monologue
夜明けに向けて
 



 前々回の記事「岩戸開き」に音霊(オトダマ)逆転法という聞き慣れないことばが出てきて変に思われた方がいるようなので説明しておこう。それはわたしのサイトの
「葦原醜男は醜かったのか 」に詳述してあるのでその骨子を以下に述べておく。
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 わが国の古代、天上と地上ではことばが逆になると信じられていた。
神とは火(カ)水(ミ)でカ→ミへと上(カミ)から下の人に伝える存在で人から神(上)へ伝えるには水(ミ)→火(カ)としなければならなかった。それで神に対してのことばは逆にして伝えた。

 しかし、それはただ逆にするのではなく音霊(オトダマ)を逆転したのだ。たとえば、カミを普通に逆にするとミカだがそれでは音霊的には逆転していない。音素をみるためにローマ字にするとmikaでテープレコーダーを逆回転して聴いてもkamiの逆には聞こえない。それではakimと聞こえてしまうのだ。そこで、「imak」と発音して初めて上の世界でkamiと聞こえるということになる。

 今度、さいたま市になった大宮の氷川神社はスサノオがイザナギの鼻から生まれたので高鼻町にあるがJRを越えたところに「大成」がある。この地名は一般にはオオナリと呼ばれている。ところが、この大成がスサノオの音霊を逆転した名前なのだ。スサノオは音霊的に逆転するとオノサスではなく、ローマ字にするとsusanooであるからこれを逆転するとoonasusとなる。すなわち、大成(おおなす)ということになる。それでスサノオはよく茄子と関係づけられるのだ。

 もうひとつ、例をあげて月讀の場合をみよう。ツキヨミはローマ字ではtukiyomiで逆にするとimoyikutとなる。それで昔は月見にニギハヤヒゆかりの稲を飾り、芋(imo)を供えたのだ。現代では稲は同じイネ科のススキに代わって、芋が団子に代わり、ニギハヤヒに捧げた元々の意味が不明になった。

 遠く、異朝に飛んで、エジプトでは、太陽神ラーの決して明かさない本名がエールなのだ。娘神しか知らないということになっているが、もうおわかりのようにこれはラーのRAを逆転したARをエールと読んだ名前である。月神のミューアも同じようにすれば本名がわかる。ミューアはMUAだから本名はAUMなのだ。これはいうまでもなく、(誕生、維持、破壊)のどこの世界でも最も大切な音霊である。日本の月神、ニギハヤヒが大物主(AUMの主)であることは当然といえる。
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ということなのだが、宇宙の秘密の暗号はアナグラムによって解かれることが多くこれは比較的簡単なアナグラムの方法のひとつといえるので活用していただきたい。
fumio


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 イギリス、ノーフォーク州のロックバンド、 ザ・ダークネス(The Darkness)のプロモーション・ビデオ、
「ワン・ウェイ・チケット」を見て感心した。
雪山の上で原始人のような男に扮したボーカル、ジャスティンが「ワン・ウェイ・チケット・トゥ・ヘル(地獄への片道切符)」と歌う。雪は「スノー・ホワイト(コケイン)」のことを象徴していて麻薬撲滅を訴える歌だった。
 ジョージ・マイケルが2月26日深夜、ロンドン市内で、クラスCにランクされるドラッグ、大麻とGHB(液状エクスタシー)らしき薬物不法所持で逮捕されたように西欧のアーティストには麻薬が蔓延して問題になっている。コケインのやりすぎで鼻中隔に穴が開いて手術したアメリカの女性歌手もいた。鼻の粘膜がだめになった者は肛門から入れて直腸から摂取する。一般の人はそこまでやるかと思ってしまうだろう。
そんな中でザ・ダークネスが「ワン・ウェイ・チケット」のような曲を発表したことはハードロックバンドの意識が変わり高まったことを思わせた。もうアーティストが麻薬などに頼る時代は終わった。
fumio

