21世紀航海図;歴史は何も教えてくれない。ただ学ばない者を罰するだけ。

個人の時代だからこそ、個人を活かす「組織」が栄え、個人を伸ばす「組織」が潤う。人を活かす「組織」の時代。

生きる能力??

2006年02月15日 11時35分23秒 | Weblog
 ちょっと前まで、文科省が生きる能力?だの生きた知識だの言ってたから、てっきり自衛隊か地元の消防団が小学生をサバイバル演習につれて行くのかと思ったら、そうじゃ無いらしい。
 大体ほとんどの学校は、英語の勉強をやってるんだって。

私は、教室の中で勉強しているよりも、野外でサバイバル演習をして、料理の仕方、魚の捌き方、火の付け方、山から見る星空、友達との共同作業、アウトドアスポーツを通じて、「生きること」を教えた方が、「目標設定方法/達成能力」や「命の大切さ」や「自然と人との関係」を子供達によく分からせることができると思うな。

まぁ、どうでもいいや。

どうせ、ほとんどの日本人は「命の大切さ」や「自然の大切さ」を知らないんだから、子供のわざわざ知っている必要は無いでしょ。

飛び級&落ち級

2006年02月15日 11時23分06秒 | Weblog
 子供は個性豊かで、ひとり1人、自分の成長のペースを持っている。「習熟度別クラス(飛び級&落ち級制度)」は、それに合ったモノだと、私は思う。無理に同年令を一学年に押し込んで、(高校卒業レベルで)日本語もまともに話せない人から、英語で専門の研究者と議論を組み交わす人まで、生れているのはおかしくないかい。「学校の卒業証書」ってのは、只の紙切れですか。(笑)
 教える方としても、学生の学力が揃っていてくれれば、楽で良い。教え方も工夫のしようがある。国語の授業に絵を使うのか本を使うのか、算数の授業にグラフを使うのか式を使うのか。

 「習熟度別クラス」が受験戦争を激化させる可能性はある。それは問題じゃ無い。(既に私立で導入されているんだから、もうちょっとぐらい激化しても何の問題も無い。) 小さい時に勉強をして学年を飛ばせれば、その分、大学時代等にゆっくりする時間がうまれる。(受験戦争が嫌いなアホは、運動好きの子供に理解があるのに、読書好きの子供は存在しないと思ってる。) 逆に、勉強が苦手なガキも、落ち級で時間をかけて学習できる。(知るは一時の恥じ、知らぬは一生の恥じ)勉強嫌いの子供にも、「学ぶ権利」があることを忘れちゃいけない。

 「受験戦争」の最大の問題点は習熟度別クラスが全学年に浸透していなかったのが、問題では無かろうか。飛び級があるのとは異なり、現状だと受験戦争参加者は、絶対に若い時を勉強に費やさなければならない。そして、勉強をしていた為得られなかった人生経験を御習得する余裕を作ることが出来ない。 また落ち級が無い為に、「詰め込み」に付いて行けなかった者は「必要最低限の知識」さえままならないまま、社会にほうり出されることになる。

 「義務教育修了者」に持っていて欲しい「知恵」「知識」とは、何かをはっきりさせた上で、それが<有る><無い>を判断基準にし、「全学年共通の習熟度別クラス」を導入すべきだと思う。それは、「科目別」の「全国共通基準」がいる。

男女差を大切にした学校教育に

2006年02月15日 10時39分17秒 | Weblog
 学校の中(小/中/高/大学と)で、男は女より「馬鹿」だ。それは統計的にはっきりしている。疑問の余地も無い。ただ私が協調したいのは、「’男の平均<女の平均’という統計結果があらわすのは、’トップレベルの男子<ボトムレベルの女子’でも無いし、’全教科での男の成績<全教科での女の成績’でも無い」と言うことだ。男女に能力の違いはある。しかし、私は「個性の違い」という点に注目して欲しいと思う。
 文系科目は女子が得意だと言っても、小説家に男女の違いは無いし、理系科目は男子が得意だと言っても、女性の研究者も多くいる。人の中には「体力の違い」をもって「男女間に個性以上の違いがある」と言う人もいるが、女性アスリートは、その辺の男より強い。

 とりあえず、「みんな一緒の教育」は既に崩壊しているし、止めて欲しい。学習障害児だったアインシュタインやエジソン見たいな児童を、今の日本の学校教育が「世界の偉人」に育て上げることは出来ないし、今の小学校では今後増えるであろう「日本語をはなせない移民の子供」に対応できるとは思わない。

