エミリーのつれづれ

日々の暮らしぶりを紹介します。

 一路 日本へ

2013年01月30日 | Weblog
1月26-27日

今日(1月26日)はインド共和国記念日で、ニューデリーでの混雑が予想されるとあって、アグラでの昼食をホテルで手早く済ませ、また5時間(約200㌔)かけてデリーに戻り、夜8時20分発の飛行機で日本に向かいます。

       
    建設進行中のFIレース場   今回の旅ではこんな朝日や夕日を何度も見ました

デリーへの道路は昨年に完成した唯一の国道を走ります。日本感覚で祝日の渋滞を予想していたら、全く車が走っていません。料金が高い事、乗用車をもつ層が少ないこと、遊びの外出が少ない事などが挙げらるようです。今回の旅で走った生活道路の渋滞ぶりを思うにつけ、物流トラックや一般車両が有料道路を利用するのはもう少し先のようです。

予測通り、帰国も日本航空の直行便になりました。帰りは偏西風のお蔭と食事を終えるや眠ったのか「左手に富士山が見えます」のアナウンスで目が覚め、長い飛行も気になりませんでした。予定より早く無事1月27日朝7時前に成田空港に着陸し、インドの旅は終わりました。


「7日間の釈迦の足跡をたどる旅」は「予定は未定」のハードなスケジュールのなか、同行者に恵まれ、健康にも恵まれました。異文化に少々驚くこともありましたが、釈迦の生まれた国に来られたこと、仏教聖地を訪ねて亡き身内や友人を弔えたことが大きな喜びです。
終わってしまえば、あんなにスリリングな内容の濃い旅だったのに「本当に行って来たのかしら」とさえ思います。旅の余韻や感動はもう少し先に現れるのでしょうか。

帰りの新幹線の車窓から真っ白な富士山を見ました。少ししか離れていなかったのに「母国っていいなあ」と思いました。


憧れのタージ・マハール

2013年01月29日 | Weblog
1月25日
昨夜、ホテルに向かう道を迂回してヤムナー川の岸辺から、向う岸の闇に浮かぶタージ・マハールを見ました。今日は正面から見られると思うとウキウキです。
   ホテル入口の案内嬢

ホテルは門から建物までのアプローチが長く、宿泊者にも玄関でセキュリティーチェックをするだけあって、建物は何棟にも分かれ、超豪華で迷子になりそうな広さです。駐車中の高級外車、素晴らしいサリー姿のご婦人、着飾った子供達を見ていると、車窓から見てきた庶民の暮らしとは大きな違いを感じます。一言でインドは語れません。

タージ・マハールはムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き王妃のために1632年から22年の歳月をかけて造営しただけに、細部にわたって贅を尽くした造りになっています。真っ青な空に白亜の殿堂。かって絵ハガキで見た通りです。造園の細工に感心し、外装は勿論、靴カバーをつけて入った内部も大理石に色とりどりの宝石をはめ込んだ豪華さです。ただ霊廟なので、豪華さのなかに冷たさと寂しさを併せ持った印象を受けました。
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アグラ城(ムガール帝国3代皇帝アクバル造)に行きました。皇帝シャー・ジャハーンが亡き王妃の霊廟造りに散財しすぎたため、息子に幽閉された城です。優美な白亜の殿堂に対し、この城は赤砂岩で建造され重厚な感じがします。父親を幽閉した息子ですが、父帝亡きあとタージ・マハールの王妃の棺の横に父帝の棺を置きました。ちょっといい話ですね
       

  この窓から対岸(ヤムナー川)にあるタージ・マハールが見えます。



霧の中のガンジス河

2013年01月29日 | Weblog
1月24日
早朝の5時40分、ホテルを出発。
辺りは濃霧で何も見えません。ガンジス河に近い街中に入ると沐浴に行くのか、人影が影絵のように動いています。河に近づくと、この寒空のなか、建物の隅や屋台の上で汚い毛布に体を包み、丸くなって眠っている人がいるのに気づきました。巡礼者なのか、放浪者なのか、修行者なのか判別できませんが、何とも心痛む光景でした。

岸辺には沐浴(夜明けの時間帯、それ以外の沐浴は遊びとみなされる)の準備をしている人もいます。私たちはボート(20~30人乗り)に乗り込み、ガンジス河に出ました。たくさんのボートが河面に出ているようですが、お互いに船縁が接触しないとわからないほどの濃霧です。自分の乗っているボートだけが、このガンジス河を漂っているようで、何とも言えない幻想的な風景です。