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 ふたたび「鏡割り」にとりかかるわたしは「酒だるのふた」を木づちなどで割って開ける動作を、「鏡を抜く」「鏡抜き」「鏡割り」とも言うことにひっかった。どうも腑に落ちない。どうして「酒だるのふた」が鏡なのか。まるくて平たい形状が似ているからとされるがまるくて平たいものなど世の中に山ほどあるが別に鏡とは呼ばない。あまり共通性は感ぜられないが鏡餅と「酒だるのふた」このふたつにはなにかが隠されているのかも知れない。
「鏡を抜く」というのは鏡を作ったのが「天抜戸」であったからのようだ。
日月神示、五十黙示録 第五巻至恩之巻 第三帖には
「判るように説いて聞かすから、今迄の智を一先づすてて、生れ赤児となりて聞いて下されよ。
天之鈿女(うづめ)の命が天照大神に奉った巻物には12345678910と書いてあったのぞ。」
とあった。
わたしはこの巻物に書かれた12345678910を「人、フタ見よ、いつ無に為すや、ここの戸を」と解いた。
ここの戸、このフタとは「酒だるのふた」ではないのか。そんな匂いがする。
べつに取り立てて言うことのない、まるくて平たい、という形状が鏡であることのアイデンティテイなら「平たい」に鍵があるのかも。ふっとそう思った。そういえば伊邪那岐と伊邪那美の決別のとき、伊邪那岐によって封印された現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名前が黄泉津平坂であった。坂は境のこととされ、この平は比良と書かれたりしたがヒラが沖縄地方で傾斜の意味の坂という説がある。
ところがこの黄泉津平坂の「平」は解字(開示)すれば実は「一八十」であり「岩戸(イハト)」なのである。
鏡にも「さかい」の意味があった。「酒だるのふた」も鏡であるという大きなヒントをふまえて考察すると
「酒(さか)だる」も坂あるいは逆だるではないのか、いつものオヤジギャグのような答えが待っているのか。
「酒だる」が「逆だる」であれば「だる」を逆にせねばならない。さすれば「るだ」なのか、別にこれではなにも見えてこない。ここで音霊的逆転法を使おう。そうすると「DARU」が「URAD」「TARU」でも「URAT」となった。すなわち裏戸であった。天では樽の音霊は裏戸と響くのだ。やっといわんとすることがわかった。
 まとめると、鏡とは蛇の精であるニギハヤヒの依り代であって神社のご神体となり、正月の鏡餅となる。
昔は「フトマニの法則」を示すために鏡割りは二十日に行われたのだが十一日になってその意味が見えなくなってしまったのであった。
そして酒樽の鏡板でも見られるように鏡は現界と逆の世界天界との境を示す。
これまで現界しか見えなかったわたしたちはこのたびの鏡割り、岩戸(イハト)開きによって「フトマニの法則」に従って冥界で修業をした神々や士(さむらい)とともに働くことになるのだ。それが真の夜明けなのである。そのとき、八犬伝のように縁ある魂が喚び合う。それまでに立派に自立を終えなければ…。
fumio



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さて、 「鏡」には、顔や姿をうつす「かがみ」のほかに、円くて平たい形が似ていることから「正月や祭りの鏡もち」や「酒だるのふた」の意味もある。

 鏡餅を飾る風習は十一代活目(いくめ)入彦垂仁天皇の時代、大物主神(ニギハヤヒ)の娘大田田根子に、大国主命が「元日、荒魂の大神に紅白の餅を祭れば幸が訪れる」と教えたことに由来するという。
お正月に飾った鏡餅を「割って」ぜんざいなどにして食べる行為を鏡割というのだが「割る」を忌み詞として
「終わり」を「お開き」というように「開き」に換えて鏡開きともいう。
それは「二十日に鏡を祝うは、初顔祝うという詞の縁をとるなり」と、「初顔祝う(ハツカをいわう)」とことばをかけていたように、二十日に行なわれていたのだが徳川三代将軍家光が四月二十日に亡くなったためこの二十日を忌日として避け十一日にしたといわれる。
つぎに「かがみ」ということばからその意味を探れば神社のご神体になる鏡は蛇がカカやハハということから蛇目(カカメ)、剣は 羽々斬(ハハキリノ)剣のように蛇の尾や胴体、あるいは頭との関連がすぐに思いつく。 鏡餅も重ね餅は蛇の姿であり、上から見れば「蛇の目紋」である。
とにもかくにもこの鏡餅を飾る風習は大物主(ニギハヤヒ)の娘大田田根子から始まり、鏡割は二十日に行われていたのである。

 今度は漢字から解いてみる。「鏡割」を実際に文字で行うと「金」と「竟」に割れる。
金は金属製だからこの偏がついただけで旁の「竟」が主要な意味のはず。
大修館、新漢和辞典でその意味を調べる。
竟 一 ケイ・キョウ(キャウ)
 一1つきる(尽)2おわる (をはる・終)。また、おわり。
3きわまる。また、きわめる。
4あまねし。また、あまねくする。5わたる。6つらなる。7ついに(つひに)

