道楽ねずみ

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北京の歴史と方孝儒:燕賊簒位

2010年07月22日 | 衒学道楽
現在,ちょっとしたことから北京という街に関心があります。

ところで,北京という街ですが,その歴史は,周代,そして春秋戦国時代に燕の首都薊が置かれたことから始まり,宋代には遼・金の首都となりました。
元代には首都大都が置かれ,初めて統一王朝の首都となりました。もっとも,元は夏の時期はさらに北方の上都を首都としており,完全な統一王朝の首都とはいえないような気がします。

そして,朱元璋(太祖・洪武帝)が明を建国し,元を北方に追い払うと,首都は応天府(南京)に置かれます。
ところが,洪武帝の死後,孫で第2代皇帝となった建文帝とその叔父(洪武帝の子)で北京にいる燕王との間で皇位継承の争いが起こります。と言いますか,北京の燕王が甥に当たる南京の皇帝に叛旗を翻しました。この内乱を靖難の変と呼びます。

洪武帝による徹底的な功臣の粛清によって,皇帝側の軍事力が削がれていたこともあり(中国の農民から権力のトップに登り詰めたのは,歴史上3人しかいませんが,この3人に共通するのは,功臣,等に軍事的に功績のあった功臣を徹底的に粛清していることです。),靖難の変の結果は,燕王の勝利に終わります。
燕王は,帝位に就き,永楽帝(成祖)となります。
そして,建文帝の側近であり,儒者としての名声の高かった方孝儒に即位の勅を起草させようとします。
ところが方孝儒の書いたものとは,

燕賊簒位(燕賊位を簒えり)

いうまでもなく燕賊とは燕王であった永楽帝のことを指します。
永楽帝が激怒したことはいうまでもなく,方孝儒はその一族とともに処刑されます(滅十族と呼ばれる族滅の刑にあいます。)。

靖難の変の後,永楽帝は首都を順天府(北京)に移します。
ここにおいて北京は歴史上初めて統一王朝の永続的な首都となったのでした。

それにしても,北京の歴史を考えますと,必然的に靖難の変に触れざるを得ませんし,靖難の変といえば,必ず燕賊簒位という書や方孝儒のことを思い出します。方孝儒は滅十族の刑に処せられましたが,その名前は後世に残りました。日本でも江戸時代の儒者浅見 絅斎が方孝儒のことを絶賛しております。

写真は現在の北京駅だそうです。
wikipediaの北京の項目のKounosuさんの写真です。




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