ボートに土産や供養皿(葉っぱの皿に黄色い花で蝋燭を囲んでいる)を積んだ小舟が近づいてきます。私たちも供養皿を買い求め、それぞれの願いや死者への思いを込めて河に流しました。小さな炎を灯した供養皿は濃霧のなか、小波に漂いながら静かに、静かにボートから離れていきます。生きている者と死者を、ガンジス河は結びまた離そうとしているようで切ない思いで一杯でした。
    階段で沐浴の用意をする人あり。 
     

   
      雨季になると階段うえの人家まで水が浸かるとか
   
      傘の下では修行僧から死者の霊を慰めてもらっている

10時過ぎ、ホテルに戻り、20㌔先のビハナ国内空港(11時30分発)からニューデリーまで飛ぶ予定ですが、例のごとく霧で4回変更になり、ようやく16時発の飛行機に乗ることができました。飛行時間は1時間20分。デリーでバスに乗り換え5時間ほどかけて夜10時、今夜の宿へ。それから夜の食事となり、就寝は12時を回っていました。 


ベナレス ガンジス河  ③

2013年01月29日 | Weblog
1月23日  ③
サルナートからベナレスまで30分ほどバスに乗りホテルに到着。
荷物から厚着の衣類、懐中電灯、マスクなどを取り出し、これよりガンジス河の岸で行われる伝統的な祈りの儀式「アルティ」を見に行きます。この祭りはガンジスの4か所(12年に1回)で行われ、私たちが見に行く場所では144年ぶりの開催で、人出の多さが心配されるとあって、迷子にならないよう、念には念をいれて2人一組で行動するよう言い渡されました。
祭り会場の近くまでバスに乗り、そこから人力車に乗り換えます。車同様に人力車の車夫の運転技術は素晴らしく、車と人を瞬時に捕られてハンドルを切ります。相乗りの2人、片目で車夫の動きを、片目で賑やかな街の風景を見ながら、人力車の柱にしがみつき、見物会場へ。
              
祭りはこれから佳境というところで帰りの合図となり、心残して人力車で元の場所まで戻り、大理石工場を見学してホテルへ。
夕食というより夜食に近い時間の食事となりましたが、先ほど見学したガンジス河の風景、街の様子、祭りが目に残り、空腹感はありません。
食事の最中にインド舞踊が始まり、お客さんも踊りの中に入り楽しみました。




サルナート(初転法輪の地)へ   ②

2013年01月29日 | Weblog
            
          迎仏塔(釈迦と5人の比丘が再開した場所)
1月24日  ② 
苦行林を出て、スジャーター村の村娘から乳粥をもらっている釈迦を5人の比丘は「修行を放棄した」と思い、悲しみと軽蔑の眼で見ていましたが、近づく釈迦の姿は神々しく、そんな思いはすぐに捨て畏敬の念で迎えたと伝えられています(迎仏塔は車窓から)。


やっと「ベナレス」に到着。遅い昼食を今夜の宿のホテルで取り、またバス移動でして考古学博物館の見学をしました。入口でセキュリティーチェックを受けて入ります。正面にアショーカ王・獅子石柱の頭部が置かれています。室内は薄暗く、展示品はそれほど多くはありません。石仏のいくつかに足の甲が黒くなっているのがありました。仏に「痛い所を治して!」とお願いした証かもと、勝手な想像をしてしまいました。
         
               アショーカ王・獅子石柱の破壊部位

その後、サルナート(ベナレスから北10㌔)の「ダメークストゥーパー」に行きました。
ここは釈迦が悟りを開かれた後、初めて説法を説いた地です。先ほどの博物館と遺跡(アショーカ王時代から12世紀にいたるストゥーパーや僧院跡)が点在しています。
     
     
ダメークストゥーパーの入口で靴を脱いで裸足となるので、私たちは靴下の上から更に捨て靴下を重ねて拝観させていただきました。
ダメークストゥーパーは6世紀のグプタ時代に造られた塔で、高さは42mあります。仏教国からの巡礼者が沢山来られていました。私たちも塔の前に座し般若心経を唱えて法要をしました。
             

仏教聖地巡礼は続く    ①

2013年01月29日 | Weblog
                                 スジャーター仏蹟               出山釈迦如来立像(奈良国立博物館)
1月24日 ①
朝6時30分、ホテルを出発。まず最初の訪問先は「スジャーター村」です。
緑の絨毯のような麦畑が続いています。ところどころに菜の花が一塊になって咲いています。「尼蓮禅河」(釈尊が6年にも及ぶ極限の苦行でも悟りの光が見えず、枯れ木のような体を起こし苦行林を抜け出し、この川で6年間の垢を流したといわれている)の橋を渡りました。
        