8かえって。また、しかるに。
二さかい(境)。
**********
以上が鏡の文字が示す情報である。これだけの意味が含まれていたのだ。
もっと細かく分解すれば「立」と「日」とヒトアシ。一見「兒」に似ているが日にヒトアシでこれは「光」と同じなのだが「光」は火を人がかざして走っている図であるがこちらは「日」をかざしているのだ。
「立」は大と一の組み合わせで大は人で一は地面という。
すなわち、「竟」とは人が日をかざし走り大地に立つ状態を表している。
それが「つきる、おわり、さかい」などの意味をもっている。
 アマテラスが天岩戸に隠れた時、
「鏡作部の遠祖天の糠戸(アメノヌカトあるいはアメノアラト)には鏡を
造らしめ、」 と天の糠戸あるいは天抜戸に鏡を作らせて用意して神々が騒いで大神をおびき出すときその鏡を使っている。
「日神(ひのかみ)、方(まさ)に磐戸(いはと)を開けて出(い)でます。是の時に、鏡を以て其の石窟(いはや)に入(さきい)れしかば、戸に触(つきふ)れて小瑕(きず)つけり。」
(岩波文庫日本書紀より)
このとき、アマテラスは反転した自らの姿を見たのである。闇の世界と思っていた外の世界にも光を放つ自身の姿があったのだ。ところで「屈み鬼」という遊びがある。
捕まりそうになると屈むと助かるのである。それは「屈み」が鏡にかかってその瞬間に反転して助かるという考え方からきた遊びなのだ。

うーむ。この鏡にかかっている封印は手強くて一回のブログ記事程度では一気にははがれない。
次回にはなんとかこの「鏡割り」を完遂してしまいたい。
fumio


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このところ水がたしかに変わりついにフトマニや黄金太陽などのことばが人々に認知される時代に入った。なにかが裏で蠢(うごめ)いている。それを感知する人々も増えてきた。鏡の世界という考え方がもう奇異ではなくなった。そもそも、いったいその鏡とはなになのか。
*************************
かがみ【鏡】
 滑らかな平面における光の反射を利用して容姿や物の像などをうつし見る道具。中国から渡来。古くは金属、特に銅合金を磨いたり錫を塗ったり、または錫めっきを施したりした。円形・方形・花形・稜形などに作り、室町時代から柄をつけるようになった。今日では、硝酸銀水溶液をガラス面に注ぎ、苛性ソーダなどによってコロイド状の銀をガラス面に沈着させ、その上に樹脂などの保護膜を塗る。鏡は古来、呪術的なものとして重視され、祭器や権威の象徴・財宝とされた。
(広辞苑第五版CDより)
広辞苑には以上のように説明されている。鏡とはそれだけのものなのだろうか。
それではなぜ多くの神社で御神体として、円形の鏡が祭られているのだろうか。
そろそろ辞典に書かれたことではなくわたしたち自身でその本当の意味について考えてみる時が来たらしい。
次回はなんとか鏡割りをしてその背後に潜んでいる秘密を暴いてみたい。
fumio


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今年にはいってからのわたしのサイトの検索語句ヒット数ベスト10
解析対象ヒット回数 4,581
  検索語句 回数
 #1位ケサラ 91
 #2位 わらべうた とおりゃんせ 78
 #3位 ピラミッドとは 68
 #4位 ニギハヤヒ 67
 #5位 鬼道 63
 #6位 伊雑宮 44
 #7位 十種神宝 43
 #8位 ケツァール 39
 #9位 ダイアモンド デビアス 31
 #10位 ルシファー 30
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1位が「ケサラ」というのに驚く。
わたしの歌「もっと自由に」の歌詞中に「ケサラ」ということばが入っているので「ケサラ」という歌や単語の意味を検索される人がヒットするらしい。でもヒットした人は全く違う曲であることに驚かれるだろう。

「ケ・サラ Che Sera」はイタリア語でラテン民謡をもとにしたカンツォーネ、1971年のサンレモ音楽祭で
ホセ・フェリシアーノの唄で入賞した。
意味は、物事はなるようにしかならないものだからなるようになる、といった哲学的なこと。
スペイン語ではQue Seraとなることから
ヒッチコック監督作品『知りすぎた男』の中でドリス・デイ(Doris Day,)が歌ったque sera, seraを思い出す。
わたしはアメリカ留学中、先生達がこの歌が好きだったのでこの歌を授業で習い何度も歌った。ラテン語圏の生徒が多かったので教材として適当と思ったらしい。
ところがケ・セラ・セラという表現はスペイン語圏では使わないと言われている。
正しくは Lo que sera, seraとなるはずなのである。 それでは歌いにくい。どうして使わない言い回しが広まったのだろう。

 1954年のエバ・ガードナー主演の映画『裸足の伯爵夫人』の回想シーンで夫人の墓にイタリアのことわざ che sará sará 「なるようになるさ」と 刻まれていた。
その意味が興味深いのでヒチコック監督が1956年の映画『知りすぎていた男』にスペイン語圏では使わない表現にかかわらずQue Sera Seraと訳して主題歌として採用したのだった。
歌ならなんでもOKになる。「上を向いて歩こう」が「スキヤカ」になり「スキヤキ」になって世界の名曲 として定着したように…。
 そして半世紀を経た今頃、そんな「ケサラ」という語に人々が注目するとは…。
fumio

