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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

俺たちフィギュアスケーター

2010年02月21日 | 洋画
 高橋大輔選手、銅メダルで盛り上がるフィギュアスケート。
 浅田真央選手、安藤美姫選手の女子も楽しみ。

 さて今回はそんなフィギュアスケートのおバカ映画をひとつ。
 「俺たちフィギュアスケーター」。
 <俺たち>という所がポイント。
 何と暴力事件で試合に出場できなくなってしまった男子フィギュアスケーターが、スケートへの夢を忘れることが出来ず、ペアのフィギュアスケートに出場するのだ。
 何と男どうしのペア!
 ルールでは男どうしがペアを組んではいけないというものはないらしい。
 また男子で出場禁止でもペアではOKらしい。
 ルールの網の目を潜っての秘策!?

 さて、こんなふうにして始まった男どうしのペア。
 当然、見た目は汚い。
 どちらが女性の役をやるかで大もめ。
 かたやポップで華麗なスケートを得意とする選手、かたや肉体派でセックスをイメージする滑りをする選手。演技のコンセプトも決まらない。
 ひとりガールフレンドをめぐって争い、仲間割れ。
 おまけに究極の必殺技というのがすごい。
 空中で回転し、一歩間違うとスケート靴の刃で相手の首を切り落としてしまう技なのだ!
 しかし、勝つためにはこの技を使うしかない。
 何ともおバカな作品である。
 実際の競技ではこんなアクシンデントが。
 織田信成選手は靴ひもが解けて競技をいったんストップしたが(織田選手、その後よくがんばった!すごい!)、そんなことはこの映画では小さなこと。
 何と足を<骨折>してしまうのだ!!
 骨折した足は使えず、片足で滑り続ける選手。
 果たして首を切断してしまう大技は成功するのか!?

 オリンピックの感動もいいが、あまりのバカさ加減に笑いたいという方にはお勧めの映画!


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猟奇的な彼女

2010年02月07日 | 洋画
 <前半戦><後半戦><延長戦>という三部構成で描かれる物語。

★<前半戦>では、主人公のトロくさいキョヌ(チャ・テヒョン)が、猟奇的な彼女(チョン・ジヒョン)の被害に遭うエピソードがひたすら描かれる。
・酒に酔った彼女のゲロ。
・酔って意識のない彼女を善意でホテルに運んでいったら痴漢だと勘違いされて留置場に。
・喫茶店では当然おごりで、キョヌがコーラを注文しようとするとコーヒーを飲むように強制される。
・映像作家志望の彼女の書いたシナリオはほめなくては殴られる。
・つき合って百日目には一本のバラを持って祝いに来なければならない。
・電車で通行人が線を右足でまたぐか左足でまたぐかの賭けになり、兵隊がなぜが行進してやってきて、連続して殴られる。
・夜中の遊園地では銃を持った脱走兵の人質になってしまう。など。

 ともかくわがままで乱暴な彼女のせいで、キョヌはひどいめに遭う。
 そして、これだけだと惚れたよしみで<彼女に献身的に尽くすモテない男の物語>になってしまう。

 だが、<後半戦>以降、物語はガラリと雰囲気を変える。
 彼女が「なぜそんなにわがままで暴力を振るうのか」が明らかにされるのだ。(以下、ネタバレ)

 彼女がわがままを言う理由。
 それは彼女がキョヌを死んだ元彼と重ね合わせようとしていたから。
 元彼とキョヌは顔立ちが似ていた。
 そして、元彼は<コーヒーしか飲まず><つき合って百日目にはバラの花を一本持って祝ってくれた>。
 彼女は同じことをさせることで、キョヌに死んだ元彼を見ていたのだ。
 こうした彼女の内面が明らかにされると、観客は単なる<わがままで乱暴な女>から<感情移入できる女>に変わる。
 キョヌを元彼の代用品にしていることに悩み苦しむ彼女の葛藤が伝わってくる。
 これがドラマになる瞬間だ。
 <彼女は元彼を清算して、キョヌと本当の恋人どうしになれるのか>というドラマが浮かび上がってくる。
 彼女が<コーヒーしか飲ませないこと><百日目にバラを持ってくることを強制すること>に別の意味が出て来る。
 これが、この作品の脚本の見事なところ。 

