プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

学力テストの結果公表  いつまで続ける本音を隠したきれいごとの論議

2008-11-02 20:55:04 | 政治経済
全国一斉学力テストの市町村や学校ごとの結果公表をめぐって各地で狐の化かしあいのような議論が延々と続いている。新自由主義的教育改革の一環としての学力テストはなんのために導入されたのか。ずばり、父兄に成績を公表することで、学校選択制とあいまって学校と生徒を格差付けし、グローバル競争に勝てるエリートを早くから効率的に育成することが目的なのだ。端的にいえば、95年の「新時代の日本的経営」で提起された労働者の三区分(長期蓄積能力活用型グループ高度専門能力活用型グループ雇用柔軟型グループ)を公教育の段階から適用しようとするものなのだ。将来の使い捨て労働者(雇用柔軟型グループ)には早い段階から無駄な投資はしないと言うことだ。

だから、文部科学省の公式の建前がどうであろうと、繰り返し結果公表の要求がでてくるのだ。私にいわすれば、学力テストの実施に同意しておいてなにを今更、結果公表に抵抗してみせるのかと言うことだ。学力テストを実施するかしないかは市町村教育委員会が決めることだ。序列化や競争激化を招き、教育をゆがめるというのだったら、なぜ実施するのか。現に犬山市は参加しなかったではないか。そもそも安倍教育改革を受けいれておいて何を泣き言をいっているのか。学力テストが百害あって一利なしと思うのだったら、なぜ教職員は、父兄や地元住民を巻き込んで学力テスト中止の大運動を起こさないのか。先輩たちの学テ反対闘争の歴史を忘れたわけではあるまい

文科省の全国学力テストの公式の目的は、全国的な学力調査である。従って「序列化や過度な競争につながらないよう十分配慮」「都道府県教育委員会は、個々の市町村名・学校名を明らかにした公表は行わない」(文科省の実施要領)ということになる。しかし、教育関係者の誰もこんな建前を信じていないだろう。全国的な学力調査の必要であるなら、なんで毎年何十億もかけて全員参加なのか。それなら数%の抽出調査で十分ではないか。生徒個人の学習への指導も目的といわれているが、そんなのは現場の先生が必要に応じてテストすればよいことだ。学校選択の資料にしたいから全員参加なのだ。全国一斉にするのは、文科省の中央集権的教育統制と教師の人事評価・統制による教育支配が目的なのだ。

公教育の最終段階で、子どもたちが、諸種の上級学校や職業へ振り分けられることは事実である。なんらかの基準で選抜され、評価されて配分されているのだ。学校システムが選抜・配分機能から自由でありえないとすれば、それらをどのような基準でどう設計するか。
学校選択やグループ分けが早期になされれば、学校ごと・グループごとに、生徒たちは異なる内容を学習することになる。より高度なことを学ぶ子どもたちと普通のことを学ぶ子どもたちとでは、次の段階での選抜・配分に有利・不利の差として影響することは間違いない。選抜・振り分けがいずれあるのだから、早くから格差をつけろ、そのほうが効率的だという議論が出てきても不思議はない。しかし、私はなにもあせる必要がないと思う。
わが子には他の子どもよりも質の高い教育を受けさせたいと思うのは、義務教育終了後でいいのではないか。いろんな文化的環境や学力、社会的背景をもった多様な子どもたちのなかで育つことは、きっとその子にとって、学力テストで測れない教育効果があると思うからである。

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