河幅50mはある広い河です。6~8月の雨季には橋まで水位が上がることもあるそうですが、今は乾季で、河は干上がり荒涼とした砂地風景です。橋の上から釈迦が苦行した山(前正覚山)が霧の向こうにうっすらを見えます。早朝にも関わらず、バスが着くや物乞いの人が柵の脇に並んでいます。釈迦はこの地で村娘スジャーターから乳粥(牛乳と米と蜂蜜で煮た粥)をもらい、全身の力を甦らせて再び「尼蓮禅河」を渡って対岸の村「ブッダガヤ」に着き、菩提樹の下、干し草の敷物に座し、永遠の悟りを開いたといいます。
スジャーター仏蹟は7年前に発掘されました。住居跡地にストゥパーを造り、その上に土盛りがされていたようです。この仏蹟の前に敷物を敷いて祭壇を設け、みんなで般若心経を唱和し、法話をしていただきました。寒い中でしたが感動しました。

ここスジャーター村からベナレス迄は260kmのバス移動です。釈尊は自分の足で歩かれましたが、車を利用しても悪路・悪路の連続は腰に応えます。が、車窓からの長閑な穀倉地帯の風景に心を休め、喧騒の村を通る時は興味深々の野次馬根性で見るので、長時間のバス移動も退屈ではありません。時々、インド人スタッフが通過の村で買い求めバナナや甘菓子を差し入れてくれるのも一興です。
  
       フロントの△マークは衝突防止

途中からアジアハイウエーに入りました。世界一長い道路(14万㌔)という事ですが、生活道路と同じで、人も車も何でも0Kです。サービスエリアはありません。休憩は空地か村の露店の前。センターラインもありません。障害物があっても、けたたましい警笛を鳴らしスピードを落とさず猛スピードで走ります。人も車も道路を横切ります。時折、中央分離帯がありますが、そのまま同じ車線で走ることがあるので正面衝突するのではとハラハラドキドキの連続です。でも今回の旅行中、一度も事故を見たことがありません。運転中は神経を集中させているのですね(トラックは必ず助手を乗せています)


聖地 ブッダガヤ ⑤

2013年01月29日 | Weblog
1月23日  ⑤
2時過ぎにブッダガヤに到着。さすが仏教聖地だけに、いろいろな仏教国の寺が点在し、それぞれの国の僧衣をまとった人たちが歩いています。遅い昼食を取った後、日本寺へ。ここには現在、若い尼僧と僧侶の2人が駐在して仏教を学んでいます。
       
薄暗い堂内で般若心経を唱え、薬師寺から持参されてきた写経紙で心を込めて「お写経」をさせていただきました。(玄奘三蔵が唐の都に持ち帰った経典はサンスクリット語から漢語に翻訳されました。その中の「大般若経」は600巻、5万字で仏典の中では最大のものです。般若心経はその般若経の内容をわずかな字数にまとめたもの。)

マハボディ寺院(大菩提寺)に着いた頃はもう夕方。日が沈もうとする時間帯ですが、いろいろな国から大勢の人が巡礼で来ています。五体投地をする熱心な信者、微動だにせず座禅を組んでいる人、僧から説教を聞くグループもいます。

    マガタ国の菩提樹の下で「金剛座」に祈る玄奘(国宝・玄奘三蔵絵巻5)

釈迦はこの地で悟りを得て仏陀になりました。それを記念して紀元前3世紀、アショーカ王はここで悟りが開かれた事を示す「金剛宝座」を祀り塔を建てました。(塔は2世紀に壊され、7世紀のグプタ王朝に再建) 現在、塔の裏側に大木の菩提樹が大きく枝を広げ、その脇の洞穴に「金剛宝座」がありますが、暗くて見えません。
          
      塔の一階に触地印をした金色の釈迦が祀られています

釈迦は菩提樹の下で悟りを(バッツサラ月の満月の夜)ひらかれた後の7週をいろいろな場所で過ごしたと伝えられいます。その場所も回りましたが暗くてよくわかりませんでした。 

村から村へ 生活道路を走る ④

2013年01月28日 | Weblog
1月22日  ④
ナーランダーからブツダガヤまでは90㌔の道のりです。穀倉地帯を通ると村が現れ、村を過ぎると穀倉地帯へ、この繰り返しです。四方見渡す限り山がありません。
どこまで行っても道路は舗装していない悪路のうえ、信号がありません。その上、交通ルールは「お互い、あうんの呼吸で決める」がインド流なのか、まさにハラハラドキドキ、居眠りしている余裕がないほどにスリリングです。突然、障害物が現れた時だけ急停車します。写真を撮る方はいつもカメラが揺れてピンボケの連続か、障害物に遮断されて何も見えない状態です。