★その他にもこの作品には見事なシーンがたくさんある。
 キョヌが自ら身を退いて、彼女のお見合い相手の男に語る言葉なんかはグッと来る。
 キョヌは、これから共に人生を歩んでいくかもしれないお見合い相手に教訓としてこう言うのだ。
 「彼女に女らしさを期待してはいけません。留置場に行くことを覚悟して下さい。お酒は3杯まで。つき合って百日目にはバラの花を。喫茶店ではコーヒーを。彼女の書いたシナリオはどんなにつまらなくてもほめてあげて下さい」
 彼女の幸せを願うキョヌの思いが伝わってくる。

★韓流作品には、どれもあざとい位の物語性がある。
 この点、「博士の愛した数式」「歩いても歩いても」といった大きなドラマもなく日常を淡々と描く日本映画と大きく違う。
 どちらがいいかは観る者の好み。
 極彩色の絵画を好むか、黒白の水墨画を好むか。フルコースのこってりした西洋料理を食べるか、精進料理を食べるかの違いである。
 そして忘れてならないのが、西洋料理にも精進料理にも一流、二流、三流があるということ。
 こう考えると作品を愉しむというのは実に豊かなことですね。


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大脱走 アメリカンヒーローの変遷

2010年01月08日 | 洋画
★映画「大脱走」のスティーヴ・マックイーン演じるヒルツって典型的なアメリカンヒーローだろう。
 明るくて陽気。
 モグラのように掘った土を後ろにやりながら土の中を進んでいく脱走作戦などは実に無邪気。子供のよう。
 そして何よりもタフでめげない。
 脱走が失敗して何度独房に入れられようと胸を張って歩いている。(この時の音楽のマーチの使い方がかっこいい)
 アメリカ人が大好きなヒーロー像だ。

 またヒルツがアメリカンヒーローである象徴は野球のグローブとボールだ。
 独房の中に入っても壁にボールをぶつけてひとりキャッチボールをしている。
 上手いキャラクター造型だ。小道具としても効いている。
 何しろ野球はアメリカの象徴ですからね。

★さて、こんな陽気で明るいアメリカのヒーロー像が変わってしまったのはいつからか?
 「俺達に明日はない」「明日に向かって撃て」のアンチヒーローたち。
 狂気の殺人者が大衆によってヒーローになってしまう「タクシードライバー」。
 捜査のためなら手段を選ばない「ダーティハリー」。
 いずれもベトナム戦争を経た映画。
 ベトナム戦争を経てアメリカ人の心象は大きく変わってしまったのだろう。
 陽気でタフな主人公から悩める主人公になってしまった。
 それはアメリカンヒーローの典型である「スーパーマン」や「スパイダーマン」もそう。
 「スーパーマン」は弱点があってわりと弱い悩むし、「スパイダーマン」はいつ悪に転ぶかわからない危うさを持っている。
 唯一ヒルツのような陽気なヒーロー像を受け継いでいるのは「スターウォーズ」のハン・ソロぐらいか?
 同じ「スターウォーズ」でもルークの父は悪に転び、ルークも悪の誘惑に負けそうになりましたからね。

 時代と共に価値観は変わり、ヒーロー像も変化する。
 悩み、自分の中の悪と葛藤するヒーローの多い中で、「大脱走」のヒルツの姿はある意味爽快。
 これからの時代はどの様なヒーローが登場してくるのだろう?
 物語の主人公は時代を映す鏡でもあるんですね。

※追記
 ヒルツの異名は<独房王>。
 17番目の脱走トンネルを掘ったクニー(チャールズ・ブロンソン)の異名は<トンネルキング>。
 脱走作戦を指揮したシリル(リチャード・アッテンボー)の異名は<ビッグX>。
 こういう異名がつくのもカッコイイ。
 これもヒーローの条件。


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キャリー 究極の絶望

2010年01月07日 | 洋画
 人が絶望するとはこういうことを言うのだろう。

 学園で気持ち悪がれて疎外されているキャリー。
 今で言ういじめ。
 そんなキャリーが究極のいじめにあう。
 アメリカ映画ではよく出て来るハイスクールのプラムパーティ。
 そこでキャリーはプラムクイーンに選ばれるが、それは仕組まれた罠。
 クイーンとして祝福され歓びの絶頂のキャリーにバケツいっぱいの豚の血が降ってくる。
 皆に大笑いされるされるキャリー。
 怒りのキャリーは念動力で(彼女は実は超能力者)、パーティ会場を火の海にして笑う学校の仲間を死に追いやる。