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3月7日(火)、将棋順位戦C級1組10回戦でこれまで8勝1敗の渡辺明竜王が窪田義行五段と対戦し敗れたが、下位で8勝1敗の岡崎洋六段も中田功七段に敗れたため昇級した。
その対戦前の時点では渡辺竜王と岡崎六段の対戦相手、窪田義行五段6勝3敗、中田功七段5勝4敗と両者ともに勝っても負けても自身の昇降級にからまない成績だった。しかし、かれらは全力をつくしてこの昇級候補たちを降ろした。そこにわたしたちのあこがれる将棋の美学がある。
米長会長は自分が昇降級にからまない対局こそ全力を尽くさなければいけないと常々表明している。
対戦相手が昇降級にからんでいるからといって緩めたりするようでは自分を貶めることになるし
ファンとしてはそんな棋譜を見たくない。わたしたちは自分たちの身の回りを振り返ると馴れ合い情実による既得権益の確保に追われる世界に住んでいるがそんな世界と隔絶した厳しく美しい勝負の世界として将棋界を見て憧れるのだ。その中で渡辺竜王の世代がもがき苦しみながら成長して昇級を重ね羽生世代に追いつきA級で戦う日を楽しみにしている。
fumio





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     ここ何ヶ月もわたしのサイトの「ケプラーの宇宙像」のページが高閲覧数を維持し続けているので興味をお持ちの方が多いと判断してここでもその内容を紹介しておこう。 
煩雑すぎて理解しにくくともご容赦。「ピラミッド黄金太陽シリーズ」をまるごとお読みいただけば 理解の一助になるかも。
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   テレビ放送大学の「宇宙像の変遷」という講義で、村上陽一郎氏は「ケプラーの法則」で有名なヨハネス・ケプラーを採り上げ、かれの名著「宇宙の神秘」の挿し絵を紹介された。
 この図はケプラーの考えた宇宙モデルである。一見、道具箱か玩具のようで意味不明な模型にしかみえない。
 村上教授は、のちに発表されて有名になる、「第一法則、第二法則、第三法則」に対して、このケプラーの最初の発見に「ケプラーの第ゼロ法則」と名付けて、ケプラー自身が生涯を通じて最も大切にした宇宙の法則であるとおっしゃっていた。
 これはプラトン立体と呼ばれる五つの凸面体と内接球外接球の入れ籠(いれこ)構造を示した模型図なのである。
  ケプラーは、神の宇宙創造に際して、太陽系の設計にプラトン立体を用いたと推量した。
そして当時、知られていた水金地火木土の六つの惑星をプラトン立体に当てはめてこの模型を造ったのである。
 一番外側の大きい球が土星の軌道を示していてその内側に見えるのが入れ籠状態のプラトン立体とその内接球外接球である。球というのはその上に描き込まれている弧線によって太陽の周りを回る軌道であることがわかる。
 ややこしくて頭の中でイメージを順を追って構築するのはむつかしいけれど以下に説明してみる。

 まず初めに正八面体を配し、その内側に水星の軌道を内接球として描く、今度はその正八面体の外接球を描き、それを金星の軌道として次にはその金星の軌道を内接球とする正二十面体の外接球が地球の軌道となる。その地球の軌道を内接球とする正十二面体の外接球が今度は火星の軌道ということになる。

 次にその火星の軌道を内接球とする正四面体の外接球が木星の軌道になり、その木星の軌道を内接球とする正六面体の外接球が一番外側に見えている土星の軌道となる。
これがこの模型全体の構造なのである。
 つまり、水星の軌道は初めに創られた正八面体によって規定され、金星の軌道もその外接球であるから同じだろう。次々にかぶさってゆくプラトン立体と球によって太陽系は設計形成されたがその構造は初めの正八面体によってすべて決定されたのであった。
 ケプラーはその神の創造の秘密を発見したのだ。
 それゆえ、正八面体は「黄金太陽」と呼ばれるのである。
 創造神は、この太陽系の設計に際して、まず正八面体を創られたのだ。
 この宇宙には様々な恒星系があり様々な意識体、生物系が繁栄しているのだろうが、これからも新たな世界は正八面体の設計によって始められるのだろう。
************************
 以上なのであるが、この説はプラトン立体は宇宙の構造と全く無関係として学者たちに退けられ法則のひとつに数えられていない。それゆえ無理に名付ければ「ケプラーの第0法則」となるのだ。
ところが、これはケプラーが自らのあまりに不幸な身の上を神に嘆いたとき、そのかわりにとこの宇宙の創造の秘密の一端を漏らされたという法則なのである。学者たちは神様が嘘をつくと思っているらしい。
fumio




