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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「向日葵の咲かない夏」 道尾秀介 人は物語に生きる

2010年04月06日 | 小説
 人は物語の中に生きている。
 たとえば現在はあまり信じられていないかもしれないが、いい大学、いい会社に入れば幸せになれるという物語。
 この物語を信じて子供は、他のものを犠牲にして受験勉強に取り組む。
 オウム真理教の信者は<ハルマゲドン>という物語を信じていた。
 <ハルマゲドン>は近い。そしてオウムの信者はハルマゲドンの後に生き残る選ばれた人間である。だから人をポア(殺害)してもいい。
 戦争中の日本人の一部は、日本は<神の国>であるという物語を信じていた。
 <神の国>である日本は負けない。植民地にされているアジアの国々を解放するのは日本である。だから欧米と戦うという物語。

 「向日葵の咲かない夏」の主人公・ミチオも物語に生きている。
 クモが死んだ友達の生まれ変わりだという物語。
 この物語を共有しない人間には、クモはただのクモでしかない。
 だがこのクモが友達の生まれ変わりだと信じれば、クモは特別な存在になる。

 主人公のミチオは現実の中では孤独だ。
 妹は死に、母親はミチオを憎んでいる。父親はいるかいないかわからない希薄な存在。
 学校でも友達はいないようだ。
 こんなむきだしの現実をミチオは耐えられない。
 だからクモを友達だと思い込み、物語に生きる。

 物語を生きること。
 それは過酷な現実の中で自分を保つ唯一の手段なのかもしれない。
 ミチオはクモを友達だと信じることで、事件の解決という<現実との闘い>を行うが、現実と闘うためにはどんな形でもいいから<同行者>が必要なのかもしれない。
 <物語>はかつては信仰であり、イデオロギーであった。
 <同行者>はかつては神であり、思想を同じくする同志であった。
 それらが失われた現在、リアリティのある物語は個人的な<クモとの物語>なのだ。
 そして同行者は他でもない<クモ>なのだ。


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龍馬伝 第14回「お尋ね者龍馬」

2010年04月05日 | 大河ドラマ・時代劇
★冒頭10分、龍馬(福山雅治)は出て来ない。
 薩摩に行っているという。
 視聴者はなかなか登場しない龍馬にやきもきする。
 そして、満を持して主役登場!
 という演出。
 第2部になって龍馬がかなりワイルドになったが、第1部・2部という区切りで何となく納得。
 脱藩してからの旅で<龍馬は何を見て考えたのか>ということを視聴者に想像させる仕掛けになっている。

★物語としては、土佐からの龍馬を捕まえにやってきた郷廻り・井上佐市郎(金山一彦)をめぐる対応で、龍馬と武市(大森南朋)を対比させる。
 すなわち、龍馬は井上を斬らない。剣で威嚇して井上を退散させる。
 武市は以蔵(佐藤健)を使って井上を殺す。
 <退散>と<殺害>。
 この違いを描くことで、武市が別の世界の人間になってしまったことを描き出す。

 龍馬と武市の対比はこんな所にも。
 龍馬は弥太郎(香川照之)に「血なまぐさいことは似合わないから土佐に帰れ」と言う。
 武市は以蔵を操って人を殺害させる。
 これも<退散>と<殺害>。
 以蔵も龍馬に出会っていたら、「退散しろ」と言われたのではないかと思わせる。

 龍馬の中には<退散>という発想がある。
 第9話「命の値段」で山本琢磨(橋本一郎)を逃がしたのもそう。
 生きるために逃げることは少しも卑怯でない。
 このことを掘り下げれば、龍馬と武市の違いは<生きること>と<死ぬこと>。
 龍馬はあくまで<生きること>を主張し、武市は自分自身にも他人にも<死ぬこと>を要求する。

 そして龍馬の中で<生きること>と<攘夷>はどうも上手く馴染まない。
 武市の行動がそうであるように<攘夷>は死を志向するからだ。
 しかし<攘夷>をしなければ、この国は侵略される?
 ここに龍馬の迷いがある。
 しかし、今回龍馬が言ったように「違う攘夷のやり方ががある」とも思っている。
 それが何であるかは現在の龍馬にはまだわからないが。

