エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

秋の海

2017年10月20日 | ポエム
秋の海で遊ぶサーファー。
この日は、秋の長雨の晴間。

スーツを纏っていれば十分に暖かい。



良い波が来ている。
浜としては「七里ケ浜」である。







「長雨の晴間と云ふ秋日和」







七里ケ浜に行く前に、御霊神社に出かけた。
先月の18日に秋の祭礼は終っていたけれど、御籤を引いた。
「大吉」であった。

昨日は「言わずもがな!」を書いてしまった。
もうこの年である。
あまりカリカリせずに、喧嘩もぜずに、穏やかに聞き流し、心安らかに、ひたすら俳句を学んでいけば良い。

達観するには、まだ若いけれど・・・。
ひっそりと、しなやかに、そして目立たぬように「繪硝子」で俳句人生を終ろうと思う。
だから、ほっておいてほしい。


      荒 野人

少し余計な事!

2017年10月19日 | ポエム
まことに秋日和、であった。
昨日は、繪硝子の鎌倉吟行。
主宰を始め、錚々たる幹部が一同に会し吟行句会が行われる。
句会の会場は、あの渡辺淳一氏の「失楽園」の映画撮りをしたホテルであった。

今日も今日とて、本降りの雨日和。
一昨日まで雨だったので、昨日は奇跡的な秋日和だったのだ。



メンバーから「主宰のおかげね!」とか「主宰は晴れ女なのね!」とか囁かれる。
自己主張の強いメンバーからは「あらっ、やっぱり私って晴れ女だったのね!」などと自画自賛も漏れてくる。
俳句の世界では、旧態然とした先輩後輩の上下関係が当然とする向きがある。

文学の世界なのであって、上下関係は全くないのだけれどそう思い込んでいる人も多い。
「あなたよりも、私の方が先にメンバーになったのよ!」
だから、生意気は駄目よ。
と匂わせる。
いや臭わせる、と漢字表記した方が良いかな・・・。

「態度が大きいわよ!」
とか、
「ご活躍で!」
とか、ぼくに云ってくる人がいる。
普段通りに振る舞っているし、とくに結社の中で活躍している訳でもない。



女性を白眼視している訳ではないけれど、殆ど女性である。
だから、組織は厭なのだ。
以前に自ら辞した結社も、組織の旧弊が多かった。

横道に逸れた。
一言云っておくけれど、俳句の世界には長い短いは無い。
俳句に対して、どう真摯に向き合っているか!だけである。
少なくとも、ぼくはこの繪硝子で俳句修行を終らせようと思っている。
放っておいて欲しい。
良い俳句を詠みたいだけである。
「上から目線でものを云うのは、お互いに止めたいものである。」



鎌倉吟行の報告は、明日にしよう。
なんだか,昨日の出来事で感じた事を書いてしまった。

僕も他山の石とせず、自分の問題として捉え返そうと思う。
強く思う。







「秋の海日の斑と遊ぶシーグラス」







点数は入らなかったけれど、ぼくの気に入った句である。


       荒 野人

秋薔薇

2017年10月18日 | ポエム
午後、雨が上がった。
といっても、晴れた訳でもない。



秋湿り、の午後であった。
それでも、ぼくは歩きに出かけた。



雨の湿りを鼻孔に感じながら、である。
秋薔薇は、寒さに震えつつ健気に咲いている。
もう少し、愉しませてくれそうである。



明日は、少し晴間が出そうな予報になっている。
鎌倉の吟行句会、である。



花びらが濡れそぼって、秋寒しでもある。







「秋薔薇堅牢にして柔らかし」







今日は、この記事をアップして家を出る。
鎌倉吟行の様子は、改めて報告しようと思う。
さて、ぼくの句は何人の方から選を頂けるだろうか?

まだまだ、無理かもしれませんね。



       荒 野人

団栗

2017年10月17日 | ポエム
団栗が・・・地に落ちて。
寂しそうである。



縄文の時代なら、無駄にせず一つ残らず拾い集める。
毒性のある実なら、晒して毒を抜く。
そして、食する。

循環社会なのだが・・・。



いま歩いていると、秋の深まりが感じられて「思わず衿を重ねる」のである。
鶏頭の赤味も、徐々に薄らいでくる。



黄色は、目に優しいし穏やかに癒してくれる。
だから、と云っては可笑しいけれど「蒲公英」とか「秋桜」とか「菊」とか・・・人は好きなのだと思う。







「団栗や踏まれて悲鳴上げにけり」







箒の木が、赤実を増すこの頃である。
この実が「とんぶり」である。
陸キャビア(おかきゃびあ)。

ぷちぷちした食感が、魅力的で心地良い。
けれど、団栗は黙って人に踏まれてしまう。

儚い命である。
儚いけれど、逞しく生き延びてきた団栗である。
儚いけれど、人の命を支えてきたのである。


       荒 野人



杜鵑

2017年10月16日 | ポエム
終日の雨。
心身ともに饐えてくるような日々、である。

だが、野人はめげない。
毎日間隙を縫って、歩く、あるく、アルク、そして歩くのである。
ここ数日間は、まるで縄文人のように歩いている。

その中で、とりわけ目に入るのが杜鵑である。



台湾杜鵑が主流だ。
在来の杜鵑には、殆どお目にかからない。
寂しい限りである。







「触れてみる微かに揺るる杜鵑」







そうであっても、杜鵑には風情がある。
その風情は、嫋やかさでありつつも存在感である。



晩秋の候であっても、花と緑の葉。
際立つ美である。

過日、白い杜鵑を見た。
鎌倉、の尼寺「英勝寺」である。
きっとまだまだ,咲いている。



       荒 野人