プロメテウスの政治経済コラム

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宮森小 米軍機墜落50年 県民は今も危険と隣り合わせ 新基地建設に怒るのは当然だ

2009-07-01 20:06:53 | 政治経済
米軍のジェット戦闘機が沖縄県の石川市宮森小学校(現在のうるま市)に墜落、11人の小学生を含む17人が死亡、児童や住民ら210人が重軽傷を負うという戦後最大の米軍機墜落事故から6月30日で50年になる。本土復帰して37年、米軍直接占領下と変わらない基地があるゆえの危険と隣り合わせの県民生活。沖縄県民が新基地建設に怒るのは当然だ。

沖縄県が米軍統治下にあった1959年、石川市立(現うるま市立)宮森小学校に米軍戦闘機が墜落し、児童ら17人が死亡(児童11人、住民6人)した事故から50年になる30日、遺品などを集めた平和資料館「630館」が同小に開館した。事故直後の生々しい様子をとらえた数十点の写真のほか、被害児童の遺影や生前に描いた絵、作文などが展示されている(「朝日」2009年7月1日)。
30日には、当時の在校生や遺族、仲井真弘多知事ら約八百人が参列し、同校で追悼式が開かれた。基地の集中ゆえに起きた事故から半世紀。沖縄の抱える現状は変わらぬままで、全校児童や遺族、事故関係者らは「事故を風化させてはいけない」という決意を胸に、追悼式に臨んだ。追悼式では犠牲となった児童の名前が刻印された「仲よし地蔵」に千羽鶴が奉納され、「平和の鐘」が鳴る中で参加者は黙とうをささげ、犠牲者のみ霊を慰めた。当時、同校の2年生で事故を体験した平良嘉男校長は「事故は関係者にとっては忘れられない。命の尊さを訴え、平和をつくり出す宮森っ子になってほしい」と児童らを激励した(「琉球新報」2009年7月1日)。

「仲よし地蔵」47NEWS 6月29日付

「しんぶん赤旗」2009年6月29日付は、小学校5年生のとき事故に遭遇した佐次田満さんのことをルポしている。 1959年6月30日午前10時40分。大音響とともに校舎が揺れた。「その瞬間、戦争が起きたのかと思いましたよ」。米軍嘉手納基地を飛び立ったジェット戦闘機はエンジン故障により操縦不能となり、パイロットが脱出した直後に墜落。民家35棟をなぎ倒した後、小学校に衝突、校舎などが炎上した。爆発と同時に校舎から外に出て佐次田さんが目にしたのは、空にもとどろくような炎であった。担架代わりの長椅子に横たわった黒焦げの生徒。先生に担がれ血まみれになって泣き叫ぶ上級生
佐次田さんは、その後40年間、この酷い体験を封印してきたが、「宮森小にジェット機が墜落した米軍占領下と今の沖縄はなにも変わっていない」「墜落事故を風化させてはいけない、子どもたちに伝えよう」と決意し、悲しい体験を紙芝居にまとめて小学校や児童館、西表島などの離島や本土などで繰り返し上演を続けている。
同事故後も、米軍機事故はあとをたたず、04年8月には沖縄国際大学構内で米海兵隊の大型ヘリが墜落事故を起こしたことは、われわれの記憶にも新しい。県民は戦後ずっと、危険と隣り合わせのくらしを強いられているのだ

沖縄国際大学大型ヘリ墜落事故のとき、赤ちゃんと逃げた若い母親が佐次田さんを訪ねて、「宮森小ジェット機墜落事故のことを知らなかった。事故にあって平和でなければ子どもを育てられないと実感した。何をすればよいのか考えたかった」と語っている。
事故だけではない。毎日の騒音は凄まじい。つい最近も、宜野湾市の市街地上空で、米軍普天間基地所属のCH46Eヘリが11機編隊による旋回飛行をくりかえした。「これまでイラクへの出撃や帰還するときなどに4機、6機の編隊飛行はあったが11機なんて見たこともない、異常だ」と市内にとどろく爆音と異様な光景に市民から不安と怒りの声があがっている

日米政府は、普天間基地移設を口実に辺野古への巨大新基地建設や、東村高江での米軍へり離着陸帯(ヘリパッド)の建設を強行しようとしている。普天間基地での11機編隊飛行をみた沖縄県民は誰でも思う。「編隊飛行は、新基地の運用がはじまれば何が起きるのか、を教えている。新基地建設をめぐる『民間地上空は飛ばない』などいうのは、嘘っ八に決まっている。いつまで沖縄県民を愚弄すれば気が済むのか!」

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