まずは大姫(南紗良)の物語。
巴御前(秋元才加)いはく、
「人は変われるのです。生きているかぎり、前に進まなくてはならないのです」
幸せそうな巴を見て、大姫は前を見て歩いて行こうとする。
だが、現実は過酷だった。
見下したような丹後局(鈴木京香)の差別・排除。
大姫は鎌倉では姫様だが、京ではそうではないのだ。
京は権謀術数が渦巻く妖怪の棲む場所。
そして大姫は政子(小池栄子)のように強くない。
たちまち過酷な現実に押しつぶされてしまう。
そんな大姫に三浦義村(山本耕史)はこんな言葉。
「人はおのれの幸せのために生きる。当たり前のことです。
鎌倉殿や北条に縛られる必要はない」
とても前向きな言葉だが、大姫は前向きにはとらえなかった。
政子の「あなたは好きに生きていいのです」という言葉に反応して、
「好きに生きるということは好きに死んでいいということ。死ねば義高殿に会える」
大姫の居場所は生者の現実世界ではなかったのだ。
ベクトルが生きることではなく死へ。
何という絶望だろう。
そして、ベクトルが死に向かってしまった人は脆い。
たちまち病で命を落としてしまった。
……………………………
一方、生きることに執着し、足掻いている人間もいる。
「わしは諦めぬぞ。わしにはなすべきことがあるのだ」
頼朝(大泉洋)だ。
頼朝は天から見放されていること、自分の命数が残り少ないことを覚っている。
それゆえ怯え、焦っている。
死を望む大姫と生に執着する頼朝。
頼朝に関してはこんな描写もあった。
比企尼(草笛光子)に昔のようなやさしさや慈愛がなくなったことを諭された頼朝はこんなことを言う。
「源氏の棟梁として甘く見られてはいけないと思い、観音様は捨てました」
世の中に観音像はなぜあるか?
それは現実に生きる人々に「慈愛」の心を呼び起こすためである。
人は観音像を見て、それを思い出す。
だが頼朝はそれを捨ててしまった。
今回は比企尼が観音様の代わりに頼朝を叱ったが、
それがなくなると、人は権力争い・権謀術数の中でおかしくなっていく。
その結果が大姫の死を目の前にした時の頼朝の反応だ。
「誰かが源氏を呪っている! その男は──!」
範頼(迫田孝也)殺害……。
なんという根拠のない短絡的な行動だろう。
頼朝はおかしくなっている。
もはや自制心が効かなくなっている。
そんな頼朝を止めるのが政子であり、比企尼であり、義時(小栗旬)なのだが、暴走は止まらない。
心に観音様を持って生きること。
キリスト教などもそうだが、宗教には「慈愛」の効用がある。
…………………………
そして今回のもうひとつのモチーフは「世を捨てる」ということ。
範頼は世を捨てて畑仕事をやり幸せだった。
親父殿・時政(坂東彌十郎)も範頼に共感していた。
そう言えば、義経(菅田将暉)も平泉で畑仕事をしていたなあ。
三浦義村も「裏切ったり、裏切られたり、俺はもう疲れた」
この思いが後半、大姫に語った「鎌倉殿や北条に縛られる必要はない」に繋がる。
僕は中島義道さんの『人生を半分降りる』という本を読んで「なるほど!」と思ったが、人生を半分降りるくらいで生きて行く方が楽で楽しいと思う。
心が弱い人にはこの生き方お薦めです。
現実は愚かで理不尽で過酷で、あの頼朝でさえ壊れてしまうのですから。
巴御前(秋元才加)いはく、
「人は変われるのです。生きているかぎり、前に進まなくてはならないのです」
幸せそうな巴を見て、大姫は前を見て歩いて行こうとする。
だが、現実は過酷だった。
見下したような丹後局(鈴木京香)の差別・排除。
大姫は鎌倉では姫様だが、京ではそうではないのだ。
京は権謀術数が渦巻く妖怪の棲む場所。
そして大姫は政子(小池栄子)のように強くない。
たちまち過酷な現実に押しつぶされてしまう。
そんな大姫に三浦義村(山本耕史)はこんな言葉。
「人はおのれの幸せのために生きる。当たり前のことです。
鎌倉殿や北条に縛られる必要はない」
とても前向きな言葉だが、大姫は前向きにはとらえなかった。
政子の「あなたは好きに生きていいのです」という言葉に反応して、
「好きに生きるということは好きに死んでいいということ。死ねば義高殿に会える」
大姫の居場所は生者の現実世界ではなかったのだ。
ベクトルが生きることではなく死へ。
何という絶望だろう。
そして、ベクトルが死に向かってしまった人は脆い。
たちまち病で命を落としてしまった。
……………………………
一方、生きることに執着し、足掻いている人間もいる。
「わしは諦めぬぞ。わしにはなすべきことがあるのだ」
頼朝(大泉洋)だ。
頼朝は天から見放されていること、自分の命数が残り少ないことを覚っている。
それゆえ怯え、焦っている。
死を望む大姫と生に執着する頼朝。
頼朝に関してはこんな描写もあった。
比企尼(草笛光子)に昔のようなやさしさや慈愛がなくなったことを諭された頼朝はこんなことを言う。
「源氏の棟梁として甘く見られてはいけないと思い、観音様は捨てました」
世の中に観音像はなぜあるか?
それは現実に生きる人々に「慈愛」の心を呼び起こすためである。
人は観音像を見て、それを思い出す。
だが頼朝はそれを捨ててしまった。
今回は比企尼が観音様の代わりに頼朝を叱ったが、
それがなくなると、人は権力争い・権謀術数の中でおかしくなっていく。
その結果が大姫の死を目の前にした時の頼朝の反応だ。
「誰かが源氏を呪っている! その男は──!」
範頼(迫田孝也)殺害……。
なんという根拠のない短絡的な行動だろう。
頼朝はおかしくなっている。
もはや自制心が効かなくなっている。
そんな頼朝を止めるのが政子であり、比企尼であり、義時(小栗旬)なのだが、暴走は止まらない。
心に観音様を持って生きること。
キリスト教などもそうだが、宗教には「慈愛」の効用がある。
…………………………
そして今回のもうひとつのモチーフは「世を捨てる」ということ。
範頼は世を捨てて畑仕事をやり幸せだった。
親父殿・時政(坂東彌十郎)も範頼に共感していた。
そう言えば、義経(菅田将暉)も平泉で畑仕事をしていたなあ。
三浦義村も「裏切ったり、裏切られたり、俺はもう疲れた」
この思いが後半、大姫に語った「鎌倉殿や北条に縛られる必要はない」に繋がる。
僕は中島義道さんの『人生を半分降りる』という本を読んで「なるほど!」と思ったが、人生を半分降りるくらいで生きて行く方が楽で楽しいと思う。
心が弱い人にはこの生き方お薦めです。
現実は愚かで理不尽で過酷で、あの頼朝でさえ壊れてしまうのですから。