monologue
夜明けに向けて
 



「夫婦岩」に秘められた謎を解くためになんとか手がかりを求めて試行錯誤をつづける。
せっかく謎を仕掛けて置いてもだれもその謎に気づかなければ仕掛けた方は永遠のくたびれもうけである。
それでこのブログに採り上げさせるのだろう。エジプトのピラミッドもそうだがあんなモニュメントを造るのはただの観光客目当てではないはずだ。
その意味を簡単に教えて貰って鵜呑みにするのではなく わたしたち自身で解くことが人類の自立につながることになる。
 二見浦の由来は倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおかみ)の御鎮座の地を求めてこの地を訪れた時あまりの美しさに二度も振り返ったとことからその名がつけられたという。
なんだかこの伝説は少しこじつけの匂いがしないか。
三輪山そのものを御神体とする奈良県の大神神社と同様、二見興玉神社も拝殿のみで本殿をもたない。
手を比羅部貝に挟まれて海に引きずり込まれて沈んだ猿田彦命の化身とされる「興玉神石」が御神体なので二見浦の海全体が本殿とされる。
昔は「沐潮」「浜参宮」といって伊勢神宮にお参りする人々が、二見浦の「清き渚」で身を清めて内宮、外宮へ向かった。地図を見ると確かに神宮からこの海へ五十鈴川や宮川が流れ込んでいる。神宮を流れる水のエネルギーがこの海を満たしているのだ。
猿田彦命は天孫降臨の際に高天原と豊葦原の中つ国の間の道案内を勤めたことから「道開きの神」といわれている。かれの使いは「カエル」とされて、「無事カエル」 「若がえる」「貸した物がかえる」など縁起物としてカエルをモチーフにした二見蛙(ふたみかえる)の置物であふれている。
そしてこの二見興玉神社境内に宇迦御魂大神(うがのみたまのおおかみ)を祀った三宮神社の遺跡として天の岩屋(あまのいわや)という岩窟がある。
元々は僧行基が天平年間に創建した大江寺(たいこうじ)の鎮守社として、興玉社(祭神:猿田彦命)が創設され、後に現在の二見が浦へと遷座、明治42年に旧三宮社(祭神:宇迦御霊之神)が合祀され二見興玉神社と改称して現在に至る。
創設者、僧行基についての情報も以下に記しておく。なにかが見えるだろうか。
大僧正行基(ぎょうき・ぎょうぎ)、天智天皇7年(668年)和泉国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市)で、百済系渡来人王仁(わに)の後裔西文(かわちのふみ)氏から別れた高志(こし)氏の出身の父高志才智(さいち)と蜂田首虎身(はちだのおびととらみ)の娘古爾比売(こじひめ)を母として誕生。681年十五才で出家して薬師寺入り、道昭に瑜伽唯識(ゆか・ゆいしき)を学び、竜門寺の義渕に法相(ほっそう)を学ぶ。704年に堺市の家原寺に住居を構える。関西地方を中心に貧民救済や治水、架橋などの社会事業活動に専念。そのころ社会事業は僧尼令に違反するので五度にわたって中止を命ぜられるが民衆救済のために続けた。後には公認され、天平十七年(745年)東大寺建立協力によって聖武天皇に我が国最初の大僧正の位を授けられ、四百人の出家を弟子として与えられた。天平21年(749年)2月2日80歳で入滅。
fumio


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