 ここまでなら通常のホラー映画だが、スティーヴン・キング原作のこの作品はそこで留まらない。
 豚の血だらけになって家に帰ったキャリーは母親に救いを求めるが、キリスト教狂信者の母親は浮かれたパーティなどに出たキャリーを汚れた存在として憎み、その背中に包丁を突き立てる。
 階段を転げ落ちて逃げるキャリー。
 唯一の帰る場所であった母親のもとで、このような仕打ちを受けてキャリーの気持ちはどの様なものだったろう。
 すべての人間から嫌われ憎まれ、居場所がないキャリー。
 
 彼女の絶望はさらに続く。
 キャリーは超能力で刃物で追ってくる母親を殺してしまうのだ。
 身を守るためとはいえ、愛している実の母親を殺してしまうこと。
 これこそが究極の絶望だろう。
 外部の敵なら許したり、自分を信じたりすればまだ生きられる。
 だが自分自身が憎むべき存在になってしまったら……。
 母親を殺したことでキャリーは自分を憎んだ。
 怒りに身を任せ、罪を犯してしまった自分を怖れ、信じられなくなった。
 こんな状態になってしまったキャリーに残された道は……<死>しかない。

 怖くせつない物語だ。
 それはキングがキャリーを突きつめて描いているからだ。
 どんな物語でも突きつめていくと、人間の孤独、どうしようもない絶望に繋がる。
 日本ではホラー作品が映画・小説とももてはやされているが、ただ怖いだけではダメだ。
 怖さを突きつめて人間の孤独を描かねばならない。
 その点でこの作品はモデルとなる作品。
 映像だけしか見ていないので、キングが文章でどう表現してるかは興味深い。

 なお、この作品の監督はブライアン・デパルマ。
 製作が1976年というから30年以上も前の作品だが、全然古さを感じない。
 特に包丁をふりかざして追ってくるキャリーの母親の映像は秀逸。
 キャリー視点で煽りで狂気の母親が描かれる。
 プラムパーティでキャリーの超能力が爆発するシーンも当時としては珍しい画面分割。
 目を大きく見開いた血だらけのキャリーの形相もすごい。
 ホラー映画の名作である。


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オーシャンズ13

2010年01月05日 | 洋画
★この作品の見所はクライマックスの3分にある。
 カジノの客ひとりひとりの行動を分析して、イカサマ・不正をしていないかを判定できる完璧な防御システム。
 これが3分間だけ不能になるのだ。
 オーシャンたちはその3分間を使って、それまで仕込んできたイカサマをし放題で行う。
 ダイスの目がゾロ目になり、ルーレットの玉は指定した数字の所に転がり落ちる。
 他のカジノの客たちも同じものに賭ける。
 この3分間で敵であるカジノのボス(アル・パチーノ)は5億ドルの損害を被る。
 実に痛快な3分間だ。
 それはそれまで仕込んできたことがこの3分間で一気に爆発するから。
 ハリウッド映画はこういうストーリー構成をするんですね。
 3分間のカタルシスのためにすべてをつぎ込む。
 だからハリウッド映画は面白い。

★そのメインエピソードの他にもこの作品ではふたつのサブエピソードがある。
 ひとつはカジノのボスのダイアモンドを強奪すること。
 ふたつめはボスのホテルの格を下げること。
 ネタバレになるので詳しくは書かないが、いずれも最後に大逆転が待っている。

 特にホテルの格下げをするエピソードは秀逸。
 ホテルの格を審査する審査員が、バイ菌がいっぱいのベッドに寝させられるなど、オーシャンたちによってひどいめに遭うのだが(それによって審査員のホテルの採点が悪くなるというわけ)、最後の最後でそのひどいめに遭った審査員をちゃんとフォローしてあげてる。
 それが作品のオチになっている。

