monologue
夜明けに向けて
 




十字の真下に穴があった。
緋色の紐が投げ入れられたが、
それは飢えた者に盗まれた。
ARIONの遺した詩編より


  「十字の真下に穴があった。」という行はある文字の成り立ちを示していると言ったら
  あなたの脳裏にはその文字がすぐに浮かぶことだろう。次の行に目が進むまでに…。
  そう、その通りそれは『古』である。
  というわけで今回は饒速日尊(ニギハヤヒ)の幼名、布留(フル)の『古』代コースに足を踏み入れることになる。ARIONは饒速日尊を中心とする時代に起こった出来事の数々を上記のわずか三行のことばに圧縮している。
        
   それは実に複雑で整理するのが大変であるが「古事記」「日本書紀」原田常治氏の「古代日本正史」(同志社刊)その他の書籍を参考にその古代の事件のあらましをなるべくわかりやすく述べてみたい。古代人の名前はロシア文学の登場人物のように馴染みがなくて難しくだれがどうしたのかこんがらがってしまうがこまめによみがなをつけて書いてみよう。
 
  ではまず十字の真下を神下と読む。そのころすでに素盞鳴尊は神格化されてを神と呼ばれていた。
 十(ス)字、素盞鳴尊の下(もと)に穴があったということになる。饒速日尊は素盞鳴尊に協力して働き大和の初代大王となった。当時は末子相続の時代で、そのことがその後の色々な事件の引き金になった。 
  素盞鳴尊の正当相続人は末子(マッシ)の須世理(すせり)姫であった。それを真下(マッシタ)で暗示している。女性であるから養子をとることになった。「穴」とは、ここでは大国主、大己貴(おおあなむち)尊のことである。 
  「緋色の紐が」の緋色は「緋」は系に非(あら)ざる日色でつぎの「紐が」と重なる。
 紐がは「紐が」であって「紐を」でないのが音霊的に大切なところ。「紐が」とは音霊から判断すればヒムカのことで日向を示唆している。須世理(すせり)姫の養子に出雲の系ではない日向から大己貴尊(おおあなむち)を迎えたということである。大己貴尊の統治はうまくいったがかれの没後、それから続くべき系統の紐が「飢えた者に盗まれた。本来なら正妻、須世理(すせり)姫との子「山代日子(やましろひこ)尊」「武御名方(たけみなかた)尊」兄弟の末子である方の「武御名方(たけみなかた)尊」が正当な出雲の相続人であった。ところが、210-220年頃、九州では大己貴尊(おおあなむち)の日向の妻「多紀理(たぎり)姫」の子で最年少の「事代主」(伊毘志都幣(いびしつぬ)尊)を擁立しての九州独立運動、いわゆる「高千穂の旗上げ」が行われた。高千穂とは彦火火出見(ひこほほでみ)尊から神武東征までの日向の皇居であった。それがのちの「出雲の国譲り」と呼ばれる分家が本家に挑戦状を突きつけたような事件に発展して全面戦争になる。日向軍に追われた出雲の武御名方(たけみなかた)尊は信濃へ脱出した。結局は勝利を得た日向軍の事代主が幼すぎたため、祖母にあたる「緋」出雲の系でない紐「悲母」つまり「卑弥呼」が国を治めるしかなかった。かの女はのちに天照大神とされた「大日霎貴(オオヒルメムチ)尊のことである。「霎」(ルメ)は靈と女が重なった文字で一字で霊の巫女であることを示している。彼女は日霊女(ひみこ)であって真の天照太神ではなかった。霊をルと読むかミと読むかでヒルメとヒミコに分かれたのである。 
 さて今度は「穴」を分解してウと八(や)とみたとき「ウが八(や)」があったと読める。
 ウが八(や)とは大日霎貴(オオヒルメムチ)尊の八人目の子で末子相続人、鵜茅草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊、熊野楠日(クマノクスヒ)尊である。鵜戸神社の祭神であり、「鵜戸」とは空洞(うつろ)のことで穴そのものである。おかしな名前だが日本書紀や古事記では母、豊玉姫が出産時に鵜の羽で作った産殿が葺き合えないうちに生んだ子であるからということである。シーザーが帝王切開(Caesarean operation)で生まれたので鋏を意味するシーザー((Caesar)と名づけられたのに似ている。
鵜茅草葺不合尊の末子相続人、伊波礼彦(いわれひこ)はすでに、吾平津姫(あびらつひめ)との間に豊受姫(台与)を設けていた。そのころ、大和の饒速日尊の末子相続人は伊須気依(いすけより)姫であった。養子をとらねばならない。そこで鵜茅草葺不合尊は夢の実現のために伊波礼彦を大和にやることを思いついた。可愛い妻子を日向に置いて伊波礼彦は大和へ東遷することになった。

 「緋色の紐が投げ入れられたが」「緋色の紐が」系の非なる日向、鵜茅草葺不合尊の夢を託した 末子相続人伊波礼彦(神武天皇)が投げ入れられた。伊波礼彦はこうして大和の初代天皇となった。ここに日向大和の合同が実現した。一方、九州では大日霎貴(オオヒルメムチ)尊没後のことが魏志倭人伝に「さらに男王を立てしも、国中服さず、更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た、卑弥呼の宗女、台与(とよ)年十三なるを立てて王となし、国遂に定まる」と記された。卑弥呼の死後、激しい後継者争いのあと、台与が正当相続者と認められてやっと国が定まったのである。
 
 日本書紀では神武天皇を「初馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と記し十代崇神天皇を「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と記している。これではどちらも初代になってだれもが首をひねることになった。自分の系統の皇位を正当化するための 顕かな改竄である。 改竄者にとって崇神以前の天皇は邪魔であった。欠史八代と呼ばれるほどまともな記録は消し去ってしまった。つじつま合わせの記事に目を惑わされて神武でさえいなかったという論が出されるほどである。崇神の名前に注目してみよう。御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにゑ)天皇すなわち崇神は朝鮮半島南部の金管加耶(任那)の城からの入り彦で入植者である。
 「飢えた者」とは崇神天皇一族で五十の瓊(たま)に殖えた者なのである。かれらに次の血を盗まれたのである。
 今回は古代史に関して予備知識のない方にはチンプンカンプンの記事になってしまったがわが国にはこんな歴史があったことを記憶に留めておいていただきたい。
fumio

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