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第78回アカデミー賞が決定した。
主なところは
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作 品 賞 『クラッシュ』
監 督 賞 アン・リー
主演男優賞 フィリップ・シーモア・ホフマン
主演女優賞 リース・ウィザースプーン
助演男優賞 ジョージ・クルーニー
助演女優賞 レイチェル・ワイズ
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となっていた。おおかたの予想通りとの声が多いが
このうちわたしが注目したのは『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』の最優秀主演女優賞リース・ウィザースプーンである。
なぜなら『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』はわたしたちの時代のカリスマ・カントリー歌手、ジョニー・キャッシュの生涯を描いているからだ。
わたしは高校時代、「9500万人のポピュラーリクエスト」というラジオ番組で発表される米音楽誌キャッシュ・ボックス誌の全米トップ10をノートにつけていた。
そのノートを開くと今もあの頃の洋楽に対する熱い思いが甦る。
司会の小島正雄氏は1963年7月27日付キャッシュ・ボックス誌15位にランクしたジョニー・キャッシュの「リング・オブ・ファイア」を今週の注目曲としてかけたのだった。
そのとき、黒ずくめの衣裳や刑務所慰問まわりのエピソードなどを知った。
その歌はカントリー臭くなくロックに通じるリズム感があった。
ジョニー・キャッシュの歌声は男性的で力強く男があこがれるような歌手だった。
それから数十年を経てオクラホマ大学の学生たちとインターネットの音声チャットでかれらの弾くギターの伴奏で歌を歌ったりしたとき、かれらはカントリー音楽は古くさくて嫌いだというのでジョニー・キャッシュはどうかと尋ねるとかれだけは好きだと答えた。かれの音楽自体よりも生き方に惹かれるようだった。
この映画で久しぶりにジョニー・キャッシュの名前が出てきたことはわたしたちにとってうれしいことだ。

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 いよいよ将棋順位戦もBクラスとCクラスの最終戦が行われる。厳しい死闘が繰り広げられて来期のクラスが決まる。

先日、日本の将棋は大宇宙の法則秩序、フトマニを表現したゲームと述べたが
納得しにくい方が多いと思うので検証しておく。
 将棋の元々の文字は「象戯」であった。象はもちろん動物の象ではなく現象などの象(かたち)のことである。
日本将棋の独自の発達過程でフトマニの象(かたち)を盤上で表現して遊戯にするとき、隔り世が赤という思想と、死んだものもただ消え去るのではなく蘇り(黄泉帰り)ふたたび働くという思想が盛り込まれた。
将棋の駒は昔は馬子(こま)と書かれ蘇我馬子は現実界に降りてきて活躍した蘇我氏の駒であった。
将棋の駒、王金銀桂香が宝物の金銀珠玉を表すことはよく知られている。
それらの内、王と金以外の駒は相手の陣地(まったく同じだが逆さまの鏡の世界)に入ると裏返り、成香、成桂、成銀などとなる。
それは日月神示がいう、こちらの世界で「○九十(マコト)」が裏の世界では「誠」となることと同じである。
「誠」とは言(コト)が成るということなのだ。それで裏の世界に入った駒は成香、成桂、成銀などのように成がつくのである。
 ところが鳩森八幡神社におわす将棋の神様は、なぜか普通歩兵「ほへい」と読む歩兵を将棋では「ふひょう」と読ませ、「ふ」と呼ばせる。そして相手の陣地に入ると裏返り赤い色の「と金」になる。
それは歩兵の裏面の金の崩し字が「と」に見えるためという説が広く指示されている。
しかし、ここでフトマニのマニは珠や回転するエネルギーであったことに思いをいたし、将棋をそのフトマニの表現と考えたとき、「歩」を「ふ」と発し、その裏を「と」と発すれば他の駒が珠玉であったことでそれらを合わすと「ふとマニ」そのままなのである。将棋の駒に「フトマニ」ということばを隠してあったのだ。
これは冗談なのか本気なのかいつも量りかねるがこの神様はいつもこんなギャグで笑わせてくれる。
何時気づくかと楽しみにしておいでだったのだろう。
とにもかくにも、日本の将棋は将棋の神様が大宇宙の法則、フトマニを表現して作られたゲームであった。
fumio

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 わたしのサイトの人気ページのいつもトップを争うひとつはなぜか「七つの子の謎」のページである。
 世の中には意味不明の童歌が多くて議論の対象になる。この「七つの子」もそのひとつである。
カラスは七つも卵を生まない し七歳のカラスはもう子どもじゃないということで七羽説も七歳説もどちらも腑に落ちない。そんなわけで野口雨情の童謡「七つの子」の歌詞について不審に思っている方が多いようだ。