 飛び級制度や落ち級制度を導入してでも、個性(国語が出来ない/算数が出来ない/運動が苦手/日本文化をしらない/日本語がはなせない)に対応できる学校制度を整えるべきだ。
 つくづく、「国民の権利」だッた学校教育が「国民の義務」になっているような気がする。今の(学ぶ権利のない)子供達は何も教えてくれない教師から、「学ばなければいけないこと」まで決められている。

目的と手段

2006年02月15日 10時12分18秒 | Weblog
 「目的」と「手段」は明確に別れていなければならないのにも関わらず、結構、混同されやすい。
 もっとも身近なところでは「学力テスト」がそうだろう。もともと、学力を測るための「手段」だった物が、今では勉強する「目的」になっている。そしてその為に、変な誤解が生れている。テストが「手段」だった時代、高得点者は頭の良い人だったが、テストが「目的」となった今では「高得点者=テスト勉強をした人」だ。これは既に、「テスト勉強をしっかりする人」=「優秀じゃないとしても、真面目だろう」と言うイメージとして、社会に根付いている。これは逆に「低得点者=優秀かもしれないが、真面目じゃないかも」と言う負のイメージも持っている。
 最近問題になったところでは、「粉飾決算」が面白いところだろう。本来、企業の業績を示す「手段」に過ぎない決算書を「目的」にしてしまった。良い決算書を作るだけの企業は、あっても邪魔なだけだ。企業の目的は、よいモノを製造すること、もしくは利益をあげることである。利益が有る/無いように「見せる」ことじゃない。
 身近なところで起きやすい「目的」と「手段」の混同は、ダイエットかな(?)
もともと体型をよく見せる為の「手段」だッたダイエットも「目的」になりつつある。「やせ過ぎた人」なんてのは論外だが、そうじゃなくても、変なことが起ってる。実際、魅力的な体を作る為には、適度な食事と適度な運動が必要だが、多くの人がただ食事制限をするだけのダイエットで満足している。そんなら別にダイエットしなくて良いんじゃ無い。。。。。。
 まぁ、友達との話題づくりのため(目的)に、ダイエットしている人がほとんどのようだし。

どっかに「目的」を「手段」にした超人はいないかな。。。

中国の言論弾圧。

2006年02月15日 09時32分23秒 | Weblog
 国の発展に伴って、中国政府が情報のコントロールに気を使うのはよく分かる。今なら海外の華僑/華人や国内の富豪が、大量の傭兵を雇って革命を起こし、政府を潰してしまうのも、想像に難くない。政府は国民の持つイメージをうまく動かして、彼等に満足感を与えないといけない。(現実問題として、経済の基盤が交易にあり、紛争は貿易環境に悪影響を与えるため、中国で革命が起る可能性はほとんどない。たぶん<笑>)
 しかし、現状の様な「情報統制」は裏目に出かねない。国民の国際化/インターネットの普及が進み、情報は国境を無視して飛び回っている。(と言うか、中国人技術者/研究科/知識人の方が、世界中に散らばっている)そんな状態で、「情報統制」には必ず無理が生まれ、いつかは崩壊するだろう。問題は「情報統制」が崩れる時の中国国内のマスコミのレベルであり、「統制能力」を失った政府が、「倫理/道徳管理者」としての地位を維持できるかどうかだ。中国共産党も「中国人モラル指導者」のイメージを失えば、将来的(30~50年後)に革命や民主主義選挙で政権の座を追われかねない。逆に、そのイメージを維持できれば、彼等にとって普通選挙の導入も恐くない。北京オリンピック誘致時に実行された様な「イメージ戦略」が必要だろう。
 放送倫理の確立していない中国で、マスコミが市場原理に従ってしまえば、どんなことが起きるのか想像したくもない。長期的には、「正確な情報」が価値を持ってくるだろうが、短期的には売り上げをのばすため、ゴシップ重視やでっち上げ記事などが起こりうる。政府の仕事として必要になってくるのは、「発行停止命令」ではなくて、「訂正記事の掲載命令」だろう。
 発行禁止になったところで、編集者は新しい雑誌やネット上に「注目の集まる記事」を載せ続けることができる。過激な事件を求める視聴者にとっては、「信憑性の不確かさ」はあまり問題ではない。逆に「嘘」というレッテルの上で活動するならば、小説相手に読者の獲得を目指さなければならない。

 まぁ今後、政府に必要になってくるのは、情報すべてをコントロールし続けることではなく、「政府は正しい」というイメージを創り、守って行くことだろう。