プロメテウスの政治経済コラム

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イージス艦衝突殺人事件 海難審判裁決のあいまい 理不尽なことにはノーと言おう!

2009-01-23 19:05:23 | 政治経済
海上自衛隊のイージス護衛艦「あたご」が漁船「清徳丸」に衝突、沈没させ、吉清治夫(きちせいはるお)船長(当時58歳)と長男哲大(てつひろ)さん(同23歳)二人が殺された事件で、舩渡健・前艦長(53)ら4人と「あたご」が所属する第三護衛隊に対する海難審判の裁決が22日、横浜地方海難審判所であった。「あたご」は「清徳丸」を早期に発見する機能を備え、衝突を回避することができたにもかかわらず、衝突回避措置をとらずに自動操舵を続け激突した。明らかに重過失による殺人である。裁決は、事件の責任は主に海自側にあるとしながら、再発防止には総合的な取り組みが不可欠だという理由から「艦隊全体に勧告するのが相当」とし、事故発生時に現場にいた当事者に対する勧告を見送った。裁決後も前艦長は「清徳丸に事故の原因があった」との認識を繰り返し、まったく反省していない。私たちは、軍隊の横暴を許してはならない。

問題の本質はどこにあるのか。「あたご」 は7750トン、全長 165メ ートル、「清徳丸」 は、7.3トン全長 12メートル。「道路で言えば子どもの三輪車を大型トレーラーが押しつぶしたようなもの」 とでもいえばいいだろうか。最新型の戦闘艦船が、海の男たちの平穏な職場に、自動操縦で突き進み、船をまっぷたつにし、その命も身体も奪い去ったのだ。
横浜地方海難審判所の事実認定は明快である。衝突時に艦橋にいて、周囲の安全監視を怠った当直士官の責任だけでなく、▽前任の当直士官も漁船に気付きながら監視を十分にせず、引き継ぎで「漁船は危険なし」と伝えた▽CIC(戦闘指揮所)でのレーダー監視が不十分で、直前まで清徳丸の映像に注意を払っていなかった▽艦橋とCICの間で、緊密な情報共有の体制が構築されていなかった▽前艦長は適正な見張りの実施などを徹底させていなかった―など、あたご艦内の安全体制の不備を幅広く指摘した。裁決は、衝突時の当直士官だった長岩友久・前水雷長(35)について、衝突約十分前にレーダーで漁船群の存在を確認しながら、その後の監視を怠ったと指摘。「監視を行っていれば、避航動作をとる時間的、距離的余裕があった」として、事故発生の原因になったとした。
しかし、この前水雷長と前艦長、前任の当直士官だった後瀉桂太郎・前航海長(36)、CIC(戦闘指揮所)責任者だった安宅辰人・前船務長(44)に対する勧告をすべて見送った。裁決は、別に行われる刑事手続きで、検察官の判断に影響するということだから、理不尽な結論と言わざるを得ない。

よく自衛隊の任務は「国民の生命と財産を守ること」と言われるが、これは真っ赤なウソである。「自衛隊はわが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」(自衛隊法第3条)。
「国の安全」と「国の防衛」とはなにか。階級社会では、「国の安全」と「国の防衛」とは支配階級の安全と防衛ということだ。すなわち現在の日本でいえば、アメリカ政府と財界・資本家階級の安全と防衛ということだ。もともと軍隊には「国民一人ひとりのいのちを守る」という意識はない。軍隊は支配階級の番犬であり、軍事力、兵器なるものは本来そういう特質をもっていることを「イージス艦衝突殺人事件」がはしなくも示したということだ
問題のイージス護衛艦「あたご」は、米軍の指導のもとハワイ沖でミサイル防衛装備の試験を終え、横須賀港に向かって帰港中であった。国民の生命と安全を守るべきだという意識などさらさらない軍事優先意識から、たとえ右舷に船を見つけても回避行動はとらず、回避義務のない漁船が回避行動をとるべきだということで自動操縦で直進した

日米同盟下の自衛隊は、米軍補完部隊である。アメリカの戦略に組み込まれ、海外への攻撃戦力として強化され変貌している。日米・多国籍企業のグローバル市場での自由な資本蓄積活動を軍事的に保証するものとして、日本国民や外国の人民を敵視し、監視するという本質をもつ。
イージス護衛艦「あたご」は、日米で共同開発中のMD(ミサイル防衛)の柱の一つである次世代SM3(最新の海上配備型迎撃ミサイル)配備を前提とした海自護衛艦隊の再編の要に位置する。漁船や漁民の生命や安全などはじめから眼中にない。

現代日本では、派遣切り、期間工切りに見られるような支配階級の理不尽な横暴があちこちでまかり通っている「理不尽」な目にあった人は、「なにかおかしい、間違っている」と感じるのだが、強い者が支配し、個々バラバラにおかれ、不満と鬱屈を抱えながらじっと黙り込んで生きている。「理不尽」に対し、「なんなんだよ」を意識し続けて生きていくことはしんどいことだ。そのうちに多くのひとは「こんなもんだ」と“了解”して生きていくことなる。しかし、“了解”は「理不尽」の“解消”ではない。
結局、私たちが「理不尽」なことに対し、はっきりNOと言える市民になること、こんな自衛隊はいらない、こんな政治はいらない、こんな社会はおかしいと言える、それを言っても孤立しないところまで頑張れるかどうかが問われているように思うのだ。

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