道楽ねずみ

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反乱や自立のタイミング

2009年07月05日 | 衒学道楽
突然ですが,謀反なり反乱を起こすのも,時機を得ないと難しいということを,考えました。
歴史上の人物を2人取り上げたいと思います。

「蜚鳥尽きて良弓蔵められ,狡兎死して走兎煮らる」
1人目は,秦から漢への移行期に活躍し,漢の高祖の3傑に挙げられた,淮陰侯韓信です。
韓信は,漢と楚が死闘を繰り返す中,漢の高祖の別働隊を引き連れ,魏,趙,燕,斉を次々を平定します。この時点で韓信が蒯通の天下三分の計(この計を最初に発案したのは諸葛孔明ではありません。)にしたがって,漢にも楚にもつかず自立していれば,天下は韓信に手に帰した可能性もあります。
ところが,韓信はそうせずに漢の高祖にしたがい,垓下の戦いで楚と戦い,漢の天下をみずみす実現させます。
そして,韓信は楚王に収まったものの,楚の旧臣をかくまい,詮議の手が伸びると,これを殺してしまい,みすみす自らの力を削いでいってしまいます。韓信は,楚の旧臣をかくまったことで,楚王から兵権のない淮陰侯に降格されます。
鬱々とした日々を送っていた韓信は,その後,ようやく謀反に立ち上がりますが,その時期はもう遅すぎました。呂后の策により,宰相の蕭何から偽りの呼び出しを受け,参内したところを捕縛され,鐘室で斬られて処刑されます。

天下を3分するまでの勢力をもっていた韓信ですが,最期は呂后の策にまんまとはまり,本当にあえない末路をたどる結果になります。司馬遷も史記の淮陰侯列伝の中で,天下が既に定まった後に謀反を起こすから身を滅ぼしたので,自業自得だという趣旨のことを述べていますが,確かに韓信が謀反を起こしたタイミングはあまりにも遅く,もうどうにもならない時期のものでした。


もう一人取り上げたいのは,30年戦争の時代に活躍したヴァレンシュタインです。ヴァレンシュタインは,30年戦争の際に,神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命され,デンマーク王クリスティアン4世などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝します。ヴァレンシュタインは免奪税などの税制を導入し,占領地から税を取り立てることもします。ヴァレンシュタインは輝かしい戦果により,メクレンブルク公に任命されますが,旧来の帝国諸侯の反感を招き,総司令官を解任されることになります。
その後、後任の皇帝軍総司令官は戦死し,窮地に陥ったフェルディナント2世はヴァレンシュタインを再び皇帝軍総司令官に任命します。しかし,ヴァレンシュタインは,今度は私兵ではなく,組織された皇帝軍を率いたこともあって,以前ほど活躍することができず,1632年のリュッツェンの戦いで宿敵スウェーデン国王グスタフ・アドルフを戦死させながらも,スウェーデン軍に最終的には破れます。そして,宿敵グスタフ・アドルフの戦死により,皇帝にとって無用どころか,かえって有害なだけの存在となったヴァレンシュタインは,皇帝の手の者によって暗殺されます。

ヴァレンシュタインは最初に皇帝軍司令官を解任される時に,離反する等の何らかのアクションをとることも可能であり,それによっては事態も変わったかと思います。
ところが,そうせずに,みすみす皇帝の宿敵スウェーデン王グスタフ・アドルフを討ち取ってしまい,皇帝がヴァレンシュタインの存在を我慢する理由を自ら取り除いてしまいます。

私の記憶はあいまいですが,何か昔読んだ本に,クーデターか謀反を起こす前には皆,とてもためらうものだということが書いてあり,その中で挙げられた事例の一つに「謀反直前のヴァレンシュタイン云々」というのがあったような気がします(出典が思い出せません。知っている人がいれば教えてください。)。

この2人の名将は,いずれも時機を心得て謀反,反乱,自立等の方法とれば,良い結果をもたらすこともできた可能性があるのに,そのタイミングを誤ると誠にあえなくみじめな最期を遂げることになるのだということを教えてくれます。

冒頭の絵はリュッツェンの戦いを描いた絵だそうです。


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