   いつも人が集まっています

 
   魚屋さん                      甘菓子屋さん

   
  八百屋さん(野菜や果物は抜群の鮮度!)         洋服屋

仕事をしているのか否か。家を建てているのか壊しているのか。家畜の番をしているのか居眠りしているのか。買い物しているのか見ているだけなのか。とにかく大勢の人が生活道路に出て来ています。勿論、牛も豚もヤギも野良犬も人の間を歩いています。
ただ、衛生環境は良いとは言えません。ドラム缶の溜め水で頭や体を洗っている人がいます。残飯を漁っている牛や豚がいます。裸足で歩く子供がいます。崩れかけた煉瓦を囲っての家もあります。
空地や家の周りにはプラスチックのごみの山ができています。
インドにはインドの暮らし方があると思いますが、プラスチックのごみの山を見るのは悲しいです。何百年前の暮らしのほうが環境が良かったのではないかとさえ思います。プラスチックは土に帰らないんですもの。

世界最古の大学 ナーランダー大学跡へ  ③

2013年01月28日 | Weblog
     
      玄奘三蔵が正法蔵から瑜伽師地論の講義を受けている場面(国宝玄奘三蔵絵)

1月23日 ③
ビハール州にあり、ブッダガヤの北東ナーランダー(ナーラは蓮、ダーは与えるの意味)にある世界最古の大学 ナーランダー大学跡へ来ました。玄奘三蔵が長い旅路の果てにたどり着いた往時は1万人の学生、教師1500人が学ぶ仏教教理を教える大学(5世紀のブプタ朝時代に創建)として栄えていたといいます。現在の規模は往時の十分の一ということですが広大な跡地です。1862年~95年にかけてイギリス人のロードカリンガム氏が発掘したと聞きました。
 
玄奘三蔵の天竺への旅の最大目的は瑜伽師地論を学ぶことで、106歳の高僧正法蔵・戒賢に面会し教えを乞います。面会した高僧は3年前の夢で、文殊菩薩から彼の来訪を告げられていたとハラハラと涙を流す場面も玄奘三蔵絵の巻6にあります。玄奘三蔵はこの地に5年間とどまり学んだ後、都・長安に戻り(645年)持ち帰った520箱の経典の翻訳に4年の歳月をかけます。彼が学んだ瑜伽師地論は「瑜伽とはヨーガのことで、自分の魂を仏と1つに結んで精神を集中させる方法を説くと共に仏教における心の在り方を説く」ということですが、般若心経もよくわからない私には難解です。
    
    インド人スタッフ・チャウラさんから説明を受ける

チャウラさんから説明を受けながら広大な敷地を散策しました。そのあと加藤僧と同行者で般若心経を唱え、法話を聞かせていただきました。(抹茶の接待も受けました)
     
私たちは文明の利器、飛行機や車を使ってナーランダーまで来ましたが、国禁を犯してまでも 苦難の道を歩いてやって来た玄奘三蔵の決意と勉学の意識の高さに改めて感動しました。

仏蹟巡礼  ②

2013年01月28日 | Weblog
1月22日 ②
 
                         牢獄跡に佇む巡礼者たち

霊鷲山を参拝した後、感無量寿経に説かれている「王舎城の悲劇」の場所に行きました。阿弥陀曼荼羅絵図の左側に描かれている説話の舞台です。ここにもアジアの仏教国からの巡礼者たちが来られています。濃霧のなか、オレンジ色の僧衣が鮮やかです。
「王舎城の悲劇」とはマガタ国のビンビサーラ王夫妻と息子「阿闍世王」の出生に端を発した物語で、自分の出生秘密を知った息子は父親を牢に幽閉し餓死を計ります。母親「韋提希夫人」はそれを阻止しようと身体に蜂蜜を塗って牢への見舞をするので、王はなかなか餓死しません。とうとう息子「阿闍世王」は両親を牢獄に入れてしまいます。後に母も子も大罪を悔い、釈迦の救いを求める物語です。加藤僧侶やインド人スタッフから丁寧な説明を受けました。
         

「竹林精舎」へバスで移動しました。入口の門は竹で編まれています。マガタ国の長者が竹林を仏教の僧園(雨季の間の居住地)にするために提供し、ヒンビサーラ王が伽藍を建てた場所です。
菩提樹の下の僧侶たち

朝食前に3つの仏蹟を参拝し、ホテルに戻って朝食を取って出発。ここから世界最古のナーランダー大学跡を巡り90㌔先のブッダガヤまで強行軍の一日が始まります。