシェル」のフランス語の部分を歌ってみせた。それで納得してもらえた。
fumio

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洋楽  



蜂窩織炎の治療中、次々にやってくる看護師がわたしにどんな音楽が好きなのか訊ねた。
わたしが洋楽と答えると高島兄弟がよく紹介しているね、という。わたしは洋楽というと高島兄弟の名前がでるのかと意外だった。わたしはそのお父さんの高島忠夫氏が第1回放送を始めた名ラジオ番組「9500万人のポピュラーリクエスト」の大ファンだった。その頃から洋楽に目覚めたおかげで高校時代、洋楽ヒット曲によって音楽的成長した。高島一家は日本の洋楽の牽引者だったようだ。ベストヒットUSAのことも看護師さんが口にしたのでうれしかった。ベストヒットUSAは今も小林克哉氏がやっているのですごいと感心している。
fumio

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隣のベッドの患者が薬剤科やリハビリから新しく人が会いにくるたびに入院時に自分が死にかけていたという話をしていた。亡霊にとり憑かれてそこには地蔵さんがたくさんあって子供たちがいた。そして川が流れていたということだった。噂に聞く臨死体験をしたということなのだろうと思って聞いていた。
fumio

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蜂窩織炎の患部は右脚だったが左脚を動かしてみると腰椎の辺りに疼痛が走り身体が跳ねるように揺れた。2019年6月にかかった帯状疱疹とは違う種類の痛みだった。その時は抗ウイルス薬アシュクロビルの点滴治療で治癒した。今回は原因がウイルスではなく細菌なのでセフェム系抗菌薬ゼファゾリン点滴治療になったということらしい。そして翌日、部屋が713号から711号室に換わった。車輪付きベッドでふたつ隣の部屋の窓際に運ばれたのだ。その部屋ではだれもラジオをかけていなくて聞こえるのは人が寝入った時のイビキぐらいだった。それで治療中、世俗のニュースに接する機会は全くなくなり世間と全く隔絶した生活になった。病院のカーテンと天井だけを見て過ごしていると以前から曲想だけあるけれど置きっぱなしになっていた曲をこの機会に形にしなければいけないという気になった。音を出して確かめるためのギターも音符を打ち込めるパソコンもなく頭の中だけでメロデイと歌詞を組み立てる作業にかかった。それで一晩でなんとか新しい歌の形が出来上がった。退院した時パソコンに打ち込んで仕上げることにしたのだった。
fumio

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7階東713号室でわたしの担当になった奥田こなつ看護師は音楽の話になった時、以前ギターを弾こうとして挫折したといっていた。アニメ「けいおん」のu&I「(ユーアンドアイ)をやりたかったという。
「けいおん」は2019年7月18日に起こった放火事件の場となった「京都アニメーション」の作品でわたしはその京都市伏見区の坂道を自転車で毎日桃山城まで登って桃山高校軽音楽部で自作の英語の歌をバンド練習していた。わたし自身は桃山高校の高校生ではなかったけれど軽音楽部に入り浸ってけいおん部のみんなと一緒に練習していたのだ。フォークをやっている女生徒たちがわたしのフォーク曲「打ち上げ花火」を気に入って発表会に演奏させてくれといってギターをスリーフィンガーピッキング伴奏しながらデユオで歌った。ギターもよく稽古したらしくなかなかうまくてハーモニーも良かった。そんな若き日の思い出があるのでアニメ「けいおん」にはことのほか思い入れが深いのだ。
fumio

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それからセファゾリン抗生剤点滴中動けないのでただ自分のまわりのカーテンを見るだけの生活が始まった。同室のだれかがジェイウエーブFMラジオをかけていた。クリストファー・クロスのセーリングが流れていた。病室で聴くと雰囲気があってなかなか良かった。
テレビもあったけれどカード式なので見ることはなかった。
fumio

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入院  



8月23日昼食後、意識が亡くなった。救急車で運ばれてここはどこと、れかに訊かれて答えられなかった。体温が39度を超して意識が混濁していた。草加市立病院7階東ということだった。右足のふくらはぎあたりの傷から菌が入って蜂窩織炎になったという。
右脚が腰から指先まで棒のように張って赤く腫れて痛かった。
皮膚科の抗生剤セファゾリン点滴治療が始まった。その間動けないのでカテーテルを尿道に挿して尿を排出した。
fumio

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