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平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

座頭市 その魅力的なキャラクター

2010年06月29日 | 邦画
 北野 武監督の「座頭市」を見た。
 「座頭市」というのは映画を創る人にとって魅力的な素材なんでしょうね。
 新作では香取慎吾さんがやり、異色では「イチ」で綾瀬はるかさんがやった。

 では「座頭市」の魅力とは何か?
 まずは目が見えないのにメチャクチャ強いということ。
 <目が見えない> 戦う主人公にとってこんなハンデ、マイナスはない。
 だが、このマイナス要素と強さのギャップが主人公像を際立たせる。
 北野版の「座頭市」では<目が見えない>ことを逆手にとって、プラスにしていた。
 たとえば博打。目が見えない分、聴覚が鋭く、サイコロの音を聞き分けられる。結果、丁半博打は大当たり。
 あるいは臭覚。血の臭いを嗅ぎ分けられる。結果、その人間がどんなに善人を装っていても悪党であることがわかる。
 そして北野版では、目が見えないから人の心の善悪も見分けられると結論づけていた。

 <居合い>というのも「座頭市」の魅力。
 時代劇では様々な殺陣が見られるけれど、居合いはなかなかお目にかかれない。
 それが新鮮だし、斬ってすぐに鞘に収めるという<居合い>の技が凄すぎる。
 北野版「座頭市」では、居合い刀を放り投げて遠くにある鞘に収めるという遊び、究極のスゴ技を見せていた。

 そして魅力の三番目は<仕込み杖>。
 これは小道具として、武士の刀やガンマンの拳銃がいかにも「武器ですよ~」自己主張しているより凄みがある。
 居合いの技ともマッチしている。
 北野版では、この<仕込み><隠し武器>というアイデアを膨らませて、三味線に刀を仕込むという姉弟を登場させていた。

 この様に座頭市は日本が誇る究極のヒーローである。アメリカ映画でいえば、スーパーマンやスパイダーマンといった感じか。
 そして演じる役者によって、出て来る味が違ってくる。
 北野版の「座頭市」では、人生の酸いも甘いも知り尽くし、世間の冷たい風を顔に刻んだ座頭市が描かれた。ユーモアもあった。
 香取慎吾さんの「座頭市」は未見だが、どんな座頭市なのだろう。
 勝慎太郎さんやビートたけしさんの真似でなく、香取さんでしか出せない味の座頭市を演じてほしい。


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ソナチネ 死が日常の男の悲劇

2010年06月17日 | 邦画
 麻雀屋の主人をクレーンで括りつけて3分だけ海に沈めることにする村川(ビートたけし)。しかし沖縄行きの話をしているうちに3分立っていることを忘れて、クレーンを上げてみると麻雀屋の主人は溺死している。
 対立するやくざを手榴弾で車ごと吹っ飛ばして殺す。
 その時に村川は「バカ野郎、車を吹っ飛ばしてどうやって帰るんだ?」

 村川のまわりは<死>がいっぱいで、<死>に麻痺している。
 村川にとって<死>は日常でしかない。
 普通の人間にとって<死>は怖いもの。
 人の命は地球より重いとして、何よりも尊重されるもの。
 しかし村川にはそんな<死>に対する想いはない。
 麻痺している<死>に対する感性。
 そんな彼は仲間が殺されても悲しんだり、泣きわめいたりしない。
 憤りはあるのかもしれないが、その炎は小さい。
 通常のヤクザ映画だったら、仲間が殺されて主人公が敵地に単身乗り込んでいくのは最大の見せ場。
 マシンガンをぶっ放して観客はスカッとする。見栄を切って啖呵を吐いて。
 しかし北野武監督はそれをやらない。
 マシンガンを持って単身敵地に乗り込むが、機関銃をぶっ放すシーンは建物の外からのロング撮影。窓から機関銃の火花と銃声が聞こえるだけ。
 北野監督の主眼はマシンガンをぶっ放してカタルシスを得ることにはなく、<死>に麻痺してしまった男の空虚を描くことにあるのだ。
 生きることに喜びも悲しみも、怒りも憎しみも抱けなくなってしまった男の悲劇。
 そんな男はもはや死ぬしかない。他人の手で死ねないのなら自分で死を選ぶしかない。

 そして、そんな男が唯一救われた時間が仲間と過ごしたバカな時間だ。
 落とし穴を作って落としてみたり、花火で戦争ごっこ(途中で実弾で打ち合う)をしたり、相撲をしたり。
 この時間だけ村川は<笑う>という感情を少し得ることができた。