■ 七つの子

  1921(大正10年)「金の船」  作曲 本居長世

「金の船」創刊号 1919(大正8年)11月

からす なぜ鳴くの からすは山に
かわいい七つの 子があるからよ
かわい かわいと からすは 鳴くの
かわい かわいと 鳴くんだよ

山の古巣へ 行ってみてごらん
まるい眼をした いい子だよ

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 では「七つの子」の真意を探ろう。まず、初めに出てくるカラスが誰のことか特定しよう。これは一般的な解釈のように鳥類のカラスではないから鳥のこととして解釈しようとすると無理が出てしまうのだ。

 結論から言えばこのカラスはニギハヤヒの父スサノオなのである。かれには素盞嗚尊、素戔嗚尊、須佐の男など様々な記し方がある。

兵庫県神戸市灘区岩屋中町4丁目1-8 敏馬(みるめ)神社[の祭神名「素盞烏命」や長崎県下県郡豊玉町大字唐洲647番地元嶋(もとしま)神社の祭神名「素盞烏尊」を見ればわかるようにかれがカラスの性質ももっているので素盞烏命とも書くのだ。

 「からす なぜ鳴くの」という歌詞は、素盞烏尊と素盞嗚尊から共通する素盞尊を抜いた時、烏と鳴が残って、その間に「なぜ」を入れてあるだけだと気付くだろう。

 虹色の戦士達 で書いたようにスサノオには七人の子供がいた。
ところか゜出雲の象徴数は八なので八王子ということにされたのだった。

 八坂神社には、祭神のスサノオの八柱御子神とは、稲田姫命から生まれた八島篠見命,五十猛命,大屋津比売命,抓津比売命。市比売命から生まれた大歳神、宇迦之御魂神。佐美良比売命から生まれた大屋毘古命と須勢理比売命で八人と書いてある。

 大歳(ニギハヤヒ)一人を二人に分けて大歳神と宇迦之御魂神との兄弟として書いてあるので七人が八人になってしまっている。
この歌はスサノオの子供は七人の「虹の戦士」たちであったことを知らせているのである。

 第三連の「山の古巣へ 行ってみてごらん」
 という部分も鳥類のカラスはつぎつぎに針金のハンガーでも拾ってきて新しい巣を作るはずなのだがここではなぜか古巣になっている。

 それはニギハヤヒの幼名が布留(フル)であったからなのである。
すなわち、ニギハヤヒの巣を覗いてごらん、と勧めているのだ。

「まるい眼をした いい子だよ」というなんでもないような結句で終わっているが「眼」をマナコと読めばスサノオの真意がわかる。

 マナコとは「愛子」のことで「愛しいわが子」という意味を含めているのである。スサノオは「愛しいわが子」ニギハヤヒが封印のために世の中に出てまだ活躍できないことをこの歌詞で訴えているのである。

 しかし、雨情は作詞中にそんな裏の意図は考えていないに違いない。将来、自分の詞が論争を喚び起こすなどとは思ってもみなかっただろう。
fumio

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 わたしのサイトを訪れる方の多くがわらべうた「とおりゃんせ」の意味を検索して来られるので
そのページを以下にコピーしておこう。白昼夢の中での弁天様との会話である。
まずイメージの中でこの唄をプレイしながらお読みいただきたい。

*********************
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
ご用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札をおさめにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ通りゃんせ
********************************************************
 弁天様がその歌声の裏でゆったりと語り始めた。
「この唄はあなたがたが実在界から現象界(この世)へ降りる際に開かれるセレモニーの唄なのです。
みんな生まれる前にこの唄を聴いているのです。
まず、そのことを頭に置いてください。
そこから出発して考えれば、個々のことばの意味が自ずからほどけてきます」
と、弁天様は前置きした。

 ぼくには実在界と現象界ということばの使い方がよくわからなかった。
弁天様の口ぶりでは、弁天様がいるのが実在界で、
ぼくたち人間がいるのが現象界ということになる。
ぼくたちは元々、弁天様と同じ世界に暮らしていてそこからこちらにやってきた、ということらしいのだ。
その時、開かれる儀式の唄が(とおりゃんせ)である、という。

 ぼくが一応、理解を示した様子を見届けて弁天様は続けた。

「かごめ唄もそうですがこの唄もほとんどの語が二重三重の意味をもっていて複雑にからみあっています。

(とおりゃんせ)------ 表面上の意味は(お通りなさい)ですが陰意は(十理あんせ)です。
十理とは十の理、十は神を示す印、縦の棒をカと発し、
横棒がミ、カミの理(ことわり)ということです。
かごめ唄の(かごの中の鳥)、鳥(トリ)すなわち、十理も同じことです。
(十理あんせ)とは神の理がありますように、という祈言(のりごと)、
すなわち祈りのことばです。
(十降りやんせ、十居りやんせ)と書けば見えてくる、(神様、降りてください、居てください)、という祈言でもあります。
意味を知らない子どもたちでも「とおりゃんせ」をくりかえして歌えば、
その音霊(おとだま)、言霊 (ことだま)は力を発し、神の理を実現するのです。
神の理とは物理を超える神理 (真理)です。

