プロメテウスの政治経済コラム

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安保改定50年 「日米安保」から「日米同盟」へ  飛躍的に拡大する「違憲度 」(その1)

2010-10-31 21:34:52 | 政治経済

ことし2010年は、1952年の旧安保条約から58年、1960年の安保改定(現行安保条約)から50年目の節目の年である。この半世紀以上に及ぶ長い歴史の中で、日米軍事体制の実態は大きく変貌してきた。これを憲法の視点からみると「違憲度」が飛躍的に拡大してきた歴史でもある。森英樹・龍谷大学教授の講義「日米同盟の現段階と憲法―安保改定50年の秋に―(『月刊憲法運動』1011´10 通巻395号)に依拠しながら、その歴史を整理してみたい


旧安保条約―占領の延長


敗戦後の日本を事実上単独占領した米国は、占領初期には、ポツダム宣言を受けて憲法を制定させ、日本の民主化のイニシアティブをとった。しかし、48年頃から顕在化した冷戦構造を意識して、本来なら講和条約を締結して、すみやかに戦勝国軍隊は占領を解除すべきであったにもかかわらず、7年にわたって直接占領を続けた日本を使い勝手の良い反共アジア前進基地として利用したかったからである。日本国憲法の平和的・民主的条項は制定後すぐに、この「逆コース」と呼ばれる一連の攻撃を受けることになった

1950年に朝鮮戦争が勃発して冷戦が熱戦になるや、米国は、日本と交戦したすべての国との和解であるべき全面講和ではなく、いわゆる片面講和の道をとり、日本を米国陣営に組み込んだ。片面という不完全な講和条約は、占領米軍がそのまま名前を変えて駐留を続ける道を確保した(講和条約5条、6条で日本が安保条約を結べば、米軍が撤退しないで居座れる条項を用意した)。また片面講和によって、日本の支配層の中国、朝鮮などに対する戦争責任は免罪されることになった(中国、朝鮮などの反日の淵源はここにある)。さらに3条によって沖縄は日本から切り離され、今日の沖縄問題の原点となった

 

占領米軍がそのまま駐留を続ける論理は次のようなものであった

「日本国は、武装を解除されているので、固有の自衛権を行使する手段をもたない。しかし、世界にはまだ『無責任な軍国主義』が駆逐されていないので、危険だから、日本は、(サンフランシスコ講和条約で)独立してもなおアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する」(旧安保条約前文)というものだった。

『無責任な軍国主義』とは、ポツダム宣言で日本の軍国主義を非難した用語だが、ここではちゃっかりと共産主義陣営に転用され「不安」材料に仕立てられた(昭和天皇が「天皇制護持」の「不安」に駆られ、マッカーサーに取り入ったことは広く知られている事実である)。

かくして日本国は、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を許与し(全土基地方式)、アメリカ軍は、天皇の心配もあって日本国における大規模の内乱及び騒擾を鎮圧することまで規定された。

 

1950625日に勃発した朝鮮戦争によって、アメリカ軍は日本駐留部隊を朝鮮半島に出動させることとなったが、マッカーサーは、在日米軍を補完するために「警察予備隊」の創設を指示する。これが成長して、54年には自衛隊となる。50年再軍備開始と52年安保体制の発足は、憲法と安保・自衛隊の矛盾を白日のもとにさらすことになった。憲法制定当時の政府は、憲法9条によって一切の軍事力が禁止されているので、日本はもはや戦争も武力行使もできないと、まともに解釈していた。しかし、9条とまったく矛盾する実態を前に、52年に政府は、苦し紛れに新しい憲法解釈を打ち出す。

「日本は主権国家が保有する自衛権までも放棄していない。ただその行使は、9条の『戦力禁止』があるので、『戦力に至らざる必要最小限の自衛力』によって行う」というものだ。

れっきとした戦力を「警察予備隊」と呼び、「自衛隊」と呼ぶのは、当時の政府は、明らかに戦力を否定する憲法を気にしていたのである。日本の「自衛」に徹した、軍ではない国境警備隊的「隊」だというわけである。<続く>


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