★<逃げること><迷うこと><悩むこと>は決して悪いことではない。
 死を厭わず信念を持って前に突き進むことは、気持ちがいいし格好いいが、早急に結論を出してもいけないし、信念に凝り固まってもいけない。
 迷いながら前に進み、また迷って立ち止まる。
 そんな龍馬を僕は好きだ。
 そして、あくまでも<生きること>を志向する龍馬も。

※追記
 認められたいから、仲間に入りたいから、人を殺してしまう以蔵。
 以蔵は<人間の弱さ>の象徴ですね。
 悪いことだと思っていても、孤立を怖れてNO!と言えない。
 そんな以蔵の最初の殺しが、絞殺というのが悲痛です。
 決して殺陣による格好いいものでない。
 前回の武市の梅の絵のシーンといい、ここに人を殺すことに対する脚本・福田靖さんの思いを感じる。
 そして以蔵も越えてはならない一線を越えてしまった。


コメント (6)
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ジャージの二人 物語からの解放

2010年04月04日 | 邦画
 山里の山荘にやって来た父(鮎川誠)と息子(堺雅人)。
 父親が母親と離婚したこともあり、ずっと音信不通だったふたりの関係はどこか他人行儀。
 そして始まる山荘でのゆる~い生活。

★この作品では<劇的>なことは起こらない。
 描かれることは、<小学校の名前のついたジャージのこと><繋がらない携帯電話><食べたいお菓子のこと><出没するイノシシのこと><遠山さんという近所に住むおばさんのこと><ジャージに書かれた<和小>という文字の読み方><携帯電話のアンテナが唯一立つ畑のこと><ビデオデッキのこと>……。
 これら他愛もないことがとりとめもなく羅列されていく。

 もっとも、そんな日常でも<劇的>なことはある。
 <息子の妻が浮気していること>
 <父親が三番目の妻と離婚寸前であること>
 これらは突っ込めば<劇的>になりそうなのだが、敢えて突っ込まない。
 「家族、うまくいってるの?」「あまりうまくいっていない」「そう」
 という会話で終わってしまう。

★劇的なことが起こらない作品。
 でも考えてみると、われわれの日常ってこんな感じなんですよね。
 携帯電話のアンテナが立たないことや食べたいお菓子のことを、とりとめもなく話している。
 他人の内面に敢えて突っ込まないことが、心地よい人間関係であったりする。
 関わりと言えば、息子が「寒い」と言えば、「これ着ろよ」と言ってジャージを渡すことや、ジャージの<和小>の読み方がわかって「読み方がわかったよ」と父親に伝えることレベル。
 この作品は、そんなわれわれの<劇的>でない日常を描いている。

 それは同時に<物語>からの解放である。
 われわれは、そんな何も起こらない日常に退屈して劇的に生きたいとも思っている。
 頂点にのぼりつめるサクセスストーリーや燃える恋愛ストーリー。
 そんな物語の主役になりたいと思っている。
 でも、それって生き方としてはきつい生き方なんですよね。
 <夢>の実現のためにがんばる主人公を描いた映画やドラマは多いが、<夢>を実現するって大変なこと。
 <幸せな家族>を作るために奮闘する映画やドラマは多いが、現実に壊れてしまった家族を普通にするのは大変なこと。

 この作品は<物語からの解放>を描いた作品である。
 この父子たちのように<物語から解放>されて生きることこそ、幸せではないかと問うている。


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うた魂♪ 何かに打ち込んでいる顔は美しい

2010年04月02日 | 邦画
 合唱で歌ってる顔って実は変。
 口を大きく開けて、まるで産卵する鮭のよう。
 そう好きな男の子から言われた合唱部のかすみ(夏帆)の物語。

 容姿に対するコンプレックスは青春時代の悩みのひとつ。
 それだけでハンデ1。
 でも、いい顔でどんなものなんだろう?
 イケメン、美女の俳優さん。
 でも角度を違えてみたり、何気ない一瞬をとらえると<普通>になったり<変顔>になったりする。
 大人になるとわかってくるけど、美しさって相対的なもの。人によって違っている。
 あるいは、この作品のテーマ。
 <何かに必死に打ち込んでいる顔は美しい>。