(ここはどこのほそみちじゃ)----- (ほそみち)には多くの意味が隠されています。
まず、表面的には細い道、すなわち天神様への狭い参道ですが隠された文字は、臍道(ホゾミチ)なのです。
ホゾとはヘソ、ありとあらゆるものの中心、
そこに天神様が座します。ミチは道、未知、霊智の意を含む深いことばです。
天神さまの参道とはだれもが通ってくる、母の産道であることを知れば、
細道が臍道であることが見えます。
現象界は物質界なので現象界で働くには物質としての肉体が必要となり、
魂の一生の乗り物として個々の肉体をいただいてこの世に下ってくるのです。

(ちょっと通して下しゃんせ)-------天界から臍道を通して地上界へ下(くだ)しあんせ、と頼んでいるのです。

(ご用のないもの通しゃせぬ)---------もちろん、だれでも用もないのにこの世に下ろしてもらえるわけ ではなくそれぞれの役目、使命、ご用を授かった人だけが選ばれて生まれてくるのです。

(行きはよいよい)----行きは息、生き、意気、の意を含んで、この世に生まれることの希望、喜びを指しています。

(帰りはこわい) ----- 行きの反対、帰り、
すなわち死への畏れと、現世で犯した罪に対する死後の裁きの恐怖を顕しています。

(こわいながらも通りゃんせ)----死や裁きがこわくとも覚悟を決めてお通りなさい、と念を押しているのです。

 すべての方は大切なご用を果たすために決心してこの現象界へ降りてきたのです。
この世にある間にそれぞれのご用を立派に全うしてください。
 あなたがたが長い間、忘れてしまっていた、
(とおりゃんせ)の様々な意味を時折、思い出して、
気持ちを新たにしてください。
神理(真理)達成の時代は間近です」
fumio

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 今日は、将棋界の一番長い日、A級順位戦最終局。
これで、今年度の名人を頂点とする将棋界のヒエラルキーのトップに立つ10人が決まる。
各棋戦のタイトルホルダーはその棋戦にだけ強かった人で真の実力者とまではみられない。
順位戦は奨励会を抜けてピラミッドの一番下から毎年数人ずつしか上れない狭い門を艱難辛苦して昇って行くのでA級にまで昇るのは至難の業である。それゆえA級は現在日本で一番強い十人として評価される。
名人挑戦権争い、残留争いと将棋ファンにとっても専門家にとっても楽しみな一日だ。

 今年も名人挑戦権争いに絡んでいる羽生善治四冠は、「七冠王」時代に畠田理恵さんと、将棋会館の向かいの鳩森神社で結婚式を挙げた。この鳩森神社は将棋と縁が深く境内には将棋盤の足を逆さにした宝珠をもつ将棋堂という六角堂がある。
将棋の起源は古代インドのチャトランガという四人制のさいころ将棋で西でチェスに、東で中国将棋や日本将棋に姿を変えたというのだが、日本将棋と他の将棋との一番の違いは相手の陣地に駒が入ったとき、成ることと取った駒を使えることと言われる。

それはこのゲームが日本では大宇宙の法則フトマニを表現したゲームになったからなのである。
九X九の升目の宇宙で互いに二十枚の駒で争い回転し隔り世である相手の陣地に駒が入ったとき裏返り隔り世の色、赤になる。取った駒も死ぬのではなく甦り使用できる。わざわざ九X九や二十という数に設定してあるということはこれはフトマニそものではないか。

 日月神示の筆者、岡本信之のちの天明は昭和10年の第2次大本弾圧事件で取り調べを受けたが逮捕は免れ代々木八幡宮宮司の紹介で、この千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の留守神主をしている。
ここには昭和58年に東京都指定有形民俗文化財に指定された富士塚がある。
富士塚とは境内に築かれたピラミッド状の人工の山で寛政元年に当時流行した富士浅間信仰「富士講」によって築造された。この富士塚は現実の富士山とは南北が逆に造られている。
富士塚は他にも都区内だけで60近く現存するのだが現実の富士山とは方向が違うものが多い。
それもまたフトマニの裏表逆の世界の並立を示しているのである。
fumio









