monologue
夜明けに向けて
 



《アリオン語録7》

(1)我々のプロジェクトは、総て内発する衝動と決断に委ねる事になっている。生まれて来るか来ないか、今生でこのプロジェクトをあなたがたが遂行するか否かは、あなたがた自身の決定なのだ。もう一度生まれて来て、今生人間として地球救済プロジェクトに参加する事を決めたのは、あなたがた自身の内発する衝動からだ。5万年待った私、アーリオーンとの出会いも、あなたがたの自由意志で決定されねば何の意味も無いのだ。我々の世界では『自由意志』と呼ばれる、内発する衝動が決断の実行力の総てだ。

(2)美術・音楽などの、つまり芸術は常に人類の希求するものを表現しようとしてきた。現在の日本の社会は、ある意味で飽和状態の手前まで来ている。飽和状態のピークを迎えると下降しか無いのは誰でも知っている。その手前まで来ているので、人々は自然と危機感を感じているのだ。しかし皆自分の外を見回して、どこかに救済や解決が無いかを探している状態なので、誰かがそれを呈示してやる必要性があるのだ。それは表象面では霊的なリーダーの存在であり、潜象面では大脳根幹部への影響波動の発動者である。

 あなたがたの意見『まず彼らの大脳新皮質に言語と論理で訴え、次に知らず知らずの内に魂への回路を聞かせて行く』のは無理だ。同時進行でなくてはならない。大脳新皮質に電極が移動して作動したと同時に、根幹部へも微弱電流が流入しなくてはならない。色彩と形状(つまり美術)そして言語・論理と音楽という風に進行するのが望ましいが、言語・論理と音楽だけを使っても色彩と形状を感じさせる様にするのは無理では無い。

 大脳新皮質だけに訴えるのは大変危険だ。情報量の多い現代社会に住む人間にとって大脳新皮質だけへの訴えかけは、単なる『もう一つ情報が増えた』だけに終わる可能性が大きい。話術や執筆術に工夫がいる。人々の慣れてしまっている、つまり水路付けの出来ている論理展開では強いインパクトを期待出来ない。インパクトが強く無ければ、大脳根幹部への電流はスムースに流れない。慣れた論理展開の端々に落とし穴や、崖や、つまずき石などを散りばめる必要がある。読めば理解出来る様な平易な文章で、しかし幾度も読まざるを得ない様に仕向ける為には、文章中の緊張と弛緩の割合を常に変化させれば良い。

(3)あなたがた光の子らの欠点の一つは、自分自身の問題について『下らない』『取るに足りない』と判断して我々に話さずに、自分の心の中に収めてしまうクセがある事だ。人は問題解決をする為にのみ話すのだろうか?悩みを話しても解決できないことが分かっている場合は話さないのが良いのか?
答えはNOだ。相手に自分や自分の思いを投影(話し掛け)して、よりクリアーに自分の置かれている立場を確かめたり、相手を信頼している時には悩みや喜びや驚き、感激などを共有することによって連帯感を高めたりするだろう?                                                   
 あなたがたは、もっと『下らない』『取るに足りない』悩みについて話す事をしなくてはならない、それら『下らない』『取るに足りない』悩みになどに捕らわれない為にも。あなたがたは、まず第一に自由を手に入れなくてはならない。完全に自由である事は、最初に総てからの脱却であり、最後に総てを包含するのだ。

 総てを手に入れる為に総てを手放すのだ。笑う自由、泣く自由、怒る自由、喜ぶ自由、楽しむ自由、それらの自由を現代人は持っていない。持てない情況を自分達で作り上げてしまった。だから精神的、感情的に窒息しそうな社会になってしまった。

 第一に光の子は自由でなくてはならない。自分を愛する事、完壁に愛する事。自分を愛する事をクリアーしなくては、自分の投影体としての他者を愛せる筈もない。愛することは他人の荷物と自分の荷物を区別しないで背負って歩くのに似ている。これが我々の愛しかただ。

(4)自分で選ぶ権利のある霊は現世でその使命を果たすべく指導霊とコンタクトを持っているのが普通だが、その事実を感知出来ない情況に居る者も存在する。それは生まれた時からの境遇が非常に物質的だったりして、直観力が鈍った状態に居る者だ。又、生まれ持った資質は非常に良かったのだが、家庭環境やしつけられた性格の為に、努力をしないで成長してしまったりして、怠惰に流されてしまう者もいる。肉体をまとって転生してきても、使命を果たせずに一生を送る者もいるのだ。高次の魂になればなるほど堕落への道は広くなるのだ。