 主人公のかすみは<鮭の産卵顔>だと言われて、変な顔にならないように歌ったり、合唱をやめようと思うが、歌で自分を表現したい自分に気づく。他人の目など気にせず、なりふりかまわず歌いたい自分に気づく。
 そして好きだった男の子から言われる。
 「鮭顔とからかったのは悪かった。でも本当は表情いっぱいに歌うお前のこと可愛いと思ってたんだ」
 かすみに批判的だった女の子たちにもこう言わせる。
 かすみたち、合唱部の心に響いてくる歌を聞いてこう言うのだ。
 「ここまですごいとあげ足とれなくなる」「一生懸命になれるものがあるっていいことだね」
 必死に何かに打ち込んでいる姿は感動だけを与え、他のものを凌駕してしまうのだ。
 
 結論!
 なりふりかまわず何かに打ち込みましょう。
 それを笑う人は打ち込めるものがなくて、うらやましく思っているだけ。
 必死に打ち込んでいる姿を見てくれている人は必ずいる。
 他人を気にしたり、外見を気にしているうちは、まだ本気で打ち込んでないと言うこと。
 そして何より、何かに打ち込んで自分を表現することって楽しい。

 そんなことを教えてくれる映画。

※追記
 劇中、清原和博選手のベースボールカードの話があった。
 ベースボールカードに写された<歯を食いしばり変な顔でボールを打つ清原選手の顔>。
 でも、その変顔が他のどの清原選手の顔より感動を与え、勇気を与えてくれる。
 見事な小道具の使い方だ。
 何しろこのベースボールカード1枚ですべてを語ってしまうのだから。


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チャタレー夫人の恋人 捨てられた夫に感情移入

2010年04月01日 | 洋画
 戦争で下半身不随になった夫。
 妻のコニーは夫を愛そうと思うが、哲学と文学の日々を送る夫に退屈を覚える。
 性的にも満たされない。
 そこへ森の番人メラーズが現れて……。
 コニーは英国の上流階級の夫人だが、身分の差を乗り越えてメラーズを愛するようになる。

 「チャタレー夫人の恋人」をケン・ラッセル監督のテレビシリーズ全4話で見た。
 日本でもその衝撃的な内容で裁判が起こされたほど、ポルノグラフィックな作品。
 テーマは<肉体の歓喜>。
 コニーは肉体的に満たされ、心も満たされることで<本当の愛>を知る。<生きる喜び>を知る。
 いわば<性愛の讃歌><人間の解放>を謳った作品。

 テーマとしては正しいのだろうが、少しひっかかる点もある。
 捨てられた夫だ。
 夫は差別意識がありスノッブ。
 典型的な上流階級の人間として描かれているが、コニーのことは心から愛している。
 「性的に不能な自分との生活は退屈だろう」と気遣い、「愛する人が出来たら出て行ってくれ」と言いながら、コニーが出て行くことを怖れている。
 そしてコニーに「子供が出来た」と告白された時には、跡継ぎのために愛していない男と寝てくれたと思い込み、コニーのことを「現代のマリア様だ」と賞賛する。
 その後、子供の父親が上流階級の人間でなく使用人のメラーズだと知って激怒するが、少なくとも夫は妻を愛している。
 差別意識や跡継ぎの父親に上流階級の人間を望むのはブルジョワジーの彼としては当然で、それ以上を要求するのは酷だろう。

 この作品のラストは、コニーとメラーズがカナダに旅立つハッピーエンドで終わる。
 捨てられた夫に対するフォローはまったくない。
 夫が完全な悪として描かれていたのなら別だが、この点が気になる。
 それはフロベールの「ボヴァリー夫人」を見た時も同じ。妻を信じ続け、破産した夫のことが哀れでならない。

 「ボヴァリー夫人」「チャタレー夫人の恋人」が書かれた時代から時が経ち、男性は弱くなり女性は強くなった。
 そういえば熟年離婚というのもあった。
 男が女性を縛りつけようとすることが根本の問題なのだろうが、捨てられた夫に感情移入してしまうのは、そんな時代の反映だろうか?


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