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 では、大宇宙の法則、フトマニの考察に入ろう。
 まずフトマニとはどう書くのか。
鹿の肩胛骨を焼いて占う「鹿卜」亀の甲羅を使う「亀卜」などの
太占神道の場合は。太占と書いたがこれは占いのことで他には布斗麻爾、太摩仁、太珠、などの当て字があったが日月神示の原文では「二十@@」とマニが渦巻きになっている。
フトは二十でマニとは珠や回転エネルギーを指すらしい。
これがフトマニということばから得られた情報である。
 
 さあ、先を急ごう。 
「神示では012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、
○九十の誠であるぞ、合わせて二十二、富士(普字・不二)であるぞ。
神示の始めに示してあろう。二二(富士)は晴れたり日本晴ぞ。」

このフトマニ説明文の構造を見るとニギハヤヒはなんとかうまく伝えようと工夫しているのがわかる。アラビア数字と漢数字を使い分けてその上漢字も使い変えている。
現世に生きる人間に伝えるのがいかにむつかしかったか。
この神示を下ろしてから何十年を経てやっとその工夫が人々に知られる時が至った。
さぞ待ちくたびれただろう。
教師としてのかれはまず「012345678910と示し、その裏に109876543210があるぞ、」
と言い、わたしたち生徒にわからせるために同じ内容を
○九十の誠であるぞ、合わせて二十二、富士(普字・不二)であるぞ。」と言い換えている。
「012345678910」を「○九十」と表し、ひっくり返しのマークとしてひらがなの「の」を
挟んで「その裏に109876543210」という部分を「誠」と漢字で示したのである。
「○九十」も「誠」も同じことだが表と裏になっているということが伝えたかったのだ。

そして今度はまた同じことを「合わせて二十二」という。
「012345678910」と前にはアラビア数字で書いていたのに「合わせて22」としないで今度は
漢数字を使っている。それはもちろん漢数字にしなければならなかったからである。
これは足し算ではないので10足す10で20にはならない。表と裏を合わせた富士山の図なのだ。
モニター上で横書きに読んでいるとわかりづらいが縦にすると
      二
      十
      二
 となる。そしてこれを富士(普字・不二)と文字を換えて説明している。
まず富士の「富」を分析すれば「宇宙」ということばを一字にまとめたような文字で下の「田」は十が回転している図である。「士」は上の「二十二」の縦書きの中に二つ見つけられるだろう。上から下へ読んだときそして下から上へ読んだとき。この「二十二」はぐるぐる回転しても「二十二」なのだ。
それをなぜ「普字」などと似合わない文字に書き換えてまだ説明をつけるのか。
「普字」の「普」の字は「並日」なのだ。すなわち、日が現世とその裏にも輝いていることを示している。
「字」は子がウカンムリをかぶっていること。ウカンムリは宇宙を示している。「普字」も字のことばかりではなく宇宙の姿を表現しているのだ。「不二」の解釈には二つとないすばらしい山というものが多いが
「不二」とは二ではないという意味であった。
日月神示の冒頭に掲げられる「富士は晴れたり日本晴れ」の原文は「二二八八∂十二ほん八れ」であった。ここでは富士は二二と書かれているがかなり無理がある気がする。
富士を数字では表しにくいが、普通二四ぐらいかと思われる。
それでも二二でなければいけなかったから二二と書かれた。これは上から見ても下から見ても二二である。
それが重要だった。「不二」は二ではなく「二二」であるということ。
さあ、つぎは「晴れたり(八∂十)」に進もう。
富士は、ということは「富士=(八∂十)」ということである。
これは今度は富士の山の形を漢数字の八で示している。ニギハヤヒは注意深く文字記号を使い分けてわれわれ生徒にわからせようと努めている。∂は渦巻きの形でエネルギーの回転を示している。
つまり、八の形の富士の下の十が渦巻きの形でエネルギーの回転していること。
われわれが現界で目にする富士は底辺で裏の逆さ富士と接してt回転しているということだ。
フトマニとは二十とマニ(珠や回転エネルギー)であった。
大宇宙の法則、秩序、フトマニとは霊界のヘソ富士を軸として回転する宇宙生命潮流を指しているのであった。
それが黄金太陽と呼ばれカゴメと呼ばれ日々生成、持続、終焉を繰り返している。


「日本晴(二ほん八れ)」は、わが国がヒノモトでありイッポンでなくニホンであるのは表裏一体のニホンであることを教える。
「日本晴」も分解すれば日の本の日月主ということである。
なるほど日月神示の冒頭を飾るにふさわしいフレーズであった。
やっと先生の仕掛けていた謎も解けたようだ。時代がずいぶん遅れたけれどオヤジギャグの好きな先生だから笑ってあげよう。

岩戸(言答)を開くとき、竹取物語のように「答」の竹を取れば「言合(祝)」となる。
そのとき、竹取の翁ニギハヤヒはわたしたち不肖の生徒を祝福してくれるだろう。
fumio




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