(5)人々の多くは、肉体の意志が霊体のそれよりも勝っている。肉体の意志とは、つまり『永く生き続けよう』とする動きなのだ。霊体の意志は『より良く生きて、より良く死のう』なのだ。肉体は死滅する事を避けようとする。肉体細胞自体に、そうした意志があるので危険から自分の身を守ろうとする。

 あなたがたの使う言葉に『体育会系のノリ』というのがあるが、肉体の意志を霊体の意志より尊重する『体育会系のノリ』の人が増えているのは、宇宙の愛の波動を受信出来なくなるくらいに物質先行の人生を営んで来たせいだろう。それらの人々にとって『死』は考えたり、語ったりするものでは無く、直面するまで『見ないフリ』をしてゆくのが当然なのだ。

(6) GOD IS NOT LOGIC,GOD IS LOGOS
(神は論理では無く、言葉なのだ。それも神の発するところの言葉として)

(7)一目見て『苦悩』が重くのしかかって来る様な作品は、その作者が作者自身の苦悩を越えていないだけでなく、その作品を見る人に問題の共有を迫ってしまうという悪いクセのある作品だ。そういう作品を見るのは、精神衛生上よろしくない。日ごろ苦悩するほどのエネルギーも題材も無い人が、こういう作品を見る時、安直に自分も苦悩している感覚を持ってしまう事がしばしばある。これは危険な遊びだ。苦悩する事で社会問題を思考し、解決に向かっての努力の為に苦悩している様に勘違いしてしまう。文化人と呼ばれる人ほど、社会的に苦悩しているかいないかを意識する様だ。インテリジェンスの意味を取り違えている事が、この様な虚妄愚動を産むのだ。

 あなたの言う様に『愛の欠如』が『重い苦悩を押し付ける作品』を作るのだ。これは、事実だ。『愛の欠如』それは、他者への愛の欠如云々以前の問題であろう。自分という一個の人間を心底愛するという事が理解出来ない人々の作品は『重い』苦悩を放つ。作品ばかりでなく、作者自身の身体からも重い『苦悩』の臭いがしばしば発せられているだろう?

 自分自身を愛するという事は『したい様に自由にする』では決して無い。『自分の奥底の魂と呼ばれる部分の望む様にする』という事だ。自分の奥底の部分の意志を理解出来ないから、自分を心底愛せない。自分を心底愛せないから、他人を心底愛せないのだ。

「では自分の奥底の部分の意志を、どうやって理解するのか?」と恐らく彼らは言うだろう。まず、自分の奥底に宇宙の波動と相和合する波動を発信、受信する部分がある事を認める事だ、と説明するところから始めなくてはならないだろう。あるがままの自分を受け入れる事を学ばねばならない。つまり自然のままの自分を受け入れる事で、自然を自分の中に意識してゆく事をするのだ。自然の愛と呼吸のリズムを失った人は、宇宙の波動を受信出来ないからだ。自分の中の醜いものも美しいものも引っくるめて、太陽の下に並べて見せるぐらいの勇気を奮い起こさねばならない。

 自然は誰にも、その懐を開いて見せる。まず自分が宇宙に向かって開いて見せなくてはならない。それぐらいの事をする勇気の持ち合わせの無い者は居ない筈だ。

《いい作品はどこか身軽だ》肉体を持つから重いのでは無く、『抜けていない』から重いのだ。《いい作品》は作者の魂が制作中に『抜けていた』から肉体の重さを感じさせないのだ。肉体を持たねば地球上での活動は困難を極め、事によっては全く実行不可能な活動もある。そして有機体としての地球生命を生かし、進化させるには有機体としての肉体を持たねばならないのだ。

 しかし、肉体を持っているから魂は鎖で牢獄に縛られた状態かと言えば、そうでは無い。魂(精神、心と言っても良い)は肉体からも自由である。ただ、その存在を認めないので活動が充分に出来ないだけだ。多くの人々が自分自身を宇宙に向かって開き、自分を他人を、自由にする為に愛せる様になった時に、我々の存在も違和感無く受け入れられるだろう。

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