
「年を十分とったからとかではなくて、今、そのときだと感じるんです」
名言だと思いました。
生に固執せず、ありのままの自分の人生に、ただ、ただ感謝の内に、今、時が満ちたと言われました。
50代とまだお若い。
腫瘍の圧迫で食道の狭窄があり、肺病変の悪化も加わり、
自宅に帰るにはぎりぎりという中、症状緩和がある程度できた時だったからこそ
退院ということについて、話し合いたいと思いました。
率直に尋ねました。
病院という特殊な空間ではなく生活の中で家族で過ごす時間を作っていただきいと思ったこと、
身辺の整理ー特に患者さんでなければ分からないことをお子さん達に伝えてあげてほしいと思ったことを。
そして、冒頭のような言葉が返ってきたのでした。
「今日は死ぬのにもってこいの日」
ネイティブアメリカンの詩を思い出しました。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。
わたしの畑は、もう耕されることはない。
わたしの家は、笑い声に満ちている。
子どもたちは、うちに帰ってきた。
そう、今日は死ぬのにもってこいの日だ。
患者さんは、それから2週間退院されました。
成人されたばかりのお子さんたちは、早めの夏休みをとられました。
再入院されて、1週間。
ご家族に囲まれて旅立たれました。
退院されていた2週間。
ご家族は楽ではなかったと思います。
100%よかったと言い切れるともいえない表情をされました。
でも、伝わってきました。
よかったかわるかったかわからないけれど、
今がその時であると、患者さんの人生の道を一緒にたどられていた事を。
お亡くなりになった後のグリーフワークを、自然なものにしてくれる力に変わっていたことを。
でも、中々そうは行かないのも現実だと思いました。
「宇宙の流れの中で、自分の位置を知っている者は、死を恐れず、堂々とした人生、そして祝祭のような死。ネイティヴアメリカンの哲学は、我々を未来で待ち受ける」
と、書かれています。
立ち位置を知らせてあげることを、日本人は、○○は本人に伝えないで下さい~といった言葉で、妨げていることを知らなければならないと思うわけです。
怖くて躊躇してしまいそうですが・・・
ちょうど今日、自分の置かれている現状をしっかり受け止めて、身のまわりの整理をはじめようとした患者さんがいました。今後予想される症状、苦痛、そしてどのように亡くなっていくのかと・・・。すごく奥深く質問していました。ムンテラ後、自分は今まで痛み全くなかったけど、俺は老衰で死んでいくのかな?と私に問いかけてきました。ずっとこの患者さんには薬のことたくさん質問されたけど、今回は言葉が出ませんでした。。今日は、死というものに対し、考えさせられた日であり、帰宅して真っ先にパソコンをひらき、ペンをとりました。この本、読んでみよっと。
今までの医療では、こうした患者さんの人生そのものに向き合うことは評価されませんでした。でも、本当に大事なことで、そうすることで得られる安定感というのは、抗うつ薬などで解決できるものではないと思っています。エネルギーを吸い取られてしまいそうになりますが、日々私達が心身共に健康であることが大事だと思っています。患者さん、コアラさんに出会えて本当に幸せですね。