NHKテレビ "おはよう日本"よりの抜粋
太平洋戦争中の東京大空襲について、新たな事実がわかり
ました。
都内の研究者のグループが3万人の犠牲者を分析した結果、
20才未満の子供たちが40%近くに上っていることが
始めてわかりました。
研究者は、国が子供たちに疎開を薦めていたものの、実際
には多くの子供たちが被害にあったと分析しています。
昭和20年3月10日、およそ10万人の犠牲者が出ました。
太平洋戦争中の空襲は、昭和19年11月から、翌20年
8月まで繰り返されて行われていたのですが、こうした空襲の
犠牲者のうち、およそ3万人の名簿や年齢、住所などを記した
東京都の名簿が13年前に見つかり、東京大空襲戦災資料センター
などが分析をすすめていました。
犠牲者のうち、0歳から9歳が最も多い20%
10歳から19歳までが18%
こども達が38%をしめました。
国は当時、疎開を推奨してきましたが、家庭の経済的な事情で
いけなかったり、中学生以上は勤労動員で借り出されていたので、
実際には、多くの子供達が犠牲になったと見られています。
分析を行った主任研究員山本唯人さん
"今回大量のデータで全体の被害の状況が明らかになった。
10歳くらいの子供達だから、過酷な緊急事態の状況で、体力
がなく、力尽きたと言うこともたくさんあったと思います。
今後に向けた平和をどう作っていくのかに対しても非常に重要
な意味をもっている。”と話しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時、国が考えた疎開は、老人や子供、妊婦さんはまづ、縁故
疎開といって、親類縁者をたよって、できるだけ、個人的に疎開
してもらいたいと思っていましたが、地方に親類もないとか、
いろいろな事情から、あまり多くの人は縁故疎開はできません
でしたので、ほかの子供達は集団疎開することになりました。
対象は小学校3年生以上、6年生までとなり、1,2年生は小さいので、
親元から離せないということで、疎開はありませんでした。
神奈川では、神奈川県の子供達は、県で守るということで、県内の、お寺
旅館、ホテル、県の施設などに疎開させましたが、食料は配給品だけ
でしたので、(一般家庭では、それではまったく足りないので、伝を
求めて 闇で、買い足していました)ので、疎開先での子供達は、いつも
空腹でした。それで、授業で山へ薪をとりにいったときに、木の実を
拾ったりしていました。それを、夜、お布団のなかで、汚い手で、生で
食べるので、大腸カタルになり、次々と家に 戻されていったのですが
元通っていた小学校では、先生は1、2年生のお世話で手いっぱい
でしたから、帰ってきた子供達は、学校のあちこちで遊んで過ごして
いました。
疎開した6年生は、卒業式は、せめて、自分達の学校でという国の親心で、
3月はじめに家に帰されたのですが、それが仇になり、3月10日には
多くの6年生が亡くなったということでした。
太平洋戦争中の東京大空襲について、新たな事実がわかり
ました。
都内の研究者のグループが3万人の犠牲者を分析した結果、
20才未満の子供たちが40%近くに上っていることが
始めてわかりました。
研究者は、国が子供たちに疎開を薦めていたものの、実際
には多くの子供たちが被害にあったと分析しています。
昭和20年3月10日、およそ10万人の犠牲者が出ました。
太平洋戦争中の空襲は、昭和19年11月から、翌20年
8月まで繰り返されて行われていたのですが、こうした空襲の
犠牲者のうち、およそ3万人の名簿や年齢、住所などを記した
東京都の名簿が13年前に見つかり、東京大空襲戦災資料センター
などが分析をすすめていました。
犠牲者のうち、0歳から9歳が最も多い20%
10歳から19歳までが18%
こども達が38%をしめました。
国は当時、疎開を推奨してきましたが、家庭の経済的な事情で
いけなかったり、中学生以上は勤労動員で借り出されていたので、
実際には、多くの子供達が犠牲になったと見られています。
分析を行った主任研究員山本唯人さん
"今回大量のデータで全体の被害の状況が明らかになった。
10歳くらいの子供達だから、過酷な緊急事態の状況で、体力
がなく、力尽きたと言うこともたくさんあったと思います。
今後に向けた平和をどう作っていくのかに対しても非常に重要
な意味をもっている。”と話しています。
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当時、国が考えた疎開は、老人や子供、妊婦さんはまづ、縁故
疎開といって、親類縁者をたよって、できるだけ、個人的に疎開
してもらいたいと思っていましたが、地方に親類もないとか、
いろいろな事情から、あまり多くの人は縁故疎開はできません
でしたので、ほかの子供達は集団疎開することになりました。
対象は小学校3年生以上、6年生までとなり、1,2年生は小さいので、
親元から離せないということで、疎開はありませんでした。
神奈川では、神奈川県の子供達は、県で守るということで、県内の、お寺
旅館、ホテル、県の施設などに疎開させましたが、食料は配給品だけ
でしたので、(一般家庭では、それではまったく足りないので、伝を
求めて 闇で、買い足していました)ので、疎開先での子供達は、いつも
空腹でした。それで、授業で山へ薪をとりにいったときに、木の実を
拾ったりしていました。それを、夜、お布団のなかで、汚い手で、生で
食べるので、大腸カタルになり、次々と家に 戻されていったのですが
元通っていた小学校では、先生は1、2年生のお世話で手いっぱい
でしたから、帰ってきた子供達は、学校のあちこちで遊んで過ごして
いました。
疎開した6年生は、卒業式は、せめて、自分達の学校でという国の親心で、
3月はじめに家に帰されたのですが、それが仇になり、3月10日には
多くの6年生が亡くなったということでした。
いつもありがとうございます。何とかあなたのブログへいきたいと思ったのですが、いかれませんでした。戦争の悲劇すけつねさんで検索したのですが?
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