 本当に粋で華麗ですね、この作品は。
 ジュリア・ロバーツが出なかったのは残念だが、その分アル・パチーノを悪役で見られたから満足。
 豪華スターの夢の競演といい、「オーシャンズ」シリーズはハリウッド映画の王道ですね。


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モダン・タイムス

2010年01月01日 | 洋画
 チャップリンの「モダン・タイムス」を久しぶりに見た。
 製作が1936年にもかかわらず、全く古さを感じない。
 ここに描かれている内容は現代の風景でもある。

★まずは労働。
 作品中ではベルトコンベアーで機械的に作業していくチャーリーの姿が描かれるが、これって現代の自動車工場と同じ?
 おまけに会社の都合で簡単にクビを切られてしまう。
 これも現代と同じ。
 職を求めて列を作るのも同じ。

 作品中、刑務所の方がマシと言って、チャーリーが刑務所から出て行きたがらないというエピソードがあったが、確か現代にもそんな人がいるというニュースをやってた。
 作品の中ではギャグだったが、現代ではリアルなのだ。

 現代は1936年と全然変わっていない。

★チャーリーと少女(ポーレット・ゴダード)のエピソードは泣かせる。
 チャーリーは万引きした貧しい少女を助けたことから彼女と心を通わせる。
 ふたりで道端に座り、ふたりで住める家が欲しいねと語り合う。
 デパートの夜警に就職できたチャーリーは夜、誰もいない店内に少女を連れてきて、デパートの豪華なベッドで休むように言う。
 デパートは彼らの疑似住まいなのだ。
 だが、そんな架空の夢も簡単に壊されるチャーリーと少女。
 ふたりは普通の社会の中で生きていくことが出来ない。
 酒場で芸人・エンタティナーとしてふたりが生きる場所を見つけるが、それもあっという間に奪われてしまう。
 ふたりには安住の場所などなく、はみ出して放浪し続ける。

★<放浪>
 現代のドラマや映画でも<自分の居場所さがし>は重要なモチーフだが、チャップリンは1936年で既にそれを描いていた。
 この作品での救いはラスト、チャーリーと少女が手を取り合って歩いていく所。
 通常チャップリンの映画でチャーリーはひとりで歩いていくことが多いのだが、今回は隣に人がいる。
 そうですね、社会からはじき出された放浪生活でも隣に人がいるだけで大分救われますよね。

 以後、アメリカ映画はボブ・ホープや「俺達に明日はない」「明日に向かって撃て」など、ふたりで旅をしていくバディものが多く見られるが、その先駆けはこの「モダン・タイムズ」ではあるまいか。
 一方、日本の放浪ものの「男はつらいよ」。
 寅さんは結局となりに人がいて歩いていくというラストシーンはなかった。
 いつまでも相手の幸せを願い、身を引いてひとり歩いていくという「街の灯」のチャーリーであった。

 <放浪>
 これは現代でも重要なテーマだ。
 多かれ少なかれ人は自分の居場所を探している。

※追記
 チャップリンの映画はフィルムで1秒18コマで撮られているという。
 だから動きが速く見える。
 反面、これにせりふをつけた場合、早口になってしまう。
 チャップリンがサイレントにこだわったのは、こんな所にもあるのかもしれない。
 

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パンズ・ラビリンス 空想世界の救い

2009年12月27日 | 洋画
 ファンタジー作品の主人公たちは、つらく息苦しい現実を捨てて空想の別世界にいく。
 「ナルニア国物語」の主人公たちは戦争という暗い陰の下、疎開している。両親とも離ればなれ。
 「ハリー・ポッター」のハリーはおばさんの家で居心地が悪い。
 そんなつらい現実を捨てて、彼らは別世界に行くのだ。

 この作品「パンズ・ラビリンス」の主人公オフェリアも同じ。
 母が再婚して出会った新しい父親は反政府ゲリラと戦っていて、虫けらのように人を殺す冷酷な人間。
 その父親が求めているのは母親のお腹にいる赤ん坊で、オフェリアのことは全然愛していない。
 こんな現実の中でオフェリアは、自分が地底の魔法の国の王女であることを知らされる。
 現実に居場所がない彼女は魔法の王国に行くことを求める。
 唯一の味方であり、彼女を愛してくれる存在であった母親がお産で死んでしまってからは、より強く王国を求めるようになる。
 
