monologue
夜明けに向けて
 




「善」と「悪」

この世には「善」と称されるものと「悪」と称されるものがある。
これは人間の論理であって、神霊界には人間界で考えるような「善」も「悪」も無い。
「善」も「悪」も、元は同じエネルギーから発生する。
人間に届くと、エネルギーは『形』を持つ。
そして、同じエネルギーから発生したとは思えない影響を及ぼす。
つまり「善」も「悪」も、エネルギーが人間というフィルターを通って初めて
称されるものなのだ。
このフィルターは個人差があり、且つ歴史的な流れや人間全体の嗜好の
流行り廃りにも影響を受ける。
このエネルギーがどういったフィルターを通るか、そこで「善」「悪」が決定されると
いうことに、あなたがたは驚くだろうか。

では「善」「悪」とは一体、どんなものなのだろうか?
私の目から見て、誰にも当てはまる基準といったものを提示することは困難だ。
しかし、基準となる目安は伝えることが出来る。
それは「自分の良心に適っているか、どうか」いうことだ。
「良心に適うこと」を知る為には、自分にも他人にも嘘を付かない練習を
しなくてはならない。
嘘つきには「良心」の声が聞こえにくいからだ。

しかし、ここで間違わないで欲しいことがある。
それは、たとえ良心に適わないことでも、即、これは「悪」だ、といった
決め方をしないで欲しいということだ。

また、「悪の美学」といった形で昔から人の心を魅きつける思想もある。
これは、個人我の欲を追求していった先に、全体我の欲と交わる部分を発見すると
いう法則を思想化したものだ。
この思想を云々することは「悪」では無い。
何故、「悪」の思想が人を魅きつけるのだろうか?
これには諸説あるが、簡単に言えば人は本能的な禁忌に対して最高の刺激を感じる
からだろう、としか言えない。
本能的な禁忌には、推進にも阻止にも大きなエネルギーが関与するからだとも言える。
大きなエネルギーの動くところ、それが「善」であろうと「悪」であろうと、
人を魅きつけることは事実だろう。

「善」だ、「悪」だといった判定は「他人」を裁くためではなく、
自分自身の基準点を設けるためにするべきなのだ。
「善」も「悪」も、それを振りかざして他を威圧したり、脅威を与えたりするものではない。

人間のエゴ自体は「悪」では無い。
エゴがエゴイズムとなった時に、「悪」の要素が表面化する。
「悪」の要素とは、この場合『自分』の価値観で全てを取り仕切ろうとする
個人我の欲だ。
何事においても「~イズム」となった時に、他に対しての主張・攻撃手段といった
手段の部分が拡大されてしまう。
そもそも「欲」に主義を付けるのは、欲の正当化に過ぎず、正当化しなければならない
ほどに、後ろめたいものが、その「欲」の中に潜んでいるからだろう。

世の中には、「悪」でも「善」でもない存在もある。
自然の営みはそれじたい、「善」でも「悪」でもない。
「善」「悪」の概念を必要とするのは、今のところ人間だけだ。
動物も家畜として人と関わる時に「善」「悪」を教え込まれる。
本能として動物が持っている禁忌は、「善」「悪」の判断を超えたところにある。
人間のエゴイズムによって、歪んだ見方をされて「悪玉」にされてしまう存在も多い。
この世の中の、何と多くのものが人間のエゴイズムによる価値観で歪められて
見られているかを、考えて欲しい。
そして、だからといって人間の価値観自体が「悪」だということではない、
ということも、理解して欲しい。

                        ---ARION,O∴O---

91/09/15 15:32
「ARIONより全ての人へ」より



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これは「善」と「悪」についての神霊界での宇宙神霊の見方で興味深いが人間界では「善」と「悪」についての考え方には個人差がずいぶん大きいように思える。

 嘘つきには「良心」の声が聞こえにくい、というが最近、謝罪会見で目にする人たちには「良心」の声が聞こえなかったのだろうか。
fumio


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