 心が枯れ果てて砂漠になってしまった男の空虚。
 そこには大きなドラマはない。
 その心の中のように乾いて、果てしなく静かだ。


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ジョゼと虎と魚たち 人は誰かを愛さない方がいい

2010年06月09日 | 邦画
 久美子(池脇千鶴)は下半身不随の女の子。
 外出は祖母の押す乳母車に乗って。あとはほとんど家の中で過ごす。
 乳母車の外出以外に久美子が外界に触れるのは、祖母が近所のゴミ置き場から拾ってくる本や雑誌。
 久美子は自分の名を”ジョゼ”だと言うが、その名前の由来は拾ってきた本の中にあったサガンの小説の主人公から。
 そんなジョゼの日常の中にひとりの青年が入ってきた。
 大学生の恒夫(妻夫木聡)だ。
 やがてふたりは恋するようになるが……。

 昨日の「陰日向に咲く」では<人は誰かを愛さずにはいられない>と書いたが、この作品を見るとこんなことを考えてしまう。
 <愛は苦しみ。人は愛さない方がいい>
 以下、ネタバレ。


 結末を言うとジョゼと恒夫は最後に別れる。
 ジョゼの下半身不随が恒夫の負担になるのだ。
 その負担は体の自由が利かないことだけではない。体の自由が利かないもどかしさからジョゼはわがままを言う。怒り出す。
 そんな精神的なこともあって恒夫はジョゼを重荷に思う。
 自動車に乗って行く初めてのふたりだけの旅。
 ジョゼは大いにはしゃぐが、恒夫の態度から別れの予感を感じている。
 ラブホテルに入って、自分を人魚に見立てたジョゼは恒夫にこんなことを言う。
 「わたしは海の底から恒夫と最高のエッチをするためにやって来た。恒夫が現れる前は、何もなくてただ時間が過ぎていく生活を送ってた。あなたがいなくなったら再びその生活に戻ってしまう。それでもまあ、良しとしよう」
 <まあ、良しとしよう> せつない諦念だ。
 もし恒夫と出会わなければ、恋に落ちなければ、ジョゼはこんな哀しみ、苦しみを味合わずに済んだ。
 <何もなくてただ時間が過ぎていく生活>は退屈かもしれないが、心に波風や嵐が吹かなくていい生活を送ることが出来た。
 ジョゼは恒夫を好きになったことは正解なのか、そうでないのか?
 答えは見る者に委ねられている。
 確かにジョゼは恒夫を愛したことで、動物園で虎を見たり、ラブホテルで魚に囲まれて最高のエッチをすることが出来たのだが、その輝いた時間が失われてジョゼは以前の<ただ時間が過ぎていくだけの生活>に耐えられるのだろうか?
 ラストのジョゼの姿は、何も起こらない日常を受け入れる強さを感じるが、その心の内はわからない。
 また恒夫。彼はジョゼを捨てた罪で、ラスト崩れ落ちるように号泣する。
 彼は一生癒えることのない心の傷を負ったのだ。

 人は誰かを愛さない方がいい?


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陰日向に咲く ぽっかり空いた心の穴を埋める

2010年06月08日 | 邦画
 人は何か欠けた感じを持って生きている。
 心にぽっかりと空いた穴のようなもの。

 主人公(岡田准一)の場合は母親。
 彼は母親を求めている。
 また愛情の裏返しで憎むことで父親も求めている。

 オタク青年(塚本高史)は小学校時代、告白できなかった初恋の女の子を求めている。
 ホームレスの親父(西田敏行)も同じく叶えられなかった恋を追っている。
 何かを求めて満たされない彼ら。

 そして彼らはぽっかり空いた穴を代わりのもので埋めようとしている。
 主人公の場合は代わりの母親。
 オタク青年の場合はアイドル。
 そしてホームレス親父は埋めることを諦めて、ホームレス生活を続けている。(ホームレス親父は主人公やオタク青年の将来の姿か?)

 人は心の穴を埋めるために生きている。
 代用品でも何でもいいから埋めようとしている。

 それは主人公の代わりの母親になった老女もそう。
 老女は自分の子供を亡くしていた。亡くなったのは二歳。
 そのまま大きくなっていれば、主人公と同じ年頃。
 だから主人公を代わりの息子にして、疑似親子関係を結んだ。
 そして彼女は亡くなり、主人公に手紙を残す。
 「私はあなたの良い母親でしたか? あなたを幸せに出来ましたか? 聞かせて下さい、あなたと私が共に過ごした人生を」
 老女は疑似親子関係を結ぶことで、ほんのわずかでも母親となることが出来た。
 主人公の人生の歩みを聞くことで、いっしょに人生を歩んできたような気持ちになれた。悩みを聞くことで、息子の話を親身になって聞く母親になれた。
 彼女はそれで救われたのだ。