 この物語は、オフェリアが地底の魔法の国に行くまでを描いていく。
 その過程でクリアしなければならない三つの試練があるのだが、興味深いのはそのラストだ。
 三つ目の試練は、母親の命と引き替えに産まれた弟を連れてくること。
 オフェリアは弟を魔法の国の入口まで連れてくることに成功するが、父親が追ってきて、オフェリアを銃で殺してしまう。
 死んでいくオフェリア。
 オフェリアは三つ目の試練の裏に隠されたある理由により、魔法の王国に行くことが出来てハッピーエンドになるのだが、ここで見ている我々は考えてしまう。
 <もしかしたら魔法の国というのはオフェリアが自分で創り出した空想の世界ではないか>と。
 つまり
 つらい現実から救われるためにオフェリアは空想で魔法の王国を創り出した。
 また彼女が戦った三つの試練も彼女が現実を忘れるために創り出した物語だった。

 この作品のラストをハッピーエンドにしたい方にはつらい見方かもしれないが、少し俯瞰して見ると、オフェリアは<父親に銃で撃たれて死んだだけ>という気もしてくる。
 オフェリアは魔法の王国に行った夢を見ながら死んでいった……という感じも否めない。

 ファンタジー作品において、現実と空想世界の対立は重要なテーマである。
 この作品は<人間はつらい現実から逃れるために空想世界を求める>というテーマを真正面から見据えている。
 スペイン映画ということで大きな話題にはならなかったようだが、この作品は名作。
 ファンタジーに興味のある方は必見の映画です。


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ペネロピ ブタ鼻は可愛い

2009年12月24日 | 洋画
 呪いで鼻と耳がブタになってしまった女の子を描いたファンタジー。
 主人公ペネロピはその姿ゆえ外に出られず、家に引きこもってしまう。
 子供の頃から引きこもった彼女は外の世界を知らず、そこへ王子様とも言える男性が現れて
 ……という物語。

 この物語で面白いのは、家の外に出たペネロピが人気者になってしまう所。
 通常の物語の定石では<王子様に勇気づけられたペネロピがついに家の外に出て呪いが解ける>というのがクライマックスになるはず。
 でも、この作品の作家はそれをクライマックスに持って来なかった。
 何もかもが嫌で自暴自棄になったペネロピはマフラーで顔を描くし、屋敷の塀を乗り越えて街に出る。
 そこで見る街の風物は何もかも新鮮だったが(←「ローマの休日」のよう)、やがてマフラーが外れる事件が起こってブタ鼻とブタ耳が明らかになってしまう。
 しかし、ここからが面白い。
 先程も書いたようにペネロピが「かわいい」と街の人気者になってしまうのだ。
 ペネロピはファッションになり、ブタ鼻のペネロピグッズまで出来てしまう。
 この感覚はたとえば、森三中の村上さんを可愛いと感じる感覚に似ている。
 そしてこのことで見た人は気づくんですよね。
 「美しい」「可愛い」って相対的なものだって。
 「自分はブスだから人に嫌われる」って思うのは、自分の思い込みだって。
 ペネロピは最後にブタ鼻、ブタ耳の自分を肯定する。
 ブタ鼻、ブタ耳が自分自身であると思う。

 現代はさまざまな価値観が飛び交い、すべてが相対化している時代。
 「きれいは汚い。汚いはきれい」と書いたのはシェークスピアだが、まさにブタ鼻が可愛くなってしまう時代。
 そして時代が変われば物語も変わる。
 この作品が今までの物語の定石を踏まなかったのは、時代が変化したからなんですね。
 ものを作ろうとしている人は定石にこだわらず、自分の感性に従った方がいいかもしれません。


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ボディガード その人物造型の見事さ!

