プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

小林多喜二没後75周年  「蟹工船」を、「自分と同じ」「よくわかる」と語る現代の青年たち

2008-01-21 21:18:02 | 政治経済

1933年2月20日、小林多喜二は、特高警察に逮捕され、その日のうちに虐殺された。多喜二は、1903年10月13日、秋田県大館市生まれだから、享年30年足らずだった。多喜二が『蟹工船』を書いたのは26歳のとき。「蟹工船」を、「自分と同じ」「よくわかる」と語る現代の青年たち。これを聞いて私は、複雑な気持ちだ。資本主義の生命力の強さといってしまえばそれまでだが、私たち大人は、いまだに日本の青年たちの生き血を吸う資本の搾取を自由がままに許しているからだ。「プロレタリア文学が今や等身大の文学になっている」と雨宮処凛さんのような若い人から言われると資本の横暴になんら有効な規制を加えることができないでいる私たち大人が責められているようで本当に心苦しい

「すべての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で、日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどのていど時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、・・・日本の知識人によって用いられてきた」―これは、日本共産党についての鶴見俊輔氏のことばであるが、大企業サラリーマンとして、この世の芥に染まる中、私にとっていつも自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを計る尺度は、小林多喜二の生きざまであった
「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃんは、どこも心臓悪くねえです。心臓が悪ければ泳げねえのに、うちの兄ちゃんは子供の時から、よう泳いどったんです」シャツの取り除かれた小林の胸の上にかがみ、蒼く静まった胸を1杯に撫で回した。・・・・今度は顔を撫で、髪の毛をかき上げて、その小林の顔を抱えて、「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」―私は、母小林セキさんとともに、息子を虐殺した権力を絶対に許さないと心に誓った。そして溢れる涙を止めることができなかった。

2006年から2007年にかけて、『30分で読める…大学生のための マンガ蟹工船』(東銀座出版社)、『まんがで読破 蟹工船』(イースト・プレス)が相次いで出版され、いずれも売れ行きは上々という。「しんぶん赤旗」2008年1月21日付「ゆうPress」は、次のような若者の声を載せている。「埼玉県在住の鈴木秋男さん(24)=仮名=は昨年、『マンガ蟹工船』を買って読みました。それまで多喜二については“名前だけは知っている”程度。鈴木さんは常に2、3の仕事を掛け持ちしています。仕事先でひざの半月板を割るけがをしたときには、収入が途絶えました。働いても働いても、お金が残らない『蟹工船』を読んで、『形は違うけれど自分たちも搾取されている。自分と同じだ』と思いました。『搾取される側の人たちが自分たちを守るために立ちあがる。一度失敗するけれど、そこからまた立ちあがる』。そんなシーンが印象的で、1年たった今でもよく覚えています」。

獲ったカニを船内で缶詰にするかに蟹工船は、航海法も工場法も適用されない無法地帯。その悲惨な労働をリアリズムで描いた多喜二の作品が、ルール無視の搾取に直面する青年たちの心をとらえているのだ。多喜二のリアリズムの凄さはそれだけではない。労働者に対して自覚的に団結することを訴えている
労働者は、いつの時代も「てんでんばらばら」である。 ―― 漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。――そして、こういうてんでんばらばらのもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。――
――「殺されたくないものは来れ!」 ――その学生上りの得意の宣伝語だった。毛利元就の弓矢を折る話や、内務省かのポスターで見たことのある「綱引き」の例をもってきた。「俺達四、五人いれば、船頭の一人位海の中へタタキ落すなんか朝飯前だ。元気を出すんだ」「一人と一人じゃ駄目だ。危い。だが、あっちは船長から何からを皆んな入れて十人にならない。ところがこっちは四百人に近い。四百人が一緒になれば、もうこっちのものだ。十人に四百人! 相撲になるなら、やってみろ、だ」――

多喜二虐殺時の主犯格は安倍源基警視庁特高部長、配下で虐殺に直接手を下したのが毛利特高課長、中川、山県両警部らである。安倍は戦後、A級戦犯容疑で拘置されるが、占領政策の転換で釈放され、自民党政治の陰の存在として生きのびた。毛利は、終戦直後に埼玉県警察部長を退職するが、東久邇内閣から「功績顕著」として特別表彰さえ受けた。中川も戦後、東京北区教育委員長になったのだ。誰も責任をとろうとしないし、追及もしない。これが、この国の現実である。

「コーバーヤーシー」悲痛な、引き裂くような涙まじりの今村恒夫の声が私を奮い立たせる。
あーなみたかてる めかねかくもる(あー涙が出る。メガネがくもる)


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