プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

温室ガス削減  どれだけ切迫感を持つか  問われる真剣さの度合い

2008-05-29 19:17:37 | 政治経済
地球温暖化対策を主テーマとして神戸で開かれた主要8カ国(G8)環境相会合は、温室効果ガス削減の2020年までの中期目標について、具体的な数字を示せないまま終了した。環境と生態系の破壊ないし汚染の状況は、差し迫った地球規模のビッグイシューである。しかし、普通に日本で生活する私たちには、問題の全体状況は、なかなか見えにくい。それをいいことに、資本の要求に忠実な日本政府は、温暖化問題が最大のテーマとなる7月の北海道洞爺湖サミットを控えて自ら積極的な対応を示し、議論をリードする立場にありながら、世界からその真剣さを疑われている。

現在、環境問題は地球規模で広がってきており、国家を超えて複雑な相互連鎖を引き起こしている。とくに現在大きな問題となっているのは、地球の温暖化・乾燥化の問題である。砂漠化、河川の枯渇、大型台風・ハリケーン・サイクロンの来襲、氷河の融解、森林減少、生物種の減少などは、地球温暖化とかかわっているといわれている。豊かな先進国の人びとの大量生産・大量消費が広く環境を破壊し、貧しい南の人びとがその悪影響を受けている(嶋崎隆「エコロジー」『「現代」という環境』旬報社2007所収)。

洞爺湖サミットを「地球の将来を討議し、明るい未来への展望をひらく絶好の機会」としたいという福田康夫首相のアピール(1月、ダボス)と、日本政府の実際の行動の間には大きな開きがある。
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、温暖化が「回復不可能な結果をもたらす可能性」を警告し、今後の気温上昇を産業革命前に比べて二度以内に抑えなければならないという。昨年インドネシアのバリで開かれた国際会議では、先進国が20年までに温室効果ガスを1990年比で25―40%削減する目標が確認された。欧州連合(EU)は20年に1990年比で20%削減するとの目標を掲げている。ブッシュ米大統領は、京都議定書から離脱し、「2025年までにガス増加をゼロに」(それまでは増加が続く)という無責任な態度である。日本政府は中期目標の設定を回避しようと逃げ回っている(「しんぶん赤旗」5月29日)。

京都議定書第一約束期間に続く2013年以降の新たな温暖化対策を決める国連交渉は、09年中の合意を目指しており、洞爺湖サミットは交渉を大きく前進させる機会になることが世界から求められている。日本自身が温暖化防止に必要な温室効果ガス排出削減の中期目標を提示することなくして、議長国としてのリーダーシップをとることは不可能だ政府がいまなお中期目標を示せないのは、削減目標をまず決めるのではなく、部門別に可能とされる削減量を積み上げる「セクター別アプローチ」を、産業界が要求しているからである(「しんぶん赤旗」同上)。
部門別に積み上げて目標といえるだけのものに達しないからグズグズしいているのではないか。要するに地球環境問題に対してどれだけ切迫感を持つか、どれだけ真剣かが問われているのだ。 

宗教的原理主義者はともかく、人間の生命は地球から生まれてきた。そういう意味で、人間は、最初から自然の恩恵を受けている。自然は人間にとって労働と生産のための材料、道具を提供してくれるが、自然はたんに人間のための資源として、人間の下位にあるのではない。大気、海流や炭素、水など人間と自然との循環関係が健全なかたちで確保されなければ、気象・生態系が壊され、環境問題が発生する。その意味では、環境問題は結局、われわれの生産様式・生活様式つまり、私たちのつくる社会の問題ということになる。資本主義的市場経済を前提として、自然が利潤追求のための道具となっているという状況にメスをいれないと、「自然にやさしく」とかいっても、有効な解決にはならない(嶋崎隆 同上)。

自然環境の問題は、自然発生的な災害を別にすれば、人間と自然の間に起こるのではなく、人間社会の矛盾のなかから発生するということだ。同時に、資本の利潤追求にあわせた私たちの生活様式もいまいちど問い直されなければならないだろう。
エコロジー問題に対する緊迫感、真剣さの度合いはその国の政府・国民が人間としてどの程度のレベルなのかを問われているように思えてならない

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