2009年12月20日 | 洋画
 ケビン・コスナーの「ボディガード」。
 コスナーが演じる主人公フランク・ファーマーの人物造型が見事なんですよね。

 まず冒頭。ファーマーを雇う時。
 ファーマーは週3千ドルの報酬を要求し、自分の腕を見せつける時にナイフ投げをする。
 ナイフを遠くにある柱を突き刺すのだが、一発目二発目が外れてしまう。
 ここで「大丈夫か」と思わせておいて、三発目四発目が命中して突き刺さる。
 これなんですね、これが見せ方のお手本。
 ここで命中して百発百中だったらあまり面白くない。
 一発目二発目が外れるから、ファーマーが人間らしいし、少し仕事でブランクがあるんだなとわかる。

 そしてボディガードするレイチェル・マロン(ホイットニー・ヒューストン)との出会い。
 レイチェルは人気歌手の傲慢でファーマーのことなど信用していない。ただの金目当ての男だろうと思い、見下している。
 そんなレイチェルに対してファーマーは「理解し合えないようだ。もめないうちに失礼する」と言ってその場を離れる。
 このプロのプライド! 高額収入も簡単に捨てる。
 だが、甘い面、やさしい面も見せる。
 レイチェルの息子がひとりでいるのを見て心動かされるのだ。
 レイチェルが殺されたらこの子はどうなるのだ?という思いがファーマーに仕事を引き受けさせる。
 このプロのプライドと優しさのメリハリ。

 その後もファーマーは様々な顔を見せる。
 庭木を切って視界をよくしたり、防御フェンスを作ったりしてレイチェルの屋敷を完全防備にする。
 運転手には襲われた時の逃走用にドライビングテクニックを教える。
 脅迫状は、かつて勤めていたシークレットサービスに分析させ、人脈の広さを見せる。

 このように様々な角度からでファーマーという人物を描いていく見事さ!
 クラブでレイチェルが歌った時、興奮した観客たちが舞台にあがり大混乱になるシーンがあるが、ファーマーはレイチェルをお姫様だっこして、彼女に迫る観客を蹴り倒していく。
 この行為でレイチェルは彼のことを好きになるのだが、彼女にはファーマーがたくましい王子様や騎士に見えただろう。

 あるいはこんな描写もある。
 レイチェルと映画を見に行って、行った映画が黒澤明の「用心棒」。
 ファーマーはこの映画を62回見ているらしい。
 用心棒とはボディガードですからね。
 こういう洒落、ディティルも見事に人物造型されている。


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ラスト・コーション 愛する一瞬

2009年12月16日 | 洋画
 日本軍占領下の1942年の上海。
 抗日の学生ワン(タン・ウェイ)は、傀儡政権の特務機関のトップであるイー(トニー・レオン)を暗殺する手伝いをするため、イーの愛人になるという物語。

 まず特務機関のイーは<愛を渇望していた>んですね。
 いつ誰が自分を裏切るか、殺しにくるか、わからない状況の中で、人を信じられないイー。
 ピリピリ張りつめて、今にも切れそうな心の糸。
 そんな彼がワンとの行為の時だけ解放される。
 それは過激な愛し方。ベルトで腕を縛り、服を破り……。
 拷問が日常茶飯事の彼にはこういう愛し方しか出来ないのだ。
 あるいはこれは自分を抑圧するものに対する反抗と狂気。
 それは戦場やアウシュビッツ収容所などで、人が残虐な行為に走ってしまうのと似ている。

 一方、愛人を演じるワン。
 彼女は自分の体を<道具>にしている。
 抗日(イーの暗殺)という思想のために、自分の体を使っている。
 それは、ワンが愛人になるために(ワンは人妻という形でイーに近づいたので処女ではおかしいため)、愛していない男に抱かれて処女を喪失した時から始まっている。
 愛のないセックス。
 だが、抱かれていくうちに、イーの心の悲痛、叫びが伝わったのか、ワンは次第にイーを愛するようになっていく。
 道具から愛へ。

 そしてワンがイーを受け入れる瞬間がやって来る。
 それがあのクライマックスの指輪のシーン。
 ワンはこの瞬間、<抗日の闘士>から<女>になったのだ。
 このクライマックスは「戦場のメリークリスマス」のデヴット・ボウイと坂本龍一が抱き合うシーンを思わせますね。
 ワンとイーが本当に愛し合った瞬間。
 時間にしたら「逃げて」のひと言ですから、1秒もない。
 でも人と人が本当に愛し合う時間って、ほんの一瞬のことなのかもしれません。

 ところでラストシーンのイー。
 愛されていると信じていたワンに裏切られた彼の絶望はどの様なものだったろう。
 「逃げて」と言ったワンの言葉の意味を考えられるようになるには時間がかかりそうだ。


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