 人は心の穴を埋めるために生きている。
 たとえ代用品でも誰かを愛さずにはいられないのだ。


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ハゲタカ 彼は何かを失った

2010年05月26日 | 邦画
 映画「ハゲタカ」。
 企業買収をめぐるバトルも面白いが、印象的なシーンがふたつある。

 劉(玉山鉄二)に利用されて派遣社員の労働運動を起こす青年。
 結局労働運動は挫折。
 青年は買収劇に利用されたことを知り、怒りで劉の所に乗り込んでいくのだが、劉に礼金渡される。
 金額は400万。
 当然、青年は受け取ることを拒絶する。
 床に散らばる札束。 
 青年にしてみればプライドもあるし、礼金のために行動したわけではないのだ。
 だが……。
 執拗に劉に受け取るように言われて、ついには床に散らばった金をポケットに突っ込んでいく。それこそ地面に這いつくばって、一枚も拾い残しもないように。
 金の前にはプライドも正義の行動も霧散してしまうのだ。
 そして金をポケットに突っ込んだ時点で何か大切なものを失ってしまった。
 彼は今後も金に支配される人生を送っていくことだろう。

 ふたつめの印象的なシーンはラスト。
 (これはネタバレ)
 買収劇に破れた劉は雨の降る路地を歩く。
 するとひとりのホームレスがやって来て、財布を奪うために劉をナイフで刺す。
 倒れた劉にさらにたくさんのホームレスが群がり、彼からあらゆるものを剥ぎ取っていく。
 劉は間接的ではあるが、自分が行ったマネーゲームの結果作りだした<負け組>に復讐されたのだ。
 金によって命を奪われたのだ。

 主人公・鷲津(大森南朋)はラストで言う。
 「人生にはふたつの不幸がある。ひとつは金がない不幸。もうひとつは金のある不幸。金は人を不幸にする」
 金を求めて狂奔する現代人たち。
 金に翻弄され、自分を見失ってしまう現代人たち。

 お金とは何なんでしょうね。
 きれいごとになってしまうかもしれないが、お金は手段。
 お金を使って何をするかにある。決して目的ではない。
 劉の生家に描かれたクレヨンの自動車の絵が実に象徴的だ。
 彼はアカマ自動車を買収して、かつて子供の頃に憧れた自動車を作りたかったのだ。


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海底軍艦 オリジナリティのある作品は生き続ける

2010年05月21日 | 邦画
 東宝特撮「海底軍艦」を見た。
 それで思ったのはアニメ「ふしぎの海のナディア」はこれをベースにしているんだな、ということ。
 ジュール・ベルヌ+海底軍艦=ナディア。
 「ナディア」の監督の庵野秀明さんは「自分にはオリジナリティがない」と公言されているが、まあ確かにこれだけ作品が出てますからね、物語のパターンも限られているでしょうし、既存の作品をどう換骨奪胎するかが現在のクリエイターに問われる所。

 さて「海底軍艦」と「ナディア」の類似点。
★古代文明との戦いであること。(「海底軍艦」はムー帝国、「ナディア」はアトランティス)
★船長である父と娘の葛藤があること。
★海底軍艦・轟天号もノーチラス二世号も空を飛ぶこと。
★巨大な海の生物との戦いがあること。
★敵スパイがいること。
★ラストは敵本拠地に乗り込んでの戦いがあること。

 というわけで、「海底軍艦」は後のクリエイターが換骨奪胎するほどオリジナリティがあるんですね。
 カルピスの原液から、カルピスウォーターやカルピスオレンジ、カルピスソーダーが出来たような、たこ焼きやたい焼きが様々に発展したような、そんな「カルピスの原液」「たこ焼き」「たい焼き」のオリジナリティがある。
 原作は明治の作家・押川春波の作品であるが、これが映画「海底軍艦」となり、アニメ「ふしぎの海のナディア」になる。
 そして、様々に形を変えて生き続ける。
 実に大したものです。またオリジナリティとはそういうこと。

 もっとも映画「海底軍艦」のラストには違和感。
 何とムー帝国は滅びてしまうのだ。
 敵が戦いの末に滅びてしまうこと。
 これは「宇宙戦艦ヤマト」世代にはちょっとつらい。
 なぜならヤマト世代は「俺たちがすべきことは戦うことじゃなかった。愛し合うべきだった」ということに気づいた世代だったから。
 「宇宙戦艦ヤマト」の前と後で、作品は大きく変わったような気がします。

