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monologue
夜明けに向けて
 




 ふたたび「鏡割り」にとりかかるわたしは「酒だるのふた」を木づちなどで割って開ける動作を、「鏡を抜く」「鏡抜き」「鏡割り」とも言うことにひっかった。どうも腑に落ちない。どうして「酒だるのふた」が鏡なのか。まるくて平たい形状が似ているからとされるがまるくて平たいものなど世の中に山ほどあるが別に鏡とは呼ばない。あまり共通性は感ぜられないが鏡餅と「酒だるのふた」このふたつにはなにかが隠されているのかも知れない。
「鏡を抜く」というのは鏡を作ったのが「天抜戸」であったからのようだ。
日月神示、五十黙示録 第五巻至恩之巻 第三帖には
「判るように説いて聞かすから、今迄の智を一先づすてて、生れ赤児となりて聞いて下されよ。
天之鈿女(うづめ)の命が天照大神に奉った巻物には12345678910と書いてあったのぞ。」
とあった。
わたしはこの巻物に書かれた12345678910を「人、フタ見よ、いつ無に為すや、ここの戸を」と解いた。
ここの戸、このフタとは「酒だるのふた」ではないのか。そんな匂いがする。
べつに取り立てて言うことのない、まるくて平たい、という形状が鏡であることのアイデンティテイなら「平たい」に鍵があるのかも。ふっとそう思った。そういえば伊邪那岐と伊邪那美の決別のとき、伊邪那岐によって封印された現世と黄泉の国とのあいだにある坂の名前が黄泉津平坂であった。坂は境のこととされ、この平は比良と書かれたりしたがヒラが沖縄地方で傾斜の意味の坂という説がある。
ところがこの黄泉津平坂の「平」は解字(開示)すれば実は「一八十」であり「岩戸(イハト)」なのである。
鏡にも「さかい」の意味があった。「酒だるのふた」も鏡であるという大きなヒントをふまえて考察すると
「酒(さか)だる」も坂あるいは逆だるではないのか、いつものオヤジギャグのような答えが待っているのか。
「酒だる」が「逆だる」であれば「だる」を逆にせねばならない。さすれば「るだ」なのか、別にこれではなにも見えてこない。ここで音霊的逆転法を使おう。そうすると「DARU」が「URAD」「TARU」でも「URAT」となった。すなわち裏戸であった。天では樽の音霊は裏戸と響くのだ。やっといわんとすることがわかった。
 まとめると、鏡とは蛇の精であるニギハヤヒの依り代であって神社のご神体となり、正月の鏡餅となる。
昔は「フトマニの法則」を示すために鏡割りは二十日に行われたのだが十一日になってその意味が見えなくなってしまったのであった。
そして酒樽の鏡板でも見られるように鏡は現界と逆の世界天界との境を示す。
これまで現界しか見えなかったわたしたちはこのたびの鏡割り、岩戸(イハト)開きによって「フトマニの法則」に従って冥界で修業をした神々や士(さむらい)とともに働くことになるのだ。それが真の夜明けなのである。そのとき、八犬伝のように縁ある魂が喚び合う。それまでに立派に自立を終えなければ…。
fumio



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