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フレフレ少女~応援はライブコンサート

2010年05月04日 | 邦画
 女の子が応援部に!?
 「ウォーターボーイズ」や「スウイングガールズ」と同じあり得ないものを組み合わせた作品ですね。
 シンクロ×男の子、ジャズ×女の子、そして応援部×女の子。

 面白くなるのは、桃子(新垣結衣)たちが合宿から帰ってきた時から。
 応援の気持ちを表すために桃子はセーラー服でなく、長ランの団服を着ている。
 放送室を選挙して放課後、応援歌の練習をしたいと呼びかける。
 ブラスバンド部やチアリーダー部に協力を要請する。
 団服を着た桃子が後輩女生徒の憧れになる。
 野球部は試合を勝ち進む。
 この躍動!!

 それまでに主人公たちが応援団から逃げようとしたり、ウジウジ悩んだりするシーンがあるから、この躍動のシーンがイキイキとしてくるのだが、<主人公が変化し走り始める>というのはやはり盛り上がる。
 「ロッキー」なんかも最初はロッキーはダメダメで全く走れないでいた。

 そして甲子園出場をかけた地区予選・決勝。
 ネタバレになるので詳しくは書かないが、桃子を始め、応援部の連中が応援の中で自分の思いを叫び始める。
 これはいわゆるライブコンサートですね。
 ミュージシャンが音楽に託して自分の熱い思いを語り、会場が盛り上がるのと似ている。
 応援団という時代遅れの暑苦しいものが、実はミュージシャンと同じだった。
 そんなことも気づかせてくれる作品。
 応援団は格好いいのだ。

 最後に<応援団>の精神論について。
 桃子たちは社会人になった応援団OBに言われる。
 「応援をするものは応援されるものよりも強くなければならない」
 確かに他人を応援しようとする人間は自分に厳しくなくてはいけませんよね。
 応援される他人は本当に苦しんでいる。
 そんな人の心に届くには、応援する人間がふにゃふにゃしていたら届かない。
 「気合いが不可能を可能にする」という精神論もなかなか新鮮。
 現在は精神論が否定される時代ですからね。アニマル浜口さんなんかはギャグにされてる。
 精神論が跋扈する時代がいいとは思いませんが、少しは見直されてもいい感じもする。
 背筋をピンと伸ばして強くあらんとする応援団。硬派で禁欲的な精神性。
 彼らはアンチ草食系?
 試合後、勝っても負けてもエールを交換し合う儀式なんかは素晴らしいと思うし、応援団は改めて見直されるべきものなのかもしれない。


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ジャージの二人 物語からの解放

2010年04月04日 | 邦画
 山里の山荘にやって来た父(鮎川誠)と息子(堺雅人)。
 父親が母親と離婚したこともあり、ずっと音信不通だったふたりの関係はどこか他人行儀。
 そして始まる山荘でのゆる~い生活。

★この作品では<劇的>なことは起こらない。
 描かれることは、<小学校の名前のついたジャージのこと><繋がらない携帯電話><食べたいお菓子のこと><出没するイノシシのこと><遠山さんという近所に住むおばさんのこと><ジャージに書かれた<和小>という文字の読み方><携帯電話のアンテナが唯一立つ畑のこと><ビデオデッキのこと>……。
 これら他愛もないことがとりとめもなく羅列されていく。

 もっとも、そんな日常でも<劇的>なことはある。
 <息子の妻が浮気していること>
 <父親が三番目の妻と離婚寸前であること>
 これらは突っ込めば<劇的>になりそうなのだが、敢えて突っ込まない。
 「家族、うまくいってるの?」「あまりうまくいっていない」「そう」
 という会話で終わってしまう。

★劇的なことが起こらない作品。
 でも考えてみると、われわれの日常ってこんな感じなんですよね。
 携帯電話のアンテナが立たないことや食べたいお菓子のことを、とりとめもなく話している。
 他人の内面に敢えて突っ込まないことが、心地よい人間関係であったりする。
 関わりと言えば、息子が「寒い」と言えば、「これ着ろよ」と言ってジャージを渡すことや、ジャージの<和小>の読み方がわかって「読み方がわかったよ」と父親に伝えることレベル。
 この作品は、そんなわれわれの<劇的>でない日常を描いている。

 それは同時に<物語>からの解放である。
 われわれは、そんな何も起こらない日常に退屈して劇的に生きたいとも思っている。
 頂点にのぼりつめるサクセスストーリーや燃える恋愛ストーリー。
 そんな物語の主役になりたいと思っている。
 でも、それって生き方としてはきつい生き方なんですよね。
 <夢>の実現のためにがんばる主人公を描いた映画やドラマは多いが、<夢>を実現するって大変なこと。
 <幸せな家族>を作るために奮闘する映画やドラマは多いが、現実に壊れてしまった家族を普通にするのは大変なこと。

 この作品は<物語からの解放>を描いた作品である。
 この父子たちのように<物語から解放>されて生きることこそ、幸せではないかと問うている。


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うた魂♪ 何かに打ち込んでいる顔は美しい

2010年04月02日 | 邦画
 合唱で歌ってる顔って実は変。
 口を大きく開けて、まるで産卵する鮭のよう。
 そう好きな男の子から言われた合唱部のかすみ(夏帆)の物語。

 容姿に対するコンプレックスは青春時代の悩みのひとつ。
 それだけでハンデ1。
 でも、いい顔でどんなものなんだろう?
 イケメン、美女の俳優さん。
 でも角度を違えてみたり、何気ない一瞬をとらえると<普通>になったり<変顔>になったりする。
 大人になるとわかってくるけど、美しさって相対的なもの。人によって違っている。
 あるいは、この作品のテーマ。
 <何かに必死に打ち込んでいる顔は美しい>。

 主人公のかすみは<鮭の産卵顔>だと言われて、変な顔にならないように歌ったり、合唱をやめようと思うが、歌で自分を表現したい自分に気づく。他人の目など気にせず、なりふりかまわず歌いたい自分に気づく。
 そして好きだった男の子から言われる。
 「鮭顔とからかったのは悪かった。でも本当は表情いっぱいに歌うお前のこと可愛いと思ってたんだ」
 かすみに批判的だった女の子たちにもこう言わせる。
 かすみたち、合唱部の心に響いてくる歌を聞いてこう言うのだ。
 「ここまですごいとあげ足とれなくなる」「一生懸命になれるものがあるっていいことだね」
 必死に何かに打ち込んでいる姿は感動だけを与え、他のものを凌駕してしまうのだ。
 
 結論!
 なりふりかまわず何かに打ち込みましょう。
 それを笑う人は打ち込めるものがなくて、うらやましく思っているだけ。
 必死に打ち込んでいる姿を見てくれている人は必ずいる。
 他人を気にしたり、外見を気にしているうちは、まだ本気で打ち込んでないと言うこと。
 そして何より、何かに打ち込んで自分を表現することって楽しい。

 そんなことを教えてくれる映画。

※追記
 劇中、清原和博選手のベースボールカードの話があった。
 ベースボールカードに写された<歯を食いしばり変な顔でボールを打つ清原選手の顔>。
 でも、その変顔が他のどの清原選手の顔より感動を与え、勇気を与えてくれる。
 見事な小道具の使い方だ。
 何しろこのベースボールカード1枚ですべてを語ってしまうのだから。


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百万円と苦虫女

2010年03月24日 | 邦画
 <自分探し>をテーマにした映画は多い。
 <自分の居場所><本当の自分>を求めて主人公はさすらう。

 <自分>とは他者との関係・人間関係の中に見出されるもの。
 たとえば、愛する人の恋人であったり、妻であったり、愛する子の母親であったり、これが<自分>だ。
 だから、自分の居場所が確定した時点で<自分探し>は完結する。

 ところが、この映画の主人公・鈴子(蒼井優)は違う。
 働いて百万円貯まると他の土地に移っていく。
 鈴子はそれをルールにしている。
 なぜか?
 人間関係が深まると、愛憎、好悪、嫉妬など、関係が複雑になってきて面倒になるからだ。
 鈴子はそうなる前に他の土地に移動する。
 これが精神衛生上、心地いい。

 鈴子は<逆・自分探し>の人間だ。
 人間どうしの繋がりから離れて、何者でもない自分を漂っていく。
 鳴らない携帯。
 鈴子はそれを肯定する。少しも寂しくない。
 そういえば鈴子は携帯を持っていなかった。唯一繋がっている弟とは手紙で連絡を取る。

 鈴子は現代のもうひとつの心象だ。
 他者と繋がっていないことが不安で寂しいのが現代だと思うが、一方で繋がっていない自由さも求めている。人間関係は<面倒>で<疲れる>ものであり、それから解放されることを求めている。

 物語は、そんな鈴子に彼氏(森山未来)が出来ることで展開を見せる。
 彼氏の中に居場所を見出す鈴子。
 だがすぐに誤解・すれ違いが生じて、その関係は鈴子にとって<面倒>で<疲れる>ものとなる。
 鈴子は彼氏との繋がりを切って、他の土地に移ろうとするが……。
 ラストはなかなかクールだ。
 観る者にこのふたりがどうなるか、判断を委ねている。


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